[Love a riddle.]

 ――問題は、マユミが自身の思いを語ろうとしないことにあった。
(あの子は首を絞められたなんて、気にしていない……)
 誰が首を絞めたのか……についてもだ。
(もう死にたい……殺してほしいとか、言いそうだけどね……)
 ミサトは、その可能性を否定した。
 彼女は死にたがりとは違ったタイプだ。口にしてしまいそうな雰囲気はあっても、むしろこの世に執着している、寂しがりの生きたがりである。
 誰かに優しくしてもらいたいと、叶わない夢に悶え甘えている口であって、決して絶望している人間ではない。
 では、誰と、なにがあったというのだろうか?
 体に傷がないということは、抵抗しなかったということだ。争った形跡もないわけだから、自然な流れで首を絞められることになり、それを受け入れた……ということになる?
「…………」
 だとすれば、そのような流れになることができ、マユミが受け入れるであろう人間など、ただ一人の少年以外あり得ない。だが、なにがあったというのだろうか?
 それはミサトの想像力を越えた話である……が、少なくとも、今すぐに推察することは不可能であった。
 そのための時間が彼女にはない。
 ――使徒である。
 宵闇の縁に、黒い球体が浮かんでいた。
 廃墟……度重なる戦闘によって、瓦礫が散乱だけの広大な平地となった土地の上を、揺らぐことなくそれは浮かんでいた。
 高度は地上百メートルはないし、五十メートル以上と言ったところだろうか?
 比較する対象物がないために、目測からの判断である。正確な数値は求めれば知らされるであろうし、表示もされるだろうが、今は必要としなかった。
 無線誘導式の無人車が、使徒の進行速度に合わせて走り、装備した投光器で闇より浮かび上がらせている。
「まるで黒い月ね」
 その表面には白色の縞模様がまだらに走っていた。これが先日の支部の爆発に関係のある使徒なのだろうか?
 あわただしい情報収集が行われているのだが、未だパターンはオレンジ。青の反応は見られない。
 ――モニター越しの姿を見て、リツコはちらりと塔を振り仰いだ。
 そこに居る二人もまた、ひどく顔をしかめていた。
 発令所に置いて、この三人だけが、とまどいの空気を発していた。
「来てしまったな」
「ああ」
 司令席の操作台に置かれているテープへと、自然と目線が動いてしまう。
 シンジの託宣――それによれば、エヴァを異次元空間へと引きずり込む使徒だということであった。
 それも、空中にある姿は本体ではないのだ。これを信じるのならば、うかつな刺激を与える行為は、自殺的な行いに他ならない。
「だが、どうする。葛城君に話すわけにはいかんぞ」
 手を出さないのは、シンジよりもたらされた情報があるからだとは伝えられない。
「これ以上は止められんな」
「ああ」
 本体は異次元側へ潜んでいるのだという。あの球体が消えるとき、反転し、本体がこちら側へと現れるのだ。
 どのみち殲滅のためには、本体を引きずり出さねばならない。ならば……。
「ならば、えさが必要だ」
 それが総司令としての判断である。


「マナには先行して、使徒の北側に回ってもらいます」
 ――ブリーフィングルーム。
「トライデントは改修を中断し、初期装備のままで配置。ただし南側、山を盾にする形での配置となります」
 作戦室にはマナ、ムサシ、ケイタの三人が揃えられていた。戦力半減以下……そういった雰囲気があるのは、当の三人に落ち着きがないからだろう。
 ムサシが手を挙げる。
「積極的には参加せず、遠距離攻撃によるかく乱を担当せよ、ということですか?」
「ええ」
 そうよとミサト。
「典型的な一撃離脱戦法(ヒットアンドアウェイ)を行ってちょうだい。一発撃ったら、山に隠れる」
「それでなんとかなるんですか?」
「これは超長距離攻撃法を備えた使徒との戦績を参考にしたものよ」
「もっとはっきりと言えば良いんだ」
 どこか捨て鉢気味の台詞を吐いたのはケイタであった。
「偵察のために、使い捨てにできる僕たちを選んだんでしょ? だから碇君や山岸さんを……」
 ケイタ! マナが叱りつけるが、その叱責を抑えつけるように、その通りとの返答が放たれた。リツコであった。
「まず戦力になるものとならないものとを分けました。逐次投入は愚策だとの話もありますが、正直、初号機とあなたたちとを同列の戦力として見ることはできません。よって、初号機をまさに決戦兵器として温存し、その他をもって雑事にあたります」
「リツコ……」
「言い換えたって無意味よ。この子たちにはわかってしまうわ」
 ミサトは唇をかみしめた。
「あなたたち……」
 ミサトは改めて子供たちを見、そして深呼吸をして、そういうことですと言い改めた。
「作戦上の分担という形になります。……死なないでね」
 ミサトは決意を固めている子供たちの顔をざっと見納め……その中で、自棄になっているケイタの表情に引っかかりを覚えた。


 ――ロッカールーム。
 プラグスーツに着替えたシンジは、腕の肘を逆側の手でつかみ、伸ばすように引いて体をほぐしていた。
「予定通り、早かったな」
 ひとりごち、背後の加持に答えを求める。
「で、どうするんですか?」
 僕を……の部分は省略しても、加持には十分伝わっている。
 奥の壁面にもたれかかっていた加持は、言葉少なにシンジに答えた。
「司令は特に何も言ってこない……使徒の殲滅が最優先と言うことだろうな」
「安心しました。使徒を倒そうとしていることについては、信じてもらえて」
「言い換えれば、君以外の誰に倒せるのか? という問題でもあるんだろうな」
 加持は相手が子供であるとの認識を捨てたようだった。
 同じ大人……それも同程度以上の相手に対する態度へと切り替えている。
「倒せるのか?」
 体を起こし、壁から離れた加持に相対する。
「倒しますよ」
「その方法は?」
「テープに吹き込んでいたとおり……で、やってみるしかありません」
 嘆息する加持。
「それでは困るんだ。君のテープが……本物であるということは疑わないことにして話すが、だとすると、あの方法では君を失う可能性が高すぎる」
「後が不安ですか?」
「そういうことだな」
 二人は連れだってロッカールームを後にした。
 歩きながらも会話は続ける。
「赤木博士に確かめてもらったよ。現存するN2爆雷すべてを用いることができれば、確かに使徒が形成しているという境界面に干渉することはできるだろう。そのときエヴァによって、内向きのATフィールドとやらを中和することができれば、使徒は内宇宙……虚数空間に自ら引き込まれて、自壊するかもしれないとのことだ」
「アスカの考えは間違ってなかったってことか」
「ん?」
「いや……簡単に行ってくれればいいなって思って」
「行くわけがないな……」
 頭痛の種を上げ連ねていく。
「現存するN2爆雷と簡単に言うがな、そのすべてをどうやって集めるっていうんだ? どんな名目があれば集められる? それもこんな短期間にだ……。そして使えば使ったで、第三新東京市『跡地』が窪地になるくらいじゃすまないんぞ? 関東一円が海の底に沈む程度で済めば良い方だ」
「愚者の浅知恵……か」
「そこまで卑下することはないだろう?」
「でも僕には……知っていることがあるだけなんですよ。代案なんて思いつきません」


 加持は一つだけ疑念を持っていた。ミサトのことである。
 彼女は演技ができるほど器用ではないから、テープについては本当に盗み聴いていないはずだ。
 だがミサトの裏側を知っている様子のシンジは、一体どういったつもりで彼女の耳に入るかもしれない手段を選んだのだろうか?
(彼の知る司令や、副司令、俺や、ミサトや、リッちゃん。その誰かが内容を知ったとして、彼はどんな反応を見せると読んで、どんな先を考えていたんだ?)
 鬱々と悩みながら、シンジをエヴァの元へと送り届ける。
 その一方で、霧島マナが、陰鬱な思いを抱えていた。
 ミサトの話にショックを受けないわけにはいかなかった。いつもと違い、今回は初号機と共に出撃するわけではない。だから、万が一の時に、助けを期待することはできない。
(シンジ君は……)
 今の自分のような子に対しては、非常に敏感に反応し、そして繊細に接してくれることを知っている。
 こんな時でないと優しくしてもらえないから、こんな時だけでも優しくされようと打算を働かせるのは、いやらしい考えであるのだろうか?
 だとしても、彼女はその誘惑にあらがえなかった。
「あ…………」
 そんな卑屈な気持ちもどこかにあったからか、彼女はここで出会ってしまったことに、罰であるのだとどこかしら泰然とした態度を取ることができたのである。
 場所はパイロット用ロッカールームへの通路途中にある合流口。
 相手は山岸マユミであった。
 首に包帯を巻いた彼女は、どこかぼんやりとした表情をしていたが、だからといって心ここにあらずと言った状態ではなかった。
 これからのことを考えている。そういった意味合いでの集中心を感じさせる。
(変わった?)
 マナは微妙に動揺した。
「マユミも?」
 警戒心が自然と険のある調子となって表れてしまったが、マユミは気にはしなかった。
 まだ怒っているのだと受け取ったからだ。
 しかし、マユミの心情は変わっていた。マナが怒っていたとしても、それに対し、反発する心ができあがっていた。
「いけませんか?」
 わたしが出撃しては? そう言ったつもりであったのだが、マナとしてはシンジに会いに行くのかと口にしたつもりであったから、またすれ違う。
「あの?」
「……なんでもない」
 気が立ってしまっている自分を感じて、マナは自分を立て直した。
 深呼吸する……シンジがいるのは、マユミが向かう先と同じところだ。だからと言って引き返すのも感じが悪い。彼女はマユミとともに行くことにした。
「マユミはあたしたちの後よね?」
「そうらしいですね」
 つまりシンジと同じか、その前……。
(あたしより頼りにされてる……頼りになるって思われてるんだ)
 マユミに気取られないように自分の頬をたたき、そんな卑屈な感情を恥じた。 冷静になれば、自分たちが情報収集のための捨て駒として選ばれたように、マユミがシンジのための盾、壁として配置されたことは予測がつくのだから。
 だから、マナは釘を刺した。
「ねぇ……。今度はシンジ君の代わりを務めようなんてしないでね……。シンジ君はマユミの後なんだから、無茶をしたって、間に合ってくれるとは限らないんだから」
 結局は蒸し返すことになってしまったな……そう思っても後の祭りだが、よけいなことを考え、よけいなことをして、よけいな負担をシンジに負わせてほしくない。だから言っておくべき話だと彼女は思った。
 だが、マユミの反応は、冷め切っていた。
「別に……」
「は?」
「碇君の代わりなんて、しようとしたことはありませんよ」
 マナは顔をしかめた。
 自嘲的に吐き捨てるマユミの台詞が、シンジの声のように聞こえたからだ。
「マユミ?」
 ゆっくりと、うつむき加減だった顔が横を向き、自分を見る。
 その表情にある陰の具合さえも、彼女にはシンジに似て見えた。
「あの時は……くやしかった。誰もわかってくれなかったから」
 醒めた目が、マナを見る。
「わたし、別に、碇君のようになりたいだなんて思ったこと、ありませんよ」
 マユミの声音には、黙って聞かせる迫力があった。昏い熱が。
「霧島さんに叩かれたとき、わたし、理解したんです」
 挑むようにマナをにらみつける。今までならあり得なかった行為にマナはひるまされる。
「ネルフには、わたしのことを理解してくれている人なんて、誰もいないんだって」
 彼女はぷっくりとしていたはずの……、今はかさついている唇を噛んだ。
「わたしなんかが、碇君のようになれるわけ、ないじゃないですか。そんなことは、わかってます。でも、同じくらい、碇君にとって、アスカさんを裏切る行為は、死ぬほど辛いことなんだって事も、わかってるんです」
 悔しかったと、彼女は語った。
「碇君は、怪我をすることなんて、なんとも思ってない。わかりますか? わたしたちが怪我をさせることになったって、怒りません。碇君が、本当の気持ちを見せてくれたのは、アスカさんについて、話してくれた時だけだった……」
 それは知らない話であるから、マナは何かを言おうとするだけで、何も返せなかった。
「……碇君にとって、アスカさんは絶対です。神様みたいなものなんです。世界はアスカさんだけで出来ていて、アスカさんのためだけに自分はいるって言い切れるくらいなんです、なのに」
 ──彼は。
「アスカさんのことを忘れて、わたしたちを守ってくれている……」
 想像を絶する苦悩と、胸をえぐられる想いをしてまで。
「毎晩、酷くうなされていたんですよ? ごめん、ごめんって謝って……。寝入ったと思ったら、すぐに起きて……酷い寝汗で」
 それほどまでに。
「碇君にとっては、わたしたちのことなんて、アスカさんに対する裏切り以外のなんでもないんです。だからとても辛いことなんです。わたしたちなんかを守って、戦うなんて事は」
「…………」
「だから、もうこれ以上、わたし、碇君に、碇君には、辛い思いなんてしてもらいたくない」
 ──ここで逃げれば、また彼に裏切り行為を働かせることになる。
 だから、戦おうとした。もうあのような姿は見たくはないと……逃げ出さずに戦おうとした。その姿が、妬心を持つマナには、マユミが思い上がっているように映ったのだ。
 シンジのように戦えるなどと、思い違いをしていると、誰もが思った。だがマユミは、そこまで自己中心的な人間ではなかった。
 それだけのこと……。
「碇君のようになれるなんて思ってません。でも、碇君に頼りたくない、碇君に任せたくない」
 頼んではいけない。頼りにしてはいけない。
 彼はきっと、泣きそうな顔をして苦しみながらも、心の中の大事な人のことを裏切ってくれるから。
 だから――。
「わたしは……」

Bパート

 ――夢を見るのが、怖いんです。
 碇君の手が、右手が、血まみれの手が、ちぎれて、ばらばらになる夢なんです。
 みんなが、わたしが悪いんだって、叫んでるんです。
 でもわたしは、耳が遠くなっていて、そんな声は耳に入っていないはずなのに、でも、聞こえていて……。
 わたしは、碇君の手に、釘付けになってしまっていて……。
 筋が……筋肉が、一本一本、剥がれるようにちぎれていくんです。血も、しずくの一粒まで、ゆっくりと見えてるんです。なのに、碇君はわたしなんて……わたしだけじゃなくて、周りなんて見えていなくて、自分の手がどうなっているかも、振り返らないで……。
 暴走したエヴァンゲリオンと、碇君がそっくりなんです。けだものって、きっとこうだって姿なんです。凄い声で咆えて、凄く怖い顔をして、わたし、碇君から逃げ出したいのに!
 ──その手に、見とれてしまっているんです。


 エントリープラグの中、マユミは自分の手のひらを見つめる。
 シンジと同じ右手だ。シンジと同じ右手。だが同じように人を守れない右手……。
 ――痛がりの、傷一つない手。
「大丈夫」
 彼女は決意の顔を持ってことに臨む。
 ゆっくりと拳を握り込みながら、額へと持ち上げる。
「大丈夫」
 眉間の辺りに当てて、祈る。
「なんのために乗るのか……わかったから。わかってくれる人もいたから、だから、大丈夫」
 ――かわいそうだと、思ったから……。
 シンジの優しくない声が、耳をくすぐる。


 ……出て行ってください……出て行って!
 マユミはケイタに、ひどく当たった。
 部屋の入り口へと彼が後退していく。
 彼もまた、マユミがシンジに対してあこがれを抱いているかのように口にした。それだけのことだ……が。
 マナに対してくちごたえをしたように、シンジのようになりたいわけではない。
 彼の世話をしていたのも、彼に守ってもらいたいからと言う、卑屈な気持ちからの奉仕でもない。だが、そのことをわかってくれない。
 自分はただ、本当に、シンジのことが心配で、だから、がんばろうと思った。シンジのためにできることはしようと思った。それだけなのに……。
「出て行って!」
 いつもとは違う、裏返るほどのきつい口調に、ケイタは怯えて後ずさった。
 そして誰かにぶつかって、ようやく自分たち以外の誰かが部屋に入ってきていたのに気づいて……。
 それが誰なのか理解するよりも早く、彼は開きっぱなしになっているドアから逃げ出した。
 マユミがシンジに対し、感情の発露をにおわせる前に……知りたくなくて。
 耐えられなかったのだろう、見たく、感じたくなかったのだろう、マユミがシンジに向ける信頼の全てを。
 甘える姿を、その声を。
「碇……くん」
 なぜシンジが顔を歪めているのか? マユミにはわからなかった。だから、ただ、今の自分が正視に耐えないほどみすぼらしいからだと思い、卑屈になった。
「放っておいてください……放っておいて!」
 びくともしない。
 その人は、自分が叫んだくらいではひるまない。
 それどころか、前に出てくる。
(ああ……)
 このまま優しい言葉をかけられたなら……。
 自分はきっと。
 ――きっと弱くなってしまうと、彼女は思った。
 これまでに読んできた少女小説の一節が思い浮かんだ。
 よくある場面だ。傷ついた女の子が、男の子に抱きすくめられて、そしてもろくなっていた心が砕けて……。
 その人なしでは、いられなくなるほどに依存する。
 だが、シンジは、彼女に触れる直前で止まり、それ以上に近づこうとはしなかった。
 しばらくして、彼は、ぽつりと尋ねた。
「死にたい?」
 ぽかんと……マユミはシンジを見上げた。
「もう、死にたいくらい、辛くなった?」
 わからない。なぜだろう? なぜそんなことを尋ねるのだろう?
「生きていたって辛いことばかりなら、死んだ方が良いかもしれない」
 そんな馬鹿な話と、かたかたと膝が震え出す。だが、シンジは話をやめようとしなかった。
「死にたいのなら、手をかしてあげるよ……」
 その手が……『両手』が伸びてくる。
「前に……話したことがあったかな? 僕は、アスカを、殺そうとしたことがあったんだ」
 汗ばんでいる喉の皮膚が、ひんやりとした彼の指の感触に熱くなる。
「……かわいそうだって、思ったんだ」
 親指にのど仏が圧迫されて息苦しくなる。
「生きていて、良いことがないなら、なにもないなら……。辛いことばかりで、良いことなんてなにもないなら」
 ――誰かあたしを見て!
「誰もいないなら」
 ――だったら。
「だったら、楽にしてあげた方が良いんじゃないかって、思ったんだ」
 力が徐々に込められていくのを……。
 シンジが決して汚さないようにつとめていた、大事な左手までも使って、自分の首を絞めてくれることに感じ入ってしまって……。
 彼の表情に見とれたまま、払いのけることができなかった。


「作戦、開始」
 発令所のメインモニターに、作戦地域の地図が浮かぶ。崩れかけのビルなどが立体的に映し出されているが、ほとんどは爆発や衝撃波によって均されている。
 地形としては、鍾乳洞の天井を逆さにしたような形になっている。
 そんな等高線の合間に、動くいくつかの光点があった。その一つ一つに意味のある色と、作戦のための略名が付いていた。
 使徒は既に第三新東京市跡地の中でも、本部直上にほど近い地点へと移動している。
 そこから十数キロを経た地点にある小山の頭頂部、砲撃のために削った合間から、使徒をのぞき見ている機体があった。それはムサシの乗るトライデント一号機、震電である。
 震電は先端部下部に取り付けられた長距離砲撃兵装から、一発の砲弾を発射した。
 同時に背にあるコンテナから、ミサイルの一斉発射を行った。
「着弾を待って二号機の攻撃を開始」
 だが、この命令は実行されることはなかった。
 一部の人間の予定通りに。
 だが予定とは違った形を持って。
「すり抜けた!?」
 着弾すると思われた主砲弾は遙か彼方へ、ミサイル群は大地に突き立ち、火柱を上げた。
「リツコ!」
「解析中よ」
 ――嘘である。
 効果がないことはあらかじめわかっている。彼女が調べているのは他のことだ。
 ミサトが冷静であったなら、リツコのテンションがいつもとは違うことに気づけただろうが、不幸にも彼女は見逃してしまった。
「どう?」
 椅子の背に手をかけ、のぞき込んでくるリツコに、マヤは耳打ちするように返した。
「質量がありません。確かに実体ではないですね」
「本体は?」
「投影しているのなら、近くにいるはずですが……」
 疑問を呈す。
「そもそも、パターン青が検出されている訳じゃないのに、あれは本当に使徒なんですか?」
 リツコは体を起こし、離れながら答えた。
「使徒以外に、あんなものが居て欲しい?」
 どうしたものかと塔を振り仰ぐと、そこでも議論は行われていた。
「どうする?」
 コウゾウの問いかけは、シンジの話とは違ってしまっているからだ。
 使徒はここで、パターン青の反応を出し、本性である影の姿になるはずであったのである。
 ゲンドウは、「ああ」といつもの調子で答えると、当然の命令を発することにした。
「出撃……」
「弐号機を出すのか?」
「ああ……ATフィールドになら、反応を見せるはずだ」
「最悪、弐号機を失うことになるぞ、パイロットごと……」
「必要なことだ」
「不必要な犠牲にも思えるがな」
 だが積極的に反対はしなかった。彼は下層の者たちへと命じた。
「弐号機を出す。トライデントは後退だ」
「後退!? しかし……」
 ミサトの抗議を封殺する。
「あれが使徒であるのなら、今回は以前以上に通常兵器の投入による混乱を避けるべきだ。違うかね?」
 相手の正体が知れない状態で、種類の違った兵器を大量投入することは、選択の混乱を生み、速やかな判断を阻害することになる……ということはわかるが。
「わかりました……」
 やはり武器は多いにこしたことはない……というのは素人の考えなのだろうか?
 ミサトは判断の難しさに、意見しきれなかった。
 ――トライデントが収容される。
 その二号機の中で、少年がうめく。
「……一発も、一発も撃たせてもらえないなんて」
 悔しさに歯がみをする。
 トライデントの収容を待って、エヴァンゲリオン弐号機が待機を解かれた。
 既に射出位置には着いている。後は打ち上げられるばかりだ。発令所から指示が来る。
『地上へ出ると同時にATフィールドを展開。おそらく使徒は即座に反応を見せるわ。攻撃される前に移動。できる?』
 マナはくんっと顔を上げた。
「できる、じゃなくて、やれ、ですよね?」
『そういうことよ。エヴァンゲリオン弐号機、発進!』
 くうっとマナは、食いしばるような悲鳴を発した。
 ――瓦礫の合間に、ぽっかりとした口が開く。
 シャッターの素早い開閉の後に、巨人が勢いよく押し出される。そのロックが解除されると同時に、不可視の圧力が周囲の邪魔な物体を吹き散らす。
「パターン青!」
 マヤが叫ぶ。
「回避ぃ!」
 ミサトの悲鳴に、マナは弾けるように反応した。
「この!」
 パイロットが首を伸ばし、体重をかけて体を傾ける必要はないのだが、それでもマナはそうしてエヴァを傾けようとした。
 弐号機はそんなマナの動こうとする意志を正しく認識し、左へと飛び転がって移動する。
 その弐号機の居た場所に、使徒の直下、月明かりや投光器の光とは無縁に落ちていた真円の影から、長く、細く、鋭い影が伸びていた。
「本体はあの影です!」
 マヤのタイピング速度が上がる。情報の検索と解析結果の収集、整理結果を次々と打ち出し、さらなる入力を加えていく。
 それらは全てメインモニターと、各自の端末へと転送される。
「碇、これは」
「ああ」
 コウゾウとゲンドウは、もしあの影に捕らわれたときなにが起こるのか、知っているがために顔をしかめた。
 まさにシンジの託宣通りになると確認が取れたからだ。
「リツコ!」
「あの影が本体で間違いないわ。接触は避けて」
「どういうことよ? 接触しないで倒せるわけ……」
「本体はまさに影よ。厚みもないわ。つまり二次元の存在なのよ。同じ次元に存在していない以上、倒しようがないわ」
「そんな……」
「違う次元の存在でありながら、こちら側にも存在している……その方法がわかりさえすれば……」
 もちろん、本当はわかっている。
 だが、シンジの話とは違うというのが感想でもある。
(ATフィールドは次元の圧力が生み出す壁……。高次元の存在である使徒が三次元へと降臨した際、その次元の差が圧力となって周囲に高い密度の空間を形成する結果を生み出す。この高密度空間が障壁となって、物理的な衝撃を全て受け止める……なら、二次元という三次元よりもさらに低い位置に存在する必要性は、意味は、一体なんなの?)
 それが内向き……という話とどう絡むのかが理解できない。
 シンジの話の通りに、ただ異次元という落とし穴のふたとなるために、三次元ではなく二次元の状態を選んだだけなのだろうか?
(どのみちこちらのやることに変更はないわね)
「一つだけ、方法があるわ」
 リツコはさも今思いついたかのように知らせた。
「N2爆雷による攻撃よ」
 ミサトは怪訝そうに眉間にしわを寄せる。
「通常兵器で倒せるの?」
「今回に限れば……有効と思えるわ」
 マヤに専門的な情報を映させる。
「使徒の本体が影なら、あの空中のものがなんなのかってことになるわ。答えはあれもまた影なのよ」
「両方とも影? どういうことよ……」
「逆もまた……ということね。三次元に物体が存在すれば、二次元に存在が誕生する。これが影。なら二次元に影が存在すれば?」
「三次元にも物体が誕生する……そういうことか」
「強引だけど、そういうことよ。でも現実には二次元に存在することは不可能……というよりも、二次元の……影がわたしたちに何かしら物理的な干渉を行うことができる?」
 ぴんと来る。
「完全に二次元の世界にあるわけじゃない……」
「ご明察。三次元に対して影響を行使できるように、その合間の、中途半端な位置にとどまっているのよ。空中の球体は影と言うより尻尾ね。ならばそこをついてやればいいのよ」
 考え込む顔つきになるが、答えは既に与えられている。
「どうやって? いえ、N2か……N2はそのエネルギーの大きさから空間に対して他の兵器では考えられないほどの衝撃と影響を与える……だっけ」
「ええ。大量のN2兵器を使用することができれば、二次元と三次元との空間の接続を一時的にでも不安定に……もしくは断裂させることができるわ、そうなればあの使徒は二次元側で無害な存在となることを選ぶか、もしくは……」
「三次元側に実体化する」
「他に考えは浮かばないわね」
「それだけのN2を手配できるかが、勝負か」
 ミサトはメインモニターの使徒を見上げた。再びまだら模様の球体の姿を取り、ゆっくりと動くその使徒は、とても待ってくれそうには思えなかった。


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