[Love a riddle.]

『作戦が決定しました』
 エントリープラグの中、シンジはミサトの話を聞き流しながら、やはり違いがあるのかと不安を抱えた心境に陥っていた。
 ――内向きのATフィールドってのがポイントなのよね。
 アスカはそう言っていたのだ。


「内向きのATフィールドで支えているってリツコが言ってたから……あれ? 助手だっけ?」
 マヤさんのことだろうな……名前も覚えていないのかと、あのころのアスカの姿を振り返る。
「まあ、それはいいわ。とにかく、支えてなきゃいけないってんなら、その支えをなくしてやりゃいいのよ」
「どうやって?」
「中和して」
 不思議に思う。そもそも中和距離まで近づけないのだし……。
「…………できるの?」
「そう簡単にはいかないでしょうけどね」
 問題点をあげ連ねていく。
「中和ったってさ……あのころのあたしたちのATフィールドのレベルじゃあ、ディラックの海なんてとんでもないものを内包できる強力なATフィールドの中和なんて絶対に無理だったでしょうし、第一、もし仮に成功したとしても、使徒が死んだからって虚数空間が閉じてくれるとは限らないんだし。最悪、世界は虚数空間に飲み込まれて滅ぶことに……」
「結局、倒しようがないんじゃないか……」
「初号機は使徒の内側から現れたのよね……。つまり使徒が内側に生み出していた別宇宙よりも、さらに大きな存在と化して、ディラックの海ごと飽和、破裂させたのよ? つまり初号機にはそれだけの巨大さ、強大さ? があった……。でも人がコントロールしている状態のエヴァンゲリオンに、それだけの力を引き出せるのかな?」


 ……今ならできる。それがシンジの答えである。
(あのころの僕にはどうだかわからないけど、今の僕にはS2機関を搭載した初号機がある。S2機関そのものはどんな使徒もエヴァも同じものなんだから、使徒が虚数空間の形成に力を割いている分、ただ破裂させれば良いだけのこちらに分がある……はずなんだ)
 だがそれを成せる方法はただ一つ……自爆である。


 アスカは砂浜に描いた絵図を、線を引くのに使った棒でぐしゃぐしゃと混ぜ消した。
「後先考えない方法しか思い浮かばないわね」
「たとえばどんな?」
「自爆かな」
「自爆って……」
 あのねぇと、あきれた感じで口にするシンジに、進退窮まった時に主人公が自爆を試みるってのは、ジャパニメーションの王道じゃないかとアスカは叫んだ。
「セカンドインパクト……サードになるか。要は使徒が作り出している別宇宙を、より巨大なエネルギーでもって飽和破裂させてやればいいんだから……。それを一番確実な方法で行えるのって、S2機関の暴走によるエネルギーの解放でしょう?」
「……あのころはまだS2機関を搭載してなかったじゃないか」
 そうなのよねぇ……っとアスカは頭を抱えた。
「なのに初号機は、それと同等かそれ以上のことをやってみせた」
「うん……」
「だから、なにかまだあたしたちの知らない方法……、違うな、初号機が自我を覚醒させるプロセスがどこかにあるのよ」
 それは……と想像する。
「たとえば、僕たち……子供の命?」
 違うとアスカは首を振る。
「それなら三番目の使徒に、あんたが撃たれたとき、初号機が暴走しているはずでしょう?」
 そっか……と考える。
 第一の使徒の時、やられた眼球は一瞬で再生しているのだから、初号機本体の破損具合は問題にならない。どれだけ損傷しようとも、エヴァ自体が自己防衛本能によって行動する……ということはない。
 さらにあの時、加粒子砲による直撃を受けた自分は、LCLの温度上昇によって温熱死するところだった。
 なのに、初号機は反応しなかった。
「あたしが……弐号機を覚醒させた時、引き金を引いたのはあたしだし……」
 シンジも思う。第十四使徒に対して戦ったのは初号機であったが、その初号機を覚醒させるに至ったのは、自身の願いであったなと。
「かといって、一か八かのせっぱ詰まった状態でないと試せないっていうんじゃ、まだ自爆の方が確実性が高いわけだし……」
 むーんと唸る。
「結局、リツコが考えたやつが、一番確実で安全だってことか」
「どんな作戦だっけ……」
 えっとねと詳細を思い出す。
「現存するN2を全て使った上に、ATフィールドで虚数空間に干渉、ディラックの海を内部から破壊する」
「それって……」
 あれ? っと首をひねる。
「最初に戻ってない?」
 そうなのよねぇと、痛みの激しい髪に手を突っ込み、頭をかきむしる。 「結局は支えているATフィールドを破壊するって案になるのよね。でもこれは、初号機を取り込んだことで、使徒がその場から動けなくなっていたからこそ可能になった話なのよね……」
 でなければ、世界中からN2爆雷を集めてくるような時間など、無かったのだから。


(……エヴァが取り込まれていないから、使徒は侵攻速度を変更してない。N2爆雷も、現在の状況からじゃ、全部を集めようとしたって各国が協力してくれないだろうし、もししてくれたとしても、使徒はその前に本部へとたどり着く。なら、N2爆雷の数が少なくても、その分、初号機の強力なATフィールドで干渉をかければ……)
 ふぅ、はぁ……と、呼吸を深く取る。
 今回は、初の、S2機関の使用を前提とした作戦行動となった。使用許可が出るようになっただけでも驚きだが……。
(あんな適当な内容のテープで、そこまで危機感を持ってもらえたとは思えないんだけどな)
 いざというときには、やはり確実な方法をとらざるを得ないなと、覚悟を決める。それは自爆だ。
 ……後顧の憂いを絶っておいて、よかったと思える。
(強引だったけどね……)
 他に、良い方法を思いつけなかった。
 父親たちには、自分の知る限りのものを渡せたと思う。
 これで使徒に対して、多少は楽に戦えるだろう。
 マユミのことも……。
 ――苦笑する。
 あの時……あの赤い湖の畔で、自分はとても虚ろな心に捕らわれていた。
 かわいそうだった。
 あまりにもかわいそうに思えてならなかった。
 誰でもいいから自分を見てくれと、そこまでせっぱ詰まって叫び続けた女の子が、どれだけ叫んでも、結局は置いて行かれるばかりであった女の子のことが……。疲れ切った屍のような子のことが、あまりにも哀れでならなかったから……、だから、楽にしてあげようと、殺してあげようとした、なのに……。
(アスカは……)
 頬に……暖かな手のひらが触れた。
 軽くなでさする動きが、己のエゴに捕らわれている自分を自覚させた。
 綾波レイに会ったと思った。渚カヲルに逢えたと思った。
 その場所で見た、見せられた……、全ての人々の、寂しさに捕らわれた身勝手な行動のひとつひとつが……。
 彼女を傷つけてきたのだから、救いとなる手は一つもなかったのだから……。
 だから、救われたいと願い、生きること自体が無駄であるのだからと、殺してあげることこそが慈悲であると思ったというのに……なのに。
 ――それが、どういうつもりであったのかは、彼女でなければわからない。
 だが、シンジは心を折られてしまったのだった。もう、殺せなくなってしまっていた。
 だから、泣いてしまったのだ。
 そして、そんな具合に泣き出した自分のことを、彼女は気持ちが悪いと言った。
 きっと、殺すなら殺せばいいのにと思っていたのだろうと思う。これもまた、彼女だけが知っていることで、ついに聞き出すことはできなかった話であった。
 あの時、彼女が自分の何に対して、反吐を吐いたのか……。
 やはり、かわいそうだなどと、勝手に人の人生に同情して、勝手に人の心情を思い描いて、勝手な思いこみで勝手な救いを押しつけようとした自分のことを……。
 そんな自分を、間違っていると、勝手にできない……と、好きにすればと思っている彼女の気持ちを思いやれず、結局、殺せない……と、自分勝手にやめてしまった自分のことを……。
 ふぅと、シンジはため息をついた。LCLがわずかに揺れた気がした。
(……本当のところ、内緒にされたままの話って、多いんだよな……)
 だのに、彼女のことなら、なんでもわかると言ってしまっている自分が居る。
(浅利君が、ムサシ君ほど強ければ良かったんだけど……)
 これ以上は、望めない。
 自分はこれから、消えてしまうかもしれないのだから。


『……現在日本に存在している全てのN2を使用』
 いつの間にか、説明の主がリツコに変わっていた。
『使徒の中枢に投下、タイマーによって呑み込まれた後に起爆。この時、外側よりATフィールドによる干渉を行い、虚数空間に干渉、ディラックの海を破壊します』
 ミサトのつぶやきが通信に混じる。
『作戦とも言えないわね』
『あら、力押しで勝てるなら安いものでしょ』
「素直に受け止めてくれますか? 爆弾を」
 シンジの言葉に、ミサトも同じく不安を持っていると答えた。
『今のところ、他に策がないのよ。現在も次善の策を作戦部が検討しているわ』
「ですか……」
 答えたのはミサトであったが、シンジの意識はリツコへと向けられていた。
 リツコもシンジの言葉の裏を……、『この策が以前通じたのは、初号機を飲み込んだことで、行動の自由がきかなくなっていたからだ』というものを読み取っていたが、返す言葉がなかったために、意識を受け止めるに止めてしまった。
 それで十分であったとも言える。
(それでも、僕を犠牲にすれば良しだなんて、思われてないだけでもありがたいか……)
 初号機が大事なだけかも知れないが……と自嘲する。
 そしていつもの、ミサトの声が発せられた。
『作戦、開始』


 綺麗な星空の夜である。
 月もまた、明るい姿をさらしていた。
 雲もない月夜だ。月の形は半月。その月に重なるように、小さな影が幾つも並んでいた。
 N2爆雷を搭載した爆撃機の編隊である。
 ――初号機発進!
 ――零号機は待機位置へ!
 初号機が地上へ向かって打ち出され、零号機はジオフロント本部脇へと配置される。
 これから、地上で大爆発が起こる予定だ。使徒が内包している空間に、その大部分は消えるはずだが、あくまで予定は予定である。
 場合によっては、ジオフロントの天蓋は落ちるかもしれない。その時のための零号機であった。本部を守るための……。
(でも、碇君は?)
 マユミは不安げに天蓋部分を見上げた。
 視界の端に、弐号機も協力のために姿を現したのを確認する。
 壊れたビルが不気味につり下がる天井。以前は人工の光が瞬いていて、綺麗なものだと思っていたが、今では暗闇の中に不気味な凹凸を色添えているだけだ。
 こんなものが、落ちるかもしれない……。そんな爆発に、初号機が耐えられるのだろうか?
(飛んで逃げるとか……)
 あれ? マユミは、今になって気が付いた……。
(碇君は、零号機で空を飛んだ……だけど……)
 浅間山で、灼熱の地獄の中を、シンジは……。
(空を飛ばずに、走ってた……)


 ――初号機が地上へ現れると同時に、使徒は姿を影へと変えた。
 視界一杯に広がる廃墟に感慨を覚える。
(旧東京みたいに、ここもなっていくんだな……)
「ATフィールド、展開」
 感傷とは相反して、闘志は十分に膨れあがっている。
 ロックが外されるのももどかしく、初号機は闇へと駆け出した。
 星空と、地平線……その向こうが明るいのは、そこに街があるからだ。
 ここからは消えてしまった人の営みが、そこにはある。
(けど、僕にはそれを想像することができない)
 皆が生きていた頃は関わり合いを恐れていたから。
 二人きりになって、ようやく営みのまねごとができるようになっただけだから。
「うわぁああああああああ!」
 シンジは悲鳴のような雄叫びと共に戦闘に入った。
 不自然に広がる闇の縁。
 それが迫ってくるのは、自分が走り寄っているから、それだけではない。使徒もまた初号機のATフィールドに引き寄せられ、迫ってくるからだ。
「ATフィールド、全開!」


 ――その時、マユミは地震を感じた。
「なに?」


 ――その時、発令所は悲鳴を上げた。
「全ての測定器の値が振り切られています!」
「まさか、サードインパクト!?」


「ウォオオオオオオオオ!」
 シンジらしからぬ……その容貌からはとても想像の付かない、獣そのものの雄叫びが漏れた。
 インダクションレバーを握りしめた手を突き出し、体を前のめりにして、エヴァンゲリオンを一歩でも前へ踏み出させようとしている。
 地に立つ初号機と、地を這う使徒がぶつかっていた。
 垂直に切り立つ黄金の壁をぶつけ合い、世界を白色に染めて照らし出す。
 無惨な大地はさらなる衝撃波によって()され、掘られ、窪んでいく。
「ミサトさん!」
 爆撃を――シンジは頼んだが、リツコから駄目だとの返答が割り込んだ。
『「ATフィールドが強力すぎて、はじかれるわ、中和を!』
(無茶言わないでよ!)
 なにしろ、S2機関を解放してまで展開しているのが今のATフィールドだ。そのATフィールドを持ってしても、破ることができないのがこの使徒の力なのである。
(それでも……)
 やるしかないのだからと、小手先の技を試みる。
「く……」
 干渉壁が揺れ曲がる。中和現象によって、二つの壁の境界面が融合していく。
(いける!)
 その時、使徒が変化を起こした。
 地面より巻き上がり、渦巻いて中空、初号機の頭部と同じ高さの一点へと収束し、球体化した。
 ビクン――表面が痙攣した。亀裂が走り、光が漏れ出した。
 誰かの悲鳴が聞こえた気がした。


「まずいわ!」
 リツコの悲鳴が発令所に響く。
「自ら虚数回路を開放するつもりよ。下手をすれば向こう側の宇宙があふれ出すわ!」
「どうなるのよ!?」
「世界の終わりよ……」
「シンジ君!」


 ミサトが叫んだのは、一体どういうつもりがあったからだろうか?
 シンジのことを案じたのか、あるいは彼ならと期待したのか?
 シンジはそんなミサトの声音に、とっさに『以前』の調子で「はい!」と返してしまっていた。

Bパート

 その返事にゾッとしたのはリツコだった。
 彼女は発進前にマユミを捕まえていた。
「いつか、碇君は消えてしまいます……」
「それは、無茶をして……ということ?」
 違いますよと、昏く笑った。
「碇君は、やらなければならないことがはっきりとしている人なんです」
 彼女は、ことさらに言葉遣いを正そうとした。
 つっかえるように、たどたどしくなっても、そうしなければと思ってのことだった。
「後悔するような選択はしない、それだけの人なんです」
「それだけ?」
「それだけだから……怖いんです」
 リツコはマユミの疲れた笑みに、これまでのシンジの選択が蘇って見えた。
 ──ピースがはまる。
 臆病者のマユミが引き下がろうとしない理由。今の彼女がそれでもエヴァに乗ろうとしていることの意味、その選択。
 目前の危機と背後の知己と後悔しない方法――すなわち選択。
 ゾッとした悪寒に襲われる。
 リツコの体から血の気が引いた。
 シンジが怖いのではない。
 彼がそうしてくれていることはわかっていた。だが、わかっていただけだったのだ。
 リツコが恐怖を覚えたのは、目前のマユミに対してであった。マユミの選んだ道についてであった。
 目の前に脅威があって、シンジが代わりに怪我をしてくれることがわかっているのなら……。
「だから……」
 リツコは尋ねた。
「だから……逃げなかった、の?」
 マユミの目が、瞳が……。
 ゆっくりと動いて、リツコを見た。
 射すくめられたリツコは、体をこわばらせ……。
「碇君は……」
 彼女は、伝える。
「碇君は、それがわたしの選んだ道なら……」
 そんなリツコを置いて、マユミはエヴァに乗り込むため歩き出す。
「碇君は、わたしを守ろうとはせずに、見守ると思います」


「碇君!」
 零号機の足が地を蹴った。
「マユミ!?」
 隣の弐号機でマナが焦る。


(ATフィールドを……!)
 しかしATフィールドの出力をあげたところでなにも変えられない。
 ロンギヌスの槍でもあればと思うが、ここにはなにも……。
(あっ!)
 シンジの脳裏に、天啓がひらめく。


「でも、ATフィールドを消失させるただけで倒せるってのも、すごいよね」
 シンジの言葉に、アスカは浜への落書きを止めた。
「なに?」
 そんなアスカに引っかかりを覚えて尋ねると、アスカは眉間にしわを寄せて答えたのである。
「消失させることで倒せるって話は、別にこの使徒に限ったものじゃないわ」
「どういうことさ?」
「サードインパクト……」
「え?」
「サードインパクトよ。あれは、天体規模で発生させたATフィールドでもって、強制的に生命体の自我境界線の解放……中和を迫ったものだったでしょう?」
 あ……と、シンジも気がついた。
「そっか……人は……人だって使徒である以上、同じ使徒であるものにもできるはずなんだ」
「ええ。生き物に対してなら、どんなものにでも……ね。それができないから、戦闘なんて、力ずくの方法をとってたんだと思うし」
 ただと付け加える。
「エヴァ単体では、やっぱり無理でしょうね。サードインパクトじゃあ、十機程度の量産機が必要だったんだし……」
「共鳴現象ってやつのために?」
「おお……勉強してるじゃない」
 えらいえらいと、砂だらけの手で頭をなでる。


「ミサトさん!」
 シンジは叫んだ。
「マユミ……マナでも良い! 地上へ……」
 そこでシンジは、言葉を止めた。
(僕は、何を言ってるんだ!)
 共鳴現象を起こすために、この危険な地へ呼び出そうというのか?
 あの二人を!
(なら、どうすれば……)
 しかしこれは、明らかなシンジのミスであった。


「零号機が移動しています!」
「マユミ!?」
 ミサトの制止に対して、返ってきたのはわめき声だった。
『第三ゲートに入ります、そのまま地上へ射出して!』
「でも」
『碇君が……シンジ君がわたしたちに助けを求めようとしたんですよ!? それくらい危ないんです!』
 だけど……と返そうとしたミサトの肩を押さえた手があった。リツコだ。
 彼女は耳打ちするように告げた。
「シンジ君には勝算があるのよ……ただし、それには他のエヴァの力がいる」
「それはわかるけど!」
「もちろん危険も大きい……だからシンジ君は」
 ミサトも腹を決めた。
「マユミ……頼むわ」
 ――はい!


 背後に気配を感じて、シンジは驚愕した。
「山岸さん!?」
 しまったと思うが遅い。
 零号機は全力で疾走し、初号機の真後ろに来ると両足を踏ん張り両手を突き出した。
 ――ATフィールド、全開!
 これまでになく強大な……だがシンジには到底及ばない微力なATフィールドが、使徒をわずかにふるわせる。
「それじゃだめだ!」
 モニター正面は干渉光によって白に染まり、ただ中央に中心より白い裂け目を広げようとしている球体が浮かんでいる。
 背後には金色の光を受けた零号機が、両腕を突き出し、肩幅に足を開いて、吹き飛ばされないように踏ん張っている。
 どうすれば良い!? やはり取り込まれるしかないのかと、焦る気持ちが短絡的な思考へと走らせる。
(N2を撃ち込むことはできない。虚数回路ってやつは解放される寸前。なんでだよ。なんでこの世界を壊そうとしてるんだ……そんなことをすれば)
 ゾッとする。
(この使徒には、この世界には、たどり着くべきアダムがない!)
 ATフィールドの共鳴だの共振だのと言っても、実際にはどうすれば使えるのかわからない。
 使徒の目的がなんなのかすらわからない。どうして第三新東京市にやってくるのか、それすらもわかっていないのだ。
 唯一の救いは、使徒がこの星を……地球そのものを破壊する、そういった選択肢は取らない……その力はない、という思いこみだけだった。
 だが、それも、希望的観測でしかなかったと知らされる。
 ――ならば。
(結局、自殺行為しかないのか!)
 シンジはちらりとシート越し零号機を見て、ふぅと突然に気を抜いた。
「山岸さん……」
 はい……。何かを悟ったような声音に、伝わるものだなと苦笑する。
「他に手がない……行くよ」
『そう……ですか』
「うん、さよなら」
 体を起こし、前に倒し、エヴァを進ませようとしたその瞬間。
『でも』  がくんと、シンジは襟首を引かれた気がした。
 それは零号機の手が、初号機の襟を、エントリープラグの保護殻をつかんで、引き戻したことによるものだった。
「山岸さん!?」
 後ろに引き倒され、シンジはわめいた。
 零号機の背後へと投げ捨てられた初号機が、慌てて立ち上がろうともがく。
「だめだ! S2機関のない零号機じゃ!」
「なんっ!?」
 シンジは見た。
 そこに、赤い干渉光を。
「アンチAT……フィールド」


 あれ? ――共鳴現象について、不意に思ったのはアンチATフィールドというものについてのことであった。
 シンジは頭を撫でる砂だらけの手を払いのけ、尋ねた。
「でもあれは、アンチATフィールドのためだったんじゃないの?」
 共鳴現象がATフィールドのためのものなら、アンチATフィールドについてはどうなるのかということについての疑問であったのだが、アスカはさらりと受け返した。
「アンチATフィールドは、インパクトとは関係ないものよ?」
 シンジは驚きを露わにした。
「そうなの!?」
「ええ……直接にはね。アンチATフィールドは、ATフィールドとは正反対の特性を持っているものでね」
 そうねぇ……。アスカはわかりやすい説明を探した。
「あんたの話じゃ、ATフィールドは心の壁だってことだけど……」
「うん……」
 一瞬、懐かしい人の顔が脳裏をよぎった。
「……ATフィールドは、心の壁だよ。僕たちはそれを犯して、こじ開けて、傷つけあってたんだ」
 今も変わらずに思い出せる笑みが、ちくりと胸を痛めて過ぎる。
 アスカはそれに気づかぬふりをした。
「つまり、自分という存在を主張している力場のわけよね。それは他人という存在があることを前提にしているわ。誰だって他人と向かい合えば、必然的に身構えるものでしょう? 二者は自身のテリトリーを主張しあって、共存を図ったり、奪い合ったり、犯したり……」
 ATフィールドとは、人の心の有り様であるとアスカは説く。
「そうだね……。で、アンチATフィールドは?」
「ATフィールドが他者の存在を前提とした心の壁なら、アンチATフィールドは自己完結している人間が持つ心の殻ね」
「殻?」
「そう……好意の反対は?」
「は? ……嫌い?」
「無関心、よ。嫌いって感情も、相手を意識してるからこそ生まれてくるものでしょう? 意識しているって点では、好きと同じ軸線上にある感情なのよね」
「無関心……か」
 シンジが思ったのは、知り合ったばかりの頃の、綾波レイの横顔だった。
 誰一人寄せ付けようとしない、そして、誰に対しても関心を見せない彼女の身に纏っていた空気……。
「ええ……必要ないという隔絶心が生み出すもの。それがアンチATフィールドなのよ」
 あ……とシンジは気がついた。
「だから……なのか。サードインパクトの時に、核となっていたエヴァンゲリオンがアンチATフィールドを展開してたのって」
「そうなんでしょうね……」
 誰もいなくなっていることで、戦自のみならず、様々なところから情報を引き出すことができた。その中には、サードインパクトを観察、記録していたデータもあったのだ。だからこそできる推察講座である。
 実際には、やることがないので、暇つぶしにやっているだけのことであったが。
「サードインパクトが強大なATフィールドによる中和、浸食、同化現象なら、核が巻き込まれて汚染されたら話にならないわ。だからアンチATフィールド……っていうか、核となる存在は世界から逸脱……解脱した存在となっていなければならなかった。そしてそれを一番簡単に達成できる方法は……」
 アスカは顔をしかめ、シンジもそれだけで理解した。
 ――心を壊すこと。
 不安定な精神状態にある者が、心の拠り所をことごとく失えば、自閉症を引き起こす。あらゆる外的因子を拒絶して、自分の殻に閉じこもる。
 この殻は、結果としてアンチATフィールドと同じものだ。
 ――あくまで結果としての、だが。
「あとは量産機に組み込まれていたシステムが、自動的にサードインパクトを誘導していく……形になってたんでしょうね。外界への意識を閉ざしたあんたを核に据えて」


 シンジは「マユミ……」と、愕然とした思いで声を発してしまっていた。
 本来、アンチATフィールドは、チルドレンに展開できるものではないのだ。
(人柱を必要とするのがエヴァンゲリオンだから……、だから、他者との繋がりを絶っている人間では、エヴァに取り込まれている人間とA10神経で繋がることができない、シンクロできない……)
 けれどこちらのエヴァンゲリオンではどうだろうか?
(加持さんは、エヴァンゲリオンに人柱なんてものは組み込まれていないって言った)
「マユミ……君は」


 山岸マユミは、これで良いのだという想いで心を満たしていた。
 今、彼女はとても満たされていた。
(誰もわかってくれなかった……)
 ミサトの懸念には、誤りがあった。
 必死に、我を忘れることで、エヴァンゲリオンは力を発揮する?
 そんなことはない……と、マユミはとっくに知っていた。
 シンジを想う。人を恐怖の対象としてではなく意識した初めての人。その時を。
 零号機の中で、彼女はシンジに抱かれていたのだ。抱かれながら、彼の自信に満ちている姿を見、感じていた。
 だからこそ、知っている。零号機が最も力を発揮するのは……。
「行こう? 零号機……」
 守るために。
 そのためなら……。
(他の何も、いらないから)
 そう。
(わかってもらおうとも、思わない。わたしは)
「碇君は、わたしが守るもの……」


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