──翌日のことである。
「わたしは反対です」
 仮設テントは梁に布をかぶせているだけなので、前面が開いた形になっている。
 夜には虫を避けるために布を下ろして閉じるのだが、昼間は熱がこもるので開いていた。
 だからそんな風にわめくミサトの姿はまる見えで、苦い顔をしているコウゾウに噛みつくミサトのことを、同意半分、批難半分の顔で、大勢の人たちが注視していた。
「どうしてそこまで信用できるんですか。わたしには理解できません」
 コウゾウは大げさに、芝居がかったため息をこぼした。
「お前が疑いすぎているだけだとは思わないのか? たとえ裏切られたところでどれほどの痛みがあると言うんだ。むしろ居てくれてよかったとは思わないのか? 彼が居なければ、わたしたちは全滅していたんだぞ。いや、そもそもわたしの元までたどり着けていたと思うのか? お前は」
 ミサトは唇を噛む。
 山間で救われ、毒についても助けられ、あげくは傭兵、機族からも守られ、さらにはかどわかされた小さな姫様を連れ戻してきたのも彼である。
 シンジの力がなくては、どこで終わってしまっていたかわからない。
「彼になんの得があるというんだ? わたしたちの味方の振りをして、(たばか)って、一体なにをしようとしていると?」
 ミサトは苦し紛れなことを言った。
「深く食い込むことが狙いなのかもしれません」
 あきれかえるコウゾウである。
「お前は私情に目が曇っているな」
「コウゾウ様!」
「彼がそんなことを考えるような人間に見えるのか?」
氏素性(うじすじょう)が知れないと言うだけで十分でしょう!? そんな人間を北の姫の元に送り込んだって……」
「それこそ、北の姫は外見になど惑わされんよ。本質のみを見抜かれる。彼が何者なのか、何者であるのか、知ることができる」
「試すために送り込むって言うんですか?」
「もし彼が北の姫の目にかなうようなら問題なかろう? 違うというのなら、北の姫が直々に問いただしてくれよう」
「そのためなら、貴重な理力甲冑騎を失っても良いんですか? 北の国に渡したとなれば」
「どのみち俺たちには、アスカ様を立てる以外に道はないよ。行方知れずの姫がここにいるというだけで、俺たちはどれほど疑われることになるのかわからんのだからな」
「理力甲冑騎は、献上すると?」
「賄賂など通じる相手ではないよ。せめてアスカ様のことだけは頼まねばならんのだ。なるべく早く、確実にな」
「だったら、北の地へは他の誰かに」
「歩いていかせるというのか? 何年かかると思っているんだ」
 これは比喩や冗談ではなく、本当の話であった。北の地とはそれほどに遠く、そして険しい峰の向こうにあるのだ。
 北の地が神秘に包まれていたのにはそのような理由があった。もっとも、現在では、理力甲冑騎に代表されるような空を飛ぶ機械があるため、かなり近しい存在となっていたが。
「理力甲冑騎があれば、最短で往復に一週間程度、最長でも一ヶ月とかからんのだぞ? シンジの他に、それほどの速さで動けるものがいるか?」
 ですがとミサトは食い下がる。
「そもそも北の地へは、あいつの問題で行くという話になっただけでしょう?」
「違うな。彼がいてくれるおかげで、北の姫という選択肢が増えたんだ」
「よそ者が途中で逃げ出さないって保証はあるんですか」
 よそ者──この言葉に、コウゾウは吐き捨てた。
「所詮は女子供か」
 この言葉には意外なほどのショックを受けたのか、ミサトは青ざめ、震えだした。
「コウゾウ様!」
「身を()して、命をかけてまで……そこに信頼を見いだせないのなら、下がっていろ」
「でも!」
「現実的にも、彼を取り込む以外の道はない」
 情けない! ミサトは泣きそうになっていた。
「異邦人ですよ!? どこの(やから)とも知れない! そんな人間に頼らなきゃいけないなんてっ、あたしたちの姫様のことを、他人に頼らなきゃならないなんて!」
 コウゾウは下がれと怒鳴った。
「味方は増えて来ている! だがそれ以上に敵が増えているんだ。悠長に待っていられるほど、俺たちに余裕はない!」
 事実であった。行商人の姿が途絶えたのである。これは街道が封鎖されたことを意味していた。
「たとえどのような形であっても、先手を打たねばならんのだ。お前たちは俺を頼って逃げ込んできたんだろう! その俺が決めたことだ。異論を唱えるというのなら、頼ったことが間違っていたと後悔するんだな!」
 ミサトは苛立ちが混ざり始めたコウゾウの剣幕に押され、わかりましたと引き下がった。
 北の姫を味方に付けることができれば、民を味方に付けたも同じことになる。そうなればどこの組織も、おいそれとは手出しできなくなるだろう。そのような理屈自体は理解できるものであったが、ミサトの感情は拒絶反応を示していた。
 頭では理解している。だが心が納得してくれないのである。彼女は去るときにリョウジを連れだし、人目が減ったところで食ってかかったのであった。
「コウゾウ様はなに考えてるのよ!」
 胸ぐらを掴み上げる拳に手を置き、わからないのかとリョウジは諭した。
「簡単なことだろ。他に頼れる人間がいないんだ。俺たちにできるのは賭けることだけだ。自分たちの勘を信じてな」
 勘ですってとミサトはリョウジを突き飛ばした。
「賭けるってなにに!? こんな割の悪い賭けはないわ!」
 俺はそうは思わないと、リョウジは襟元をただした。
「あいつと出会わなければ、俺たちは死んでいた。これは運じゃないのか?」
「でも、あいつがあたしたちを助けたのは、ただの気まぐれでしょうが! それを信用して、信じて! 頼っても良いって言うのは違うでしょう!? また気まぐれを起こされたらどうするって言うのよ!? 諦めるしかなくなるじゃない!」
 どうしてそう信用しようとしないのか? だがそれを問い詰めたところで逆上していく一方だなと、リョウジはあくまで正論で落ち着かせようと試みた。
「彼は命をかけて俺たちを守ってくれている。命をだぞ」
 勝てるとは限らない。死に勝る恐怖はない。
 死ぬかも知れない。その領域で踏ん張り、堪えるためには理由がいるものだ。だがシンジには命をかけてまで踏みとどまらねばならないしがらみはないはずなのだ。
「アスカ様に至っては三度だ」
 それなのに、シンジは逃げず、逃げ出さず、今もここに居てくれている。
 それには彼なりの教示や、理想、美学があるのかもしれない。
 逃げたところで、嫌な思いを引きずることになるだけだというのがシンジの考えであり、リョウジの見方はあまりにも美化しすぎているものではあったが、それでもシンジがシンジなりに逃げ出さずに留まろうとしてくれていることに対しては、リョウジなりに感じているものがあるようであった。
「俺たちには、なにも出来ずに逃げ回ることしかできないんだ。でもな……」
 その先を口にしようとして、リョウジは、ああそれでかと気がついた。
「お前、焼いてるのか」
 ミサトは虚を突かれ、絶句した。
 その表情に、やはりそうなのかとリョウジは確信を得た。
「俺たちと違って、あいつにはアスカ様を守れる力がある。それはわかれ。自覚するんだ」
 ミサトの顔が怒気に染まった。
「あたしは!」
「今は!」
 より大きな声で封殺する。
「今は……一人でも多くの味方が必要なんだよ。それにいずれは機族ともやり合わなければならないんだ。シンジのような力を持った人間を、一人でも多く味方に付けなければいけないんだよ。一人でも多くだ」
「その最初の一人だって言うわけ?」
「これからも部外者は増えていくんだ。その最初の一人があいつだったっていうのは、運があるとは思わないのか?」
 裏切られたらと、ミサトの意見は元に戻る。
「どうするのよ!」
「城の人間を信じるよりは遥かに良い!」
 我慢も限界に達する。
「あんたは、馬鹿よ! 大馬鹿よ!」
「ミサト!」
 これ以上は話すことはないとばかりに背を向けて、ミサトは肩を怒らせて去っていく。テントの合間を縫う道を曲がって姿を消した。
 やれやれとリョウジは肩をすくめると、背後のテント脇にある樽の向こう、物陰に向かって口を開いた。
「出てこいよ」
 わかっているぞという声音に、ばつが悪そうにひょっこりと頭を覗かせたのはシンジであった。
「ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだけどさ」
 いいさとリョウジは肩をすくめて、あたりへと苦笑を放った。
「他の連中にだって聞こえてる」
 それほど公で、周囲にも人影があった。
 テントの合間だ。布である以上はその中には筒抜けであるし、テント越しにもあれだけ叫べば通ってしまって当たり前だった。
 二人のけんかに、何事かと吸い寄せられてきて、様子をうかがっていた人たちも居る。
 シンジはコウゾウの会議を抜け出して、隠れて休んでいたのだと説明した。非常に言い訳がましいものであったが、その側でけんかを始められ、出るに出られなくなって困っていたことは想像がついた。
「でも……傷つくなぁ」
 そう言って頭を掻いた。
「信じてくれって言ったってさ、説得力がないって言われたら、その通りなんだけど」
 ならとリョウジは肩を組み、耳元で囁いた。
「信じさせてくれよ。な?」
 暑苦しいと振り払う。
「そういうことは女の人にやってよね」
「つれないなぁ」
 にやにやとしながら、思うところを語る。
「ミサトな……あいつはずっと、アスカ様の面倒を見てきたんだよ。城から連れ出した時だって、落とさないよう必死に抱えてたんだ。衛視に殺されそうになっても離さなかったんだよ。追っ手からだって、身をもってかばってきたんだ。それなのに、ぽっと出のお前に任せて、後は下がっていろって言われてもな」
 それはそうだねと、シンジも同意した。
「納得できないってことか」
 そういうことさとリョウジ。
「あとは下働きのような真似だけをして、見ているだけで良いなんて言われたって、大人しく引っ込むことなんてできないだろうさ」
 ふうんとシンジは相づちを打った。
(中身はやっぱりミサトさんってことなのかな?)
 そんな感慨を抱く。
 ではこちらの少年も、やはり中身は加持リョウジなのかと(いぶか)しみもした。だから尋ねたのである。
「君はどうなのさ」
 俺かとリョウジ。
「俺には俺にしかできない、俺にならできることがある……と思ってる。だからそれをやるつもりだよ」
 やはり普通の少年ではないのだなと感じ取る。
(でも、どうなんだろう?)
 いくらシンジでも、葛城ミサトという人がなんの努力もなくあの地位にいたとは思っていない。
 こちらのミサトに同様の素質や素養があったとしても、それを磨いているかどうかは別問題だ。自身の知る葛城ミサトのような力があるとは思えなかった。
 そんな理由から尋ねてしまった。
「ミサトにできることはないの?」
 それはとリョウジは答えて返す。
「あるさ。ただな、本人がやりたいと思ってることとは違うだろうから……」
 なるほどねと想像させられる面持ちだった。
 自分の知るミサトなら、どうだろうかと妄想してみる。そしてシンジは鬱になった。
(まともに指示を受けたことって、数えるほどしかないんだよなぁ……)
 比べられるほど、有事における姿を知らないと気が付いたのである。
 そんな具合に暗くなったシンジのことを勘違いして、リョウジは彼の背を強く叩き、励ました。
「まあそれはこっちの問題だからな。任せておいてくれよ」
 シンジはジト目を向ける。
「だからお前は別のことをってわけ?」
「ん? なんのことだ?」
「とぼけないでよ。騎士の話だよ」
 大仰に腕を広げるリョウジである。
「ここまできて、俺たちの仲間にはならない。俺たちの仲間じゃないなんて、言わないだろ?」
 それは言わないけどねとシンジ。リョウジはこの返事に声を潜めて伝えた。
「もっとも今のところ、俺にとっては便利な道具ってところだよ。お前はな。そう思うことにした。怒るか?」
 いいやとシンジはかぶりを振った。
「それが妥当な認識だと思うよ。弱みにつけ込まれてるなってわかってても、今更見捨てるような、後味の悪いまねは我慢できないからね。僕は」
「弱みねぇ」
「なんだよ」
 くつくつと笑うリョウジである。
「別に、俺たちに頼らなくても、生きて行けそうだけどな、お前は」
 甘いよな、ほんとと、シンジとは別の意味合いでリョウジは口にする。
「でもそう言った甘いところ、好きだぜ? せいぜい利用させてもらうさ」
 ばんっと背を叩かれてシンジはよろめいた。
 痛いよと不平をつぶやきながら、シンジは体を起こしつつ唐突に告げる。
「明日、深夜に発つよ。コウゾウ様にだけ知らせてくれないかな」
 リョウジは眉間にしわを寄せた。
「はやいな。なにかあるのか?」
 まあねと、さっと周囲に目を走らせる。
「夕べの内に、修理状況を確認しておいたんだ。明日中には動かせるようになるらしいよ。だからそれに合わせて抜け出そうと思ってる」
 リョウジはシンジの物言いに引っかかりを覚えた。
「抜け出すって?」
「知られないようにした方が良いと思うんだ」
 はっとする。
「間者か?」
 言葉が古めかしくて、シンジは一瞬理解が遅れた。
「間者……スパイのことか。うん。それらしい感じでこっちを観察してる人たちが居るんだよ」
 リョウジも考え込み、同意した。
「そうか、そうだな。これだけ人が出入りしてるんだ、混ざり込んでいてもおかしくないか。そういうもんだよな」
 だからとシンジは口にする。
「気付かれるのをなるべく遅らせたいんだよ。準備の邪魔をされる可能性だってあるしね。だから、気付かれないようにちょっとずつ用意を進めて、偵察とかなんとか、ちょっとした出撃に見せかけて、そのまま出かけてしまおうと思ってるんだ」
 リョウジは大事なことだからと、言葉での確認を取った。
「行ってくれるんだな、北の地へは」
「まあね。北の姫って言うのがどういう人なのかは知らないけどさ。後ろ盾が増えるのはうれしいことだからね」
「逆のことにはならないように願いたいがな」
「やめてよね、そういうフラグ立ては」
「フラグ?」
「なんでもないよ。アスカ様のことは、任せられるよね」
「お前が居ない間に連れ去られないよう……そうか、理力甲冑騎の姿がなくても、少しばかり偵察に出ているだけですぐに戻ってくる……そう見せかけていれば、アスカ様を狙ってる連中の動きを牽制することもできるってわけか」
 感心する。
「様子見の状態を維持させるわけか。色々頭が働くんだな」
 シンジも考えて動いてくれている。リョウジはそのことを素直に喜んだ。
「わかった、手を打ってみる」
「頼むよ」
 リョウジは頭の中で、頼りになりそうな人名を上げながら、手順についてを確認した。
「北の姫への手紙については、今夜にでも仕上げてもらうよ。どのタイミングでも、誰にも気付かれることなく渡せるようにな」
 シンジは片手を上げて、挨拶をし、リョウジと別れた。
「よろしくね」


 薄暗い洞の中、テントを張るための布生地を布団代わりにした寝床に、ガウルンは横たえられていた。
 崖下に神像の手で掘り抜いた洞であった。故に土は軟らかく水がしみ出し、不衛生なことこの上ない。
「ざまぁねぇな」
 くっくと笑うが、力がない。カンテラの灯りの下、側で見下ろしているソースケとシグナムはの顔は複雑そうに歪んだものになった。
 それに対して、ますますガウルンは自嘲を深めた。
 彼の姿は笑い事ではすまないものになっていた。手遅れと言って良い。いまさら清潔な小屋を探す手間などかける必要はないと感じられた。
「なあ、教えてくれよ。今の俺はどうなってる?」
 ソースケは感情を殺して伝えた。
「左腕が肩口からもげている」
 淡々と説明していく。
「両足も半ばからなくなっている。顔は半分がただれている。右耳は聞こえないだろう? 溶けた皮膚がふさいでしまっているからな。頭皮も剥けて……」
 ああもういいとガウルンは遮った。
「わかった。つまり長くはないってことだな」
 また笑う。
「コダールの反応が良すぎたな……コクピット周りに防御壁を張るのが間に合っちまった」
 その結果、生きながらえてしまったと言うことだった。
「防ぎ切れねぇんなら、いっそ即死だった方がましだったぜ。その方が親切ってもんだろう」
 冷ややかにソースケは反論する。
「ラムダ・ドライバは、搭乗者の意志に反応する理力機構だ。愚痴を言うのはお門違いだ」
「まったくだ!」
 体を揺すって、ガウルンはふたりへと目を向けた。
「逃げるんならいまだぜ?」
 二人は眉間にしわを寄せた。
「なにを言っている」
 お前たちこそとガウルンは言う。
「ソースケが追ってる嬢ちゃんは、アマルガムに居る。お前の裏切りがアマルガムに潜り込むための芝居だってことはわかってんだよ。シグナムもだ。主人を貴族連中から守るつもりで、この汚れ仕事を引き受けたんだろう? だがこうなっちまったら、どこもかしこも俺たちを切り捨てにかかってるはずだ。ソースケはお尋ね者、シグナムは裏切り者。そんなところだろ。帰るところなんざねぇよ。俺たちにはな。期待してんな。神は俺たちをお見捨てになられたんだよ」
 もっともと口にする。
「俺は先にくたばっちまうから、関係ぇねぇけどな!」
 気が触れてしまったとしか思えない哄笑を上げるガウルンを置いて、ふたりは(ほら)の外に出た。
 ──先に地獄で待ってるぜ!
 そんな声を背に受ける。
 シグナムはやりきれないとかぶりを振り、ソースケの背中に向かって尋ねた。
「お前はどうする」
「他の道を探るだけだ」
 ソースケは立ち止まると、樹木の合間に片膝を付いている愛機を見上げた。
「かなめを助ける。ここで挫折して、彼女を見捨てるつもりはない。俺がどうなったとしても、かなめは救われるべきだ」
「かなめか……」
 シグナムにとっては直接会ったことのない少女であった。
 知っていることはといえば、ソースケが一時護衛に付いていた人物であり、現在はアマルガムの手の内にあると言うことぐらいである。
 その少女のことを愛しているのかと口にすれば、怪訝そうな顔をするだろう。ソースケはそんな無骨な人間だとわかっているから、シグナムはそれ以上の言葉を紡がなかった。
 ソースケは振り返って尋ねた。
「お前こそどうするんだ」
 相も変わらず無愛想なへの字口だが、気遣っていることはわかる。
「やはり顔を隠しておくべきだったな。騎士道か。せめて己が殺す者には姿を見せておきたかったという気持ちは理解できないでもないが、罪悪感か」
 そうだなとシグナムは苦笑する。
「くだらない感傷だとはわかっていたんだ。もう矜持にこだわることのできない身分だと言うこともな、わかってはいるつもりだった」
 空を見上げる。
(あるじ)はやてには、迷惑をかけることになってしまったが、それでも最後のこだわりだったんだがな」
「糾弾の手が伸びているかもしれない。はやては……」
 シグナムは、あの不器用な主ではと想像し、暗澹(あんたん)たる気持ちになった。
「一芝居打って消えるさ」
「芝居を?」
 察しが悪いと言うよりも、こういったことに頭の回らないソースケに、わかりやすく説明する。
「主はやてになんの相談もなく、独断で動き、そして迷惑をかけたという話を作らなければならないだろう?」
 そういうことかとソースケはうなずいた。
「なら、手を貸す」
 すまないと、シグナムは感謝した。
 今更、自分だけでと口にするほど、強がってもいられなかった。
「せめて、けじめくらいはつけようと思う」
「そうか」
「ああ……」
 しんみりとする、が、そんな二人をあざけるかのように、ぱん、ぱんと、気のない手の打ち合わせる音が鳴らされた。
「ブラァーボォー……」
「「誰だ!」」
 気の抜ける、馬鹿にした発音に対して、シグナムは剣を、ソースケは銃を抜き、木立へ構える。
 木々の下に闇があった。昼だというのに影が落ちていた。
 それが晴れ、一人の少年が姿を現す。大樹に背を預けていたのは、銀髪で、赤い目をした少年であった。


「シンジには北に向かってもらいますが、その間、姫様にはお隠れ願わねばなりません」
 リョウジは主立った人間を集めて説明した。
 これからのことを話し合おうというのだが、その中心で話を進めているのがリョウジという子供なのだから、妙な構図ではあった。
 横長の木の板を合わせたものに、炭で絵を描いていく。
 それを警邏(けいら)隊の人間や、シンジや、テッサたち工房班などが目で追っている。
 リョウジが描いているものは地図であった。酷く大ざっぱなものである。
 紙などに印刷されているような地図はない。戦略上重要な機密である地形図は、どのようなものであれ個人所有を認められてはいないからだ。
 リョウジはシンジがいつ出発するかには触れずに話を進めていく。
「大勢で移動すれば、当然ばれますが……かといって追っ手をどうにかできないような護衛役では話になりません。あとは目的地が必要です」
 なぜだという声に答える。
「目的地を決めておけば、そこにたどり着いていない場合、なにかがあったのだとわかります。けれど決めていなかった場合、連絡を取ろうとしても取れなかったら? どうすればいいのかってことになってしまいます。無駄に動いて、余計な傷を負う可能性が出てしまいます。面倒ごとを引き起こしてしまうことだって考えられますから」
 シンジが組んでいた手をほどいて、小さく挙げた。
「君は行かないってこと?」
「懲りた」
 リョウジは肩をすくめる仕草をして、大人達へと笑いを振りまいた。
「王都から逃げ出してから、ここにたどり着くまでの間、俺は剣を持っている人間を相手になにもできなかった。だから護衛はそれができる人に任せて、俺はやれることをやろうと思う」
「どうするのさ?」
「王都に戻る」
 ミサトが叫んだ。
「危険よ!」
 大人達も同意見なのか、ざわめくが、リョウジはぶれなかった。
「確かめたいことがあるんだ」
「なにを」
「アスカ姫はここにたどり着いている。それを都ではどう噂されているかをだ」
 噂になっているのであれば、ここには騎士団がやってくるかもしれないと告げる。
「俺たちは衛視に追いかけられた……ってことは、姫様は賊に連れ去られたってことになってるはずだ。その姫様がコウゾウ様の元にいることをなんて言われてるのかは、重要な情報だろう?」
 だがなんらかの不都合があって、その情報が隠されているのであれば?
 やってくるのは不正規兵であって、軍人ではないだろう。
 あるいは役人が来るかも知れないが、それだって、アスカをかくまっていることを前提に話してくるか、それともあくまでなにも知らないと言うことにしてくるのかで話は違って見える。
「出方を見ないと、行動が取れないからな。それはわかるよな」
「ええ」
「アスカ姫の世話役はミサトに頼む。あと、護衛役には……」
 大人達の間で立候補の腕が上がる。その人物の腕と人柄について方々から揶揄が飛ぶ。こうなると時間がかかることになる。
 シンジはそれを隙と見て、またもこっそりと抜け出した。
 星を見上げ、皓々(こうこう)と照る月明かりに目を細める。
 地上の一角に灯りを見て、シンジはそれが工場の出している光だと気がついた。
 夜を徹してくれている。いつ敵対する者たちが動いてくるのかわからないからだ。理力甲冑騎が最大級の武器、力である以上、肝心な時に使えないでは話にならない。
 シンジは工場へ向かうことにして歩き出した。
 気がつくとテッサを探しているなと苦笑する。今のところ、彼女が一番気安く話せる相手だから、かまってもらおうとしてしまうのかなと考える。
 人見知りが過ぎる性格に嫌気がさすものの、足は止められなかった。
 そして夜のとばりの中、彼は積み上げられた丸太の上に座り込んでいるアスカを見つけた。
 両膝を揃えるように内股になって、その膝の上に肘をついて、顎の支えを手のひらで作って、ぼんやりとしていた。
「やあ」
 片手を挙げて話かける、ほがらかに。
「パンツ見えてるよ」
 バッとアスカはスカートを押さえて、言葉にならない意味不明な悲鳴とも非難とも取れる奇声を発した。
「なに考えてるのよ!」
「なにも? 思ったことを口にしただけだよ」
 彼女の足下に当たる位置に立って、見上げる。
「なにしてるの?」
「だから覗くなー!」
「君のパンツを見たって興奮なんかしないってば。そんな趣味はないよ」
 うーっと唸るアスカに、シンジは再度、なにをやってるんだと尋ねた。
「昼間、僕に言ったのは君だろう? 大事な会議をしてるのにって。なのにこんなところに居ていいの?」
 ぶーっとアスカは頬をふくらませた。
「あの人たち、嫌い」
「ん?」
「あたしはお人形じゃないもん」
 シンジはお人形というフレーズに対し、ぴくんと反応した。
 だが、それを気取らせはしなかった。
 名前だけでなくここまで似ているのかと、そっと溜め息をこぼす。
「誰も君の意見なんて必要としてなかったよ」
「うん、わかってる」
「……いや、違うかな。聞く必要なんてないと思ってるって感じだったな。聞くまでもなく、それが正しいって思いこんでる。そんな感じだった」
 まあ、それが臣下としての正しい姿なんだろうけどと、シンジは心中で考えた。
 そのような仕組みの元に作られている世界を否定したところで、なにも始まりはしないから、表には出さない。
 幼さに似合わない自嘲と皮肉を顔に浮かべて、アスカは自分の膝にほほを当てて、横向いた。
「だって、あたしはお姫様だもんね。守られて当然。あの人達は守るのがオシゴトで……でも、お姫様ってなんだろう?」
 お姫様だから……か。シンジは口にする。
「お姫様だから大事なんじゃなくて、アスカだから大事。そう思われたいの?」
 少女の反応から、図星かと感じ取る。
「別にいけないことでも、おかしなことでもないさ。……僕だってそうだ」
 アスカはなにを言うのかとシンジを見る。
「あたしもシンジと同じだと思ってるの?」
「便利な道具だから手放せないのと、僕だから気にして欲しいと思ってる……それは同じじゃないだろう?」
 アスカは、自分で言った言葉が、自分に返ってきたと感じた。
「お人形……」
「僕の場合は道具だよ。それもとびきり便利な道具だよね。機族ともやり合えるような」
 乾いた笑いを吐く。
「まあ、僕の場合はわかりやすいけど、でもアスカの価値ってなんだろう?」
 見上げるシンジに、アスカはわからないと答えた。
「お姫様?」
「それは価値じゃないよ」
 笑ってみせる。
「わからないまま、思い込んでいられたら幸せだったんだろうね。守ってもらえることが当たり前なんだってさ」
 だが彼女は気付いてしまっていた。
「自分はなにもできないのに、なにも返してあげられないのに……なんて、難しい話だよ。まあ、みんなは今の君にはなにも期待なんてしてないから、悩むだけ無駄だと思うよ?」
「今のあたし?」
「みんなは将来の君に期待しているんじゃないのかな」
「将来?」
「未来ってことさ」
 星を見上げる。
「今の君に何かができるわけじゃない。そんなことはみんなわかってる。でも、じゃあなんでみんな、なにもできない君を守ろうとしてるんだろう?」
「それは、あたしが……」
 お姫様、そう続けようとして、なにもできないお姫様だと言うことはみんな知っていると、混乱した。
 答えはシンジが決めつけた。
「アスカだから、だよ。ほかに理由なんてないだろう?」
 アスカは唇をとがらせる。
「意味がわかんないよ」
「信じられるってことさ」
 かみ砕いて説明する。
「ほんとのところ、君は僕とは違う。似ているように感じられても、そこが違うんだよな」
「どこが?」
「未来だよ。君はきっと良いお姫様になる。良い人になる。みんなのことを考えて、みんなのために尽くしてくれる人になるはずだから。だから守らなくちゃならない。君がそうなるように、そうなれるように、なってくれるように、今、失うわけにはいかない。それがみんなの思いだよ」
 勝手だとアスカは言う。
「あたしはみんなのために生かされてるの?」
「それは言い過ぎだよ。親が子供に願うみたいに、きっと良い子に育ってくれるって思うみたいなもんさ。君が大人になった時、どんな顔をしているのか、いつも笑ってくれているような人になっているのか、泣いてばかりいるような子になっているのか、怒ってばかりいるのか」
 僕は笑ってくれている方が良いなと告げる。
「理由はともかく、みんな君の将来のことを考えているんだよ。君の未来のことをね。だから今は君の意見なんて必要としていないのさ。助けたいだけなんだ。助けるためにはどうするべきか、そのことだけを考えてる。……君は幸せだよ」
「そうなの……かな?」
「うん。今は悩むことなんてないよ。黙って守られて、わがままを言っていても良いんじゃないのかな? いつか君が君にしかできない、君でなければならないほどの価値を生み出した時にでも、恩返しをして上げればいいさ」
「でもそのときには、死んじゃってる人がいるかもしれないのに」
 子供らしくない懊悩(おうのう)であったが、これは先の誘拐騒ぎのことが起因していた。
 戦いの場に身を置いたことで、アスカは心痛を知ったのである。
 後を追ってきたシンジに、帰ってくれと、傷つかないでくれと願った。もしあれが他の誰かであったなら、きっとその人物は死んでいた。
 戻ってきたときの皆の反応を見て、シンジ以外の者たちも自分のことを探してくれていたとわかった。もし一番最初に現れたのがシンジでなかったら?
 いつか恩を返すどころか、悲しみやつらさを抱えることになっていただけかもしれなかった。それに……。
(シンジは……大人になったとき、もういないかもしれないのに)
「シンジは?」
「ん?」
「シンジはどうなの?」
「僕?」
 言葉が止まらず、思い詰めたようにこぼれ出て行く。
「シンジは、この国の人間じゃない。あたしの臣下でもない。なのにどうして、気にしてくれるの?」
 アスカにとって、それは大事なことだった。
 だがシンジの答えは、アスカの望むものではなかった。
「臆病だからだよ」
「臆病だから?」
「ああ。見なかったことにして、関わらなかったことにしたって、自分をごまかすことができないんだよ。別れたって、逃げ出したって、どうなってしまったんだろうって、ずっと考えてしまうんだろうなってわかってる。だったらせめて、めでたしめでたしで終わるところまで関わった方が気が楽じゃないか。そうだろう?」
 理由もなく、アスカは嘘だと思った。
「だから助けてくれるの? 自分の為に?」
「……自分のためだよ。だから君には理由なんていらないのさ」
 言い訳のように付け加える。
「本当に優しい人は違うんだろうけどね。守ることにも、助けることにも、救うことにも、理由なんて必要としないで、そうするべきだと思ったら、そうしてしまう。思わずね。見返りも、なにも求めないで、考え無しでさ」
 それはシンジのことではないのかとアスカは思う。
 君はどちらになるのかなとシンジは尋ねた。
「そんな人が治めてくれる世界なら、きっとみんなは安心して、幸せに生きていられるんじゃないのかな? でも、僕のように自分のことしか考えてない人が治めたら、どうなるんだろう」
 シンジは月を見上げ、少しばかり感傷的なことを思い出した。
 ──あたしが、守るもの。
 そう言った彼女の……。
「シンジ?」
 シンジは曖昧な笑みを浮かべて、ごまかした。
「ねぇ……ちょっとだけ、付き合わない?」
「ん? どこいくの?」
「散歩……かな? こんなところで答えのはっきりしない話をしているよりは、いくらかましになれると思うから」
 気晴らしにと、シンジは誘った。

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