地下世界の河川を泳ぐ。
地上の河川を走る水の中のように気泡が立つと言うことはない。
ハッチ越しの視界調節は水の中でも有効で、暗い緑の世界が眼前に暗澹として広がっている。
だがそれよりも。
「幸いですね。この水脈は北へ向かって流れているようですから」
「このまま流れに任せていればいいかな」
シンジはため息をこぼし、シートに身を深く預けた。
わざとらしく首を動かし、肩をほぐす。
「どうした?」
シグナムは緊張しているのかと尋ねた。
「神経を張り詰めているのはわかるが……」
「苦労性なのかな……このままなにもないなんてことないだろうなってさ」
「ああ、それはそうだな」
シグナムは同意して、頷いた。
「時折居るんだ。おかしなぐらいに事件や事故に見舞われる人間って言うのはな」
「なんだよそれ……」
「普通に生きていれば、普通に終わる。それだけだろう? 事件や事故に遭うって言うことは不幸な話だが、それを乗り越える力を持っている人間のところにそれが現れたら? 事件や事故は物語に変わる」
「僕もそうだって言うの?」
「そうできる力は持っているだろう?」
「買いかぶりだよ……っていうのは、情けないか」
「その力があるという話を担保に、アスカ様の従者になったわけだからな」
「手に余る事態に出会わないことを祈るよ」
何故かテッサが沈黙している。
後頭部に位置しているため、シンジにはわからなかったが、アスカがそんなテッサの眉間にしわを寄せている表情を怪訝に眺めていた。
「広い場所に出るよ」
シンジの言葉から数秒後、いきなりなにもない空間に出た。
上も下も見えないほどの巨大な空間であった。ただ水が埋めているだけの世界。
プランクトンがまるで星のようだった。
「まるで宇宙だ……」
空間が広すぎるためか、水の流れも感じられず、理力甲冑騎は漂った。
「方角は」
この地底湖には光源などはなく、たとえあったにせよ、これだけの広さ、深さでは、光など撹拌されて視認できる物ではない。
なのに、シンジとシグナムは、影が頭上より差したと感じた。
「シンジ」
「感じた」
「なんですか?」
「なにかいるぞ」
「どこどこ!」
「わからない。でも僕たちに影を落とそうとしてる……これは」
シンジはレバーをいっぱいに引き上げた。
「アスカか!」
わずかに浮上した機体の真下を魚雷らしき物が通り過ぎていった。
背後で爆発し、光を生む。
──イカリシンジぃ!
背中からの光で、正面向こうに黒い塊のような物体を視認できた。
ごてごてとした武装に彩られている人工の人形。
ぎょっとする。
「どこから入って来たんだ!」
漂い揺らいでいたフルアーマースモールが、くんと身を翻して襲いかかってきた。
「うわ!」
慌ててかわす。
「こっちに気取られないように、息を潜めていたのか!?」
「だからって、先回りされた理由は」
「今は気にするな! それよりもあの装備だ。テッサ!」
小ウィンドウが幾つも開かれる。テッサはそれら、スモールの局部をクローズアップした画像に目を走らせたが、物がわからないとしか言いようが見つからなかった。
「武器らしいことはわかります。でも、どういうものかまでは」
アスカが端的に表現する。
「強獣みたい!」
頭に先の長いかぶり物をつけ、尻尾をくねらせ、まるっこい体を泳がせている。
「エビだろ、あんなの!」
シンジはロブスターを思い浮かべた。
「来るぞ」
シグナムの警告に剣を抜く。
気泡を立てて何かが泳ぎ、やってくる。
「魚雷か!」
シンジは慌てて機体を前に出し、距離を詰めた。
「近接信管でないなら!」
それは先ほどの魚雷でわかっていることだった。
特定の距離を進んだところで起爆するようにセットされている。そう読んだのだ。そしてそれは当たっていた。
サーバインに剣を抜かせる。泳いできた円筒の管を叩き折って、急ぎ離れる。
背後で爆発が起こる。ちらちらとした光に瞬かれながら、そのまま直進して、理力甲冑騎はスモールへと肉薄した。
だがすんでのところ……と言うほどでもなく、簡単に避けられ、距離を開かれてしまった。
爆発によって発生した水流が、サーバインの邪魔をしていた。
「くそ!」
姿勢を正そうとしたところへ、ビーム光線が通過した。
ビームの熱が、さらに水をかき乱す。
「わぁああああ!」
ぐらぐらと機体が揺れる。安定させようにも方法が見つからなかった。
本能的に逃げやすい下方へと沈降してしまう。
「シンジ! なんとかしろ!」
「そんなこと言ったって!」
痛い! シンジは左を見た。アスカが叫ぶものかと、悲鳴を押し殺すために、シンジの腕にしがみついていた。
丸くて揃っている小さな爪が、皮膚に食い込んでいた。出血していた。滲む程度のものだったが。
シンジは表情を引き締め、前を見た。
畜生と愚痴る。
「守るって言ったのに。全然守れてないじゃないか」
すぅ、はぁと呼気を落ち着かせる。
そして一度まぶたを閉じる。
シンジ! シグナムが悲鳴を上げた。
こんな時に目を閉じれば、どれほどの隙を生むことになるのか。それは考えるまでもないことである。
しかしシンジには、隙を見せたとしても、取り返せるだけのものがあった。
その自信もあった。
まぶたを開くと同時に、シンジは力のあらん限りに雄叫びを上げた。
「ATフィールド全開!」
ウォオオとサーバインが四肢を広げて咆吼を放った。
黄金の光が世界を照らし出す。
ATフィールドが荒れ狂う水流を、逆にかき乱して広がった。
球形に展開されることになったそれは、水流を完全に遮断していた。
無理矢理に安定状態を作り出したサーバインは、逆に翻弄されることになっているスモールを捉えた。
水中という不利な環境がもたらす影響から切り離されたサーバインは、ぐるりと身をひねって、回遊するスモールへと突進した。
「ATフィールドを張ったか」
アスカは舌なめずりをする。
「でも、甘いわ」
スモールのテール部分が発光し、そこに不自然な渦を発生させた。
「くそ」
シンジは苛立ちから吐き捨てた。
ATフィールドが作り出す繭の中は、荒れ狂う水流とは無縁の空間となって、安定している。
つまり、コクピットの中は平穏そのものとすることができたのだが、繭の外側、機体自体は、相変わらず水流に翻弄されて、押し流されるままとなっていた。
一ヵ所にとどまることができない。スモールを正面に捉えられない。
「スモールのATフィールドに干渉されているのか」
水流に揉まれる機体の慣性制御が乱されている。
そして……。
「そのための、ビームか!」
アスカはさらにトリガーを引いた。
両腕のヴェスパーから光線が水中を伸びる。
使徒の素体は電力がなければ動かすことができない。だがそのために大電力が必要であり、彼らはこれを蓄電池によってカバーしている。
素体として組み込まれているのが頭部と胴体上部だけであるのは、ここに理由が存在していた。とても一戦闘中、全身に電力を供給していられるだけの小型機関を開発することができなかったのである。
だがフルアーマーパックには、熱核融合炉が組み込まれていた。ヴェスパーはこれから直接エネルギーの供給を受けている。水中だからと言って簡単に減衰するような低レベルなエネルギー量ではなかった。
「だからって、こんなので決着がつくとは思わないけどね」
かつて使徒との戦いで使用されたという超長距離兵装よりも強力なビームを放ちつつ、アスカはこの兵器すらも牽制程度のものとしか用いられないと感じていた。
コンテナからさらに魚雷を発射する。
水中で使用できる兵器には限りがある。数もだが、種類もだ。
そして強力な兵器はどれも水中戦には不向きな物ばかりで、一撃でATフィールドを展開している相手を落とせるほどの威力は見込めなかった。
「それも使い方次第と言うことよ」
アスカの目的は消耗を強いることであった。
「さあ、どうする? 碇シンジ」
彼女は期待を持って、舌なめずりをした。
そんな消極的な長距離戦に、シンジは情けないと嘆きを発した。
「持久戦だなんて! アスカの顔をしていて!」
持久戦? シグナムが疑問を発し、ああと、テッサが感づく。
この地底湖は分厚い岩盤の下にある。そして空気だまりははるか手前だ。この様子では、先にはない。
敵機はそれを確認しているのだろう。
「酸素切れを狙って……」
「それだけじゃない。集中力が落ちればATフィールド……このバリアだって、張り続けることができなくなる」
……と、思ってるんだろうけどねと、シンジは心の中でのみ口にした。
(あのアスカは、僕が理力甲冑騎って使徒もどきとシンクロして、ATフィールドを展開してるんだって思ってるんだろうけど)
発生させているのは自分ではない。
だから無茶な戦闘を仕掛けたところで、ATフィールドに関しては、自身の消耗に関係なく展開は行われ続けるだろう。
結局は『彼女』が存在を保っていられるよう、自分が死ななければ良いだけの話なのだ。
(いや……)
シンジはシグナムとの戦いを思い起こした。
もしまた窮地に立つようなことになった場合、彼女はまたも手を出すかもしれないのだ。
甘いとは思う。だがアスカの顔をしている子を手にかけることができるほど、シンジは太い神経を持っていなかった。
(だからって、ここで下手に撃退したら、あの子は)
足下を見てゾッとする。
この光すらない世界に、永遠に沈む姿を思う。
(なら!)
無茶かも知れないがと、力押しを考える。
四肢に力を込めて前に出ようとしたその時だった。
──ゾッと怖気が走って、シンジはなんだと、足元を見た。
「なに!?」
そしてまた、アスカもその存在に気がついた。
ソナーを打つ。反響を確認する。
具体的なデータが得られる分だけ、恐怖による混乱は彼女の方がより大きかった。
巨大な影がレーダーを埋めていた。
「アンノウン! こんなところにいたなんて!」
それは二百メートルを超える巨体を持つ怪物であった。
ゆっくりと……それは尾を振り、湖底より姿を現した。
二百メートルを超える巨体。それはあきらかにおかしな存在であった。地底にはこのような巨大な生物を養えるだけの食料がないというのに、あまりにもそれは大きく育ちすぎていた。
「主……」
シグナムがハッチ越しにうめく。小さなアスカはシンジの左腕にすがりつき、悲鳴を殺すために彼の腕に小さな歯を立てて、その存在を凝視していた。
目が離せなくなっていた。怖くてぶるぶると震えも走っていた。
声を上げれば、反応される。こちらに意識が向くと、それが恐ろしくて、アスカはシンジにすがりついていた。
薄いハッチ一枚の向こう、深緑の世界で、巨大な影がゆっくりと通り過ぎていく。寒気が走って当然の事態だった。
シンジは使徒かと考えた。かつて海の上で出会った使徒に、大きさも雰囲気もよく似ていた。
だが決定的に違っているのは形であった。
くじらのようで、先細りする魚影。
船と潜水艦、両方の形を組み合わせたかのようでありながら、ひれがある。
さらにその全体は装甲に覆われていた。まるで鱗のように装甲が組み合わさっていた。
テスタロッサが口にする。
「ダナン……」
シグナムがぎょっと振り向いた。
「トゥアハー・デ・ダナンだと!?」
テッサの目には、悲しみが宿っていた。
「来る!」
アスカは操縦桿を目一杯引いた。
急浮上を試みる。
その動きを生き餌と見たのか、ダナンと呼ばれた地下水脈の主は、身をくねらせること一瞬、追い始めた。
シンジたちはダナンの巨体に跳ね飛ばされた。
キャノピーのすぐ前を、ダナンの表皮が時速数十キロの勢いで通り過ぎていく。
(大きすぎる!)
駒のように回転する状態を、正常に戻す。
エヴァですらひとのみにしようとしてくれた使徒。
その使徒と同サイズ、あるいはもっと大きいかもしれないものに、エヴァより小さすぎるもので相対するなど、冗談ごとではなかった。
(あの子は!?)
シンジは彼女のことを、大丈夫なのかと心配してしまった。
「くっ!」
振動に歯がみする。
スモールの張るATフィールドには、水流の影響を遮断するような能力はなかった。
水の抵抗を受けながら、逃げまどう。
テールジェットを最大にして、小さな水の渦を生んで推力とする。
だがそれすらダナンの速度の前には小魚のそれでしかなった。
(冗談じゃない!)
逃げ場などないように罠を張ったというのに、逆に自分が罠の虜になってしまった。
この巨大水棲生物については、以前より存在が確認されていた。
だからこそ会敵場所は慎重に選んだというのに。
「この化け物が!」
泣き言を放つ。
「こんなのに食べられるために、生きてきたわけじゃないんだからぁ!」
両肩のミサイルパックを放棄する。
取り残されたパックをダナンが跳ね飛ばす。タイマーの入っていた、未使用の弾薬が爆発。魚雷がわりにダナンの動きを一瞬ゆるめる。
「そこぉ!」
この隙を利用して、振り向き様に、右腕にマウントされたシールドを突き出した。
先端が割れ、鋏となる。収納されていたミサイルが姿を見せた。
サーバインのハッチに、鋏の中のミサイルが大写しになった。
ハッチいっぱいに危険、DANGER……様々な言語で、とにかく注意を促す警告文字が乱舞する。
シンジは正気かと疑った。全身に冷や汗を掻いて寒気に震えた。
「N2! 死ぬ気!?」
シンジはサーバインを急速潜航させた。
シグナムがわめく。
「どうした!」
「すごい爆弾なんだ! あんなもの使われたら、無事じゃすまない!」
テッサは別のことに驚く。
「速い!?」
サーバインの航行速度が上がっている。
「泳ぎ方は、スモールから盗んだよ!」
説明している暇はなかった。
サーバインの羽根が後方に重なるように織り込まれていた。
その羽根が共振するように震え、水流を生み出している。
「ダナンは!」
シグナムが叫ぶ。小ウィンドウに後方の様子が映し出されるが、巨大すぎて影のような揺らぎがわかるだけである。
しかしシンジはそんなものには目もくれていなかった。
一目散にという言葉通りに、シンジは一切振り向かない。
「これでもくらえ!」
ミサイルを発射する。
ミサイルはダナンの正面にある目のようなスリットに飛び込んだ。
同時に反転、アスカはスモールを加速させ、急速潜航に入った。
いち、に、さん……アスカはどうしてと叫んだ。
「爆発は!?」
ない。
「不発!? そんな!」
泣きそうになる。だがダナンの動きは停止していた。
数秒後。
カッと、水中に太陽が発生した。
「シンジ!」
シグナムの声に反応してしまう。
サーバインの体を反転、背面潜航状態に移行する。
天上が明るくなっていた。水中が昼となって、辺りの景色がはっきりと見える。
天に岩盤、つららのようにごつごつと岩がつり下がっている。
水の中はプランクトンや、藻がたゆたっていた。それらが頭上からの激流に翻弄されて吹き散らされる。
「くぁああああ!」
ATフィールドですら防ぎきれない振動が機体を襲った。
もみくちゃにされ、上下もわからない状態になる。
「きゃああああ!」
誰の悲鳴だっただろうか?
「くっ、そぉ!」
シンジは必死に制御を試みた。
サーバインが腕を振り、足を振って垂直位置を取り戻し、立ち泳いだ。
ハッチにひびが入って、水がちょろちょろと入り込んできている。
だが気にかけている暇はなかった。
「ダナンは!」
テッサは見上げたが、天上は薄い雲にかすんでいて見えなかった。
濃く、とても濃く、もやとなって広がっていく。
「血か、あれは」
シグナムがうめく。
「でも……」
シンジは寒気を堪える。
「生きてるよ……死んでない」
そのもやの中に、黒い巨体がかすかに見える。
なにより、死んだというのなら肉片くらいは沈んできそうなものだが、なにもない。
そうして、やはりダナンは生きていた。血の霞の中から、巨大な魚影が泳ぎ出る。
ゆっくりと、傷ついたために、なるべく身をいたわろうとしている。そんな風にも見えるが、シンジはダナンが怒っている、弱ってなどいないと感じた。
「逃げよう……」
「ああ、同感だ」
シグナムが言った。
彼女もまた、この空間を支配する、張り詰めたものに恐怖を覚えていた。
「向こうに洞窟がある」
「どこかに繋がってるといいね!」
不安なのは、見つけた洞窟が、ダナンすらも通り抜けられる、巨大な穴であったことだった。
洞窟の上下左右にこすれた痕があることからも、ダナンが利用している通路だとわかる。
「ってことは、どこかには通じてるってことだ!」
身を翻すサーバインの動きが目の端にでも止まったのか、ダナンが体をくねらせた。
「来るよ、来るよ、シンジ、来るぅ!」
アスカの悲鳴に、シンジはさらなる加速を要求する。
洞窟に飛び込んだところで、シンジはサーバインを怒鳴りつけた。
「もっとだ! もっと速く! こんなものじゃないだろう! サーバイン!」
ATフィールドを利用した潜水航法だけでは足りないと、シンジはサーバイン自身にも努力を強いた。
サーバインのオーラコンバーターから虹色の光が爆発した。
直後、ドッと加速が開始され、皆は過重に押さえつけられた。
「い、たい……」
「我慢して!」
コンバーターが吐き出すエネルギーの大きさに悲鳴を上げて、がたつき出す。
同時にシンジはめまいを覚えた。
(意識が遠くなる!?)
テッサが弱々しく悲鳴を上げた。
「オーラ力が……吸われていきます、このままじゃ……」
「シンジ、死んじゃうよ……」
アスカの顔色の悪さにぎょっとする。
サーバインが力を発揮するためにオーラ力を求めているのだ。
びしりと振動によって、キャノピーのヒビが広がった。
推力にばかり力を割り振りすぎていて、正面から襲い来る水圧への対処がおざなりになっていた。
だがATフィールドによる対処を行えば速度は落ちて、ダナンに捕まってしまうだろう。
理力甲冑騎は水に潜れるだけで、水の中を進むために作られた形状をしていない。抵抗をまともに受けてしまう形をしている。
(空では飛ぶためのものじゃないし、水の中では泳ぐためのものじゃないし!)
できることは多くても専用のものにはかなわない。
想定外の使い方を望まれているサーバインに責められるいわれはないのだが、シンジとしては他に感情のやり場がなかった。
サーバインは軋みを上げる。もし背中のコンバーターがもぎ取れた場合、このまま沈降し、死を待つことになるかもしれない。
そこまで待たなくとも、ダナンに衝突され、粉々に砕け散るか、その口腔に飲み込まれて、噛みつぶされることになるのだろうか?
結局は、死にたくなければ、逃げるしかないのだ。
背後に追いすがってくるものがいる以上は、止まれない。
迫るものの姿ははっきりと見える。徐々に、徐々に、影が色濃くなり、それは大きな押し迫る壁となる。
(向こうの方が……速い!)
くぱぁと、ダナンの先端部に亀裂が入って、隙間を作る。
それは口だった。
「まるっきり、使徒じゃないか!」
口に見える機関を、テッサが説明する。
「カタパルトデッキです……あの子、この機体を……わたしたちを取り込むつもりなんだわ」
「冗談!」
振動に歯がみしながら毒づく。
妙に鮮やかに蘇る記憶。
顎をくすぐる、全身で腕にすがりついている少女の持つ、亜麻色の髪に触発される光景。
シンジの脳裏で、なにかが弾けた。
《Yes. My Master.》
「うぉおおあああああああ!」
シンジの体から、圧倒的な波動があふれ出す。
コクピットに暴風となって吹き荒れる。
それはシンジを中心に渦を巻いて三人をはじき飛ばした。
「きゃあ!」
「なんだ!?」
獣そのものの雄叫びを上げるシンジに、三人はそれぞれに面を食らった。
「これが……これもお前なのか!?」
男や、雄を超えた、ただただ暴力的な気に当てられ、三人は状況を忘れた。
二度目となるアスカとテッサでさえ言葉を失い見入るのだ。
シグナムもまた飲まれてしまい、シンジにしがみつくことを忘れ、三人は三人とも物理的な力を伴うシンジの気によって、壁際へと押しやられた。
コクピットの中に金色の粒子が舞い始める。
粒子は満ちていき、コクピットを光で満たした。
さらに外部へとあふれ出て、サーバインをも覆い尽くす。
この膜が水からの抵抗も、速度から来る過重からも、すべてを守った。
浸水もとまる。
「これもシンジの力なのか? いや……」
これがシンジと融合しているデバイスの……と、シグナムはゾッとした。
(存在の桁が凄すぎる。今のシンジが使えているのは少量、ごく一部に過ぎないだろう、だが……)
問題はシンジだった。
確かに凄すぎる力ではあるが、それに溺れることもなく、恐怖することもなければ、驕りもしない。
(自然なレベルで同調している。これほどまでに我を忘れているというのに、芯は残して制御している!?)
それはあり得ない話であった。
普通、我を忘れたならば、暴走するのが当たり前だ。
(感情の高ぶりに合わせて力をあふれさせて、それでもまだコントロールを手放していないだと!? これでもまだ自分の力だと錯覚せずにすませているというのか? こいつは!)
同調率が高まれば違和感も異物感もなくなっていく。そうなれば借り物であっても自分の力と錯覚してしまうのが当たり前だ。自分が強くなったように思い始めたとしてもおかしくはない。なのに……。
(どれほどの自制心を持っているんだ、こいつは!)
やがて水脈が細くなり、先にぼんやりとだが灯りが見え始めた。
「出口!」
まるで今のシンジから意識的に逃避するようにアスカが叫んだ。
洞窟の終わりは唐突だった。
飛び出すと、そこは断崖絶壁だった。大きく深い湖の底だとわかったのは、天に月のものらしい明かりが見えたからだ。
「浮上だ!」
「わかってる!」
怒鳴り返し、シンジはサーバインを上昇に転じさせた。この挙動にも、ダナンは身をひねり、よじり、対応する。
湖面を突き破り、サーバインが飛び出した。大量の水を引き連れて、一気に天空へと舞い上がり、羽を広げて下に向く。
燐光が月光と共に七色に広がった。
それを追って、ダナンが水上にジャンプした。
浮上速度をそのまま使ってのジャンプである。水圧からの解放で、尻尾の先だけを水面に残すほど大きく伸び上がった。
足下で、ダナンがくぱぁと口を開いた。その中はぬめり、赤く、どこか淫猥な形状をしていた。
もとのフライトデッキは、飲み下してきたのであろう生物の血肉にまみれていた。
「うわぁああああ!」
シンジは半狂乱でサーバインに剣を抜かせた。足下の視界を埋める光景は、それほどまでに彼から理性を奪い取っていた。
生理的な嫌悪感から、サーバインは大きく剣を振りかぶった。
機体を覆っていた金色の光が、剣へと流れ、黄金の奔流が立ち上る。
金と黒の月を背に、眼光を鋭く光らせたサーバインが、光の剣を両手に構えた。
「落ちろぉおおお!」
振り下ろす。光の筋が一直線に、ダナンの衝角でもあるくちばしを切り裂いた。
──キシャアアアア!
可聴領域を超える声。
機械が軋みを上げただけに過ぎなかったのかもしれないが、誰の耳にも、声と聞こえる物だった。
悲鳴を上げて、ダナンが背中から落ちていく。
落水に、大きな水柱が上がった。
跳ね上がった水が滝となって降り落ちる。
一瞬、ダナンの姿は見えなくなった。
「やったのか?」
シグナムが身を乗り出す。
雨のようなしぶきが落ち着くと、そこにダナンの姿はなかった。
ぜぇ、はぁと、息切れのためになにも言えないシンジに代わって、テッサが答えた。
「いいえ、鼻面を叩いたくらいのものでしょう……。あれはもう、人の倒せるものではありません」
テッサは眉間にしわを寄せていた。
「それにしても、まだ動いていたなんて」
「知ってるのかよ……なんなんだよ、あれ!」
テッサはうめくように語り出した。
「トゥアハー・デ・ダナン……あれはわたしの船でした」
「君のって!」
「初期の頃のオーラエンジンはあまりに巨大で、乗せるためにはあのような大きさの船にするしかなくて」
「そして暴走した……というわけだ」
はいと、彼女はシグナムの暴露に、うなだれる。
「話は人づてに聞いている………その暴走事故がきっかけで、お前は役職を奪われたと」
裏には複雑な話があった。
彼女が任されていた神像とオーラマシンの、正式採用にまつわる生臭い話である。
神像は発掘品から数を揃えるしかなく、それに対し、オーラマシンは増産が利く。
このため、国としては、オーラマシンの正式採用を急いでいたのであるが、彼女を見舞った事件は、この話を根底から覆してしまうものであったのだ。
「この現象の解明のために、お前はコウゾウ様のところで……」
シンジは、ああっ、っと合点がいった。
「そうか……テッサの言っていた、オーラマシンが生き物になってしまうっていうのは……」
荒れていた湖面が落ち着いていく。
月明かりを反射していて、水中の姿は見えないが、この湖がダナンの回遊ルートであることは間違いないようだった。だから、ここには、身を休めるための巣があるのかも知れない。
テッサは不正規戦を行っていた。ダナンは、その基地だったのである。
彼女は淡々と語った。
「アマルガムの罠にはまったわたしたちは、ダナンの中での戦闘を強要されました。ダナンのオーラエンジンは、その戦闘によってわたしたちが発散したオーラ力を……狂気を吸い込んでしまったんです」
「狂気のオーラ力か」
「はい。狂気のオーラ力は船体を構成していた生体細胞を冒しました。そして冒された生体細胞は、癌化して、勝手に増殖をし始めました」
「暴走したというわけか」
「でも増殖するためにはエネルギーが……オーラ力が必要で、オーラエンジンはその要求に悲鳴を上げて応えようとしたんです。気がついたときには手遅れでした。停止させることができず、オーラエンジンは無差別に、無制限に、わたしたち乗組員や、アマルガムの戦闘員からも、オーラ力を求めたんです」
「求めた?」
「人間から、干からびるまで、吸い上げたんです」
本来は空間中から吸い込み、圧縮するのがオーラエンジンであったというのに、それでは間に合わないと、より効率を求めて、オーラ力が凝縮されているものから吸い取りだしたのだ。つまりは人間から。
次々と枯れていく人の姿に、テッサはおびえながら、知っている人の名を泣きわめきながら、逃げ出したのだと口にした。
シンジは先ほどのことを思い出した。
サーバインがオーラ力を求め、自分たちから吸い上げようとしたことをである。
「強獣の細胞は、オーラ力の供給を受けると、生きているときのように動きます。それは理力甲冑騎でわかることです。悪しきオーラ力によって暴走したダナンの体は、勝手に暴れ回ろうとして、そのためのエネルギーを求めました。エンジンはその要求に応えようとして、与えられるだけのものを与えたんです。そして今度は、外側、周辺を襲い始めました。体の中に取り込むべきものがなくなったから、外に求めたんです」
嘆息する。
「餌を捕食するために、生き物に戻ってしまったわけだ。パッチワークが」
「飢餓感と、空腹感。それを満たし、補ってくれるものを求めて動き回って……」
「ダナンは、その存在を……シンジのオーラ力を感じて、ただ追い回していただけだと?」
「かもしれません」
テッサがサーバインについて心配していた疑似生命化現象とは、このことであった。
勝手にオーラ力を求めて、自立的に行動しようとする現象を言うのである。
「でも、まだ自壊していなかったなんて……この辺りにはもう、ダナンを養えるだけの生き物なんていないのに」
「生き物に戻ったというのなら、捕食の以外の方法だって探り出すんじゃないのか? あの通りにな」
見れば、ふたたびダナンが浮上していた。
だが動き回る様子はない。ただ湖面に浮かんで、流れに任せて漂っていた。
月明かりを浴びているのだが、それとは別に、淡い燐光がダナンの背中の辺りで舞っていた。
大気中のオーラ力を呼び集めているのだろう。背びれのようなフィンやアンテナが立って、それらをまとわりつかせていた。
この光景を見ると、シグナムのいうことにも頷けるものがあった。普段はああして大気中のオーラ力を捕食しているのだろう。そこにオーラエンジンを唸らせる活きの良い餌がやってきたために、ダナンは反応してしまったのかもしれない。
重苦しい沈黙が落ちる。
今は、ここを離れよう。疲れたようにシンジは提案した。
「サーバインも限界だ……テッサには悪いけど、今は感傷に浸ってられない」
そうですねと、テッサは諦めからうなだれた。
続く!