「災厄は避けられぬと?」
 しわがれた声であった。
 老人、男のものである。
「人は滅びます」
 対して発せられたのは、艶のある年若い女のものであった。
「彼を目覚めさせるとは、そう言うことではありませんか?」
 やけに古めかしいドレスを身にしていた。年も相応であるようなのだが、肉欲を刺激させられる妖艶さを持ち合わせてもいた。
 老人もそのことを意識しているのか、飲み込みそうになる生唾を堪えていた。
 それは見た目に惑わされず、本質と相対しようと戦っている姿でもあった。
 古城の一室である。壁にある灯火は蝋火であり、室内はほの暗い。
 豪奢な椅子に腰掛け、互いに向かい合っていた。二人とも脇にはワインを置く小台を置いていたが、乗っているものは水の満たされた器であった。
 女性が足を組み替える。暗さの中、生白さがやけに目立つ。
 老人は唸るように尋ねる。
「逃れうるための術もなく?」
 彼女はその問いかけに対してかぶりを振った。
 それは絶望を意味しているものであった。
「高みへと登ることよりも、地に這うことを選んだあなたたちの手が、なぜ天に届くことがありましょうか」
 老人は憤りを吐き出した。
「それは我らの意思ではなく」
「では何故大地に立ち、土を耕すのです? 空を渡るでも、海を泳ぐでもなく」
「魂は……」
「ではこの世の摂理と言い換えたならば? それが進化というものならば」
「理不尽ではないのですか? 自ら決められぬ道など」
「その物言いは卑怯でしょう? 結果を元に先人を責めるなど。先達は何かしらの足がかりもなく、手探りであなたたちのための道を切り開いてきてくだされたのですから」
「しかしながら、その結果が袋小路では」
「では生まれてこなければよかったのです」
「それこそ卑怯なもの言いでしょうに」
「生きると言うことが戦いなのだと、あなたたちこそが知っていることでしょうに」
「抗うことだと?」
 吐息がこぼされた。
「因果、ですか」
 そもそもと彼女は言う。
「使徒、とは、ということです」
「十八番目としての?」
「いいえ。人とはということなのです」
「他の使徒たちと同じく、我々もまたこれまでであるのだから、あきらめと共に、これからのものに継ぐことを考えろと?」
「それがそもそもの『考え違い』だと言っています」
「考えが間違っている?」
「ええ。あなたたちこそが、十八番目の使徒である、というわけではないのですから」
「ですが、使徒にならった生き物ではありましょう?」
「種と種が争い合い、生き残りをかけ、そして繁栄を手にする形……。そのサイクルを理解しているのなら、あなた方が滅びを迎えることも、また止む無しなのではないのですか?」
「それが生物としての……第十八番目の使徒、物理法則。この『宇宙』の摂理だとしても、生物であるが故の本能からは逃れられますまい」
 本能……と女性は無表情に口にする。
「使徒と呼ばれる高位次元エネルギー体。その形は様々な物。かつてはあなた方と同じ姿の者たちが居て、その者たちがわたしという『書』を作りました。そして記録の旅がはじまり、ようやくあなた方のように、ひもとき、読む者たちが現れた」
「…………」
「宇宙、銀河、太陽系……三次元界という名の物質世界。それこそが十八番目の使徒の正体。エネルギー体である姿を転換し、ガス状に飛散し、空間と物体を構築し、拡散、消費、霧散するだけの流れから、有限という枠組みを用いることで、新たな可能性を模索することに成功した……」
「そしてその形を真似た使徒もいれば、共生、共存を選んだ使徒もいた」
「アダム、リリス、その他の可能性たち……だからこそ、いびつにも、この星の記憶を掘り起こし、そこに刻まれていた生物たちの……かつての『王』たちの姿を踏襲し、現出しようとしているのです」
 老人はため息をこぼす。
「宇宙という使徒、銀河という使徒……そしてヒトという名の使徒ですか」
「そう……あなたたちは十八番目の使徒がもつ可能性……今は十八番目の使徒を構成しているだけの部品に過ぎません。使徒そのものではないのですから……」
「滅びの可能性を受け入れよと?」
「放置することも視野に入れてはと言っているのです。この世界は広く、あなたたちが生きて行くには十分なのですから」
「逃げ出せと?」
「あまねくこの星々に満ちることができれば、やがて使徒とは宇宙ではなく、あなた方を指す言葉となるのではありませんか?」
「それこそ、その時までに人が……我々が生き延びている保証がありませんでしょう」
「ええ……先達たちと同じ。今、あなたがいかように選択しようとも、将来においては非難されることになるでしょうね。それこそ、先にあなたがしたように」
「……それでもわたしたちは運が良いのでしょうな……あなたという味方を得ている」
「いいえ。敵か、味方かと口にするのなら、わたしはどちらでもありません。その知を得て、迷うあなた方が決めることです」
「迷い……」
 それを与えるものの一つがこれかと、老人は小台に置いていた本を開いた。
 それは一つの予言書であり、そこには十七の怪物の姿があった。
「十八番目を構成しているものが我々とは……しかし我々もまた、『来訪者』たる始祖より生まれし存在」
 あるいはと彼女は言う。
「十八番目にとって、それは喜ばしいことなのかもしれません。新たなる活力を、その源を取り込めるのですから」
「侵略を試みた使徒が、逆に消化吸収されてしまうとは、皮肉なものですな」
「でも、それがうまくいくことは、あなた方が証明しています。侵略者たる使徒より生まれしあなたたち小さき者が」
「たった二千年ほどの栄華で」
「ええ。唯一の間違いは、知恵と知識を、あなたたちが持つに至ったことでしょう」
「無意味であったと?」
「分子の運動、量子の固まり……運動さえしていれば良いのですから、思考する心など必要でしょうか?」
「しかし、進化が必然であるならば、生存本能もまた過ちではないと思いたい」
「否定はしません。しかし、その本能の暴走が、このような形で現れる。それがわたしには怖いのです」
 今度は彼女が手元に置いていたファイルを手にした。
 それは赤い本であった。
 老人もその本へと目を送る。
「碇ユイ……ですか」
「はい。使徒に対抗するのなら、使徒を用意してしまえばいい。『彼』を目覚めさせるのが危険ならば、『彼女』に産み落としてもらえば良い……。普通は、このような考え方を忌避するものではないのでしょうか? このような考え方、発想は。それも女性ならば。等しく腹を痛める者だからこそ」
「そしてこの第二案……この星の生命体を、使徒と呼ばれるに値する根源的エネルギー体にまで還元する計画」
「無謀だとは感じませんか? 還元に成功したとしても、使徒と呼ばれるだけの形態にまとまることができるかどうか……」
「それこそ、この宇宙に吸収されてしまうだけかも知れない」
「確かに、逆にこの宇宙(そら)そのものとなり得るやも知れませんが」
「無謀きわまりない……と」
「わたしの口から、その結果については……」
 その女は、何かを口にしようとして、そこで口をつぐんだ。
 そして、老人ではなく、『こちら』を見る。
「いかがいたしましたか?」
「……意図的ではないのでしょうが……でも、のぞき見を許すことはできません」
「誰かがいるのですか?」
「迷い子のようです」
 ああ……と、彼女はクスリと笑って見せた。
「あなたですか」
「誰なのです?」
「あなたのまだ知らない者です。わたしは既に出会い、彼にとってわたしはまだ出会いすらしていない……」
「彼……男?」
 その笑みは誰かのものに似ている気がしたが、じゃあと口にされた次の瞬間、彼──シンジは落ちるのを感じて、それどころではなくなってしまった。
 意識の深淵より、意識の表層へと、落下する。
 ドッと、体に負荷がかかった。それは重力によって得た、自分自身の肉の重みであった。
 それと──。
「…………」
 目があった。
 シンジはベッドに寝かされていた。
 青い貫頭衣であった。寝着というよりも、患者衣姿である。当然、下側はすーすーとしていて。
「え?」
 それもそのはずで、かけ布団……の下半身側をめくっている少女が居た。赤い眼をしている女の子だった。
 ばっちりと、目が合った。
 シンジが枯れた声を絞り出す……震えてもいた。
「なにを……」
 平然と少女。
「貴方は寝ていて」
「なんで!?」
「わたしが処理をして上げるから」
「なんの!?」
「シモの」
 大丈夫、と彼女は言う。
「初めてじゃないから」
「ええ!?」
「あなたは三日も眠っていたのよ」
「三日も!?」
「その間、食事は口移しで」
「嘘でしょ!?」
「シモは一日に七回も」
「多いよ!」
「朝は大きくなっていて苦労したわ」
「指で長さとか見せないで!」
「大丈夫、子供には見せてないから」
「他に誰が見たの!?」
「十五才以上の女子」
「結構いるじゃないか!?」
「十分堪能させてもらったから……みんなで」
「なにを!?」
「シモを」
「…………」
「…………」
「いやだからパンツは! 自分でやれるから!」
チッ
「舌打ちされた!?」
「それじゃあ、皆に知らせてくるわ。起きたって……シモが」
「意識が戻ったって伝えてよね!?」
 あ、そうだと、彼女は部屋を出るところで振り返った。
「全部、冗談」
 シンジはがっくりと力尽きた。
「なんなんだよ……」
「巫女姫」
 え? と、顔を上げると、彼女は言葉を繰り返した。
「巫女姫。覚えている?」
 シンジの脳内で、沈められていた記憶が勢いよく爆発した。
 やはりまだ寝ぼけていたのだろう、繋がっていく。
「そうだ! 君は……」
「ファーストチルドレンを信仰する……とされている団体の、巫女役を務めさせられていた人形よ。表向きはね」
「表向きって……」
「あなたの反応を確認したかったの。まだ人間なのか、心配になったから」
「どういうことさ?」
「あなたは、身体能力を付加的に引き上げているわね?」
「…………」
「ならその引き上げられた運動能力を制御するために、全身の神経や、脳の処理能力について、どうしているの?」
「え……?」
「単純に筋力だけを上げたとしても、身体能力の引き上げには繋がらないわ。当然、それを制御するための回路も必要になってくる。そして人の神経は、疲労し、摩耗し、傷つき、傷つけられるほど、太く、強く、強化され、修復されて、再編されていくものでしょう? あなたは、あなたらしくない言動をしたことは、ない?」
 思い当たることが幾つもあった。
 自分らしくない積極性、物言いと。
 何様だと思える態度と。
「……身体能力を引き上げていることが、人格にまで影響を及ぼしているって、そういうんですか?」
「それを確かめたかったのよ」
 では……と彼女はするりと抜け出すように部屋を後にする。
 ドアを開けっ放しにしてだ。
 その戸口に見切れる形で、困り顔のシグナムを見つけた。
「シグナム?」
「あ? ああ」
 呼びかけられたシグナムは、我に戻り、頭が痛いとかぶりを振った。
「どうも……あの方の真意は測りづらい」
「そうなの?」
「あの調子で振り回されてな」
「隠してないのか」
 シンジは、大変だったねと慰めた。
「真意とか……あるのかな?」
「ただの冗談にしてはタチが悪いんじゃないか?」
「確かにね」
 シグナムはシンジの側にまで寄り、彼の頭に手を置いて撫でた。
「人格の話……面白いな、お前自身どう思うんだ?」
「引っ込み思案が出てないな……とは思ってるよ、あと、人見知りも」
「そうか」
「で、ほんとのところは?」
「ん?」
 シンジは彼女の手を払いのけた。
 顔が赤くして尋ねる。
「誰に世話されたのか気になるんだけど……」
「シンジ」
 シグナムはベッド脇にある丸椅子に腰掛けた。
「世の中には知らない方がいいこともあるんだぞ」
「…………」
 わかったよ、と、別のことを質問する。
「じゃあ、ここは? なんだか変な感じがするんだけどさ」
 浮いてるような感じだろうと、シグナムは言った。
「ここは、巫女姫の御座船だ」
「御座船?」
「ああ」
 シグナムは体をシンジの上に乗り上げ、その向こうにある丸窓にかかっていた遮光カーテンを開いた。
 するとそこには山並みがあった。
 山の稜線である。シンジは驚いた。
「ここ、空? 雲の上!?」
 シグナムは身を引いて、また椅子の上に戻った。
「御座船というのはな、巫女姫の移動神殿だよ。空を飛ぶ船なんだ」
 それは両翼と頭上、合計三枚の白い翼のような帆を持った、全長五十メートルを超える船。
 それが北の巫女姫が他国へ渡る際に用いるという、空を飛ぶ移動神殿、御座船であった。

[BACK][TOP][NEXT]