そして訪問者は、用意された茶に手をつけることなく去っていった。
毒を警戒したのだろう。それが失礼だとは思わない。そうすることが常態となっている。そういったところにいる人間であると知っていたからである。
だがその警戒心の現れは、アスカの側の陣営を、敵と見なしているとも受け取れるものであった。
知らずに出るから、癖というのである。
卿にとって、この城は敵地であるという認識であった。一同はそうと捉えることにした。
「希望的観測を持って安堵を得ようとするのは愚者のすることだよ」
……とはコウゾウの弁である。
「いまごろ卿の頭の中では、どんな脳内変換が行われていることやらな……」
場所を城内の大会議場に移し、主立った面々と、それにシンジの知らない、シンジを知らない騎士たちが、中央の大卓を取り囲んでいた。
シンジ、コウゾウ、リョウジにミサト。はやてたちはシンジと交代に偵察と、それから城の防御魔法の強化に出ていてこの場には居ない。
戦争、戦闘には魔法戦がつきものである。そのために魔法による防御壁の構築は当たり前の事前準備であったが、この城には魔法を使える人間が限られていた。
なにより、闇の書の収められている聖域でもある。はやてたちが魔法の勝手な使用を嫌っていた。
これは秘密主義に基づくものではなくて、城自体の自動防御兵器が反応してしまうことを恐れての処置であった。
シンジの背後には、北の国からの代表として、マヤが静かに控えていた。
残りの騎士たちは八名である。これは代表として選ばれた者たちであった。本当は全員が参加を希望したのだが、そこまで広い部屋は城にはなかったし、人数が多くなりすぎても、意見がまとまらなくなるだけであるという判断があった。
彼らは一様に、神官衣でフードを深くかぶり、顔を隠しているマヤのことをいぶかしく思っていた。
神官衣が彼女のことをとても高位な者であると示しているのだ。なのに、シンジのような少年に付き従い、離れようとしなければ前に出ようともしないのである。
とりあえずのこととして、シンジのことはまだ伏せられていた。コウゾウたちにしても、安易に立場を決定してはならないと悩んでいたのだ。
その決定によって、以降の演舞がまったく違ったものになるからである。
リョウジは茶を配っているミサトに尋ねた。彼女は会議のためと言うより、女給としてここにいた。
「姫の言葉がそのまま伝わると思うか?」
「陛下に?」
ミサトは思わないと答えた。
「けなげにも、不安を押し隠して、心配いらないからと仰って……って、そんなところ?」
まあそうだろうなと、リョウジは大卓を見下ろした。
大卓の上にはこの辺り一帯の地図が広げられていた。やけに精巧な地図で、等高線まで引かれている。
そんな用紙に、シンジがこの世界にはあり得ない品ものである、マジックペンで、偵察の結果を書き込んでいる。
キュッキュと、やけに滑りの良いインクであった。
「この辺りに開けた場所があって……」
「大昔の城下町跡だな。何があったのか、今は更地らしいが」
「そうなんだ……」
「今は埋もれてるが、この城に続く道もあるはずだ」
リョウジが地図の上を指でなぞる。
シンジには、この大卓自体が地図を映し出すことのできる指揮台だとわかっていたが、それを使わずに印刷したものを用いているのは、この城のすごさを知られないようにするためだろうと考えていた。
(でもこの紙がなぁ……)
プラスチックではないかと思えるほどに上質な紙である。
(これだけでもお宝だろ)
もちろんマジックペンもである。インクのノリが良すぎた。
「なんでか、間の森には入らないように気をつけてたみたいだけど」
「森ははやてさまの領地だからな……この城の今の城下町と言った方がわかりやすいのかな」
「森が?」
「森には半人が棲んでるんだよ。はやて様は彼らを保護するために、領民として届けているんだ。半人たちには気にくわない話らしいがな」
「へぇ……」
「まあ、そんなことで、彼らが住んでいる森は、領地、町、住居だって話になってる。はやて様は立派だよ。税を納めもしない奴らのために、代わりに国に支払いを行っているんだからな」
これは半分は皮肉であった。
シンジは当然の疑問を持った。
「半人ってなにさ?」
そうだなぁと、リョウジはわかりやすい表現を探す。
「なりそこないとも言われてるがな……人になり損なった人たち。俺たちも何かが進化して人になったわけだろう? 半人は獣のなりそこないだって言われているな」
シンジが想像したのはケモミミ、シッポの萌えキャラであった。
「その人たちがいるから、踏み込まないようにしてるの?」
「領民と諍いを起こしたり、土地を荒らしたってことになるのを避けてるんだろう。それが目的じゃないからな」
「じゃあ、来るときはその人たちを蹴散らすつもりなのかな」
「どうだろうな……はやて様の領民ではあるけど、それはさらに言えば、陛下の臣民だということでもあるからな。……単純に、はやて様たち、ヴォルケンリッターと事を構えるのを恐れているとも取れるけど」
なにしろ、領主であり軍団長でもあるはやてを除いた三人、シグナム、ヴィータ、ザフィーラだけで、万の軍勢と正面から張り合える力があるという。
(人間じゃ無いな、それは……)
と、シンジはその内の二人と互角にやりあったことは棚上げして、冷や汗を掻いた。
にしてもと、リョウジが唸る。
「山向こうに一軍を配備か……」
リョウジはシンジが描いた陣の規模からそう読み取った。
「山二つ向こうに陣を張っているわけか。近いよな」
うんとシンジは頷いた。
「馬ならともかく、理力甲冑騎だとひとまたぎだよね」
「他には?」
「神像が三機」
多いなとリョウジは考え込んだ。
「他にもグライダーがいっぱい。僕が近づくのを見て、上がってきたみたいだった。だから引き上げたんだけどさ」
「正解だろうな、警告を出されたら、従うしかないんだから」
「だよね、逆らったりしたら、怪しいって話になっちゃうし」
しかし……と、リョウジ。
「ちょっとした戦争をするような規模だぞ、これは。ベルフィールド卿の甲冑に、神像が三体だなんて、護衛とかって話じゃないな」
ベルフィールド卿か……と、シンジはこぼす。
自分と比較して、立派な体躯であったなと考える。パイロットの体つきでは無かったと。
(でもまあ、理力甲冑騎乗りになる前は、普通に騎士だったはずだものな)
やれるのか? と、ぎゅっと右手を握り込む。
不安から、思わず言葉を漏らしてしまった。
「壊れかけの理力甲冑騎と、力任せのパイロットの組み合わせで、どれくらいやれると思う?」
リョウジは、自信がないのかとからかった。
「弱気じゃないか。どうしたんだ?」
当たり前だろとシンジは返す。
「力任せの攻撃なんて、当たらなければどうってものじゃないだろう? ベルフィールドって人が動かしてた甲冑、あの動きは普通じゃないよ。もし理力甲冑騎の扱いになれてるんなら、小細工とか、集中砲火とか、今のサーバインを料理する方法なんて、いくらでも思いつくかもしれないんだよ?」
リョウジは目を丸くする。
「そんなに悪いのか? サーバインは」
悪いねとシンジ。
「甲冑に神像、合わせて四騎。振り回されたら終わりだよ」
機族の機体に追いかけ回されていたときならいざ知らず、今のサーバインでは満足に空を駆け回ることはできない。
エヴァに勝てたのは、四号機が愚直な動きを行っていたからである。
なるほどとリョウジは思い悩む。
「卿の機体がお前よりも上の動きをするとは思えないけど……今の状態ならやりようによっては互角以上に持って行けるか」
確かにこれまでの戦いにおいて、勝利を収めた際には、必ず一対一であったのだ。
力任せ、火事場の馬鹿力、乾坤一擲の一撃を、運良く当てて倒してきている。
逆に言えば、複数による同時攻撃の前には、的を絞りきれずに倒されてしまう可能性もあるのだ。
実際、機族の部隊に対しては、なすすべもなく逃げ惑うことしかできなかった。
そして、それだけではないと、シンジはこぼした。
「なんだ?」
「理力甲冑騎の本領は、剣を扱った勝負なんだろ? 剣の扱いで僕が本職の人に勝てるわけが無いじゃないか」
「そうか?」
「神像も、機族も、基本兵装は飛び道具なんだよ。近距離戦を想定してないんだ」
これは当然の事であった。
武装の破壊力が一定の規模を超えた段階で、好きこのんで斬り合いをする必要性などはなくなってしまうのである。
「不利な条件が多すぎるんだ。だからあんまり当てにされると困るんだよな……」
「逃げ腰……ってわけじゃないな、なにが心配なんだ?」
「振り回されてる間に別働隊に動かれたら、フォローしきれないって言ってるんだよ」
これにはコウゾウも同意する。
「確かにな。たった一つの戦力が、戦場を左右した例なんて聞いたことがないからな」
ミサトが計るように尋ねた。
「それが……機族を倒せるような力を持っているものだったとしてもですか?」
同じだよとリョウジは言う。
「どれだけ大きな力になっても……いや、大きな力になればなるほど、小さな穴を取り逃すもんだ」
そうだよねと、シンジも相づちを打つ。
「機械を相手には立ち回れるけど、たくさんの人が一斉に攻めてきたら、その内の何割かはどうやったって取りこぼしちゃうよ」
「城を押さえられたら終わりだ……まあ、そう易々と人の手に落ちるような城なら、苦労はないんだがな」
なにしろ闇の書を奉る聖域である。
シンジは地下に迷い込んだときのことを思い返した。
(対人用の自動兵器はまだ生きてるみたいだしな)
しかしと思うこともある。
(味方が多すぎるんだよな。敵味方の識別なんてつかないだろうし……)
「つまり問題は、アスカ様にどうしてもらうかってことなんだよな……」
シンジの呟きを、リョウジが聞きとがめる。
「姫が、なんだって?」
シンジは、別働隊の可能性を示した。
「あっちはアスカ様を連れて帰るのが目的なんだろ? だったら僕……敵と戦う必要自体がないんじゃないのかな?」
「つまり甲冑とか神像の戦いとは、別のところで決着がつくこともありえるってわけだな……」
「甲冑よりも、兵隊の方が圧倒的に多いんだからさ、さっきも言ったけど、人海戦術で来られたら対処のしようがないよ」
リョウジは探るような目つきで問いかけた。
「それでもやってくれと頼んだら?」
「力任せの一発を、たたき込んで良いの?」
敵味方が入り乱れているところに……と口にされて、リョウジは負けたと肩をすくめた。
「話半分に聞いたとしても、お前の一撃ってのは何十人、何百人って人間を死人に変えてしまうものらしいからな」
アスカ側の最終的な目的は、小さな姫を笑顔で城へと帰すことである。機族への不安を取り払うことはその一つでしかない。
だが今は戻れない。今すぐに城に戻れば、どのような未来が待っているのかわからないからである。
それを、力尽くで、それも多くの犠牲を強いてとなれば、戻ったところでアスカの居所はなくなってしまっていることだろう。
「だから、落としどころを用意して、なるべく遺恨は残さないようにってのが、良いわけなんだが」
さてどうするべきかと、リョウジは地図に目を落とした。
ミサトも地図をのぞき込む。
「来るなら朝でしょうね。ベルフィールド卿は正騎士だもの。部下の手前、夜討ちはしないでしょう」
「やるとしたら、アスカ様奪還作戦だものな」
「城の前まで来て、堂々と口上を述べるんじゃない?」
「今日のように、普通に訪問してくる可能性もあるわけだが……」
「今度は大勢で?」
ミサトはリョウジの側を離れて、他の者にも茶を配って回った。
「はい」
んっと突き出されて、シンジは目を丸くした。
ありがと……と、やや戸惑いながらも受け取ると、ミサトはぷいっとそっぽを向いてしまう。
なんなんだろうと思いながら、シンジは茶を口にする。
(あつっ)
「いっそのこと、本当のことを話してみては?」
リョウジはそう提案した。
騎士の一人が尋ねた。
「誰にだ?」
「ベルフィールド卿が率いている騎士たちにですよ」
リョウジの提案は、ベルフィールド卿から戦力を奪い取れないかと言うものであった。
「アスカ様に同情する手合いが出れば」
コウゾウが顎に手を当てて、思案顔で尋ねる。
「だが話すとしても、どこまでを?」
「アスカ様が機族に狙われていると。それに便乗しようとしている不心得者が居ると。……それが精一杯でしょうけど」
リョウジの目だけでなく、その場の大半の目がシンジへと向けられた。
こちら側の騎士にしても、シンジがどこの誰なのかということに対しては、大いに疑問が持たれているのである。
そもそも、シンジが彼らの前に現れて以降、立て続けている武勲があまりにもすさまじく、話半分に聞いても信じられるものではなかったのである。
その目でなにも見ていない以上、北の巫女たちに気に入られている少年……それが今のところの評価であった。
リョウジはフォローするように慌てて口を開いた。
「巫女姫の後ろ盾も持って来ても、それだってシンジに対するものでしょう? なら、あくまでアスカ様への同情を誘うのが一番かと」
巫女姫の名前を出したのは、彼が北の国のお墨付きを受けている人物だと強調するためであった。
コウゾウが話を進める。
「それで向こうの戦力を奪い取る……か、まあ一つの手ではあるだろうが」
悩むコウゾウに、横合いから、反対……とは言えない程度に、意見が挟み込まれた。ミサトであった。
「ベルフィールド卿は、表向きには正義に熱い方です。その卿の率いる軍勢にしたって……」
そうだなぁとコウゾウ。
「今日のあの様子では……」
アスカがちらつかせた置き手紙についての反応を思い出す。
どうであろうとかまわないという態度であった。
それがあったとしても、なかったとしても……それは彼の興味が別のところにあるからだろう。おそらくは命令を完遂する。そこのところにあるはずだった。
そして団長の性格を見事に反映しているのが第一軍である。
「ならばこそと、余計にアスカ様の身柄を渡せと言い出すかもしれんな」
こくりとミサトは頷く。
実際のところ、そうすることこそが正しかった。
シンジのような身元不明の少年に全てを託している状態こそが異常であるのだから。
「それに……」
ミサトは続ける。
「もしベルフィールド卿に悪意も裏も無かったとしたら? そのように裏切りを囁いたわたしたちのことをどう思うでしょうか?」
それでもと、リョウジは語る。
「取り込めなくても、説得するための機会がもらえたなら、動揺を誘えるかもしれません。時間稼ぎにはなります。今のこの態勢こそが一番だとわからせるためには、ベルフィールド卿に意見具申をしてくれる味方を得る努力をするべきです」
なにしろと思う。
「頼みの綱の理力甲冑騎が使えない状態では、戦にも……いえ、力を示す機会を求めることすらできませんから。やはり時間を作ることを考えませんと」
コウゾウが首のこりをほぐしながら言った。
「確かに、サーバインの整備が終わるまでは引き延ばしたいな」
寝返りかと、その発想を考慮に入れているようであった。
「一番上は無理だろうな。だがその下、あるいはさらに下の者なら、単純な正義感に騙されてくれるかもしれん」
はいと、リョウジ。
「俺たちは戦って勝つことが目的で集まっているわけじゃありません。あくまでアスカ様の身を守るために集まっているんです。その点を強調すれば、あるいは」
機族にからんだ話も、と……。
「いつかは話さねばなりません。その上で、選択も迫らねばなりません。機族に逆らうのか、否か。まずはどの程度の反応が得られるのか、それを見せてもらうのは悪くはないと思います」
ほうっとコウゾウは感心したが、横から否定の意見が出た。ミサトであった。
「甘すぎるわね……」
「そうかな? しかしなミサト。もし正騎士団が寝返ったとなれば、その意味するところは自然と知れ渡ることになる。これは大きい。少なくとも分裂を招くことができれば」
「そうじゃなくて、拒絶反応の事よ」
「拒絶反応?」
「機族に逆らうなんて事、普通の人間なら、考えることさえしないわ。そうでしょう?」
「まあ、おとぎ話で、幼い頃からその恐ろしさを叩き込まれてきてるからな……」
「それに、ベルフィールド卿よ。あの方は忠義の人だわ。軍命を裏切るような真似は絶対にしないし、させないわ」
なにがそこまでさせているのか?
疑問に思う者が多いほど、ベルフィールド卿は実直な男であった。
一方で、ああも不敵であるというのにだ。
コウゾウが漏らす。
「融通がきかんのは承知しているが」
ふぅむと考える。
「ならせめて、その下の人間に渡りをつけてみるか? ベルフィールド卿には知られぬようにして」
ですがと騎士の一人が口を挟む。
「言いたくはありませんが、わたしたちは人材に欠けています。相手方の陣営が報告通りのものだとすると、潜り込むにもそれなりの手練れでなければ」
ふむとコウゾウは一同を見渡し、シンジへと視線を止めた。
ぎくりと固まり、シンジは嫌な予感に脂汗をかく。そしてその予感は正解だった。
「やってくれるか?」
「僕が?」
仰天する。
そしてコウゾウはにやりと笑う。
「君ほど適任な人間はおるまい?」
ミサトはじっとシンジを見た。
「行く?」
「え?」
「はっきり言って、あんたは部外者も同然よ。アスカ様のために手を汚す覚悟もないような人間に……なんて、今更そんなことは言わないけど」
このミサトの言葉に対して、周囲の者たちは口を差し挟もうとはしなかった。シンジのことを、いまさら部外者もないだろうと思う反面、確かにと思う部分もあるのだろう。表だってシンジをかばおうとする動きはなかった。
ミサトはコウゾウへと顔を向けた。
「行くのなら、わたしが行きます」
「お前が?」
「ベルフィールド卿とは、お父様を通してですが、面識があります。もし見つかったとしても、その場で殺されるようなことはないでしょう」
それはそうかもしれないがと、コウゾウは唸った。
「取り押さえられたら同じだろう」
「ですが」
シンジを見る。
「内輪ですら、全面的な信用を得ていない人間を使者に立てたところで、信用してもらえるでしょうか? 顔を知っている人間と、知らない人間とでは、好感度に差が出ます」
「それはそうだがな……」
コウゾウは迷ったようであったが、いいや、だめだと結論を出した。
「使者は立てる。ただし、正面からかはもう一度考える。潜り込む人間を用意するにしても、失敗する確率の高い……むしろ失敗を前提とした作戦になる。一人で逃げ帰れるような者をこれには当てたい」
これ以上は、女給の出る幕ではないという雰囲気に、ミサトは大人しく引き下がった。
軍議の休憩、与太話であったからこそ、ミサトが口を挟むことができたのだ。
そこから生まれた意見は貴重であったが、それでも実務的で実行的な会話となると、そこにはミサトが口を挟む余地はなかった。
軍議が本格化すると、そこに年少組の居所は無くなってしまった。
いくら賢しかろうとも、実地を知らない人間の意見は、どこから想像上の計算のみで語られるものとなり、内容が軽くなってしまうからである。
根拠に裏付けのない言葉など、取り上げられることは無い。
特に顕著なのはシンジであった。この世界についての予備知識が圧倒的に不足していたのである。
細かな点を指摘されれば、補強案など出せないし、余計なことを口走って、妙な役回りを押しつけられることも面白くなかった。
そんなわけで、シンジは会議室を出た。もちろん、これまで一言も口を開かずに控えていたマヤもだ。
めざとく見つけて追いかけてきたのはリョウジであった。彼が隣に並んだのは、シンジを気遣ったためである。
ただ、やはり気になるのだろう。リョウジはマヤのことをちらりと見たが、彼女が一歩引いたところに位置し、近づいてくるつもりがないのを感じ取ると、あのベルフィールド卿って人はと口にした。
「融通が利かない人なんだ」
リョウジは見たままの人だとして話す。
「ミサトが言っていたことの他にもな、卿には一部の貴族に逆らえない理由があるらしいんだ」
ろくでもない理由なんだろうなとシンジは想像した。
「有名なの?」
ああとリョウジは肯定する。
「卿には足の悪い妹御がおられるんだよ。もう何年も人前には出てこられていないんだが」
「そんなに悪いの?」
「どうなんだろうな……足というのも微妙なところだし」
死ぬような持病ではない。だが人前に出かけられるような軽さでもない。
車のような便利なものがある時代ではない。馬車で移動するにしても、舗装された道があるわけでもない。
足と言っても、直接足が悪い場合もあれば、内臓の問題から、長く歩く、立つことができない場合もある。
後者の場合、馬車のような震動の激しい乗り物は厳禁となっているだろう。
「卿は若い頃、そりゃ有名な"やんちゃ"坊主だったらしくてな。卿を恨んだ連中が、妹御を狙った。そういうわけだよ」
「それで?」
「妹御を治療するためには、貴族のつてを頼るしかなかった。その頃の恩義もあって、多少の無茶や、わけありの仕事を断れないらしい」
「なるほどね」
「陛下たちだって、城を出ていらっしゃる姫が見つかったのだから、連れ戻すべきだと訴えられれば、卿のような人に命令するしか無くなるだろうしな」
「それが撤回されるようなことはあり得ないか」
「だな」
「でも、だとしたら、ベルフィールドって人はこっちの味方なのかな? 陛下……アスカ様のお父さんが、そういう事情の中で選んだ人なら……」
甘い考えだとリョウジは指摘する。
「推薦された可能性だってあるさ。あげくそれがベルフィールド卿のような人なら、陛下だって文句は付けられないだろうよ」
「表面、か」
ベルフィールド卿が、裏では誰かの手先、走狗だという可能性は存在する。
でもなぁとシンジは思った。
「軍団を率いてってのは、やり過ぎなんじゃないの?」
どういう事情であれ、不自然だという。
いいやとリョウジ。
「卿はそういう人なんだよ。姫を連れ戻すとなると、護衛はいる。くらいのことは言うだろうさ」
「じゃあ、この行動についても、不審だって根拠にはならないのか……」
うんざりすると、シンジは吐き捨てた。
「で、軍を率いてきて正解だった……そういう話があるのかな? これからさ……」
「どうだかな。卿がどっち側の人間なのかは、まだわからないわけだからな……」
リョウジはシンジの態度に不安を感じて、思い切って探りを入れることにした。
「そんなに戦いたくないのか? お前は」
当たり前だろうとシンジは言う。
「やりたくないに決まってるよ。人を殺すなんて気持ち悪いこと……」
んっと、リョウジは引っかかりを覚えた。
「殺したことはあるわけだな?」
あるよと認める。
「だから、嫌なんだ」
そのときになにがあったのかはわからないが、なにか精神的に抱えるような出来事のなかでのことだったのだなと、リョウジは感じ取った。
酷い初陣を迎えた者の中には、生理的な嫌悪感を植え付けられ、乗り越えることができずに戦場から出戻ってきてしまう者もいる。
リョウジはそういった人たちを見てきているから、矯正しようとしたところでどうにかなるものではないと知っていた。だから責めはしなかった。
「だが、戦ってもらうしかない」
ただ、そのように願うだけである。
そして「うん」とシンジは了承する。
「戦わないとは言わないよ。約束したからね、アスカ様に。あの子に」
「そうか」
「あの子のために、やるよ。でも、あの子のために戦うのと、あの子のために人を殺すのは、違うことだよ。そうは思わない?」
そうだなと、リョウジも認める。
「アスカ様のために戦って、地ならしをして……そういうのは、アスカ様を祭り上げようとしている、俺たちの役割なんだろうさ」
「向こうはどう出てくると思う?」
疑問があるとリョウジは言う。
「向こうが、お前のことをどれくらい知っているかということさ。まさかエヴァンゲリオンを倒したなんて話を耳にしているとは思えないけど、神像や機族の機械のことなら知っていてもおかしくはないだろう?」
これについては目撃者が多かった。
「そうだね……」
「だがな、もし聞いていたとしても、それを信じているかどうかは別問題だ」
「眉唾物だもんな……リョウジは信じてくれてるよね?」
笑うなよと、リョウジもつられて笑みを浮かべる。
「でもな、エヴァンゲリオンの存在自体が信じられないことなんだ。俺たちは、お前が機族を追い返したってところも、直に見たわけじゃないんだからな」
「見たのは工房の人たちくらいか……」
「あとは遠目に、街の人たちが見たらしいけど」
「空中戦とかやらかしたもんな……」
「ああ。大勢の人が見てる。だから、信憑性があるんだよ。だけどな、エヴァンゲリオンのことになると、これは別だよ。テスタロッサさんや、シグナムさんの証言があるから、信用しようって気になったけど、人数が少なすぎる。俺やコウゾウ様くらい、お前に入れ込んでなければ、嘘だろうって思うのが普通だよ」
確かになとシンジは認めた。
「嘘をつくにしたって"おおぼら"過ぎるよね……。でも無視をするには見たって人の多い話でもある……微妙なラインだな」
「ああ。結局のところ、適当な甲冑乗りが現れたと見られてる。それくらいじゃないのかな?」
難しいなとシンジは言う。
「僕のこと、どの辺りのことまで、耳にしてると思う?」
「確実にっていうのなら、コウゾウ様の城が崩れたときの戦闘くらいだろうな。あれは城下町からも見えたらしいから」
「恐れるには足りない……そう思われてるかな?」
「いや、甲冑に乗れるだけで尋常じゃ無いんだ。警戒くらいはされてるだろう」
やはり、情報が少なすぎるという結論になる。
出方を決められずに、受け身の姿勢を取るしかない。しかしそれは面白いことではなかった。
「いつ攻められるかわからないってのは、怖いよね」
「時間稼ぎは必要なんだよな。やっぱり」
「使者か……僕なら殺されそうになっても、なんとか逃げ帰ってくるだろうって思われてるんなら、まだ良いんだけどさ」
「なんだよ?」
「部外者だから死んでも良いなんて思われてたら、嫌だなってさ」
それはないさとリョウジはシンジの背中を叩いた。
「今のお前は、俺たちの生命線なんだぜ? お前とサーバインがいてくれるから、なんとかなるかもって思えてるんだ」
逆に言えば、代わりが現れたなら、対処ができるようになったなら、必要なくなると言うことだろうが、シンジはひねくれたことは言わなかった。
「けどさ、だったらまずくない? 僕がいなくなるのは」
かわりに、もし自分が交渉に出た場合のことを尋ねる。
リョウジはもちろん考えていると答えた。
「サーバインごと、真っ正面から乗り込んでやればいいさ」
「無茶苦茶だね」
「だけど効果的だ。向こうには体面というものがあるんだ。使者としてやってきた奴を、それも騎士を、その場で手打ちになんて」
甘いわねと後ろから声がした。
先ほどから、追いつきながらも黙っていた人物である。ミサトだ。
なにも口にしないことから、あえてシンジとリョウジは無視していたのだが、割って入られたことで、むしろほっとしてしまうことになった。
どういうつもりかと、緊張しながら様子をうかがっていたからである。
リョウジはミサトの考えを尋ねた。
「卿が、使者を斬り捨てるっていうのか?」
その可能性もあるとミサトは口にした。
「他国の者のくせに、勝手にこの国の理力甲冑騎を自分の物にして乗り回してる。これは斬り捨てるには十分な理由でしょ?」
「それは……そうか」
「だから、あたしはそいつをやりたくないのよ。卿のような実直な人は、正論を盾に迫ってくるでしょうからね。そうなると、そいつの存在は、むしろ害悪になるわ。最大の力でしょうけど、最大の隙でもあるもの」
まだシンジのことを否定している。そうとも取れる発言であったが、口調は落ち着いていて、事実を述べているに過ぎないものであった。
だからリョウジもシンジも、やはり変わっていると、認識を持った。
そんな二人に対し、ミサトは苦笑する。
「正直ね、そいつをあんたたちほど信用する気にはなれないけどさ、利用しなきゃ、アスカ様を救うことはできない。それくらいはわかったつもりよ」
一人でわめき立てていても仕方が無い。あきらめたというミサトに、本人の前で言うことかなぁと、シンジは困る。
ミサトは話す。
「いっそのこと、アスカ様には、巫女姫様のご招待という形で、御座船に乗っていただくのがベストなじゃない?」
この城はこの国の持ち物だが、御座船となるとそうはいかない。
「身の安全はそれで守れるか?」
でもそれだととシンジが問う目を向けると、マヤが、お許しになられるでしょうと口を開いた。
「シンジ様が守るとお決めになられているのであれば、わたくしどもはその意に倣うだけのことです」
リョウジが尋ねる。
「巫女姫はどうなんです?」
「シンジ様のお言葉があれば」
だから……とシンジは重い吐息を付く。
「僕が勝手にやってることに、君たちが付き合う必要はないって言ってるじゃないか」
「巻き込むことを考えられておいて、なにを仰られるのですか」
「それはそうだけどさ、限度ってものがあるだろう?」
「それは?」
シンジはこの場では口にできなかった。
借りが増えれば増えるほど、返すためには彼女たちの理想の姿を演じるために、サードチルドレンだと名乗りを上げる他には道が無くなっていく。
そういう懸念であったからだ。
まるでその考えを読んだように、マヤは告げる。
「シンジ様は、ご自身の道を行かれるが良いのです。リリス様がシンジ様と共におわせられる意味。そこにはシンジ様の向かわれる先に、リリス様の思われる未来があるということなのです。ならばそれをお手伝いすることに、なんの間違いがありましょうか」
「そのために、死ぬことになったとしても?」
「いしずえとなれるのであれば。そのようにお使いください」
頭を深々と下げるマヤに、シンジは苦々しい顔をした。
「僕に頭を下げたって、意味なんかないのに」
「シンジ様の御身を疑い、その命をあやめようとした罪、忘れ得るものではありません。その償いの意味もあるとお受けください」
またその話かと、うんざりとするシンジにマヤは重ねて口を開く。
「シンジ様の元より、リリス様がお離れになられる時までは……」
それは最大限の譲歩であったのかも知れない。
いつになるかわからない。いつまでもかもしれない。それでもその時まではという、不確かな期限の切り方であった。
シンジは避けるように背を向けた。
「アスカ様のことは頼みます。けど、それは僕から巫女姫にお願いしてみます」
それからと付け加える。
「戦うとか言い出さないでくださいよね。お願いですから」
リョウジが何か言いかけるが、驚いたことに、その腕をつかんでやめさせたのはミサトであった。
「ミサト?」
怪訝そうにするが、ミサトは、シンジたちのやり取りに聞き耳を立て続け、リョウジの相手はしなかった。
彼女にも、なにか思うところがあったのである。