シンジは気付いていなかった。
巫女姫には自分からお願いする。
その物言い自体が、許されるものでは無いのだと。
そしてそれが許されていること自体、シンジが特別に扱われ、シンジ自身、特別な振る舞いを当然であると思っている、証明であるのだと。
彼はまだ気付いては居なかった。
(苦手なんだよな、巫女姫ってさ)
シンジは時間を作ってもらったものの、公式の場での会見の形を求めたることにした。
二人きりで会談し、丸め込まれてしまうことを恐れたのだ。
「小さな姫様の身は預かりましょう」
「助かります」
公式の場と言っても、船の中にある部屋だ。そう大きくは無く、巫女姫に、はやてとコウゾウ、そしてシンジと、たった四人での会談となった。
巫女姫が腰掛け、その前にシンジを先頭に、右後ろにはやて、左後ろにコウゾウが立っている。
シンジを除いたふたりは、酷く緊張していた。
「ですが、それのみです」
「それのみとは?」
「姫の身柄を求め、船を冒すというのであれば、それはそれで、受け入れましょう」
「受けとめる……の間違いでしょう?」
巫女姫はクスリと笑った。
「そうですね」
諦観を示す。
「争いごとは向きませんから」
「そこまでは期待してませんよ。勝手に遠慮してくれると思います、向こうが」
それから、幾つかの取り決めをした後、あとはコウゾウとはやてに任せ、シンジは一人、巫女姫に背を向け、御座船を降りた。
シンジは通路の天井を眺め歩いた。
長く、長く、音が反響すること無く吸い込まれていく。
「解放されてる通路と、隠されてる通路があるってわけだ」
横道への隔壁が落とされている。その表面を手でなぞり、通り過ぎる。
隠されている通路に無断で立ち入ると、はやてたち守護騎士システムが反応、あるいは作動するのだろう。
「あの倉庫にあった非常口みたいなこともあるから、これだけ人がいると、そういうこともあるだろうな……」
もし意図的にそのような真似をする者が居れば、明らかに敵と言うことになるだろうが……。
(ああ、でも、スパイでなくても、この城の秘密を知りたい連中が、便乗しようと集まってきてるってこともあるんだろうな)
だがこうも簡単に受け入れていると言うことは、それに対する備えも行われているのだろうと想像できた。
(見た目よりも怖い城だってわけだ……でも)
それはそれで良いのかとシンジは考えた。
(あの子の味方かどうか、より分けることができるもんな)
シンジは外の景色が見たいと思い、城の中層階にあるテラスに出た。
人が歓談に使うための、誰のものでもない部屋から続くテラスであった。
部屋を出る前には、もう青い空と、白い雲と、緑の稜線が目に入っていた。
周囲にあるのは、山と言っても、こぶのような森の盛り上がる丘に過ぎない。
それらは波のようでもあり、段を打っていた。
そんなシンジの隣には、いつの間にか小さな歩幅の、忙しのない足音が並んでいた。
アスカであった。
「良い風……」
アスカは室内との境界線を越えたところで足を止め、風に泳いだ髪を撫でるように押さえつけた。
シンジはそんなアスカに合わせて立ち止まった。
「これから怖いことになるなんて思えないよな」
アスカは、ぷくっと頬を膨らませる。
「もう……どうしてそういうこというの?」
「不安だからさ」
「不安?」
「だって、ここにいる人たちじゃ、君を守ることなんてできないからね」
いろいろと見て回った末に、シンジはそう結論を出していた。
シンジは言った。サーバインでは大勢を殺すことになってしまうと。だがそれは逆でもあるのだ。
「僕たちは君の将来のことも考えなくちゃならないだろう? だから下手に戦いに持って行くことはできないけど、相手は逆だ。君さえ無事なら、後は全部焼き払えるんだ」
姫をかどわかす者たちとは、つまり、姫のためには排除すべき存在だからだ。
「頼りにならないって事だね」
「そうだね……君が奪われたら、後は悲惨なことになるのかもしれないね……」
シンジは、笑い、はしゃぎながら、英気を養っている者たちを眼下に眺めた。
しかし彼らが手にしているもの、腰に下げているもの、背中に担いでいるものは、原始的な武器ばかりである。
「頼りにできるようには、なってもらわなきゃならないけどさ……、その時がいつになるのか……」
難しいなとシンジは言う。
そこで、アスカの機嫌の良さそうな顔に気がついた。
「なに笑ってんだよ?」
「だって、ずっとかかるってことは、ずっと居てくれるってことでしょ?」
にんまりと期待する目に、シンジは彼女の額を指でぴんと弾いた。
「まあ、そうなるんだけどね……」
額に「痛いよ」と両手をやる彼女の頭を、仏頂面でぐりぐりと撫でる。
シンジは、この国で暮らしていくことになるのかなぁと、愚痴をこぼした。
「やっぱり……逃げた方が良いのかな?」
「あたしを連れて?」
「一人で逃げるなんて言わないよ」
「じゃあ、あたしを守れるような人がいたら?」
「一人で逃げて良い?」
「うー……」
「まあ、そんな人がいるんなら、僕なんて最初から頼りになんて……ああ、そもそも、リョウジとミサトだけで、君を連れて逃げ出す羽目になんてなってないよな」
そしてテラスの外側に出る。手すりに手を置き、アスカはと言えばその手すりをひょいと飛び越える勢いで跳ねて、腰掛けた。
内向きに乗ってぶらぶらと足を揺する。背中側にバランスを崩せば落下することになる。大怪我ではすまないが、シンジが助けてくれるとでも思っているのかもしれない。
安心しきったものだった。
「でも実際にはいないんだよな」
「そうだね」
「酷いな……リョウジはどうなんだよ?」
「好きだけど……でも、そういうのとは違うでしょ?」
シンジを知った後じゃねと、アスカは酷いことを言った。
好きだと言うことと、あてになると言うこととは、別なのだ。
「ほんとに……」
シンジは手すりに上半身を乗せて頬杖をついた。
「言うようになったよね」
「でしょ?」
にこっと微笑み、アスカはシンジの頭に手を置いた。
「たくさん経験させてもらったからね」
優しく撫でる。
「情操教育には悪いことばっかりだったよな……」
そんなアスカの手つきを、気持ちが良いなと、シンジは彼女のしたいよう、させるにまかせた。
「正直、北の国って言うのも、当てにはならないんだよな」
「そうなの?」
「僕だから、僕がやろうとしていることだから、だから力を貸したいってんだろ? だけど君に必要なのは、これから先もずっと力になってくれる人たちじゃないか。今だけじゃ意味なんか無いよ。僕を通してじゃなくて、僕が思ってるからじゃなくて、直接君のことを思う人たちを見つけていかなくちゃならないんだよな」
アスカは、ふぅっとため息をこぼした。
「いるのかな? そんな人……」
あのねと、ジト目で見上げるシンジである。
「いないなんて、寂しすぎるじゃないか」
「じゃあ、もしそんな人がいたとしたら?」
どうなんだろうとシンジ。
「君と結婚して、王様になったりするのかな?」
アスカはシンジの頭から手を離し、だったら、その人は、そうじゃないと言った。
「お父様のことを考えたらわかるもん。シンジも言ってたじゃない。王様はみんなを守るの、あたしだけじゃないって」
ああと理解する。
「そっか、王様になっちゃったら、もう一番に君を守ったりとか、できないんだもんな……君のことを思うなら、愛してても、好きになっちゃいけないんだ」
アスカは小首をかしげた。
「……どう違うの?」
「アイシテルは見返りを求めないで、ただ幸せを願うこと」
「シンジみたいに?」
「……スキっていうのは、気に入るって事。理想を重ねてさ」
「あたしみたいに?」
君の理想ってどんなだよ、と、シンジは尋ねるが、アスカはちょっと考えた後で、わからないと答えた。
具体的な想像図があったわけでは無いらしい。
「でも、だったら、シンジは王様の方が向いてるね」
「そっかな?」
「うん……みんなを守る人だから」
そうだろうかとシンジは思う。
見たこともない人のことまで考える人間じゃ無いよなぁと、自己分析してしまったからだ。
だから、王様は嫌だなぁと、シンジは言う。
「だって、四六時中考えてなきゃいけないなんて辛いよ。僕には無理だな」
「そう?」
「それに、好きな人を後回しにするって言うのも、ちょっとね」
ぴくんとアスカの耳が動く。
「好きな人?」
うん。とシンジ。
「家族、恋人、友達とかさ……身内を一番後回しにするのは、どんな職業でも同じだろ?」
それは期待していた返答では無かったが、気にはなったらしい。
「シンジって、家族とか、友達が欲しいの?」
「そうだね」
「どんな恋人が欲しいの?」
「絶対に見放さなくて、甘やかしてばかりくれて、捨てないで居てくれる人かな?」
「すっごいわがままだね、それ」
「そうだね」
「そっか、それじゃあ、王様は無理だよね……」
「敵だらけだもんな」
「お父様、みんなのために、一生懸命働いてるけど」
「それでも、敵が居て、アスカみたいに子供が狙われて」
ほんとに、大変な職業だという。
アスカは二度目だからか聞きとがめた。
「王様って、職業なの?」
ん? とシンジは首をかしげた。
「だってさ、国の……みんなのために働くのが、王様なんでしょ?」
「そっか……そうだね」
「その上、王様の場合って、お休みがないんだろ?」
なるほど、そうかと、アスカは理解したようだった。
「一度王様になると、もう王様のままで居続けないといけないんだ」
死ぬまで、個人に戻ること無く。
「そうなんだろうね」
それは耐えられないなと言うシンジの表情を探るように、アスカは彼のことを見上げた。
「王様になるの、嫌?」
シンジは即答した。
「ならないよ」
じゃあと尋ねる。
「英雄とか、勇者には?」
今更だよというシンジ。
「ならない。いや、なれない、かな? もしかするとなれたのかもしれないけどさ、とっくになりそこなった人間だからね、僕は」
「それは、昔のこと? 四百年前の世界で、神さまの使いと戦っていた頃の」
「そうだね、君たちが生まれるずっと前の話だよ。僕は神さまにも英雄にもなれなかった。誰も守れなかった……ただの……子供だった」
ふぅんと言って、アスカはぷらぷらと足を揺らした。
その口元はゆるんでいて、ツインテールもひょこひょことうれしげに揺れている。
なんだろうとシンジは思ったが、結局わからないので諦めた。
アスカが喜んでいるのには理由があった。
それは会話の中に紛れ込ませた話題にあったのだ。
うれしかったのは、シンジが神世の頃の人間であると、自分に対しては素直に認めてくれたからである。
その上、その頃の話までしてくれている。
他の人間に対しては、かたくなにサードチルドレンであったという話からは逃げ、その話題には触れたがらないというのにだ。
日常の会話のように、当たり前に返してくれた。そのことがアスカにはうれしかったのである。
特別の証明であったから。
子供に対する油断であるのか? そうではないと見抜ける程度には、アスカも洞察力を手に入れていた。
アスカはくるりと向きを変えて、外側へと前を向けた。
「シンジは……」
サァッと風がながれ、アスカの髪が浮いて流れた。
「誰にも味方しちゃいけない人間だと思う」
左手で髪を押さえつけ、シンジを見ずに話す。
「巫女姫様を見てて思ったの。シンジって、凄すぎるから、シンジならって、シンジにって、思っちゃう」
つたなすぎて意味がわかりづらいが、シンジには理解できる物言いだった。
「いけないのかな……そう思われることってさ」
自嘲するアスカである。
「だって、勘違いしちゃうもん。いつまでもずっとあたしを守ってくれるわけじゃないのに、ずっと側に居て欲しいって思っちゃうよ……凄くて、かっこいいから……」
シンジは胸にうずきを感じて、ぎゅっと、アスカに見られぬようまぶたを閉じた。
あたしを見てと叫んでいた女の子が居た。
自分だけを見て、自分だけをかまって、自分だけを愛してくれと泣きわめいていた少女がいた。
その子とそっくりな……そしてあの頃のあの子よりも幼い子の口から、もっと悟ったような言葉が発せられたのだ。
同じように、あたしを見てと。
あたしにかまってと、あたしを守ってと言いたいのに、ずっと守ってくれるわけではないとわかっていると、あきらめからの言葉が出たのだ。
(不憫っていうんだよな、こういうのをさ)
良かったのは、それに応えられるほどには、シンジも成長していたと言うことだった。
「ふえ?」
後ろから脇に手を入れられ、持ち上げられて、アスカはちょっとうろたえた。
シンジはアスカを持ち上げて、抱えるように胸にすると、ちょっと赤くなっている彼女の頬に頬を合わせた。
「シンジ?」
抱きしめる。
「アスカだけの王子様になるには、僕はちょっとおじさん過ぎるね……」
耳元で囁いてから隙間を大きくし、シンジは稜線を眺めやった。
その先にある世界を思う。
アスカもシンジの視線の先を追いかけた。
ただただ広い世界が広がっている。
「でも……」
シンジの言葉がアスカの耳をくすぐった。
「でもいま、君のためのシンジでいることに、意味がないなんて思わないから……だから、アスカの騎士にはなりたいと思うよ。君だけの騎士にね」
こてんと、アスカはシンジの頬に額を当てた。
耳まで赤くなっている。真っ赤になっているに違いなく、シンジも頬に伝わる熱にそれを知ることはできた。
けれど、彼女の顔をのぞき見ようとは思わなかった。
シンジもまた、「くさいことを言っちゃったな」と、顔を赤くしていたからである。
そんな二人のことを、見守っている者たちが居た。
「良い雰囲気だな」
寄り添うように風に吹かれている二人のことを、影に隠れて覗いていたのは、シグナムとリョウジであった。
シグナムは腕を組み、胸を乗せて、背を柱に預けている。
部屋の中に入ったものの、邪魔をするのもしのびなく、こうしてテラスには出ずに待っているのだ。
仮面の下からくぐもった声を出す。
「すっかりアスカ様を取られたな」
シグナムはからかったつもりであったのだろうが、リョウジはそうは受け取らなかった。
彼は憮然としてやり返したのであった。
「シンジは強すぎるとは思いませんか?」
正直だなと彼女は肯定する。
「その正体がサードチルドレンであったとか、どうとか、そういう問題じゃなく、そう思うよ」
そういうことなんですよねとリョウジ。
「あいつを見てると、サードチルドレンであったからって言うんじゃなくて、だからサードチルドレンという呼び方が、特別なものになったのかって思えるんです」
前者と後者の違いを、シグナムは正しく理解し、頷いた。
「わたしと戦ったときには、まだそれほど力を自在には使えていなかったよ。それでも退こうとしなかった。退くことはしなかった。何とかしてみせる。やってみせる。気概と意志の強さが見えた。その強さは彼が自分で育んだものだ。何者であるのかという問題とは関係のないものだよ。成そうとする気概と、成してしまう行動力。それは人に信じてみよう、託してみようという気を起こさせるものじゃないか?」
戦場に立つことのある人間の言葉には重みがあった。
「人が祈るとき、奇蹟を頼るとき、神に願うとき、任せた結果がどうなろうとも、きっと後悔することは無い……シンジはそう思わせてくれる奴だよ。お前はどうだった?」
リョウジは何事かを口にしようとして、唇を開きかけたが、結局は黙り込んだ。
それは限りなく肯定に近いものだった。
シグナムは、ま、そういうことだと、リョウジの肩に手を置いた。
傍目にはリョウジが一人で深刻に悩んでおり、それをシグナムが、杞憂に過ぎないと笑いかけているように見えたのだが、実のところ、シグナムはかなり強い懸念を抱いていた。
リョウジの反応を、つぶさに観察していた。
もしそこにあるものがただの嫉妬であればいいのだが、相手との差が激しければ激しいほど、諦めきれない者は狂った行為に走るものだ。
純粋な好意のみで、リョウジがアスカの味方をしているとは思っていない。ならば降ってわいたような英雄など邪魔なだけであろう。そうでないのなら、シンジの登場に関しては、手放しで喜んでいてもいいはずだからだ。
だからシグナムは、リョウジの味方、理解者である振りをしておいた。
後々のためである。
「ま、わたしも、注意は必要だと思うよ? 彼が居るだけで、わたしたちは狂ってしまうかもしれないからな」
リョウジは興味を示してシグナムの仮面を見上げた。
「狂う?」
「そうだ。伝説がそこに居るんだぞ? それもわたしたちの目の前で、現実に奇跡としか言いようのない真似をしてくれているんだ。付き従いたいという者、治めてもらいたいとすがる者、あるいは恐れから消し去ろうとする者、様々な思いを胸に抱くものが出てくるはずだ」
「巫女姫のように?」
「わたしのようにも。あるいはアスカ様のようにもな」
そしてお前のようにもと、シグナムの目はまっすぐにリョウジを射る。
それから言った。
「シンジには悪いが、ことが片付いたら、旅にでも出てもらうしかないだろうな。あるいは、巫女姫に引き取ってもらい、北の国で生涯を終えてもらうか。でなければ、彼はこの国を脅かす存在となるだろうな」
「国王よりも上の……巫女姫よりも上に位置するからですか?」
「不敬だぞ?」
たとえどのような理由があったとしても、国王をないがしろにする発言はいけないと諭す。ただしこれは忠誠に寄ったものではなく、誰が聞いているかわからないという警告として発せられたものであった。
「そうじゃない。この短期間ですら、わたしが惚れ込むほどのものを見せて回っているんだぞ? この先、機族との戦いが待っているのなら、もっと多くの人間が、わたしよりも激しく、シンジの戦果に惚れ込み、心酔するようになるはずだ。そうなったら……まだお世継ぎとなられる王子が生まれていない以上、シンジの名が、姫様の相手として上がる可能性が出てくるはずだ」
「シグナム様は、それを望まれないんですね?」
むろんだと彼女は頷いた。
「シンジの人柄を疑うつもりじゃない。けど、それとこれとは別だろう?」
「それはそうですが」
「まあ、その心配は必要ないとは思うがな」
「なぜです?」
「わかっているからだ、シンジが。必要とされている者が、必要とされなくなったとき、どのような扱いを受けるのか、あいつはわかっていて立ち回っているよ。だから壁を取り払わないのさ」
「シンジの方から、去ると?」
「ああ」
「ですが、手放したくはない、去ることは許さない。そう口にする者も出てくるのではないですか?」
いいやと、シグナムはその考えを否定した。
「一番拘泥しているアスカ様が、そうなることを諦めておられるんだぞ? 他の誰が引き留められると言うんだ?」
ならば、そのアスカ様が……。
リョウジには、その言葉を吐くことができなかった。
そうならないように誘導していくこともまた、家臣としてのつとめの一つであるからだった。
──夜。
山を二つ越えた場所に、少しばかり開けた土地があった。
盆地というには狭い範囲だが、一軍が陣を張るにはちょうど良い窪地である。
歴史をひもとけば、その地形は数代前の領主が作らせた罠だと知れた。この近辺には大軍を進駐させうる空間がない。だがそこにおあつらえ向きの地形があるとすればどうだろうか? 斥候はその地を駐屯地として適切だと報告するだろう。
罠があるとも知らずにだ。
そして今、彼ら国軍が駐屯しているのは、そのような縁起の悪い成り立ちの地ではあったが、それもオーラエンジンの発明と、オーラマシンが兵器として運用される以前の話であった。
過去の戦では陣地とされた距離の場所も、現在では前線とされる位置になる。
もし今、仮に罠があったとして、それが発動したとしても、彼らには一息ではやての治める城を一飲みにすることが可能であった。
「なぁ」
「なんだよ」
いくつかある、貴族のための幕舎であった。
そこには、この世界には珍しいものである、眼鏡をかけた青年と、だらしなく髪を伸ばしている壮年の男とが、酒をまずそうに酌み交わしていた。
ゆらゆらとした灯りが、二人の不景気な面を浮かび上がらせていた。
「どうしたら良いと思う?」
情けなく吐露しているのは青年であった。
小さな樽を腰掛けに、木箱を台に、ふたりは広げた地図を見下ろしていた。
「どうにもならんな」
応じて、壮年の男は切り捨てた。
地図が落ちぬよう重しとしていた酒瓶を取る。
そして酒瓶越しに笑いかけた。
「覚悟を決めたらどうなんだ? マコト」
どこか人なつっこい笑みを浮かべる男であったが、しょせんは男である。あまり青年の慰めにはならなかった。
マコトは頭を抱えて唸った。
「なんでこんなことになってるんだよ。俺なんて、貴族って言ったって、傍流もいいとこなんだぞ? 土地だって名ばかりの牧場しかないのにさ」
マコトは二十代の貴族で、髪を短く切り、型どおりの戦衣装を身につけていた。
ちなみに彼の家が持つ牧場は馬牧場であり、オーラエンジンの発達によって、廃れが見え始めていた。
「捨て石……ってことなんだろうな」
同情はするよと男。
やっぱりそうなんだろうなぁと、マコトは諦めて、酒の入った器をぐいっとあおった。
そんなマコトに、男は言う。
「適当な舞台を与えてやるから、華々しく散れって事なんだろうな」
マコトは下品に口元を袖でぬぐいながら尋ねた。
「そんな程度の、『良い話』だと思うか?」
「お前はどう思ってるんだ?」
「どう考えても怪しいよ。シゲルの情報網には、なにもかかっていないのか?」
シゲルという男は、マコトよりも一回り以上は年が離れているのだが、彼のなれなれしい口調に、特に不快感を覚えてはいないようだった。
とても気安い関係なのだろう。
「確実なことだけ並べるのなら、アスカ様の姿が城から消え、大騒ぎとなった。それからすぐに、どこからかコウゾウ様の元におられるという話が舞い込んできた。それも、コウゾウ様の館は何者かによって襲撃され、見る影もなく崩壊してしまっているというおまけ付きでだ。それで一軍を率いてという話になったわけだが、行く先はなぜだかはやて様の城だ。それでもと押っ取り刀で駆けつけてみれば、なぜだか北の国の巫女姫の御座船の姿があって、アスカ様は帰るつもりがないと仰られている」
マコトはわけがわからないと返した。
「あげく、アスカ様は、はやて様のところへ行くと書き置きを残していたとか?」
「ああ」
なんなんだとマコト。
「まったく背景が見えてこないんだよなぁ……」
「ああ。出奔ってわけでもないし、コウゾウ様の城の崩壊っていうのはなんだ? 狙われたのはコウゾウ様か、アスカ様か、どっちだ? アスカ様がはやて様のところへと向かうつもりであったのなら、なぜ方角違いのコウゾウ様のところへと寄ることになったんだ? その上、コウゾウ様とはやて様のどこに繋がりがあって、どうしてあの方の城に身を寄せるなんて流れになったんだ? 巫女姫のことだってそうだ。巫女姫が一領主の元に、個人的な訪問をするだなんて話、聞いたこともないぞ。どうしてこうなった?」
それにだと、マコトはさらに酒を頼んだ。
「一番わからないのは、軍の配置だよ。なにかに狙われているにしても、それを警戒しての派軍なら、警戒網を形作るようにするのが普通じゃないのか?」
その通りだなとシゲルは同意する。
「なのに、まるで警戒すべきはアスカ様だと言わんばかりに、威嚇しているような位置取りだ。後ろから襲われたらどうしようもないぞ、この布陣は」
「ベルフィールド卿……なにを考えてるんだ?」
さてなぁとシゲルはあごひげを撫でる。
「そのための理力甲冑騎と神像だ……なんて話、ぞっとするぞ?」
「アスカ様を押さえるための軍勢か? それにしたって……」
「アスカ様に、そこまで恐れなければならない何かが、あるんだろうか?」
ふむとマコト。
「あるとすれば……今は亡き……」
「おい!」
その名は出すなという響きに、シゲルは、そうだなと頷いた。
人の気配は無い。だが機械文明に少しでも触れる機会があると、盗聴器の存在くらいは警戒しなければならないようになっていた。
この国軍の持つ神像は、ソースケの乗機のような人型ではなく、船に手と足をつけたような形をしていた。
大きさも倍はある巨大さで、今は手足を収納し、陸の上に乗り上げた軍艦となって並んでいる。
三機の下には、一つだけかがり火があった。
従軍している兵士達は神像か、あるいは乗り手のことを敬遠しているのか、位置を遠くして姿がない。
神像の元には乗り手の内の一人であろう、二十歳代の女性の姿だけがあった。
戦衣装というよりは、旅衣装と言える格好をしている女性であった。
簡素な服の上に、厚手のマントを羽織り、寒そうに膝を抱え込んでいた。
その髪は栗の色をしていて、女は髪を長く伸ばすものだとされているのが当たり前の世界だというのに、異質にも肩口の辺りでばっさりと切ってしまっていた。
体つきは細身ではあるが、健康的な躍動感を備えていた。肉感的でもある。
顔を上げる。それは『ざり』と砂を踏む音がしたためであった。女はたき火の灯りが届く範囲まで、音の主が来るのを待った。
笑みを向ける。
「遅かったじゃない、ムサシ」
「ちょっとな」
やってきたのは黒い肌をした、鎧姿の青年であった。女とあまり年齢はかわらないようである。
ムサシは仲間がいないことを不審に思ったのか、尋ねることにした。
「ケイタはどうした?」
「食べ物を分けてもらってくるってさ」
「貴族連中が分けてくれるわけないだろ。お前も止めろよ、マナ」
ほれっと男は麻袋を放った。
マナは胸で受け止めると、袋の口を開いて、ありがとと短く礼を言った。
「で、ムサシは誰から貰ってきたの?」
「ちょっとな」
そういう器用な真似は、ケイタには無理かと思う。
浅黒い肌をしたムサシは、かなり男臭くて、女にもてる偉丈夫である。
糧秣を預かっている隊の中には、だましやすい少女もいるから、毎度、こうしてどうとでもしてくる。そういった真似のできないケイタが、諦めて帰ってくるのはいつになるだろうかと、マナは堅いパンを噛みちぎりながら思った。
「で?」
ああと、ムサシはマナの対面に腰を落とした。
薪を火にくべ、拾い集めてきた話を語り出した。
「誰も本当のところはわからないらしいな」
「お貴族様も?」
「聞き耳を立ててきた」
「危ない真似をするんだから……」
「だがその甲斐はあったよ。どうもこの軍を派遣した連中は、一戦やらかしてもらいたいみたいだ。そうとしか思えないと言っていたな」
マナはげんなりと口にした。
「なんのためなんだか」
「その間に……っていう可能性はあるだろうな。なにをするつもりなのかは知らないが」
マナは右膝を抱え込むようにすると、膝に回した手の親指の爪をかじった。
「怪しいのは誰かな?」
「ベルフィールド卿だな。あの人はろくに考えてないよ、良くも悪くもな」
「どんな様子だったの?」
「かなり荒れてたよ。コウゾウ様のところでどんな話し合いがあったんだか。思い通りに行かなかったみたいだな」
ふ……ん、と、マナは眉間にしわを寄せた。
「あとの貴族様は?」
「上になにを期待されてるのかって、それを想像して青くなってたな」
どのような理由であったとしても、一軍をもって事に当たれとされた以上、なにかと戦うことにはなるのだろう。
その相手がたとえ自国の領民であったとしてもだ。
「どうする?」
問いかけられて、彼女は無理矢理に答えられることだけを答えた。
「言えるのは、あたしたちは傭兵だけど、どんなに大金を積まれたって、負ける側につくわけにはいかないってことだけ、でしょ?」
だったら答えは簡単だろうとムサシは返す。
「勝つのはこっちだ……どう頑張ったって、この軍勢だぞ? 負ける要素がない」
でもねぇと、マナは煮え切らない様子を見せた。
「戦に勝っても、今度は領民をいたずらになぶったって咎で、口を封じられる……なんてのは、ぞっとしないじゃない」
それももっともだがと、ムサシは言う。
「けどな、金はもうもらってるんだ、裏切れないぞ?」
「でも、給料分以上っていうのは、嫌じゃない?」
「それは……」
まぁなぁとムサシも認める。
神像はとにかく金がかかるものである。
だからと言って、死蔵させるものでもない。となれば手頃で割の良い仕事で食いつかねばならなかった。
「読み間違ったかな? ……しがらみがあるって、こういうときは」
ぶつぶつと呟いた後で、うんっと、マナは顔を上げた。
「やっぱり、行ってみる」
どこへ? とは聞かず、ムサシはため息をこぼした。
「本気か? 本気に決まってるな」
もちろんとマナは笑顔で答えた。
「森には半人が居るけど、まあ、こっちから何かしなければ、襲ってくるような奴らじゃないしね」
「忍び込むのは、また別の問題だぞ? なにしろヴォルケンリッターの城だ。結界が半端じゃない」
「わかってる。でも、ここでこうしてるよりはマシだからね」
立ち上がり、膝元に溜まっていたパンくずを払い落とす。
「ムサシはここで待ってて。あたし、一人で行ってみるから」
そう言って体を起こし、胸を張ると、彼女は片目をつむって、笑ってみせた。