(胸の奥が暖かい……)
 様々な思惑が絡んでいる中で、少女はずっとそのことについて悩んでいた。
「何故?」
『彼』の事を思い出すと胸が熱くなり、鼓動が激しくなって、息も荒くなってしまう。
 ついでに体中が火照り出し、布団を被っていられなくなる。
(意識しているの? わたしが、彼を?)
 さて、それはどうだろうか?
 少女は唇をゆっくりと舐め回した。
(美味しかった……、あの飴)
 また欲しい、と思う。
 まるで麻薬のように。
 もっと沢山、と欲してしまう。
 少女は未だ。思い至っていなかった。
 口にした物が甘く唾液に溶け合って、口の、喉の、そして体内の粘膜から吸収されて、血となり、栄養となって全身に隅にまで行き渡り、肉と生って己の体に染み入るように混ざり込んでいようなどとは。
 未だ。全く、少女は思い至っていなかった。

One Day : 4

 青い空が憎らしいほどに気持ち良い。
 また陽射しも穏やか過ぎて、恨めしかった。
(何で……、僕はここに居るんだろう)
 碇シンジは悩んでいた。
(決まってる……、帰るとこなんて、ないからだ)
 学校の屋上、爽やかな景色とは裏腹に表情は昏い。
 思い出すのは今や遠くの親戚の人達の顔だった。見送りも無しに追い出された、その前日、ちょっとしたさよなら会を催された。
 誕生日すら祝ってはくれなかったくせに。
「屋上で孤独に浸るヒーローッちゅうわけか」
 彼は掛けられた声に振り返った。
「君達か……」
 同じクラスの……、名前は覚えていないが、『変なコトバ』と黒いジャージは印象的で覚えていた。
 それとその連れらしい、眼鏡の少年。
「僕の態度が気に入らないんだったら謝るよ、けど悪いけど、一々君の相手してられるほど余裕ないから」
「なんやとう!」
「また殴る気?」
 少年は言う。
「いいけどね、どうせ殴るなら本気でやってよ、手加減抜きでね」
「よう言うた!」
「よせって、トウジ!」
「碇君……」
 少女の声にハッとする。
「綾波……」
「非常召集……、先に行くから」
 何故だか付け足す。
「それと、この間の戦闘でエヴァに乗ったのは彼じゃないわ、じゃ」
 ぽかんとしてる内に抜け出す少年。
「待ってよ、綾波!」
 残された彼は呆然と呟いた。
「碇やないやと?」
「パイロットって言っても一人じゃないんだろうな……」
「ほな人違いで殴ったっちゅうんか? ワシは」
「そうなるだろうね、酷い奴だな、お前って」
 トウジと呼ばれた少年は、ううと気分悪そうな声を出した。


「第一種戦闘用意!」
 ミサトの号令一下、発令所内は騒がしくなった。
「シンジ君、用意は良い? シンジ君!」
『そんな大きな声出さなくったって、聞こえてますよ』
 シンジの物言いに顔をしかめるミサト。
「ちょっと真剣に……」
「いい加減に学んだら?」
「リツコ……」
 リツコはオペレーターのパネルを奪って、初号機のチェックをしながらミサトを揶揄した。
「この間も一々口出しして苦情を言われたんでしょう? 一度言えば分かる事を二度三度口にするから反抗されるのよ」
「だけど!」
「余裕が無いからそうやって何でもかんでも確かめて安心しようとする」
 その言葉はシンジであった。
「集中力が削がれるんですよね、シンクロはメンタルな部分が全てなんですから、気持ち良く戦わせてあげる方が大事なんじゃないですか?」
 溜め息。
「正論よ、ミサト」
「くっ!」
 シンジはミサト苛めを止めると、ちらりと指令塔を振り仰いだ。
「居ないんですね、父さん」
「出張よ、後は副司令に任せてね」
 戦闘が、始まる。


「馬鹿! 弾着の煙で敵が見えない!」
「失点一」
「落ち着いて! 一旦止めるのよ!」
「失点二」
「予備のライフルを出すわ、受け取って!」
「三」
「あ〜もぉ! 何もたもたやってんのよ!」
「四」
 リツコはちらりとシンジを見やった。
「余裕、あるのね」
「そうですか?」
「シンジ君が負けたら、どうするつもり?」
「その時は本部の自爆とか、なんでもあるでしょ」
「……そうね、ところで」
 興味心で訊ねる。
「失点の理由は?」
「一つ目はこの間もミサイルの煙で敵が見えなくなってましたよね? なのに今回、碇君に注意していなかった。二つ目は攻撃を止めさせるなら安全な場所まで下がらせないと、三つめ、二つ目と同じ理由で、渡すにしても安全な所まで下がらせるべきじゃ? 四つ目、もたもたやってるのは自分でしょう? 援護くらいしてあげればいいのに、まあ、ただの愚痴ですけどね」
「……あそこに居るシンジ君には堪らない内容ばかりね」
「話してる間にアンビリカルケーブルの断線、放り投げられて……、その間にしてたことと言えば、この間と同じで喚いただけ、あれ?」
「シンジ君の、クラスメート!?」
「何故あんな所に!」
 流石にリツコも会話を中断した。


 時は少しばかり遡る。
 第334地下避難所。
「なぁ、トウジ」
「あん?」
「内緒で外に出ようぜ」
「アホ言うな! 外出たら死ぬやないか!」
「その死ぬかもしれない場所に居るのって誰だよ? 碇達だぞ」
「ぐ……」
「今度の戦いじゃ碇が出てるのかもしれないぜ? 俺達のために戦おうって訓練だって受けてたんだろうにさ、それをあんな風に」
「だからなんやねん……」
「だからさ! トウジだって碇の戦いを見る義務があるんじゃないかってこと! 借り作ったままでいいのかぁ?」
「う……」
 相田ケンスケ、実に鈴原トウジの性格に精通している少年であった。
 だが。
「何故あんな所に!」
 その結果がこれであった。
 山肌に叩きつけられたエヴァンゲリオン初号機、その指の間で二人は脅え、竦んでいた。


「シンジ君起きて、早く!」
「さらに減点ね」
 台詞を奪われたのでシンジは叫んだ。
「下手に起き上がったら踏み潰すだけだ!」
『どうすれば!』
「転がれ!」
 碇シンジはそのアイディアに縋り付いた、使徒の鞭を両手で握り、トウジ達とは逆方向に向かって転がった。
「シンジ君!」
 引きずられ、振り回された使徒は仰向けに大地に叩き付けられた。
「今だ!」
『!!』
 シンジの叫びにもう一人のシンジは従った。慌てて馬乗りになって、呆然と見上げている二人の目の前でプログナイフを振り上げた。
「初号機! 活動限界まで後……」
「勝ったわね」
「そうですね」
 ナイフが突き立ち、火花を散らした。
 一足早くほっとしたリツコは、同じように安堵しているシンジの様子に気が付いた。
「緊張したの?」
「当たり前でしょう? あんな」
「そうね」
 苦々しげに、逃げようとしている二人の少年に目を向ける。
「自発的に乗ってるんじゃない、流されてるだけの彼には、戦うだけの積極性なんて望めないでしょうね、なのにストレスばかりを与えられて……、ミサトよりももっと事務的な人の方が良いかもしれないわね、あるいはあなたか」
「僕ですか?」
「ええ、あの手の子は、自分より不幸な子を恐がるものよ? 自分が世界一不幸だと思ってたのに、その言い訳が通じないから」
(これ以上重荷を背負わされるのは嫌なんだけどな)
 そうは思っても自分である。どれ程の自己嫌悪を感じようとも、自分なのだ。
(見捨てる訳にもいかないか)
 そっと溜め息を吐く、妙な具合にしがらみに縛られ始めたシンジであった。


続く


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