待機所の中、碇シンジ少年はプラグスーツ姿で項垂れていた。
　いや、それは正しくは無い。
　顔は真剣そのものだった。
　ちらりと目を横向けると、白色のカーテンの向こうに、ほんのかすかに少女の影が見て取れた。
（綾波……）
　彼の顔に浮かぶのは悔しさと。
（六分儀君）
　彼に対する。嫉妬であった。

One Day : 6
　彼は彼女の部屋を尋ねたときのことを思い出していた。
「ごめんね、寝てたのに」
「……」
（これが女の子の部屋か……）
　碇シンジはその部屋の様子に感激では無く戸惑いを感じていた。
　もちろん女子の部屋になど入ったことは無い、唯一の例外はミサトの部屋だが、あれもまた例外であることは認識していた。
　それでもレイの部屋に比べればまだマシだろう。
　この部屋には何も無かった。いや、ビーカーがあった。しかし普通の家庭にビーカーなどあるものだろうか？
　それに大量の薬と、段ボール箱に山になるほど捨てられた包帯。
　固まっている血。
　部屋は剥き出しの壁が腐蝕で剥がれかけていた、床も汚れのためにべたついている。
　布団のシーツ、軽く撫でて妙な手触りだと思って、それが何かに思い当たった。
　汗、だった。それに脂、ようは汚れだ。洗濯も干しもしないのだろう。
　何もかもが、荒んだ生活を思わせた。
「あっ……」
「大丈夫？」
「少し……、ヤケドしただけ」
「早く冷やさないと」
　水道から水の流れる音、台所に男女、少女を抱きすくめるように背後に立つ『自分』
　無理矢理手を冷やさせている。
「腫れてるね……」
「そうね……」
（綾波が……、赤くなってる）
　それは軽い驚きだった。嫌な光景を思い出す。
　エントリープラグの中、エヴァの調整に付き合わされていた、そんな時に見たのだ。
　少女に話しかける父を、喜ぶ少女を、微笑み合う二人を。
（綾波って、別に父さんにだけ笑うわけじゃないんだな……）
　いや、むしろ今の方が衝撃は大きいだろう。
　照れ恥じらっているのだから。
「暫くそうしてなよ、紅茶、僕が入れるから」
「うん……」
「綾波は、父さんとどんな話しをしてるの？」
　ドキリとした。
「どうして？」
「話したいわけじゃないけど……、気になるから、じゃいけないかな？」
　キュッと水道を閉じる音。
「お父さんと話しがしたいの？」
「違うよ……、気になるのは、綾波のことだから」
「わたし？」
「うん……」
　紅茶の葉が入れられた、とぽとぽと注ぐ音が続く。
「独りは寂しいから……」
　間が生まれる。
「ごめんなさい……」
「良いんだ。僕の我が侭だから……」
　そう言った二人に対して、碇少年は疼きを覚えた。
（まるで僕だ……）
　自分の嘆きだ。
　そう思うと迷いが生まれた。
（父さんでなくても良いのかな、僕は）
　ただ誰かに居てもらいたいのかもしれない。
「これ……」
　六分儀を名乗る少年は、ポケットから包み紙を取り出した。
「砂糖の代わりにね」
　ぽちゃんとレイが持つ紅茶に入れる。
「また一個だけ『手に入った』んだ。綾波、気に入ってたみたいだから」
「ありがとう……」
　その時、そう礼を言う少女の顔が見えなかったことは碇少年にとって幸いだったのかもしれない。
　まるで水飴のようにほどけて紅茶に溶けていく、その様子を見つめる顔は余りにも妖艶で、淫靡で、恍惚としていて、唇を舐める仕草などは、とても普段の無表情とはかけ離れた厭らしさを湛えていた。


「出来れば、僕が出たかったんだけどな……」
　双子山山頂。
　シンジは心臓部分に機械を包帯で固定されて現れた。
　遠く、第三新東京市の上には立方体の形をした使徒が陣取っていた。
「無茶をするわ、まだ寝てた方がいいんじゃない？」
「そのためにお前は居たんだろう？　ってのが父さんのお言葉です」
　シンジはリツコに頼んで、車椅子をパイロット達に近付けてもらった。
「やあ」
「六分儀君……」
　少年の心に葛藤が生まれる。それは見て取れるほどのものだった。
　本当なら怪我をしていたのは自分なのだ。
　零号機の起動実験の成功、その直後の使徒の来訪。
　何故か出撃を命じられたのは自分ではなく彼だった。
　何故？
　その答えは得られなかった。上司であるミサトも不満の様子で、だから訊ねる事も出来なかった。
　まだ耳に残ってる。
『六分儀君！』
　使徒から発せられた光線を浴びた初号機は、まさに悲鳴を上げるがごとくもがき苦しんだ。
　それが誰の心理状態を反映したものであったかは言うまでも無く、回収された兄弟は耳や鼻から血を垂れ流していた。
　動揺したレイの真っ青な顔が忘れられない。
　今もだ。ちらりと見れば心配しているのがありありと窺える。
　心配してもらえたのも、これから戦わずに居られたのも。
　自分であった。可能性。
「一応、作戦に口出しした手前ね、顔出さないといけないからね」
　少年の自己嫌悪を増長するような事をシンジは言った。
　はぁっと溜め息。
　リツコであった。
「口出しはともかく、絶対安静は今でも変わらないのよ？」
「そうなんですか？」
「六分儀君」
「大丈夫だよ」
　そうは言うが、やはり左胸を覆っている機械が痛々しい、一度は心停止した上に、医療ポッドからバイタルチェックがクリアされる前に無理矢理出て来たのだ。
　その無理は当然のごとく祟っている。
「葛城さんはいつも肝心な所を見過ごしますからね、安心出来ないんですよ」
「そう？」
「使徒に普通のビルと兵装ビルの区別が付かない様に、ここで組み立ててるものが何なのか、分かるはずありません、でなければこんな準備してられませんよ」
「一応、目標の攻撃レンジ外なんだけど？」
「エヴァは、でしょ？　山火事を起こすくらいの攻撃は出来るはずです」
「そうね」
「使徒が気にするのは巨大な移動物体か、あるいは攻撃して来たもの、これは葛城さんが確かめた通りですけど、だからってこんなものを撃つためにエヴァを使ったんじゃ、狙ってくださいって言ってるようなものですよ」
「だけどあなたのプランも無茶が過ぎるわ」
　リツコは溜め息を吐いた。
　エヴァによる誘導、囮となって時間を稼ぎ、場合によっては盾ともなる。
　その間に陽電子砲に必要なエネルギーをチャージ、発砲、もし使徒がこちらを狙った場合は、使徒の再チャージの時間を利用して特攻を敢行する。
「それでも、勝率を二桁にまで伸ばしましたよ？」
「おかげでミサトはおかんむりよ、……レイ、何を食べてるの？」
「飴です」
「……出撃する時には捨てなさい」
「それか、一旦出して取っておくかだね」
「分かったわ」
　流石に血の味のするＬＣＬの中で食べようとは思わなかったのだろう、しかしだ。
（あの飴、今朝からずっと舐めてないかな？）
　碇シンジは怪訝に思ったがそうではない。
　実際には、この間レイの部屋を訪れた時からずっと舐めているのだ。
　一応、紅茶に溶け出した分は小さくなっているのだが。
（今度の飴は、無くならない……）
　おかげで満足している綾波レイ、実に頑固な飴だった。


「時間です」
「作戦、スタート！」
　ミサトはやはり余計な言葉を付け足した。
「シンジ君、レイ、頑張って」
　碇シンジは思う。
（頑張ったからって、誉めてくれるのかな？）
　綾波レイを思う。
（父さん……、綾波、六分儀君は）
　自分を心配してくれるのだろうか？
（やっぱり羨ましいんだな、僕は）
　父と微笑み合える綾波レイを。
　皆に心配してもらっている六分儀シンジが。
（羨ましいんだ）
　陽電子砲の光が色鮮やかに走った。使徒からも同じように光が発せられる。
　干渉による。光の歪曲。
「外れた！？」
　ミサトの声、だが使徒にはかすっていた、一部を削ってエネルギーの加速に支障をもたらしていた。
「綾波？」
　軌道の逸れた使徒の光線を、レイが零号機で受け止めていた。
「くっ！」
　予定通り、初号機は使徒に近接する『発進口』から放り出された、直前に使徒の削れた体が目に入った。
「わぁあああああああ！」
　半ばやけくそ気味に持たされていたパレットライフルを撃ちつつビルの屋上に着地する。狙いは使徒の傷口だ。
「うわぁあああああ！」
　体内に撃ち込まれた銃弾は遠慮なく内部を穿ち、あるいは貫通して、向こう側から飛び出し、大地に、ビルに穴を開けた。
「使徒の反応が弱っていきます！」
「ブレード消えました、ドリル停止！」
　やがてぐらりとよろめいて、使徒は初号機に覆い被さるように落下し始めた。
「あ……」
　視界が塞がれ、真っ暗になる。ドンと衝撃、碇少年は下敷きになった衝撃のフィードバックを受けて、気を失った。
「あれは……、零号機を使わないと助け出せませんね」
「そうね……、でも陽電子砲が当たってなかったら、まずかったんじゃない？」
　やはり薄氷の勝利であることは変わりなかった。
　それでもだ。
「勝てたんだから、良いんじゃないですか？」
「その通りよ」
　後は、と考える。
（ミサトね）


続く

[BACK] [TOP] [NEXT]