心を壊すというのはかくも簡単なことなのだろうか?
「ちくしょう……、ちくしょう、ちくしょうちくしょうちくしょう!」
 ダンと壁に拳を打ち据えたのは少女であった。
 惣流・アスカ・ラングレー、彼女だ。
 気まぐれにこの世界に紛れ込んで来た片割れではない。
「姉さん!」
 食いしばるように口にする。
 どうして、と。
 鈴原トウジ、彼の住んでいるマンションだ。その階から幾つか下りた階段の踊り場。
「何も言わないで!」
 ゆっくりと歩いて追って来た少年に、彼女は鋭く釘をさした。
「わかってる。こうなるのはわかってた、そう、わかってたんだから……」
 ずるずると……。
 拳を擦り下ろすようにして崩れ落ちる。
「うっ、う、う……」
 嗚咽。
 震える背中。
 その少年は顔をしかめたが、躊躇はしなかった。
「泣いちゃ駄目だ」
 たった一歩か二歩の距離。
 これが『以前』は、どれほど遠い溝だったのか?
 今の彼には迷いは無い。
「泣いちゃ、駄目だ……」
 うるさい、ほうっておいて、泣いてない!
 罵声を吐いて少女は背に当てられた暖かな温もりを振り払う。
「!?」
 しかしそれ以上に素早い身のこなしをもって、振るわれた手をかいくぐり……。
「……」
 止まる時間、押し付けられた壁の冷たさ、掴まれた腕の傷み、頬を伝う涙の感触。
 そして触れ合った唇に、雫の塩気が刺激となる。
「うっ、う、う……」
 少女は泣きながらその接吻を受け入れた、泣きながら目を閉じてより強くより広く触れ合うように首を傾げて鼻先を擦り合わせた。
 鼻頭の脂が濡れていて気持ちが悪い。
 だがその嫌悪感を見せた瞬間、ああそうと捨てられてしまいそうな気がして、縋る物を失った彼女には、拒む事などできなかった。

One Day : 20

「初号機による使徒の捕食……、S機関の搭載、この意味が分かっているのだろうな?」
 擬似会議場。
 先の戦闘にてシンクロ率400%を突破したパイロットは、取り込まれたまま帰らぬ人となっていた。
 問題は自律行動を行ったエヴァにある。
「初号機はただのエヴァではない」
「そう、母たる存在、リリス」
「その分身」
「物質的に別たれていたとしても、空間的には繋がっている。これへのS機関の搭載は……」
「我々は新たな神を作る必要は無い」
「分かっているのか? 碇君」
 一方的に言わせるだけ言わせていたネルフ総司令は、実に事務的な対応をした。
「初号機は現在、休眠状態にあります」
「休眠だと?」
「嚥下した使徒の細胞片を分解、吸収しているのでしょう、再活動開始の後には遺伝子パターンが変化している物と思われます」
「S機関はまだ完全に搭載されたわけではないと?」
「この間にパイロットのサルベージを実行します」
「息子がそれほど可愛いかね?」
「……自我を搭載したままでは問題を残します」
「知恵の実か」
「取り込まれた知恵の実はサルベージする必要があります」
「だが君の妻、碇ユイのようにならぬという保証は在るのかね?」
「ファーストチルドレンのように」
「人ならざるものとして現象化する可能性は?」
「ですが知恵の実と生命の実、この双方を宿したままの状態は危険過ぎるでしょう」
「サルベージすべきは」
「サードではなく、知恵の実であると言うのだな?」
 ゲンドウは無言で通した、だが目は肯定している。
 父でも司令でもなく、何かに取り付かれた者の狂った輝きが宿されていた。
「今はまだ。槍によって生命活動は停止されておりますが」
「よかろう、その件は君に任せる」
「碇君」
 最後の念押しだった。
「君が新たなシナリオを作る必要は無い」
「……全ては、ゼーレのシナリオのままに」


「レイ?」
 ぼうっと窓際の壁を背に青空に流れる雲を眺めていたレイは、気安い呼び掛けに顔を向けた。
「これ、シンジのお土産よ」
 ビニール袋の中に包み紙に入った飴玉が数個。
 レイは久々のそれに少しだけぎこちなく受け取った。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
 この隻眼の少女があの少年と特別な関係にあることは理解していた。
 それも恋愛などの『単純』な関係ではないとまで。
 だから彼女に礼を言うことは彼に礼を告げるのと同じなのだと感じていた、手が伸びて来ても避けなかったのはそのためだ。  ちょっとだけ首をすくめて待ち受ける。ざっと髪を掻き上げるように弄られてしまった。
「うん、大分黒くなって来てる」
「そう?」
「その内、目の色も濃くなるはずよ」
 荒らした髪形を直すついでに撫で付けて、アスカは身を放して振り返った。
「悪いけど、もうちょっとかくまってて貰える?」
「そらかまへんけど」
 鈴原トウジである。
「わしは明日から学校やさかい、おとなしゅうしててもろたら……」
「おっけー、あ、でも注意しなさいよ?」
「わかってるて、誰にも」
「そうじゃなくて」
 アスカは苦笑した。
「あんた、碇シンジ君、知ってるでしょ?」
「お? おお」
「あの子がエヴァのパイロットだって知れただけでどれだけモテたか、見てるんじゃないの?」
「あほかい」
 からかうな、と態度で示したがちょっとだけ伸びた鼻の下が正直だ。
「問題は」
 その鼻先をピンと弾く。
「あんたも碇君みたいに恨まれるかもしれないって事よ」
「あ?」
「碇君はまだ良いわ、あの性格だからね? でもあんたみたいにケンカ腰だと相手も興奮して止まらなくなるって事よ」
 さほど大したことではない、と考えていたのだろう、実際に乗ったわけでは無いのだから。
 だが現実はそうは見ては貰えない、これはすなわち。
(あいつと同じっちゅうわけか)
 自分がどう考えていようと、見て欲しいようには見てもらえない。
 その気持ちがちょっとだけ分かって、鈴原トウジは神妙な面持ちになった。


 少女、アスカは気持ちを落ち付けるために毒と言えるほどの薬を欲した。
 それは少年、シンジと言う名の毒であった。
「んっ……」
 自棄になっていたのかもしれない、姉に見限られて。
 少年はその会話の内容までは関知していなかった。二人きりにしてと言われたから、その通りにしたのだ。
 だが想像は付いていた、自分も幾度も罵られたから。
「は……」
 マンションを出てすぐの公園。
 そのトイレ。
 こんな所に連れこまれるのも、その汚らしく汚れた壁に押し付けられるのも。
 本来であればそんな壁に髪をなすり付ける様な状態など堪えられた物では無いはずだ。
 同時にこんな壁に手を突くなども。
「あ……」
 だから、自棄なのだ。
 今の少女にとっては、そんなことなど実に些細な問題でしかない、一刻も早くこのもやもやした気持ち悪さを何かで破壊して欲しかったのだろう。
「んんっ」
 胸を支えるように持ち上げられて喘いでしまった。服の上からでも十分くすぐったいようだ。
 のけぞらせた首筋を唇が触れるか触れないかと言った所で這っていた。
『その気』にならなければ嫌悪感で肌が粟立って当然の行為に、だが少女は興奮の色合いを示していた。
 いや。
 無理に興奮して見せようとしていた。
 手が腿を這い上がって来る。腕がスカートまくり上げようとしている。
 一方ではそれは成功していただろう、確かに性的興奮から鼓動は高鳴っていた。
 しかし。
「やめよう」
 突然、少年、シンジは身を離した。
「……なんで」
「それは君が一番良くわかってるでしょ?」
 ね? と言い聞かせるような眼差しに少女は顔を背けた。
 何処かで親に言い諭されている様な感じを受けて逆らえなかった。
 父や母にさえ、罵声を吐こうと思えば吐けるだろうに。
 出来なかった。
「ごめんなさい……」
「謝ることは無いよ」
「でも!」
「さっきの今だからね、仕方ないさ」
 ちゅっと……。
 ついばむ様にキスをして黙らせる。
「ね?」
「うん……」
 先程の行為より余程赤くなって少女は照れた。
「焦れば焦るほど頭の中に冷静な自分が生まれてしまう、客観的になっちゃってなにやってるんだろうって気になってくる。そんな状態でこんな事したって思い出したくも無い記憶になるだけさ」
 僕もそんなのは嫌だからね、とシンジ。
「僕が望む事はただ一つ、いつもかまってくれること、それだけだよ」
「それだけ?」
「うん……」
 寂しげに微笑む。
「それ以上を求めたって、どうせ裏切られるだけだからね」
「姉さん……」
 キュッと唇を直して言い直した。
「あの人も、そうだったの?」
「そうだよ? アスカはいつも自分の事が一番最初に来る人だから」
「だったら!」
 少女は叫んだ。
「あたしの願いも一つよ」
「なに?」
 顎を引き、睨むようにして言った。
「あんたのアスカは……、あたし一人だけにして」
「!?」
 目に言葉以上の狂気を見る。
 単純に自分だけを見ろと言っているのではない、それ以上の物をシンジは言外に感じ取ってしまった。そして。
「……わかったよ」
 自分こそが逆らえない状態に追い詰められたのだと言う事を知る。
 少女はにやりと厭らしく笑った。
「約束よ?」
「うん……」
 こうして狂った契約が交わされた。
 異臭と汚物でまみれた、密室の中で。


続く


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