この数週間は、彼女の生涯においても最も虚脱した精神状態が続いていると言ってよかっただろう。
 セカンドインパクトによって疲弊した米国は国力を失い、巨大な軍備を支えきれずまさに自壊する寸前にまで追い詰められていた。
 社会補償と軍備維持、二十世紀末には莫大に膨れ上がったこの予算解消が最大の懸案事項であった。これが解消したのは皮肉にもセカンドインパクトによって大量の死者、二次災害による被害者、餓死者を出したためであった。
 ところが、である。
 このような状態に陥っていながらも、アメリカと言う国は日本との安全保証条約を破棄することは無かった。
 この裏事情については推して知るべしであろう、表向きは国連への平和維持協力の継続と言う事になってはいるが。
 ミサトがやっかいになっている厚木基地も、そのような経緯で継続して貸与されている状態にあった。
 基地周辺部の、外と内を区切るフェンス。
 ミサトはそこに腰かけていた。
 ぼうっと眺める景色には、幾種類かの戦闘機と待機整備中のトライデントが鎮座している。
 今しも哨戒機が飛び立とうとしていた。
 セカンドインパクトに伴う地軸を歪めるほどの衝撃は、多くの船舶を海中に沈めた。
 得に原子力潜水艦等は、絶対数が零に近くなるほど姿を消した。
 国力の復興に務めている現在、これを補充する余力はない、弐号機による海上戦闘に伴って破棄された戦闘機、船舶。
 これも据え置かれたままである。現代において海軍は、もう名ばかりの存在に落ちようとしていた。
(だから使徒の発見も遅くなる。か)
 地上のレーダー、哨戒機の定期巡回、さらに衛星。
 これだけの物を用いても、その穴は大き過ぎるのだ。
 衛星などは地球の身震いによって多くが軌道を外れ、地表に落ちるか空の彼方に飛び去っていた。
 セカンドインパクト以降に打ちあげられた衛星もあるにはあるが、その内の幾つかは先日、衛星軌道上に出現した使徒確認のためにネルフによって占有され、破壊された。
(ますます状況は悪くなる。いつ終わるの? こんなことが)
 倦怠感が思わせたとしか考えられない思索ではあったが、心情的には全くの逆だった。
 こんな所でくすぶったまま終わってしまう事への恐怖心。
 右手を見る。匂いを嗅ぐ。
 まだ硝煙の匂いが残っている気がした。
「……何やってんのよ?」
 突然の声と、がしゃんと音を立てたフェンスに焦った。
 赤毛の少女がフェンスにもたれかかっていた、ミサトの真後ろに。
 その顔に見慣れたサングラスを見付けて、さらに表情を険しくする。
「アスカ・ツェッペリン?」
「久しぶりね、ミサト」
 ドイツへの研修時代に、ほんの僅かな間だけ言葉を交わした少女が現れた事に対して。
 ミサトは訝しさを覚えずには居られなかった。

One Day : 22

 突然来訪する者があれば、無理に呼び戻された者も居た。
 ネルフ本部、総司令執務室は重苦しい沈黙の中に閉ざされていた。
 机にはいつもの通り、碇ゲンドウが。
 その前には綾波レイが立たされていた。
「では、何もわからないと言うのだな」
 レイはコクリと頷いた。
 ゲンドウの質問はシンジ、及びアスカの容姿を持つ謎の二人についてに終始していた。
「何故連絡しなかった」
 表情を崩さず答えるレイ。
「問題のある状況下にはありませんでした」
「好きにさせるために自由を許しているわけではない」
「……」
「もういい、下がれ」
「はい」
 すっと右足を引いて回れ右をする。
 その表情、態度はいつもの通り、従順を示して感情を、葛藤を押し隠しているように見えただろう。
 綾波レイの基礎人格に擦り込んである拠り所は、間違いなく自分である。
 故に巣立つ事などあり得ないと知っている。だからこその安心。
 しかし、レイは変わっていた。
 今はこのようなやり取りを面倒だ。鬱陶しいと考えるだけの成長を果たしていた。
 一般的に知能指数と呼ばれるものは知能年齢を生活年齢で割り百をかけて試算される。
 惣流・アスカ・ラングレーを例に取ろう、大学卒業の学歴から知能年齢を二十二として、これを十四で割って百をかける。
 約百五十七と言った所だろうか? 実際にはもう少しばかり高いだろう。
 実の所、この数字に匹敵するほど綾波レイの知能指数は高かった。『実』年齢を無視した、洗脳に近い擦り込み教育の賜物である。
 これによる弊害は余計な事を思考し始める点にあったが、対処療法として催眠と暗示が併用してかけられていた。
 普通の人間ではないのだと。
 それは諦めと絶望を引き起こす、彼女は仕向けられた通りに、自己保身からもう何も考えず、現状を維持しようとそれだけに固執するようになったのだ。
 全ては、企み通りに、しかし。
 鮮血。
 そう、女として、人として血を流したことが、その暗示を解いていた。
 そして、もう一人。
 知能指数の点において、異常であった少年が居た。
 碇シンジである。


 あれ以来……、取り込まれて以来、碇シンジは誰の目にも明らかなほどに変わっていた。
 どこか寡黙になり、思い詰めたように自分の世界に入り込んでいる事が多くなった。だが大半の人間は、それは過酷な状況が続き過ぎた事に対するストレスから来たものであろうと察していた。
 実際には、違う。
 碇シンジの知能指数は決して高くは無かった。七十の後半から良くて八十の中盤であった。
 これが一度に五十も伸びた、アスカや綾波レイには届かないものの、決して低いと言うわけでも無い。
 もう一人の自分が、やけにジオフロントでくつろぐように、少年はここ、初号機の顔を眺められるアンビリカルブリッジの上を思索の場所に決めていた。
 何も光を宿していない瞳を見つめる。
 言葉でも交わしているかのように見つめ合っている。
 何か物思いに耽っているようにも感じられる。
 正解はどれなのかわからない。
 再び装甲を取り付けられた初号機、しかし今だ封印によって拘束されたままである。
(無駄な事を)
 小さく、口の中で呟いた。
 この中にも自分と同じパーソナルを持つ者が居る。そして搭載されたS機関。
 初号機はもはや、その気になればいつでも『自律行動』に出られる状態にあった。


 惣流・アスカ・ラングレーはシンクロ率の低下に伴う連動試験でのデータ取りに追われていた。
 心理状態が全てであるエヴァとのシンクロは、特訓したからと言ってどうにかなるような物ではない。
 これを補うためにMAGIによるサポートが入る。だが逐次修正をかけるよりも日常から調整を行っておいた方が確かなのは当たり前だ。
 今頃少女は、約立たずの烙印を押されるためにエヴァに乗り、それを溜め息交じりに使える代物にしてもらっていることだろう。
 彼女のプライドがそんな状態に堪えられるのかどうか?
 怪しい所だ。
 ジオフロント森林公園。
 シンジはそんなことを考えながら、地底湖の縁の木の根の股に寝そべっていた。
 がさりと音が枕もとで立つ。
「……早かったんだね」
 木の陰に体半分を隠して、綾波レイが立っていた。
「ええ」
 シンジの返事を許可と取ったのか、さくさくと芝を踏んで傍に立つ。
 スカートの奥にまで白い足が眺められた、流石にその奥まで覗けるほどスカートは短くないのだが。
「座らないの?」
「……」
 レイは無言でその場に腰かけた。
 正座や、横座りをするような女の子らしさとは無縁に、彼女は三角座りを好む。
 その方が丸見えなんだよね、とは思ったが注意はしなかった。どうせ覗いている人間など居ないのだから。
「その様子だと、父さんに苛められたみたいだね?」
 木にもたれようとして冷たかったのか、身じろぎをした。
「苛められなかった?」
「あなたのことを、聞かれたわ」
「ふうん……、ま、それもそうか、あんまり綾波を問い詰める訳にもいかないもんな」
「?」
「簡単な事だよ、もし強く問い詰めて、君に邪険にされたらどうするのさ? きっと狼狽えて、どうしようってことになる……、それが自分でもわかってるから、わかってないかな? とにかく、無意識にでも避けようとしてるんだよ」
「そう……」
「父さんの綾波を見る目ってさ、きっと同じなんじゃないかな? 母さんを見る目と」
「……何故、そう思うの?」
「だって、父さんにとって信じられる人って母さんだけでしょ? きっと人工的にでも自分が信じられる相手を作りたかったんじゃないかな? だって……」
「何?」
「……人はみんな、何かを求めて来るから」
 端々に自嘲が感じられる言葉だった。
「あなたも、なのね」
「僕の場合は昔の話だよ、今じゃない」
「そう……」
「僕にだって欲しい物はあるのに、みんな何かを求めて来るんだ。でも誰も僕の願いは叶えてくれなかった」
「……あの人も?」
「アスカ? いくらかは優しくしてくれるようになったな、僕は満足してないけどね」
「何故?」
「だって、人間は自分のことだけで精一杯だもの、ほんの少し余した余裕の分だけ、他人に優しく出来るんだ。その大きさが甲斐性って事なんだろうけどね、……僕達はそれが恐ろしいほど狭いんだな、お互いに相手の神経をささくれ立たせない程度に甘やかし合うことしか出来なかった。でも」
「でも?」
「そんなので満足なんて出来るはずないよ」
「だからあの人を裏切り、彼女に味方するの?」
「それも違うかな」
「?」
「だって、惣流さんはきっと、アスカをなんとかした直後に僕を捨てるもの、自分だけがアスカなんだって、もうあんたなんて用済み、居なくてもいいってね」
「……信じてないのね」
「うん、僕は人がどこまでも優しくなれることなんて無いって思ってるからね、だから今一番満足出来るものだけに浸ろうとしてるのかもしれないな」


 実際には、シンジ自身にも自分の気持ちが分かっていなかったのかもしれない。
 そのため、会話が自問に終わってしまったのだとレイには感じられた。
 使徒襲来。
 弐号機の不調と初号機の封印から先行出撃を命じられた零号機は、使徒による精神攻撃に曝された。
 暴走紛いの悶えを見せるエヴァ、その中でレイは自分の心の闇を知る。


「司令?」
「お前には失望した」
「碇君?」
「君なんて嫌いだ」
「セカンド……」
「人形みたいで、嫌なのよ」
「アスカさん?」
「気持ち悪いのよ」
「……」
 だがその中で、六分儀を名乗る少年だけが何も物を言わなかった。
 何故か?
 少女にとって、それこそが一番の憧れであったから。
 結局、他人の言葉に躍らされ、一喜一憂し、人のせいにしている間は、ただの我が侭でしかないのだろう。
 人のせいにし、他人に泣きつくばかりで、気に入らない事に対しては責任をなすり付ける。
 だが彼は違う。
 自分と同い歳でありながら、既に他人の目など気にしてもいない。
 何を言われても関係が無いと、自分の価値基準と考えの中でのみ、全てを律し、判断している。
 責任も、義理も、義務ですらも他人に求めず、自分で完結しようとしている。
 だが……。
「……あなたは、何を望むの?」
 答えは無い、そう。
 ──君に告げても仕方が無い
 無価値。
 これ程の恐怖があるだろうか?
 人形のようであろうが、無表情であろうが、人間でなかろうが、それでも役に立つ間は用立ててもらえる。
 必要としてもらえる。
 一気に血の気の引いた顔はまさに蒼白になり、強ばった体は寒気から震えた。
 彼は自分を必要としてくれているのだろうか?
 もし、使徒の襲来がやんだとしたら?
 自分の価値はどうなるのだろうか?
 それでも『絆』はあるのだろうか?
 いや。
 ない。
 だからこそ死にたかった?
 どうなのだろうか?
 暗示の解けたレイには、過去、自分が囚われて来た呪縛を、どのような心理状態から考えていたのか、もう思い出せなくなっていた。
 そして代わりに。
(嫌!)
 生物の本能、子を成せるものの使命、死への脅えが。
 彼女を無遠慮にまさぐり知ろうとする者への拒絶感として。
 彼女を守る殻として、展開された。


続く


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