「ん…」
 がたがたとくる揺れに、シンジは目を覚ましてしまった。
「葛城…、さん?」
「ミサトで良いわよ?」
 シンジはミサトの膝の上に寝かされていた。
 軽トラの荷台、運転席にゲンドウの顔が見える、助手席にはあの子の薄青い髪。
「もうしばらくで着くわ、それまで寝てなさい?」
 寝ぼけていたシンジは、大人しくその言葉に従った。
 まぶたを閉じる、すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。
 次にシンジが目をさましたのは、どこかのベッドの上だった。

第弐話 誰がために
「知らない、天井だ…」
 シンジは天井を見上げた、映画に出てくるような大きな扇風機がゆっくりと回っている。
「ここ、どこなんだろ?」
 洋風建築、机などもそれにあわせた物がしつらえてあった。
「そっか、ここ父さんの…」
 窓の外の景色に見覚えがある。
 物心ついてすぐの頃に来たことがあったのだ、その記憶を掘り起こす。
 部屋の隅に宅急便で送った自分の荷物があった、そこから服を探し出し、着替える。
「父さん、どこにいるんだろ?」
 かなり大きな洋館だった、いくつもの扉を数えて、ようやく玄関口らしい所を見つけだす。
 大きな扉が外へと続いているのだろう、シンジがいたのは2階だった、踊り場を歩いて階下へ降りる。
「すごいや…」
 玄関口に立ってみた。
 シンジが降りてきたのは建物の右側だった、左側にも廊下への扉がある。
 一階も左右と正面の階段脇に扉があった、やはり廊下があるようだ。
「一体幾つの部屋があるんだろう?」
(そういえば、探検してて迷ったこともあったっけ)
 シンジはまず、どこへ行くかで悩んでしまった。
「あら、シンジ君」
 上からの声に見上げる。
「起きたのね、お父さんなら左奥のキッチンよ」
「は、はい!」
 タンクトップにショートパンツ、その上ノーブラのミサトがいた。
 強調するように、手すりに胸を乗せている。
 シンジは慌てて逃げ出した。
「うふ、若いわね〜」
 それをさかなに、隠していた缶ビールをあおるミサトであった。


「まいったなぁ、もぉ」
 あの人、父さんのなんなんだろ?
 そんな事を考えながら、シンジは記憶を頼りに進んでいた。
「シンジか?」
「父さん?」
 いた。
 建物に似合わない、ごくごく普通のキッチンだった。
 テーブルに幾つかの椅子、ゲンドウは一人でコーヒーをすすっていた。
「もういいのか?」
「うん…」
 ゲンドウは新聞を見たままで、シンジに顔を見せてくれない。
 シンジは焦れたように声を掛けた。
「あの…、父さん?」
 昨日の記憶が蘇る。
「なんだ?」
 新聞をたたむゲンドウ。
 赤い眼鏡の下に厳しい目。
 だが不思議と恐いという感じはしなかった。
「あの…」
 どうしてここに呼んだの?
 あの女の人は誰?
 そうだ昨日の子は?
 あの怪物はなんだったの?
 僕はどうなったの?
 様々な疑問が浮かんでしまった。
 だがシンジは…
「母さんのお墓は、どこにあるの?」
 違うことを聞いていた。


 研究所も兼ねた大きな洋館は山すそにあった。
 シンジはその裏から山の中腹を目指して登った、ハイキングにちょうど良い感じの山だった。
「あ、湖が見える…」
 振り返って景色を眺める、緑の空気と少しきつめの木漏れ日が、シンジの気分をほぐしてくれた。
 シンジは再び登りだした。
 しばらくすると、木がマクラのように埋められていた、階段の代わりなのだろう。
 その先に少しだけ、ぽかんと開いているような場所があった。
 背の高い樹々が、まるで場所を譲ってくれているかのようによけている。
 その奥にお墓、誰かが手をあわせていた。
 シンジの気配に気がついたのか、立ち上がり振り向く少女。
 白いノースリーブのワンピース。
 靴も、帽子も白だった。
 のぞける手足は限りなく細く、そしてやはり白い。
「誰?」
「あ、ぼ、僕は…」
 赤い瞳に見据えられ、シンジは戸惑いどもってしまった。
「碇シンジ、私の息子だ」
 驚いて振り向く、いつの間にがゲンドウが立っていた。
「そう」
「あの…、よろしく…」
 この子…、昨日の子だよな?
 聞くに聞けず、シンジはどうしていいのかわからなくなった。
「どうした?、はやく母さんに挨拶しろ」
 背を押されるシンジ。
 シンジは深呼吸してから、墓石の前に座りこんだ。
 手を合わせて、目を閉じる。
「ごめんよ母さん…、ずっとこなくて…」
 ちらっと彼女を見る、シンジ達に場所を譲り、帽子を押さえて立っていた。
「でも、母さんがここに眠ってるって、どうしても思えなかったんだ…」
 背後に立つゲンドウに訪ねる。
「ねえ、母さんの写真、残ってないの?」
「ああ、全てこの墓の下だ」
 シンジも立ち上がった。
「ほんとに…、全部埋めちゃったんだね」
「ユイは私にかけがえのない物を教えてくれた…、だが想い出は人を弱くする、だから私はこの墓を作り、全てを埋めた…」
 樹々のこすれあう音が、二人の失くしたものを埋めてくれた。
「すまなかったな、一人にして」
「いいんだ、父さんが母さんのために何をしていたのか、みんなが教えてくれたから…」
 シンジはユイが死んですぐの頃の新聞をスクラップにしていた。
 そこには「バイオハザード」「人体実験」「過失致死」などの言葉が並べ連ねられていた。
 シンジが預けられていたのは、ユイの学生時代の恩師の家だった。
 彼らはシンジに、真実をありのままに伝えていた。
「ねえ、母さんの病気のこと、なにかわかったの?」
 ゲンドウは後ろに手を組みなおした。
「まだだ、私はあらゆる薬品を作り出し、実験中のものまで投与した、だが結局、ユイは助からなかった…」
 謎の病原菌、それは空気感染の可能性すらあった。
「だから焼却処分せざるをえなかった、遺骨さえ手に取る事は許されなかった…」
 だからこの墓の下には、想い出の品しかない。
 ゲンドウは、口惜しげに顔を歪めた。
「いつもそうだね…、真実は、信じてくれている者だけが知っていればいい」
「そうだ、そして私は…、私の闘いはまだ終わっていない」
 シンジは振り返った、ゲンドウを真っ直ぐに見る。
「強いんだね、父さんは…」
「私もお前と同じだ、弱いからこそ、想い出を直視することも、そして捨てることもできないでいる、情けない話だ」
 ゲンドウは女の子に顔を向けた。
「彼女の名前は「綾波レイ」だ」
「綾波…レイ」
 シンジはようやくレイの顔をはっきりと見た。
(やっぱり、昨日の子だ…)
「シンジ」
「はい!?」
 ゲンドウは微笑んでいた。
「レイと散歩でもしてきなさい、この辺りにも早く慣れると良い」
「う、うん、わかった…、でも父さん…」
 何か言いたげなシンジ。
「…わかっている、だが今は時期ではない」
「時期って…、なんのさ?」
 ゲンドウは意地悪な笑みを浮かべた。
「すべての…だ、いずれお前にも決断せねばならん時が来る、その時、教えてやろう」
「あいかわらず…、もったいつけるんだから、父さんは…」
 シンジはため息を返事の代わりにした。
「ではシンジ、昼食まで遊んできなさい」
 ゲンドウは踵を返して枕木の階段を降りていった。
 その背にぺこりとおじぎするレイ。
(ど、どうしよう?)
 何と言って声をかければいいのか迷う。
「碇君…」
「はい!」
「いきましょう」
 レイはシンジに興味が無いのか、事務的に告げて先を歩き出した。
「あ、待ってよ、綾波さん!」
 シンジは慌ててその後を追った。


「へー、こっちには池があるんだ…」
 池と言っても、プールぐらいの大きさがあった。
 レイはその側にしゃがみこみ、手を水に浸している。
「何かいるのかなぁ?」
 水草などが生えていた、アブもちょろちょろと飛んでいる。
「えっと…、綾波さんって、父さんと知り合いなの?」
 シンジはやっと尋ねることができてほっとした。
「たぶん…」
「たぶんって?」
「覚えてないの…、小さかったから」
 水をすくう。
 指の間から、水が漏れて逃げていった。
「じゃあ、葛城さんも…、僕のことも知らないよね?」
「ええ…」
 肩越しに振り返るレイ。
 シンジはあわてて視線をそらした。
「私が恐い?」
「ち、違うよ!」
 シンジは慌てて首を振った。
「そりゃ…、昨日のこともあるけど…」
 レイの反応を見る。
 レイは無表情なままだ。
「苦手なんだ、女の子って…、何を考えているのかわからなくって」
 本音を口にした。
「そう…」
 レイは立ち上がって、真正面からシンジを見た。
「あ、綾波…、さん…」
 不思議な瞳だった、シンジは呪縛されたかのようにかたまった。
「私も苦手よ…」
 レイはそう言って、くるりと池へ向き直った。
「あまり人とは話したことがないから…」
 ふぅっと息をつくシンジ。
「はは、それじゃ、僕と同じだね」
同じじゃないわ
「え?」
 小さくて聞き取れなかった。
「あなたのお父さん…」
「うん?」
「良い人?」
 シンジは一瞬戸惑った。
「う、う〜ん…、みんなは変わってるっていうけど、少なくとも悪い人間じゃないと思うよ?、きっと…」
 控え目に答えてみた。
「自信がないの?、どうして?」
「どうしてって…」
 レイは帽子をとって、胸の前で抱き押さえた。
「自分のお父さんでしょ?、信用できないの?」
 首をひねるシンジ。
「う、うん、でも、父さんとは長い間別々に暮らしてたから…」
 レイが池に沿って歩き出した、慌てて後を追うシンジ。
「綾波は父さんのことをどう思う?」
「どうして私に聞くの?」
「うん…、ただなんとなく…」
 気のせいだろうか?、レイの耳から首筋にかけてが赤くなっている。
「私は信じているわ」
「え?」
 その強い口調に、シンジは気圧された。
「だって、私にはもう、他に何もないもの…」
 シンジの顔が青ざめた。
(ま、まさか父さん!?)
 列車の中で読んだゴシップ記事が蘇る。
(中年サラリーマンとコギャルの実体!って、綾波さんってどう見てもまだ中学生じゃないか!、父さん、どうして!!)
 一人危ない妄想に沈んでいくシンジであった。



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