月の裏側。
 月面上に影を落とす白い船体があった。
 第六使徒級、高速戦闘母艦『ガギエル』だ。
「なんてことなの、まったく!」
 金髪に泣きぼくろの女。
「レイ一人に、第三使徒級戦闘員をやられるなんて」
 ガギエルの艦橋は、まるで仮面のような特殊防壁に守られていた。
 艦橋を右から左へ歩き回る彼女こそ、この船の艦長である『ドクター・リツコ』であった。
「理論上ありえないわ、彼女がサキエルを倒すなんて」
 何故かボンテージに白衣を着込んでいる。
「彼女ではありません」
 艦橋は前方にスクリーンモニターが設置されている、奥に艦長席になっている塔があり、一段低い塔が三つ、その周りを囲むように並べられていた。
「どういうことなの?、マヤ」
 右側になる低い塔の、ショートカットのオペレーターに尋ねるリツコ。
「これを見てください」
 モニターに様々な数値が表示された。
「これは…」
「突然レイの側に出現した、謎のエネルギー反応の記録です」
 リツコは数値を、手元のコンソールパネルへ転送させた。
「瞬間的には、サキエルの十数倍のパワーを叩き出している、すごいわね?」
「戦闘員が敗れたのも頷けますよ」
 メインオペレーターの日向が、『謎の敵』についての追加情報を表示した。
「サキエルが送ってきた最後の画像です、見てくださいよ、これ」
「!?」
 黒い影といしか言い様がなかった。
 だがエヴァテクターの特徴的なツノは見て取れる。
「もう少し鮮明にできないの?」
「無理ですね、これならまだ動画状態の方が判ると思います」
 動いている絵を出す、確かに特徴はつかめたが、確認には至らなかった。
「この後ろの炎で逆光になっちゃってますから…」
「まさか…、いえ、でも…」
 リツコは聞いていなかった。
 何事かぶつぶつと呟いて悩んでいる。
「いいえ、悩んでいてもしょうがないわ」
 リツコは背を伸ばすと、大声で皆に指令を下した。
「第十使徒級輸送艇サハクイエルを出して!」
「は!」
 総勢十数名いるオペレーターが、全員立ち上がり敬礼を持ってリツコに返した。


「碇所長、大変です!」
 ミサトは応接間に飛びこんだ。
「わかっている」
 ゲンドウがテレビのチャンネルを変えていた、様々な観測機からの情報が映し出されている。
「やつらめ、狙いを絞ったか…、シンジ達は?」
「部屋へ戻っています」
「急がせろ」
 ミサトはまたも駆けだした。


「あれ、なんだろ?」
 シンジは自室の窓から空を見ていた。
 それは巨大な目を持つ、UFOに見えた。
「あ!、何か落としてる」
 距離にして1キロほど遠くだろうか?
 その両脇にある羽のような部分から、ぱらぱらと何かを落としはじめた、この距離だと米粒のように小さくしか見えない。
「湖…、昨日僕達がいた辺りだ」
 嫌な予感、と同時にミサトが飛びこんできた。
「シンジ君、早く来て!」
「ミサトさん、どうしたんですか?」
 ミサトはシンジの腕を取った。
「良いから早くして、敵よ!」
「敵?」
 一瞬その言葉の持つ意味を、シンジは飲み込むことができなかった。


「これを見ろ」
 ゲンドウはテレビのチャンネルを次々と切り替えていく。
「この周囲に設置してある、監視カメラからの映像だ」
 シンジとレイは、並んでソファーに座り、それを確認した。
「あいつ…、昨日の…」
「第三使徒級戦闘員、サキエル」
 ゲンドウはどちらの呟きにも頷いた。
 それも一体や二体ではない、少なくとも40体はいる。
「シンジ…」
 シンジは不安げにゲンドウを見た。
「出撃…」
 ゲンドウの呟きにミサトは目を剥いて驚いた。
「そんなっ、無茶です!、昨日の戦闘で疲労が蓄積しているんですよ?、それに彼にはまだ、あれだけの戦闘員と戦うだけの技術がありません!」
 必死になって庇おうとするミサト。
 だがゲンドウは無視した。
「どうした?、早く行け」
 シンジはごくりと唾を飲みこんだ。
「そんな…、そんなの嫌だよ…」
 助けを求めて、シンジは視線をさまよわせた。
「何故だ?」
 意外だというニュアンスが含まれている。
「そんなの恐いからに決まってるじゃないか!」
 シンジは訴えた。
 室内が一瞬静寂に包まれる。
「…どうして、僕なの?」
 父の顔を見ることができない。
 シンジは怖々とゲンドウに尋ねた。<BR>「お前でなければ、エヴァテクターは発動せんからな」
 ゲンドウは冷たい目を向けていた。
「注意を引くだけでいい、その間にレイを逃がす」
 シンジは顔を上げ、レイを見た。
(微笑んでる?)
 ゲンドウと微笑みをかわしている。
 シンジは拳を握りこみ、嫉妬した。
「行くなら早くしろ、でなければ部屋に戻れ」
 ばっと体を折り曲げた、シンジは耳を塞ぎ目を閉じる。
「わたしが行きます」
「レイ!?」
 ミサトは立ち上がろうとするレイを押さえた。
「ダメよ、やつらの狙いはあなたなのよ?、無理する事ないわ」
「レイ…」
 優しい目を向ける。
「お前が死ねば、代わりはいない」
「ですがわたしが死ねば、全てはおさまりますから」
 レイはミサトの手を押し返した。
「どうしても行くのか?」
「はい」
 いつもの表情に戻る。
「すまんな」
 レイは立ち上がると、うなだれているシンジへと顔を向けた。
「あなたは死なないわ」
 ソファーを回りこみ、シンジの後ろを歩く。
「さよなら」
 シンジの体がビクリと跳ねた。
 それで終わりだった。
 レイは何の未練も見せずに出ていった。
「僕は…」
 シンジは体を震わせていた。
 ミサトは隣に座ると、体を抱きよせ、震えをとめてやった。
「ほんとに良いのね?」
 シンジはびくんと反応した。
「本当に、これでいいのね?」
 ミサトはくり返す。
「あなたは何のためにここへ来たの?」
 ミサトはシンジの迷いを感じていた。
「僕は…、僕は」
 惣流のことを忘れたくて。
 笑われたことを忘れたくて。
「何かから、逃げ出してきたのね?」
 シンジは脅えていた。
「でも、ここにもあなたの逃げ場所は無かった…」
 耳を塞ごうとする、だがミサトはさらに強く抱きしめて、それをさせなかった。
「逃げてちゃダメよ、シンジ君」
 ミサトはシンジの頭を、胸に抱きしめた。
「そうやって自分の殻に閉じこもって、それでなんになるの?」
「いいじゃないか…」
 シンジは漏らした。
「いいじゃないか、逃げたっていいじゃないか…、ぼくはもう、何も失いたくない…」
 はぁ…っと、ゲンドウはため息をついた。
「シンジ、お前には失望した」
「父さん…」
 ゲンドウはテレビ画面に見入っていた、シンジの目には、その背中しか映らない。
「失うことが恐いの?、寂しかったのね…」
 その言葉に、シンジは唇を噛みしめた。
「でもね、シンジ君」
 ミサトはシンジの髪に口付けた。
「ミサトさん?」
「人は一人では生きていけないわ…、寂しいからこそ、人を、他人を求めるのよ…、見て?」
 ミサトの視線を追う、テレビ画面。
 レイが歩いていた。
「あの子には、もう帰る所もないの」
 シンジはレイから目が離せなくなっていた。
「気づいてる?、今あなたは大切な何かを失おうとしているのよ?」
 ゲンドウは小型の無線機を取り出した。
「レイ」
「はい」
「奴等はまっすぐにこちらへ向かっている」
「はい」
「やはり昨日の戦闘で、こちらの位置を知られていたようだ」
「わたしが捕まればいいだけです、問題ありません」
「やめてよ!」
 シンジはミサトの下で叫んだ。
「恐いんだ、恐いんだよ、もうあんなの嫌なんだよ!」
 蘇る恐怖。
 まぶたの裏で、忘れようとしていた出来事がフラッシュした。
 空から落ちてくる少女、水辺に現れた怪物、変身した自分、腕を折られた痛み、目を貫かれる恐怖。
「でも、あなたが戦わなければ、あたし達はやられていたわ…」
 ミサトはむりやり顔を上げさせた。
 そして強引に口付ける。
「んぐっ!?、み、ミサトさん!?」
「大人のキスよ?」
 そう言って微笑む。
「あなたが助けてくれたから、今あたしはここに居る、だからあたしはいてあげるわ、あなたの側にね」
 一転して、真剣な瞳を覗かせる。
「ミサトさん…」
 シンジの脳裏に、カナリヤのことが思い浮かんできた。
 失ってからでは遅いのだ、悲しむことしかできない。
(その悲しさから逃げようとしていたのか…、僕は)
 唐突に悟る。
(綾波さんを見捨てて、綾波さんを忘れて、逃げ出して…、そんなの無理だ、忘れられるわけないよ、僕はもう、あの時みたいに泣くのは嫌だ)
 カナリヤを埋めた手を見るシンジ。
「あなたにはまだ、あなたにしかできない、あなたにならできることがあるはずよ?」
 シンジはゆっくりと、ミサトの胸の中から抜け出した。
「できることがあって、そして何もしないままで、悔いるようなことだけを作っていくの?」
「僕は…、そんなことばかり数珠のように連ねて、生きていきたくない…」
「なら…」
 シンジの手に手を重ねる。
「行ってらっしゃい、悔いや、後悔のないようにね?」
 シンジは顔を上げた、その瞳には今までと違う光が宿っている。
 ミサトはその輝きを見て、満足げに頷いた。
「シンジ」
 ゲンドウはシンジにインターフェースを手渡した。
「父さん…」
 厳しい瞳は相変わらずだった。
(だけどそれだけじゃない)
 今はその奥にある優しさまで感じ取れた。
「本当は…、僕はまだ迷ってる…、けど…」
 ゲンドウはただ頷き、それで十分だと伝えた。
「うん…、うん、わかった、行ってくるよ、父さん!」
 シンジは、レイの後を追って飛び出した。
「シンちゃん、帰ってきたら続きをしてあげるからねぇ!」
(続きって…)
 ちょっとだけ期待に胸をふくらませる。
 ふうっと、ミサトは胸をなで下ろした。
「うまく乗せましたね」
「ああ、だが正直あそこまでするとは思わなかったぞ?」
(思春期の少年には刺激が強過ぎたかしら?)
 テレビの中、やたら元気に走っていく少年を見て、ミサトは思わず笑みをこぼしていた。



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