ふうん…、シンジ君って言うんだ…
 リツコの研究室。
 マヤはそのサブデスクで幾つかのウィンドウを開き、その下に埋もれさせるようにして、こっそりとシンジに関するデータを呼び集めていた。
「マヤ、どうしたの?、キータッチが0.5も遅くなってるわよ?」
「あ、先輩っ、ごめんなさい!」
 いっけない!っと、あわてて仕事に戻る。
 これ、あたしのせいで増えちゃったお仕事なんだから…
 いま片付けているのは、レリエルが消滅に至るまでに送り付けて来た、シンジとオリジナル、それと空間操作に関する膨大なまでのデータであった。
「ロンギヌスの槍…、まったく、一体どこからあんなものを…」
「そうですね…、あれってばゲンドウがユイ様を連れて逃亡を図った時に、一緒に行方不明になっちゃった代物なんですもんね?」
 気のせいかなぁ?、先輩、顔色が悪い…
 気のせいなどでは無かった。
 どうして報告しないのかしらね?
 リツコはゲンドウとミサトに会った事を隠していた。
「先輩!、コーヒー…、入れましょうか?」
「え?、ああ、頼むわね?」
「はい!」
 元気な振りを装う。
 ピ、ピ、ピ…
 一度に数百と言う種類のデータを、一瞥するだけで頭に叩き込んでいく。
 リツコはその内の一つで手を止めた。
 これは?
「はい、先輩…」
 ことりと、リツコのデスクにマグカップを置き、そのままお盆を胸に抱いて、マヤはすまなさそうにしょげかえった。
「どうしたの?」
 特に気にした様子も見せずに、リツコは一口コーヒーを含む。
「先輩、すみません、あたしのせいで…」
 ああ…、とカップを置くリツコ。
「気にする事はないわ?」
「でも…」
 と続ける。
「姿を消していたのは、その必要があったからなんですよね?、それなのにあたしったら、勝手な事をしちゃって…」
 そういう事になってるのね…
 リツコはようやく、自分が姿をくらませていたことにどういう理由を付けられているのかを知った。
「あたしも失敗続きですもの、気に病む事なんて無いわ」
「あたしのは違います!」
「マヤ?」
 その勢いの激しさに驚く。
「どうしたの?、一体…」
 あっ…っと、マヤは急に小さくしぼんでしまった。
 だって…、あたしは使徒を暴走させた上に、敵に助けてもらっちゃったんだもの…
 その上、その敵のことが酷く気になっていた。
「いいのよ、マヤ…」
「先輩…」
 穏やかに…、子供の悪戯を許す母親のような目を向けていた。
 その目に逆に居心地の悪さを感じるマヤ。
「でも…」
「いいのよ…、それに面白いデータも録れたしね?」
 ピっと、ウィンドウに指を触れる、そのウィンドウに関係のあるデータが、優先度の高い順に一瞬で65534件にまで絞りこまれた。
「ほら、これを見て?」
「…これは!?」
 そこにはレリエルが槍によって捕らえられた時の、詳細なデータ群が表示されていた。
「これは本当に、貴重なデータだわ」
 リツコの瞳に、ようやくあの危険な光が戻りはじめていた。


「死ぬ、このままでは確実に死んでしまう…」
 片腕を洋式便器に突っ込んで、シンジは青い顔で弱々しく呟いていた。
 寝間着の襟元が吐いたもので汚れている。
「いったい、どうしてこんなことになっちゃったんだろう?」
 何とか踏ん張って立ち上がり、口をゆすごうと洗面所へ向かう。
「酷い顔…」
 ジャーっとコップに水を汲む、それを口に含もうとした所で、シンジは手を止めて鏡に見入った。
「……」
 視線が一点に注がれる。
 シンジはゆっくりと指を動かし、唇に触れた。
 そっか、キス、されたんだっけ…
 鼓動が速くなり、体が火照り出す。
「な、何バカなこと考えてんだろ!?」
 水を思いっきり口に入れて、ぐじゅぐじゅと動かした。
 ぺっと吐き捨て、両手を鏡の前につく。
「でも…、急にどうして、あんなことをしたりしたんだろ?、惣流さん…」
 名前で呼べとか、朝ご飯を食べろとか…
 からかってるのかな?
 きっとからかってるんだよな…
 いつもの癖だろうか?、最悪の方向へと考え進んでいく。
「そうだよな、でないとあんなことするわけ…」
 自分の考えに胸が苦しくなっていく。
 心臓の、少し下の辺りを押さえる。
「初めて…、キス、されたんだよな」
 初めて…?
 じゃあ、惣流さんは?
 ズグン!
 苦しい…
 胸が激しくうずいた。
 ズクン、ズクン、ズクン…
 そうだよな…、惣流さんにとっては、きっとなんでも無い事なんだ…
 悪い方向に考えておけば、結果がどうであれ泣くような真似はしなくてすむ。
 わりと冷めきった心で、それを受け入れることができるからだ。
 期待しなければ、失望するようなことは無い…
 希望を持たなければ、どんな出来事にも無関係を装える。
 それはアスカに手紙を送った事から学んだ知恵だった。
「僕をからかって、そんなに楽しいのかなぁ?」
 歯ブラシを取る。
「きっとおもちゃみたいに思ってるんだろうな、僕のことなんて…」
 それはある意味、正しい見解だろう。
「でも…」
 嫌な目じゃない…
 アスカの青い目を思い出す。
 カナリアを殺してしまったような連中とは、まるで違う澄んだ瞳だった。
「瞳?」
 目。
 何かが引っ掛かる。
「痛い!」
 ズキンとこめかみに激痛が走った。
「なんだ?」
 鏡を見る、こめかみを押さえている自分が映っていた。
「目がどうしたって…」
 ズキン!
 痛みと共に何かが見えた。
「目に映るもの?」
 痛みが酷くなる、鏡と自分の目が合わせ鏡となって、無限にシンジの顔を映し出していた。
「うぐ!」
 吐気が込み上げて来た、先程とはまるで質の違う気持ちの悪さに、思わず口元を押さえてしまう。
 ズキン!
 目に何かが映っていた。
 ズキン!
 そこにはシンジが映っていた。
 ズキン!
 そこにはシンジで無いものが映っていた。
 ズキン!
 見ていたのはシンジでは無かった。
 ズキン!
 青い瞳だった。
 ズキン!
 緑色の目が映っていた。
 ズキン!
 それは…、それは僕だった…
 ゆっくりと顔を上げるシンジ。
 わずか数秒のうちに頬がこけ、目の下にはクマが浮かんでいた。
「そうだ…、あの時僕は…」
 惣流さんに…、拒絶されたんだ。
 吐気によるものではない気持ちの悪さに、シンジの目は潤みはじめていた。
 拒絶、拒否、嫌悪。
「僕は…、僕は!」
「だからどうだってのよ!」
 外?
 その怒声は、裏庭の方から聞こえて来ていた。


「なぁによ、こんな所に呼び出して…」
 館の裏手、雑草が目立ちはじめている花壇の間を、アスカはレイについて歩いていた。
 くるっと振り返るレイ。
「な、なによ?」
 じっと見つめる瞳に臆する。
「どうして、邪魔をするの?」
 どこまで行っても、レイはとことんストレートだった。
「べ、別に邪魔してるわけじゃないわよ」
 つーんっと、そっぽを向くアスカ。
 レイはその返事に満足できないのか、少し目を細めた。
「碇君が、可哀想…」
「なっ!?」
 ばっと振り向く。
「なんでよ!」
 つかみ掛りそうな勢いで…
「拒絶したのは、あなたよ?」
 あの時のことを言っているのだ。
 エヴァであるシンジを見た時のことを。
「あれは…、だって!」
「あれも、碇君よ?」
 うぐ!っと、言葉を喉につまらせる。
「あれも、碇君の心の形…」
 両腕をクロスさせて、レイは自分の体を抱き締めた。
「わたしを守ってくれる…、碇君の心の形よ?」
 目を閉じ、陶酔するレイ。
「そ、そんなのシンジに聞いて見なくちゃ、わかんないじゃないのよ…」
「わかるわ」
 レイの返事に迷いは無い。
 それが癇に触ってしまう。
「なんでよ!」
「いつも、守ってくれるもの…」
「でもあの時はあたしもいたのよね?」
 レイは腕をまっすぐに降ろした。
 くっと顎を引いた状態でアスカを睨む。
「あなたも、碇君のことが好きなの?」
 ボっと赤くなるアスカ。
「な、な、な、なに言ってんのよ、あんたわ!」
 耳まで真っ赤になっている。
「嫌いなの?」
「べ、…別に好きだなんて、言ってないわよ」
「そう…、ならいいわ」
 ちょっとだけ態度を軟化させる。
「なら、碇君のことはわたしに任せて」
「そうはいかないわよ」
 遮るアスカ。
「どうして?」
 首を傾げるレイ。
「わっかんないわよ!」
 力いっぱい叫ぶ。
「わかんないけど、あんたたちがいちゃいちゃしてるのを見てると、胸のこの辺がムカついてしょうがないのよ!」
 はぁ、はぁ…と、肩で息をつくアスカに、レイはとても冷めたい視線を向けた。
「身勝手なのね…」
 ふんっと、反射的に反応する。
「そうよ、悪い!?」
 開き直った。
「意地悪なのね…」
「違うわ!、あたしはあたしの気のすむようにしているだけ、ただそれだけよ!」
 一瞬視線が交錯し、ぶつかりあう。
「…碇君の気持ちは、どうなるの?」
 う!っと、引いてしまうアスカ。
「碇君の気持ちは、どこにあるの?」
「そ、それは…」
 口ごもる。
「それは…」
「言えないのね?」
「い、言えるわよ!」
「自分のことが一番なのね?」
「違う!」
「自分さえ良ければ…」
「違う違う違う!」
「後のことなんてどうでも良いのね…」
「違うわよ!」
 髪を振り乱し、ついにはその場にへたりこんだ。
「違うわよ…」
 弱々しく漏らす…
「あたしは…、あたしは」
「碇君の気持ちを弄んで…、あなたはそれで良いと思うの?」
 アスカはぎゅっと口を引きむすんだ。
「あなたは…、ここに居るべきではないわ」
「やめてよ!」
 シンジの叫びが割って入った。
「碇君!?」
「あんた…」
「やめてよ、二人とも、やめてよ…」
 その場に居る中で、シンジが一番辛そうにしていた。



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