「碇君…」
そっとその額に手を乗せる。
午後の爽やかな風が吹いてきていた。
それがノースリーブのレイの服の中にも入り込んでいく。
シンジの部屋。
湖が近いせいもあるのだろう、蒸し暑さは感じない。
「わたしの存在が、碇君を傷つけていくとでも言うの?」
それは見つかりそうにない答えであった。
「当たり前ね…、知らないもの」
知らない答えが出て来るはずはない。
アスカの顔が浮かんで消える。
なにかと張り合ってしまう女の子。
インターフェースのことで、アスカは自分を卑下するかの様に悔しがっていた。
偽物。
本当にお揃いで持ってるのは、あんただけ…
傷つけてしまった…
それは後悔?
いいえ、わたしが心配しているのは、碇君のことだけですもの…
だが頭の中にこびりついていて離れない。
「なぜ?」
どうしてかわからない。
「あの人がわたしを嫌うのは、わたしが碇君を戦いにかりたたせる存在だから?」
それは自分も望んでいることではない。
そう、そうなのね…
ようやく気がつく。
「わたしは、守ってもらいたいと願っている…」
けれども、戦わずにすむのであれば、それにこしたことはないのだ。
シンジのために食事の用意をしていたこと。
毎朝起こしにいくこと。
それもまたレイの望みであったから…
シンジの喜ぶ顔が見たかっただけだと、ようやく気がついた。
「なんて簡単なことなの?」
それに気がつかなかった自分がバカに思えて来る…
だけどそれは無理…
そう、もう敵の狙いには、シンジも含まれてしまっているのだから…
「なら、どうすればいいの?」
窓の外を見る。
「どうすれば、良いの?」
緑豊かな風景。
晴れ渡る空と、真っ白な入道雲。
それらも答えを与えてくれそうにはなかった。
「ばかシンジぃ!」
バタンっとドアが開かれた。
アスカが元気よく入り込んで来る。
「あれぇ?、シンジまだ起きてないの?」
傍らに座るレイに尋ねる。
「ええ…」
「ふぅん…」
アスカはレイの横からシンジの顔に近づき、そのほっぺをぷにぷにとつついて遊んだ。
「ぷぷぷ、こいつほんとに男かしらね?、赤ちゃんみたいに柔らかいじゃないの」
「あなた、赤ちゃんいるの?」
ぶっと吹き出すアスカ。
「あ、あんたいったい、なに言ってんのよ!」
「いないの?」
きょとんとレイ。
「あんたバカァ?、この歳で子持ちなわけないじゃない!」
「なぜ?、…子供は好きな人と作るものなんでしょう?」
「そ、そりゃそうよ、だけどねぇ?」
「なら、当ってる、葛城助教授がそう言ってたもの…」
やはりミサトが何かを吹き込んでいたらしい。
あんの色ボケがぁ…
ぐぐぐっとアスカは拳を握りこんだ。
「ん…」
シンジが身じろぎをした。
「シンジ?」
そのことに二人は弾けるように反応し、ベッドの端っこに噛り付く。
「シンジ?」
「碇君…」
同時に声を掛ける。
シンジはうっすらとまぶたを開いた。
「…アスカ、綾波」
「大丈夫?」
「突然ぶっ倒れるんだもん、焦ったわよ」
シンジはレイの手助けを借りて体を起こした。
「そっか、ぼくミサトさんのカレーを食べて…」
うっぷ!
思い出したらまた込み上げた。
「ちょ、ちょっとこんな所で吐かないでよ!」
「ご、ごめん…」
怒られたことにしょぼくれてうつむく。
その目の前に、アスカは薬瓶を突き出した。
「…なにこれ?」
「胃腸薬!、少しはマシになるでしょ?」
ありがと…と、心から感謝して受け取り、二三粒口に放り込む。
「…綾波?」
レイはそんな二人をじぃっと見ている。
アスカは別段気にしていない。
ま、予想はしてたけど…、ほんとにわかりやすい子ね?
感情が一本槍なのだ。
ようやくアスカにもそのことがわかってきた。
「なによ?、薬あげただけでしょ、今まで一人で看病してたんだから、それぐらいで文句言うのはやめなさいよね?」
アスカは「一人で」の部分に強くアクセントを入れた。
「綾波…、ずっと見ててくれたの?」
なぜだか赤くなるシンジ。
レイは不安げにこくりと頷いた。
「…ありがとう」
そう言ってシンジはいつものように微笑んだ。
…微笑みと感謝の言葉。
それはレイの予想していた通りのものだった。
思っていたとおりの答えを返してくれていた。
これまでなら、それで満足できていたのに…
今はできない。
シンジの笑顔が、嘘ではないと知ってしまったからだ。
そう、作り笑いではないからこそ…
逆に不安になってしまう。
同じなの…
レイの行為に喜ぶ時も…
レイの気持ちに答える時も…
そしてわたしを守ってくれる時だって…
同じ笑顔だった。
違う笑顔などなかった。
なのに、なぜ?
不安だった。
不安なの…
アスカにだけは、どうしてたくさんの表情を見せるのか…
不安なの…
それは自分が望まれてはいない存在だからかもしれない。
不安なの…
それは自分が居座っているだけの存在だからかも知れない。
不安なの…
シンジはただ、優しいから守りたいと思ってくれているだけかもしれなかった。
優しさに付け込んでいるのね、わたし…
レイの心に疑念が生じた。
好きにすらなってくれないのね、碇君…
盲目的に信じてきた物が崩れていく。
「綾波?」
「ちょっとあんた、どうしたのよ?」
レイの顔から血の気が引いていた。
もともと白かった肌が、真っ青になってしまっている。
好きになってはいけないの?
この人は自分を傷つけてしまうから…
そうやってわたしを守ってくれるから。
守ってもらえないことよりも、傷つかれる事の方がよほど辛い。
否定と言う名の負の感情が生まれつつあった。
すっと顔を上げるレイ。
「な、なによ…」
アスカは意味もなくたじろいだ。
「…碇君を、お願い」
「え?、あ、ちょっと!」
返事も聞かずに出ていってしまう。
「…もう!、なんなのよ、あいつ」
シンジも「さあ?」っと首を傾げてしまった。
「あいつがあたしに「お願い」だって」
呆然とするアスカ。
だがお願いされたからと言って、何をどうしていいものやら、アスカには何も思い付くことがなかった…
「だったら洞木さん達と遊んでくればいいのに…」
シンジはベッドの上でぶすっくれていた。
「何ともないんだから、別に起きてたっていいじゃないか」
だがアスカは「駄目よ」と冷たい。
「せっかくのんびりできるんだから、ゆっくり寝ておきなさいよ」
「でも…」
居心地の悪そうなシンジ。
アスカはそれを見ると、あーあーそうですかっと頭を掻いた。
「出てくわよ、出てけばいいんでしょ?」
「え?」
慌てて上半身を起こすシンジ。
「だ、誰もそんなこと言ってないじゃないか」
「あんたがその目で言ってるのよ…」
背中ごしの声。
アスカ、どういうつもりなんだろ…
戸惑うしかなかった。
…もしかして、避けられるのが嫌なのかも。
自分と重ねてしまう。
重ねて…、また胸苦しさを感じた。
好きだと思った自分。
それを伝えようとした自分。
無残な結果に打ちのめされた自分。
そして逃げ出した僕…
嫌がられることが恐かった。
避けられたことが辛かった…
だから痛みの元である人から逃げ出した…
同じなのかもしれない…
そう思う。
そりゃ誰だって、避けられていい気分になる人なんていないもんな…
だからシンジは愛想笑いを浮かべた。
「僕はただ、アスカは僕の顔を見たくないんだと思うから、そう言っただけで…」
アスカは弾けるように振り返った。
「あんたバカァ?、誰がいつそんなこと言ったのよ!」
いつもより幾分本気の混じった声だった。
「言っときますけどねぇ?、あたしはあの手紙がどこぞの知らない奴だと思ったからバカにしたわけで、それがまさかあんたからだったなんて…」
「え?」
最後は小さ過ぎて聞こえなかった。
「今なんて言ったの?」
アスカは顔を真っ赤にして、ついでに頬もふくらませた。
「知らないわよ、バカ!」
パン!
小気味の良い音が鳴った。
シンジの頬が赤くなる。
「な、なにすんだよ!」
その頬をシンジは押さえた。
「叩くことないだろう!」
「あんたがはっきりしないからよ!」
そんなシンジを、怒声混じりに睨み返す。
言葉の意味を図りかねた、言い返せずに戸惑うシンジ。
「あんたがそうやって、いつまでもウジウジしてるからじゃない!」
追い打ちをかけるアスカ。
ようやくシンジはその言葉に我を取り戻した。
「なんだよ、それはアスカだろ!?、僕ははっきりと諦めたじゃないか、諦めるって…」
寝間着の胸元をつかんで押さえる。
「諦めるって、決めたのに…」
声が震えだしていた。
「決めたのに、なんで…」
シンジは声を絞りだしていた。
「なんで、会いになんて来たんだよ…」
口を開き、二・三度ぱくぱくさせるアスカ。
あたし、何を言おうとしてるんだろう?
わからなかった、だがなにか決定的なことを口走ろうとしていた。
だがそれは邪魔されてしまった。
世界の色が失われていく。
モノクロームに変化していく。
「エンジェル空間!?」
「エンジェリックインパクト、敵だ!」
シンジはシーツを跳ねのけ、ベッドから飛び降りた。
「アスカはここに隠れて…て」
「あ、シンジ!」
急な立ち眩み。
シンジは崩れ落ちるように両膝をついた。
「シンジ、どうしたのよ、シンジぃ!」
泣きそうになりながら、シンジを何とか支えるアスカ。
シンジはお腹を押さえている。
「お…」
「お?」
「お腹、痛い…」
とぅえい!っとシンジを便所に蹴りこむアスカであった。
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