誰か…、泣いてる?
深い眠りから覚めるように、ゆっくりと意識を浮上させていく。
誰?、泣いているのは…
覚醒するのを踏みとどまる、シンジはどこかに誰かの存在を感じていた。
「誰か居るの?、この先に…」
無限の闇、その果ての果てから、悲しみがシンジに伝わって来ている。
「誰?、この感じ…、僕の知ってる人?、違う…、知ってる人に似てるんだ…」
だけど誰に似ているのかはわからない。
「君は、誰?」
目を凝らす、真っ暗な中に、一つの灯火がシンジを誘っていた。
「泣いているのは、君?」
それは小さな女の子だった。
灰色の髪、灰色の頬、灰色の手。
全てが灰色で、全てが悲しみに満ち満ちている。
「どうして、泣いているの?」
うずくまったままで泣き続けている。
「どうして泣いてるのさ?」
つい苛立ってしまう。
「やめてよ、ねぇ?、お願いだから泣かないでよ…」
その姿が、母が死んだと聞かされた時の自分と重なってしまう。
「やめてよ、やめてったら!」
だが少女はやめない、シンジの言葉など聞いてはいない。
「あの時の…、僕と同じだ」
悲しみの縁に沈み込んだ自分と。
「お願いだから、やめてよ…」
シンジは少女から伝わって来る絶望に打ちひしがれていた。
「…どうして」
シンクロするように、少女と同じく涙を流す。
「どうしてこんなの見せるのさ…、母さん」
シンジは知らずに、死んだはずの母に向かって問いかけていた。
第九話 黒き断章
「碇君?」
開いた目に、ぼんやりとした影が写りこんだ。
その人影が、恋い焦がれた人と重なってしまう。
「かあ…さん?」
熱いものが頬を伝った。
「碇君…」
心配げな声、優しい手が頬に触れる。
温かい…
その温かさに、シンジは相手が誰だか思い出した。
「綾波…って、ええ!?」
そして飛び起き、後ずさる。
「綾波!、どうしたのさ、そんな格好で!?」
シンジは真っ赤になって視線を外した。
胸のすぐ下で切られたTシャツ、誰のだかわからないカット&ジーンズ。
改めて自分の格好を確認してから、レイはシンジに問いかけた。
「おかしい?」
シンジの瞳を覗きこむ。
ゴクリ…
思わず生唾を飲み込んでしまう。
おへそどころか、胸の下の丸みまで見えていた。
「おかしいよ、絶対おかしいよ綾波、そんなのまるでミサトさんみたい…」
そこまで言ってから、シンジもはっと気がついた。
「そうか、またミサトさんが…」
「うん」
レイは頷き、自分の胸元を引っ張った。
「この方が碇君の好みだって、葛城助教授が…」
「うわ、やめてよ!、引っ張らないでよ、もう!」
ちらりと見えた白い谷間に、ちょっとだけ欲望を感じてしまう。
ぞくっ!
背筋を走る悪寒と殺気。
ギギギっと、音がしそうなぐらいに体を強ばらせて、シンジは部屋の隅に立つ人物に笑顔を送った。
「あ、アスカさん…」
非常にぎこちない微笑みだった。
向こうも頬が引きつるように強ばっている。
「おはよう、よく眠れたみたいね?」
アスカは比較的穏やかな声を出した。
「どうして、ここに…」
それが逆に恐怖をあおる。
「どうしてぇ!?」
アスカのこめかみに青筋が浮いた。
「あんたが起きるのを待っててあげたんでしょうが!」
ブン!
アスカはシンジに白い物を投げ付けた。
「あいて!、なんだよ、あ…インターフェース?」
おでこに当たったものを拾い上げる。
「そうよ、盗まれたから、ちゃんと取り返しておいてあげたんじゃない!」
シンジはなんのことだかわからなくて、きょとんアスカを見返した。
「そうなの?」
「そうよ!、だからお礼は三倍で返しなさいよね?」
「三倍って…」
何をさせる気なんだろう?
シンジはこの先の受難に、「本当に僕は彼女を好きになっていいんだろうか?」と自問した。
そんなシンジをじいっと見ているレイ。
くい。
レイはシンジの腕をつかんで引っ張った。
「…え、なに?」
ぷうっと頬が膨れている。
「…碇君、また彼女のことを考えてる」
「え?、ええ!?、ち、ちが…」
ジトォ…
アスカの視線に引きつるシンジ。
「違い…ません、はい」
否定すればどうなることか…
シンジはがっくりとうなだれた。
「でも、さっきはまた別の子の事を考えてた…」
だがレイの追求は止まらない。
「誰?」
「え?」
「誰のことを夢見てたの?」
「あ、その…」
形にもならない夢の中の記憶に焦る。
レイの赤い瞳が、答えないと許してくれないと物語っていたからだ。
だけど、だめだ。
「…ごめん、本当に覚えてないんだ」
「そう…」
レイは悲しげに視線をそらした。
「隠すのね、わたしに…」
「あ、あの…」
「ほっときなさい、大体あんたは甘やかし過ぎなのよ」
「でも…」
ちえっ…
え?
シンジは聞こえて来た舌打ちに耳を疑ってしまった。
今…、確かに綾波が…
疑惑の目で見る。
「なに?」
「あ、うん、ごめん…」
気のせい…、だよな?
シンジはそう思うことにした。
「はい、碇君…」
そんな首をしきりに傾げているシンジの目の前に、レイは両手を揃えてインターフェースを差し出した。
「え?、綾波も?」
残りの片方を乗せている。
シンジはちょっとだけそれを見つめてから、笑顔でレイに感謝を述べた。
「…ありがとう、取り返してくれて」
「そんな…」
その微笑みにキュン☆と胸をときめかせるレイ。
「ちょっと!、なにそこでラブコメやってんのよ」
だがもちろん、そんな二人を見逃すアスカでは無い。
「返すもん返したんだから、あんたもちゃっちゃと離れなさいよね!」
首根っこを捉まれて、何とか抗おうとするレイ。
「だめ、まだキスが…」
「キ、キスって!?」
「あんたまだそんなこと言ってんの?」
アスカの手から逃れるレイ。
「だって、感謝の心が欲しいんだもの…」
「言葉だけじゃ信用できないってぇの?」
くっと、レイは言葉を失った。
「碇君」
仕方がないから、矛先を変える。
「な、なに?」
「御褒美…」
レイは顔を突き出し、そっと目をつむった。
刺すような視線と、頬を赤らめて心待ちにしている美少女。
シンジの顔中にダラダラと脂汗が流れ始める。
…ダメだ、ダメだ、ダメだ!
今キスをしたら、きっと後で殺されちゃうんだ!
綾波、こんなに無防備で…
はっ!、違う、そうじゃなくて!!
で、でもここでキスしておかないと、きっと後ですねられちゃうよ…
ぼ、僕は確かにアスカのことは好きだったけど、今じゃ綾波のことも…
綾波のことも、なに?
ぼ、僕いま何を…
あああああ、ダメだ間が持たない!
綾波の唇って、薄いピンク色をしてるんだ、色素が薄いからかな?
アスカと違って柔らかそうだし…って、何を比べてるんだよ、僕は!
ダメだ、こ、こうなったら一か八か!
ちゅっ☆
シンジはレイの頬にキスをした。
「こ、これで良い?」
苦笑いを浮かべるシンジ。
レイはちょっと不満そうに顎を引いたが…
「…いい、だって碇君からしてくれたもの」
とアスカに自慢した。
かたかたかたかたかた…
キーを叩く音がキッチンを満たしている。
ガシ!
無造作にソーセージを噛み千切る、健康的で白い前歯。
胸がはちきれんばかりのタンクトップに、ジッパーが半開きになっているカット&ジーンズ。
ミサトはそこら中に食い散らかしながら、ひたすらノートのキーを叩いていた。
ピーーー!
突然のエラー音と共にフリーズするマシン。
「…あっちゃー、やっぱこいつじゃ無理があるか」
細めなセーブは命を救う、データは0.5秒単位でバックアップされている、だからまったく焦る必要は無かった。
ノートは台所隅のパネル、その中にあるコネクタとケーブルで接続されている。
「やっぱ回線細過ぎるか…、テラバイトは欲しいわね」
ミサトは乱暴にノートを閉じた。
「…荒れているな」
キッチンの入り口で、いつものように後ろ手に組んで現れたのはゲンドウだ。
「あ、はは…、下だと落ち着かなくて…」
眉をしかめ、その散らかしように頭痛を覚える。
ゲンドウはミサトの正面の椅子に腰を下ろした。
「それで?、レイの様子は…、なにかわかったのかね?」
「これを見てください」
ミサトはノートを再起動した。
「感情素子の32.8%が不鮮明か…」
「また広がっているかもしれません…、いい兆候です」
ゲンドウは「うむ」と頷いた。
「乙女の心は複雑なものだ、時として愛情が憎しみに変わるほどにな?」
「乙女…、ですか?」
自分の過去の経験を探ってみる。
「ああ、人は澄んだ想いだけでは生きては行けんのだよ」
そしてミサトは感慨にふけった。
「はい、そうですね…、嫉妬するからこそ、悩み、そしてあがき続ける…」
「人をうらやみ、妬み、そして時には愛し、自らも捧げる…、違うかね?」
くいっと眼鏡を持ち上げるゲンドウ。
「汚れあるもの…、まさにそれこそが人ですね」
ミサトもそれには同意した。
そしてお互いに笑いを浮かべてしまう。
「これで君も報われる…、すまなかったな?、葛城君…」
ミサトは「いえ…」っと、はにかんだように微笑み返した。
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