なに泣いてるの?
 またシンジはあの女の子に会っていた。
 なに悲しんでるの?
 しゃくりあげているわけではない。
 苦しみにもがいているわけでも無い。
 だがシンジの問いかけには答えない。
 うずくまり、ただ涙を流しているだけだ。
 その身いっぱいにに絶望を湛えて、悲しみの縁に沈み込んでしまっている。
 目が覚めれば忘れてしまう。
 なのに今ははっきりと思い出せる。
 以前と同じ、悲しみに満ちた…
 違う…
 シンジは気がついてしまった。
 悲しんでるんじゃない。
 冷めた目で、冷静に少女を観察することができていた。
 悲しみしか知らないんだ…
 少女の姿に誰かが重なる。
 綾波?
 空色の髪。
 しゃがみこみ、その瞳に何も映そうとしない…
 昔の綾波だ。
 諦め、求めようとしなかった少女。
 何もかもに絶望してしまっている女の子。
 綾波だ。
 その二人の幻影に、さらにもう一人が重なった。
 母さん?
 しゃがみこんでいる。
 髪がかかって、表情が見えない。
 違う、そんなはずない!
 同じであるはずが無い。
 シンジは強く否定した。
 だって母さんは…
「笑ってた」
 朝日の中に、綾波の微笑みが溶け込んでいた。

第拾話 ゆれる

 今日はいつもと違うなぁ…
 シンジは味噌汁を飲みながらそう思った。
 そうか、普通に起きたからだ…
 レイはいつもよりも5分だけ早くシンジを起こしに来た。
 シンジはまるでそれに合わせたかの様に目を覚ましていた。
 おはよう、碇君。
 おはよう、綾波…
 …
 …
 朝食は?
 起きて、下で食べるよ。
 そう…
 うん、だから下で待っててよ。
 じゃ、先に行くから。
 ありがとう、綾波…
 それだけで充足してしまえる。
 ごく普通の会話で始まった朝。
 テーブルにはヒカリ特製の「日本の朝食」が並べられていた。
 ご飯、だし巻き、海苔に味噌汁に鮭の切り身。
 シンジは味噌汁の椀に口をつけたまま、上目づかいにレイを見た。
 …またどういう格好をしてるんだろう?
 薄いピンク色の上着にスカート、シャツは白、靴下も白、靴は濃い目の赤いエナメル。
 全体にフリルだのなんだのと少女趣味が丸出しである。
 …なんて言ったっけ?、そうだ、ピンクハウスだ。
 頭の上のリボンが可愛いかもしれないと思いつつ、無表情に食を進めているのでほんのちょっぴり恐かった。
 そのシンジの視線に気がついたのか?、レイは急に頬を染めて顔をそらした。
「なにやってんのよ?」
 こわ〜いアスカの囁きが耳に入る。
「あ、うん、ご飯、おかわり欲しいなと思って…」
 シンジはごまかすために、残っていたご飯をかき込んだ。
「碇君…」
「ありがとう、綾波…」
 伸ばされた手に茶碗を渡す、手が触れた瞬間、レイの小さな強ばりが感じられた。
 なに緊張してるんだろう?
 今更…と思いつつ、シンジは味噌汁を飲みながら、さらに観察を続行した。
 レイの目がおちつきなくシンジを追っている。
 それはいつもの事なんだけど…
 どこか緊張感を孕んでいた。
 そして意を決したように顔を上げるレイ。
「シンちゃん」
 ブボワァ!
「うわ、きったないわねぇ!、味噌汁吹くんじゃないわよ!」
「ご、ごめん!、だって綾波が急に変なこと言うから…」
 シンジは反射的におしぼりでアスカの顔を拭いてしまった。
「ど、どうしたのさ綾波、またなにか吹き込まれたの?」
 動揺してガシガシと拭くシンジ。
 アスカは「やめなさいよ!」っとシンジをはっ倒した。
「…今日、夢を見たの」
「夢?」
 椅子ごとひっくり返っているシンジ。
「そう、夢…だと思う」
「なによ?、あんた夢を見たことなかったの?」
 レイは答える代わりに唇を噛んだ。
「アスカ…」
 責めるようなシンジの口調に、わかってるわよと口を尖らせる。
「綾波…、それで夢がどうしたの?」
 シンジは落ちつかせるかの様に、テーブルの上で震えているレイの手に手を重ねた。
「…碇君、笑ってた」
 掌を返し、握り返すレイ。
 綾波の脳裏には、幼いシンジのあどけない笑顔が蘇っていた。
「僕が?」
 怪訝そうにシンジ、綾波は「うん」と可愛く答えて返した。
「そして…、それでわたしは、幼い碇君に「シンちゃん」と手を差し伸べていたの」
 シンジははっとなった。
 夢、そう夢だ…
 綾波と知っている人が重なった。
「母さん?」
 知らず呟いてしまうシンジ。
「…かもしれない」
 綾波は認めた。
 夢の中での自分は、まさしくその位置にあったのだから。
「それで…、僕のことをそう呼んだの?」
 レイはコクンと頷いた。
 そしてそのままじっとシンジを見ている。
 服装と冷たい目とのギャップが恐ろしい。
 だがシンジはクスッと笑うと、レイの瞳をまっすぐに受け止めた。
「良いよ、綾波がそう呼びたいんなら…」
 予想外の返事だったのかもしれない、レイは驚くようにどもってしまった。
「あ、ありがとう…」
 そしてパタパタと足音を鳴らして部屋を出て行く。
 シンジは暖かくその姿を見送った。
 頬に手を当てて…、きっと赤くなってるんだろうな、なんてのどかなことを考えながら。
 アスカが氷の微笑みを浮かべているとも気付かずに…


 カチッと、白い指先がキーを叩く。
 仕事のし過ぎかしらね?
 リツコは自分の指が太くなっているような気がしていた。
「先輩、これを見てください」
 この子、いつから先輩って呼ぶようになったのかしら?
 素朴な疑問を抱きつつ、リツコはマヤの送って来たデータに目を通した。
「…やっぱりね」
 前回、前々回の使徒についてのデータである。
「ATフィールド、実装されているなんて話、聞いてないわ」
 眉間に皺を作ってしまう。
 本国のメインコンピューター、MAGIと直結回線を開いてデータを呼び出しにかかるリツコ。
「…やっぱりね」
 そして苛立たしげにコーヒーを飲み干した。
 以前は無かったはずの情報が、リツコをからかうかのように表示されていた。
「そんな!、この間検索した時には、確かにこんな情報無かったのに…」
「後から追加されたのよ…」
 秘密にしておきたかった、誰かの手によってね?
 リツコにはそれが誰だか分かるような気がしていた。


 ブロロロロ…
 車の振動が心地いい。
 シンジは久しぶりに見る、屋敷の周辺以外の景色に心を奮わせていた。
「…で、どこまで行くんですか?」
 運転席で鼻歌を歌っているミサトに尋ねる。
「おっきな街まで、ご機嫌な車で買い出しよん☆」
 ミサトのルノー、どてっ腹に書かれた「MK2」が何の意味をさすのか?、シンジはあえて聞いてなかった。
「ま、いいですけどね、アスカも恐かったし…」
 命からがら、出かけ際のミサトを捉まえて、強引に着いて来たのである。
「なに笑ってんですか?」
 シンジはぶすっくれて聞いた。
「変わったと思ったのよ」
 温かい目を向けるミサト。
「そうでしょうか?」
 シンジは窓に映る自分を見た。
「そうよ…」
 その顔を指でなぞってしまう。
「どこがですか?」
 峠道の景色は、どこまでも緑一色であった。
 片側に山林、反対側に急流。
 それはシンジが始めて見る、自然というものの姿だった。
「そうね、明るくなったわね」
 一緒になって苦笑するシンジ。
「…そうですね、自分の中に閉じこもってる暇なんて、なかったから」
 そしてちょっとだけ考え込んでしまった。
「でも、やっぱりダメだと思います」
「なにが?」
 キュキュッとタイヤが軽く滑った、スピードメーターを見れば80キロを越えている。
「また元の学校に戻ったら、きっと僕は…」
 暗くなって落ち込んでしまう。
「…恐いのね?」
「はい」
 見透かすミサト。
 シンジも否定はしなかった。
「…綾波、アスカも、エヴァとの繋がりがあるから、エヴァが見せてくれたから、僕は二人を信じられたんです」
 自分を傷つけない存在だと…
 受け入れてくれる人達だと…
「それだけです、だから…」
「他人を信じられない?」
「…恐いんです」
 ノートや教科書に、知らない間に書かれた落書き。
 ヒトゴロシの子
 捨てられる上履き、机の中に放り込まれる生ごみ。
 嫌な記憶が蘇る。
「信じられるわけ、ありませんよ…」
 シンジの表情は、一瞬夏休み前のものに戻ってしまった。
「だったら、がつんとやっちゃえばいいじゃない!」
 ミサトは片手をハンドルから離して、力こぶを作って見せた。
 明るい表情に心が和む。
「がつんとって…、そんなの僕にできるわけありませんよ」
 その腕の太さに驚くシンジ。
 女性としては平均的なのだろうが、それでもシンジよりは太かった。
「どうかしらね?、だって訓練だってしてるし、なにより使徒に素手で殴りかかってったじゃない?、それに比べれば同年代の男の子の動きなんて、トロイもんだし、余裕よ、余裕!」
 ミサトはケラケラと明るく笑う。
「シンジ君?、向こうは自分のおもちゃにできる相手を探してるだけなのよ?、でもあなたは命をかけることを知ったわ…」
「はい」
 シンジにも、何が言いたいのかは分かっていた。
「でも、あれは綾波や…、アスカを助けたいと思ったから…、だから」
「優しいわね?」
 優しい?
 シンジは怪訝そうにミサトを見た。
「人のためなら身を投げ出せる…、いいことじゃない?」
 そうだろうか…
 シンジは自分の汗ばんだ手を見て、何度か握り直してしまった。
 僕は、二人がいなくなってしまうのが嫌で、戦ったわけだから…
 自分のために。
 自分の勝手な欲のために…
 それがどうしても引っ掛かってしまっていた。
「何考えてるか分かるわよ?」
 スピードをゆるめる、街が近いのだ。
「わかりますか?」
「わかるわよ、でもね、こうは考えられない?」
 え?っとシンジ。
「あなたは命を賭けて戦った…、でもね?もし、自分のために戦っているのなら、死んでもいいなんてこと、考えられないんじゃないかしら?」
「それは…」
 片目をつむるミサトに、シンジは返事ができなかった。
「あなたはしっかりと生きているからこそ、あの子達の存在を感じていられるのよ?」
 信号が見えた、赤だ、ミサトは車をいったん停めた。
「なら死んでもいいから戦う、なんてことできないはずだわ、だって死んでしまったら、あの子達の笑顔を見れなくなってしまうんですもの…」
 青、再びアクセルを踏む。
「そんな上等なものじゃありませんよ」
 シンジは軽くシートに押し付けられる感じを味わった。
「だって、僕は去ってしまう姿を見たくないだけだから…」
 それなら、先に死んだ方が楽だから…
「だから、体の痛みなんて我慢できるんです」
 それだけです。
 シンジはうつらうつらとし始めていた。
 ミサトの話によれば、街まではまだ30分はかかるだろう。
 ミサトの微笑みが見えたような気がした。
 シンジはそれを了解の意味と取り、そして浅い眠りへと落ちたのだった。



[BACK][TOP][NEXT]