とたとたとた…
 廊下を歩く音がする。
 バタン。
 開く扉。
 向こう側には、冷たく確認を行う赤い瞳。
 一人一人、確実に。
 おさげ、めがね、じゃーじ、さる。
「誰がよ!」
 バタンと戸が閉じられるのと、アスカの投げ付けたクッションがぶつかるのが同時だった。
 とたとたとたと、足音が遠ざかっていく。
 バタン。
 そしてまた数秒後に閉じる音がした、くり返し、リピートしていく。
「…あいつ、一体なにやってんのよ?」
 アスカは怒りに息を荒げていた。
「碇君を探してるんでしょ?」
 あ〜っと、ポンと手を打つアスカ。
「そう言えば見かけないわねぇ…」
 不敏な奴…、ともらい泣きをしてしまうケンスケ。
「あいつなら、ミサトさんと一緒に下の街だよ」
「街ぃ!?」
「着るもん買うて来るて、ミサトさんについてったわ」
 着るもんねぇ…と、アスカは考え込んだ。
「そう言えばあいつ、今日はシンジの服着てなかったけど、どういうつもりなのかしら?」
 はぁっとため息をつくヒカリ。
「…碇君に対抗意識燃やしてるのよ」
「どうして?」
 アスカは意味不明とばかりにクエスチョンマークをばらまいた。
「シンジぃ、可愛かったからなぁ…」
 トウジの呟きに引く一同。
「そ、そんな意味ちゃうてぇ!」
 だが冷たい視線は変わらなかった。
「ま、あんたの変態趣味で困るのはヒカリだけだからいいとして」
「なんでよぉ!」
「ほんとに聞きたい?」
 う、やっぱりいいっとヒカリは引っ込んだ。
「でも鈴原の言うことも分かるわ…、碇君、ほんとに可愛かったし」
「だからそれがどうしてあいつの行動に繋がるのよ?」
 ヒカリは本当に分からない?っと、考えるように促した。
「…自分の好きな男の子の方が可愛いって、ちょっと悔しくない?」
「あたしは…」
 はっとするアスカ。
 ケンスケの興味深そうな目に気がついて、アスカは冗談っぽく切り返した。
「あたしなら彼氏の方を鍛えるわよ、女っぽいのなんて絶対に嫌!」
 ま、それもそうかと納得する。
「でも、碇君男らしい所もあるから…」
「どこがよ?」
 ヒカリはまたもやため息をついた。
「…命がけで戦ってるのは誰かしら?」
 さすがのアスカも、これには反論するわけにはいかなかった。


「レイ、何をしてる?」
 ゲンドウは裏庭で池の底をさらっているレイに頭痛を禁じえなかった。
 もんぺにゴム長。
 黙々と水の底を棒でつつき、スコップでさらい、何かを探しているレイ。
「…シンジなら出かけたぞ」
 ぴくっと耳が動いた。
「不安か?」
 顔を上げる、真っ白な頬に黒い泥が付いていた。
「まだシンジの側でしか笑えないのだな、お前は…」
 寂しそうなゲンドウの表情に、綾波もつられて影を落としてしまう。
「いや、だが今はそれでも良い…」
 ゲンドウは手を差し伸べた。
「上がりなさい、直に帰って来る、心配ないよ、レイ…」
 その笑顔にレイははっとなった。
 シンジとゲンドウの笑みが重なる。
 レイは自然と、ゲンドウに向けて微笑みを浮かべることができていた。


「綾波?」
 シンジの前には綾波レイが立っていた。
「さよなら…」
「ど、どこへ行くのさ、綾波!」
 レイは興味も無さ気に振り返る。
「帰るの…」
「帰るって、どこに!」
 歩き、離れるのをやめる。
「敵を倒してくれたのはあなたよ?」
 そして不思議そうに小首を傾げた。
「だから帰るの、さよなら…」
 綾波!
 シンジは背後に人の気配を感じて振り返った。
「アスカ!?」
 来た時と同じ格好、手には大きなバッグを下げている。
「さよならを言いにね?」
 あっ!
 綾波を探す。
 だがもう、どこにも彼女の姿は見えなかった。
「それじゃ…」
 アスカも立ち去ろうとする。
「ど、どうして…」
 シンジの手が力なくアスカを追いかける。
「だって学校始まるしさ、そうそう長居してられないのよ」
 アスカの答えは、レイよりもずっと現実的だ。
「それとも、一緒に来る?」
 シンジの脳裏に嫌な思い出が蘇った。
「…でしょうね」
 アスカはクスリと、小馬鹿にして背を向けた。
「じゃね」
 そして後ろ手に挨拶して行ってしまう。
「アスカ…、綾波」
 みんな…、みんな行っちゃうんだ…
 シンジは忘れかけていた記憶まで掘り起こしてしまっていた。
 父さん!、母さん!
 シンジを置いて行ってしまう両親。
 理屈ではなく、置き去りにされてしまう恐怖に脅える。
 やだ…、やだよこんなの…
 そしていじめに会う。
 だが反抗はしない、無視される方がよっぽど嫌だったから。
 バケツで泥水を引っ掛けられる。
 そんな関係でも、人との付き合いであることには変わりはなかった。
 僕は、一人じゃないんだ…
 歪んだ逃避行動。
 同じか…
 そしてまた同じことをくり返すんだろうな…
 途中から夢だと気がついていた。
 だからこそ、そんなことを考えてしまっていたのだ。
 …なら、くり返さなくても済むようにすればいい。
 具体的には?
 シンジは考えた。
 …これ以上、誰かに頼らないこと。
 誰かが側にいてくれると言う安心感は、逆にそれをなくした時の喪失感を増長させてしまうから。
 溢れんばかりの寂しさで満たされてしまうから…
 人なんて、愛さない方が良いのかもしれない…
 シンジは揺り起こされるまで、ずっとそんなことに考え巡らせてしまっていた。


「シンジ君、着いたわよ?」
 熟睡しちゃってのか…
 シンジは口の中の気持ち悪さに顔をしかめた。
「良く寝てたわねぇ?」
「寝る癖がついちゃってるのかも」
 冗談混じりに、シンジははにかんでシートベルトを外した。
 外に出てみる。
 シンジの感想は、「普通の街ですね」、だった。
「一体どんな所を想像してたのよ?」
「いや…、もっと田舎なのかと」
 そう思ってから、峠道でさえ高速並みの速度が出ていたこを思い出した。
 時間は屋敷を出てから1時間半。
「そりゃ都会まで出てこられるよな…」
「あん?、何か言った?」
「い、いえ…、それよりミサトさん、僕は何をすればいいんですか?」
 シンジは手持ちぶさたにミサトを見上げた。
「何って…、服買うんじゃなかったの?」
「あんなの言い訳ですよ」
 シンジは両のポケットの中身を引っ張り出した。
「財布だって持って来てないし…」
 苦笑するミサト。
「じゃあ食料品とかの発注だけ先に済ませるから、それまで待ってて?」
「はい、あの…、その後は?」
「持って帰れる物を積み込むから、その手伝い、いいわね?」
「はい」
 シンジはジュース代だけ奢ってもらうと、適当な自販機で紅茶を買って車に戻った。
 プシュッと開け、少し手に飛び散った滴を舐め取る。
「…父さんは、それでも人を好きになれるのかな?」
 唐突に、シンジはそんなことを考えてしまった。


「シンジは好きかね?」
 コクリと頷く綾波。
 着ているものは元に戻したのだが、色違いで黄色になっていた。
「そうか…」
 ユイの墓前で、二人はそこから見える景色を眺めていた。
 いや、二人ではない。
 アスカがずっとお墓に手を合わせている。
「もし…、シンジがお前を捨てたらどうする?」
 綾波の顔に動揺が走った。
「おじ様!」
 アスカが怒りに立ち上がる。
 ゲンドウはゆっくりと振り返った。
 アスカですらたじろいでしまうほどの威圧感を感じる。
 …なに?、こんなおじ様初めて。
 ゲンドウはくいっと眼鏡の位置を正した。
「わたしは…、違うな、わたし達はシンジに「愛情」、「愛すること」の意味を教えてやることができなかった…」
 ゲンドウの瞳はアスカを通り越して、その向こうのユイの墓を見ている。
「…だからだろうな、シンジは確認して安心しようとしているのだよ」
「確認?」
 アスカと同様に、レイもゲンドウを見上げていた。
「そうだ、自分は愛されたことがない、だが人に優しくすることで、自分は愛を知っていると確認しているのだよ」
「そんなの!」
 アスカは強く否定した。
「エヴァの中であたし達は確かに…」
 はっとする、綾波の瞳に。
 あたし達、その言葉の意味に気がついて。
 綾波と同じ想いに気がついて、アスカははぎゅっと口をつぐんでしまった。
 アスカ、次いで綾波に視線を動かすゲンドウ。
「シンジは愛してくれているかね?」
「はい」
 綾波の返事に迷いは無い。
「そうか…」
 だがゲンドウは複雑な表情をした。
「だから、お前はシンジしか見ないのか?」
 その言葉に、深く考え込むレイ。
 しかしそれも一瞬のことだった。
「違います」
 はっきりと、そう伝える。
 次いで綾波はアスカを見た。
「彼女も、わたしを大切に思ってくれています」
 んな!?
 アスカは予想外の言葉に反応できなかった。
「あ、それは、あの…」
 ついつい焦り、どもってしまう。
「彼女も碇君のことを好いています…」
 少しだけ苦しそうにうつむく綾波。
「だけど、その碇君が大切にしているわたしだから、彼女はわたしも大切に扱ってくれています」
「物みたいな言い方はやめなさいよね…」
 アスカの気づかいがうれしかったのか、レイの口元に微笑が浮かんだ。
「碇君を通してしか、わたしの世界は広がらないの…」
 アスカを見るレイの瞳は温かい。
「だから碇君がいなければ、わたしがわたしである必要性は失われてしまうのよ…」
 表情にも柔らかいものが混ざり始めている。
 しかしアスカにはその意味がわからない。
「碇君にとって、あなたが必要なように…」
 わたしには碇君が必要なだけ…
 綾波は寂しげな瞳で、白い入道雲を見上げていた。



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