きゃう!
「綾波ぃ!」
 シンジはあらん限りに叫んでいた。
 くう!
「綾波!」
 何も不思議には思わない、シンジの頭の中には、はっきりとレイの悲鳴がこだましていた。
 なにこれ、嫌…
 わたしの中に入ってこないで…
 わたしの想いを汚さないで…
 わたしの心を覗かないで…
 わたしはわたしでありたいの…
 あの人と同じ?、そう、同じ。
 わたしもわたしでいたいのよ!
 碇君!
「綾波!」
 シンジには見ていることしかできなかった。
 ヘビの頭がエヴァンゲリオンの内部に潜り込んでいく、まるで寄生生物のように。
 エヴァの装甲にミミズばれのような物が広がった、使徒が体内で侵食しているのだ。
「まさかこうもうまくいくとはね…」
 キッと、シンジはリツコを睨み付けた。
「悪く思わないでね?、でもこれがあの子のためなのよ…」
「なにを…、するつもりなんですか?」
 リツコの口が動いた。
 再フォーマット。
 無音の世界が広がった。
 なに?、なんて言ったの?
 何も聞こえなくなってしまう。
 リツコは得意げに説明を続けている。
 だが耳にはなにも入ってこない。
 なんて、言ったの?
 シンジは呆然として振り返った。
 巨大な綾波を見上げてしまう。
「元のお人形に戻してあげるの」
 う、あ…
 シンジの中に、綾波との記憶が蘇りだした。
 十二枚の羽根を持つ、光り輝く少女。
 ゲンドウにだけ微笑んでいたことへの衝撃。
 その笑みがシンジだけのものとなった瞬間。
 怒った顔、泣いてる綾波、微笑むレイ。
 走馬灯のように、綾波レイとの思い出が蘇る。
うわああああああああああ!
 そして何かが弾けた時、シンジは雄叫びを上げていた。


 ビクン!
 マスターの体が一瞬跳ねた。
「終わったわね…」
 リツコは気を抜いたように呟いた、だがすぐに驚きに緊張を作り直さなければいけなかった。
「なんですって!?」
 ヘビの閃光が明滅し始めた、それはすぐにくすんでしまう。
「そんな、あり得ないわ!」
「うわあああああああああ!」
 シンジは相変わらず叫んでいた。
「うるさいのよ!」
 サキエルがリツコの意志を汲み取った。
「シンジ君!」
 絶望に顔を背けるミサト。
 キィン!
「そんな、あり得ないわ!」
 ギ、ギギ…
 シンジは光の剣を受け止めていた。
「変身もしていなのよ!?」
 八角形の金色の光が生まれていた。
「インターフェースも装着していないのに、できるはず無いわ!」
 リツコの手の内ではインターフェースが光り輝いている。
(物理的接触も無しにインターフェースを起動している?、いえ、守ろうとしているの、レイを!)
 ミサトはエヴァを仰ぎ見た。
「いけるわ!」
 フルォオオオオーン!
 エヴァがシンジ同様に雄叫びを上げた、それに合わせて使徒がボコボコと気泡を作り泡立ち始める。
「何が起こっているの!?」
 すべてがリツコの常識を越えてしまっていた。
 エヴァは使徒の体をつかむと、引き抜かず逆に巻き取った。
「!?」
 使徒とエヴァの体が融合していく。
「エヴァリオン…」
 そこには、間違いなくシンジと合体した時の綾波が立っていた。
(碇君!)
 ブゥン!
 右手が振るわれた。
「「きゃあ!」」
 突風に踏ん張る二人。
 シンジはATフィールで風を避けた。
 パン、パパン!
 その周りでサキエル達が、黄色い液体に変わって弾けた。
 風船が割れるように、飛沫となって散ってしまう。
「ATフィールド…、そうなのね?」
 リツコは呆然として呟いていた。
「エヴァも使徒も、元々は同じ物から作られているんですもの…、同調すれば取り込むことはたやすいわ、そして…」
「それを防ぐためのATフィールドでもあったわけね?」
 とお!っと繰り出された蹴りを、リツコはバックステップしてかわしていた。
 右腕を押さえ、苦痛に顔を歪ませているミサト。
「これであなたの勝ちは無くなったわ」
「それはどうかしら?」
 リツコは拳を残っていたサキエルの体に打ち込んだ。
「あんた…、まさか!」
 ずぶりと肘までめり込んだ腕、それを引き抜いた時、掌からはインターフェースが失われていた。
 あ…
 かくんと崩れ落ちるシンジ。
「シンジ君!」
(あう…)
 レイも同時に膝をついてしまっていた。
 ドロドロと白い流体物質が流れ落ちていく。
 中からオレンジ色のエヴァンゲリオンが現れた。
 力尽きたように両手を地面についてしまっている。
(碇…、くん)
「こうなれば、最後の手段ね?」
「悪あがきを!」
 だが蹴り出されたミサトの足は、簡単にサキエルに捉まれてしまった。
「きゃ!」
 女性らしい悲鳴を残して、放り投げられてしまうミサト。
「悪く思わないでね?」
 リツコの呟きと、ミサトが電灯に背をぶつけたのが同時だった。
「ぐっ、はっ!」
 息を吐く、血が混ざっていた。
 どさりと落ち、そのまま悶絶して動けなくなってしまう。
「その子を回収して、行くわよ?」
 リツコは空を見上げた。
 シンジを小脇に抱えるサキエルと共に、サハクイエルに回収を命じる。
 サハクイエルから光が伸び、リツコ達を空中へ浮かび上がらせた。
「まったく、世話の焼ける…」
 その動きを追っている一つ目に、眉根を寄せるリツコ。
(碇…、くん)
 エヴァの腕が持ち上がった。
 震える指先。
 それはぼやけた視界の中でシンジに届いているのに、触れられない。
(ダメ…)
 綾波は四肢に力を入れた。
(ダメ…)
 立ち上がる、だがまだ足元がふらついてしまっている。
(行かせない)
 シンジを指先が追いかける。
 サハクイエルが上昇をはじめた。
(わたしには、碇君しかいないもの…)
 みな、碇君と共にいるわたしに微笑みかけてくれるもの…
(もう、戻りたくないの…)
 先程の恐怖が蘇って来た。
 良く覚えてない記憶。
 黄色い視界、無表情な男女、医師?
 奇異な瞳、嫌悪する目つき、罪悪感に歪む視線。
(忘れていたいのよ…)
 それらをシンジの微笑みが塗り潰してくれていた。
(だから、離さない)
 エヴァの体が発光をはじめた。
(取り戻すの、わたしの居場所を…)
 光が頭部から爪先へと全身を包み込む。
(わたしの、碇君を)
 そして光はまた頭から足先へと消えていった。
 その下には、青いエヴァマスターの姿があった。
(碇君!)
 ザシュ!
 空間を渡ったかの様に、一瞬でかき消える巨人の姿。
(碇君!)
 綾波の悲痛な叫びは、ちゃんとシンジにまで届いていた。


「先輩!」
「大丈夫よ…、これ、保管しておいて」
 リツコはマヤにインターフェースを手渡した。
「やりましたね、先輩!」
「ええ…」
 疲れた様子のリツコ。
 だが追い打ちをかけるかの様に、非常警告音が鳴り響いた。
「何事なの!?」
 サハクイエルは雲を貫き上昇している。
 リツコは操縦席に飛び込んだ。
「レイです、追って来ます!」
「なんですって!?」
 日向を押しのけモニターを確認する。
「まさか!?」
 青いエヴァンゲリオンが上昇して来る。
「ハイパーモード、あの子、そこまで…」
 エヴァのジャンプによる上昇速度は、サハクイエルを上回っていた。


 碇君!
 綾波?
 シンジの手がピクリと動いた。
 嫌!、一人はもう嫌なの!
 うん…
 寂しげに微笑む。
 僕もだよ…
 シンジは夢の中で、綾波の手をつかもうとしていた。


「今度はなに!?」
 サハクイエルの左翼が変形をはじめていた。
「こ、これは…」
「人です、人の手に変化します!」
 歪むように手の平の型を形作っていく。
 ぎりぎりと意志に反して伸びるように、ねじれ、手を伸ばし追って来るエヴァをつかもうとしている。
「まさか、あの子が!」
 リツコは慌ててシンジの元へととって返した。


 綾波…
 碇君…
 微笑むように、レイが近寄って来る。
 シンジはそれが嬉しくて、手を差し伸べていた。
 指先が触れ合おうとする。
 繋がった手が、永遠のものになればいいと願っていた。
 もう、あんなことは考えたくないんだ…
 置き去りにされる恐怖。
 帰りたくないの、あの頃に…
 虚無に囚われていた頃の心無い自分。
 だが、その夢は叶わなかった。
(あ!)
 しゅるんと、つかむ寸前にサハクイエルの翼は元の形を取り戻し、綾波の手をすり抜けてしまった。
(碇君!)
 地上数千メートルの高度、ついにエヴァは失速をはじめた。
(碇くーん!)
 絶叫に近い、だがもうシンジの声は聞こえない。
 遠ざかるサハクイエル。
(ああ…)
 綾波の瞳から、絶望の涙が流れ落ちた。
 ドザォン!
 そして派手に飛沫を上げて、エヴァオリジナルは日本海溝へと没していった。


「…これを素質というのかしらね?」
 隔離室にシンジを放り込み、リツコはようやく人心地をついていた。
「解剖しちゃうんですか?」
「まさか、尋問が先よ?」
 マヤは不安を覚えた、リツコはきっとシンジのことを…
「シンジ君…」
 そのマヤの呟きは、リツコに聞こえないよう漏らされていた。


 そしてシンジはまた夢を見ていた。
 泣かないでよ…
 あの少女と同じように、綾波がしゃがみこんで泣いている。
 泣いて…、いないのかもしれない。
 その瞳に悲しみの色が無かったからだ。
 ただ涙が流れているだけ…
 母さんは、笑ってたよ。
 シンジ…
 綾波、言ったじゃないか…
 夢の中で、僕のお母さんだったって…
 そこでシンジははっとなった。
 前に見た夢を思い出してしまう。
 違う、母さんは…
 笑ってた?
 シンジには、母の笑顔以外の記憶が無かった。



続く



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