日本海溝。
その深遠部とも言えるほど深い所で、神秘的な光景が展開されていた。
降り積もる雪。
儚い命のむくろ達が、彼女を送るかの様に供に暗闇の中へと沈んでいった。
綾波レイ。
変身は解かれている、プラグスーツが発光しているのは、その様な機能があるからだろう。
しかし背中で光っている、12枚の翼については説明できない。
(碇…くん)
動かない腕の代わりに、翼が求めるかの様に上に向かって伸びている。
あるいは、尾を引くように…
(誰もいない…)
寒い…、と感じる。
ここには誰もいない。
命の気配すらも無い。
カシュン…
インターフェースが前後に割れた。
ウサギの耳のようなアンテナが伸び、ピクピクと何かを探り始める。
(もう、ダメなのね…)
あの一瞬だけが、全ての希望だったのかもしれない。
繋ぐ寸前だった手のひら、だが今は指先さえも動いてくれない。
すり抜けていったサハクイエルの片翼が、綾波を振り切りアスカへと向かうシンジと重なって見えていた。
(わたし、いらない子なのね…)
綾波の瞳から涙が漏れる。
閉じた瞳から、澄んだ滴が溢れ出た。
それは陽の光すらも見えない天へと向かって昇っていく。
(なら、殺して)
誰か殺して。
綾波は切に願った。
(こんな苦しみはいらないの…)
こんなに苦しくなるのなら…
(心なんて、持たなければ良かった)
綾波の涙は止まらなかった。
トサ…
とうとう綾波は、海底まで沈んでしまった。
舞い上がる白い妖精達。
もう…、いいのね?
このまま埋もれてしまおう…
そう思った綾波の脳裏に、誰かの声が聞こえて来た。
もう、いいの?
(誰?)
とても暖かで…
それはとても優しい感じがした。
(お母…さん?)
綾波の赤い瞳に、白いものが映り込んだ。
…あれは?
それは赤い十字架に張り付けにされた、異形の白い巨人であった。
第拾壱話 Fly me to the moon
「ミサト、ミサトってば!」
「アスカ…」
揺り起こされる、ぼやけた視界に赤い仮面の怪人が見えた。
「うっ!」
起き上がろうとして背中に激痛が走ってしまった。
「ちっ、内臓をやられたか…」
「ちっ、じゃないわよ、それよりシンジは!」
「…一応怪我人なんだけどね、どうやら連れてかれちゃったみたいね」
ミサトは立ち上がり空を見た。
真っ青な空が広がっている、雲はサハクイエルとエヴァが飛び去る時に、散らしていってしまったのだ。
「間に合わなかったのね」
「そう言えば、遅かったじゃない、何してたの?」
ミサトは苦痛を堪えるようにアスカに聞いた。
「…着替えてたのよ」
「あ?」
「着替えてたの!」
ミサトはぽかんと惚けてしまった。
「悪かったわね!」
アスカはそっぽを向いてごまかした。
「…ま、過ぎたこと言ってもしょうがないけど」
ミサトは自分の車を見た。
「罰として、あたしを研究所まで連れて帰ってくれないかしら?」
アスカはミサトの腰に腕を回し、ちょっとだけ体を沈み込ませてから、反動を付けるようにして跳び去った。
バン!
ライトが一斉に点灯された。
「起きなさい、もう意識は戻っているんでしょう?」
容赦の無い声がシンジを叩く。
シンジはその眩しさに目を開こうとしても開けられなかった。
…誰なんだろう?
光の中に人影が見える。
…たぶん、あの人だ。
まだ意識がもうろうとしてしまっていた。
いつもなら二度寝してしまうような状態なのだが、さすがにそこまで図太くなれない。
シンジはゆっくりと体を起こした。
「…何か、用ですか?」
縦長の真っ白な部屋だった。
裾の長い人影が、逆光の中に埋もれている。
光はそこからシンジに向けて当てられていた。
「碇シンジ、あなたゲンドウの息子なのね…」
シンジはちょっとだけ首を傾げてから、それがどうしたんだろうと訝しんでしまった。
「隠してもダメよ?、全てのパーソナルデータがそれを示しているわ」
「別に隠すつもりはありませんけど…、あの、父さんがどうかしたんですか?」
このシンジの質問には、逆にリツコが面食らってしまったようだ。
「呆れた…、あなた自分の父親が何者かも知らないの?」
くっと顎を引くシンジ。
「いけませんか?」
「いえ、いいわ、なら教えてあげる、まずはそこから始めましょう…」
リツコは遠い目をして、シンジの側まで歩み寄った。
西暦1999年、夏。
「良いのか?、ゲンドウ」
白髪、初老の男が声を掛ける。
「ああ、問題無りませんよ、わたしはこの時のためにここに来たのですから…」
ゲンドウは通常のものよりも、さらに動きを重視した宇宙服に身を包んでいた。
二人が向かっているのは沖縄の洋上に建設された特別滑走路である。
施設内の廊下を、踵の音を合わせるように進んでいく。
「だがこれは非公式のテストだ、お前の名は残らんのだぞ?」
「下らない栄誉に興味はありませんよ、わたしはわたしの夢を果たす、それだけです」
正面に眩しいばかりの光が見える。
そこに向かって歩み出ると、青々と輝く空が広がっていた。
「波も穏やかだ、滑走路の歪みも少なくてすむ…」
足元を見る冬月。
海上に建設されたために、多少は波の影響を受けるのも仕方が無かった。
「スペースプレーン、その試作機だよ」
眩しげに見る、白い白鳥を思わせる機体だった。
「これでお前の望みはかなう…」
「ああ、すみませんでした、先生…」
「そう呼ばれるのも今日で最後だな」
冬月は感慨深げに呟いた。
「本当にここを出て行くのかね?」
「…未練はありません、わたしの夢はこれで叶うのですから」
「そうか…」
二人はそれ以上、言葉をかわさず、冬月はゲンドウが乗り込むのを眺めていた。
「そうか…」
2015年、元の時代に戻る。
「無理はしなくていい、休んでいたまえ…」
「そうはいきません、これはわたしの責任なんですから」
発令所、ミサトは時折走る痛みに顔をしかめながらも、サハクイエルの移動先を突き止めようとしていた。
「レイは?」
「生きてます、反応は微弱ですが…」
日本海溝か…
ゲンドウの脳裏に、そこにあるもののことが思い浮かんだ。
「これも縁なのだろうな…」
「は?」
「いや、いい…、やはり月かね?」
ミサトは月と地球を一度に映し出した。
その月の周回軌道に向かって、地球から白い線が伸びていく。
「リツコは、シンジ君にあの話を聞かせているんでしょうか?」
ゲンドウは答えない。
ただ眼鏡の位置を正すだけだ。
「わたし達は、許してもらえないかもしれませんね…」
ミサトの顔には、肉体から来るものとは違う痛みが浮かんでいた。
「ゲンドウ!」
スピーカーからノイズ混じりに冬月の悲痛な叫びが飛び込んできた。
「ええい、何が起こっているのだ!」
数秒とも、数時間ともつかない時間が過ぎ去っていた。
ことここに至ってはすることもない。
ゲンドウは窓の外に見える景色に見惚れていた。
真っ黒な海に青い滴が浮かんでいる。
「わたしは、ここへ来るために生まれて来たのかもしれないな…」
そのゲンドウの呟きに、錯乱したのかと地上では大騒ぎになっていた。
「何を…、何を言っている!」
「遺言ですよ…、先生には感謝しています、おかげでここまで来れたのですから…」
走馬灯のように蘇る記憶。
嫌な奴。
誰しもがゲンドウをそう認識する中で、冬月だけが「それに目をつむっても有り余るほどの才能」を見いだしてくたのだから。
「あなたがいなければ、わたしはこの景色を見ることができなかった」
地球の影から月が姿を現して来る。
事故の原因は簡単なものだった。
スペースダスト、過去打ち上げられた衛星の残していったゴミだった。
そのわずか一辺10センチ足らずのセラミックタイルが、ゲンドウの乗るプレーンのエンジンを直撃していた。
「暴走が始まる、もう誰にも止められん…」
ゲンドウは一人ごちた、まるでそれに合わせたかの様に、プレーンがいきなりの加速を始める。
「これで良い、あそこにはわたしの居るべき場所は無かったのだから…」
意識が遠くなっていく、行って帰って来るだけだったために、プレーンに十分な酸素は積み込まれていなかった。
ヘルメットの中は液体で満たされている、その液体から肺が直接酸素を取り込んでいるのだ。
「浄化の限界か…、酸素の循環も終わったな」
ゲンドウはヘルメットを取った。
ブワ…、黄色い液体が広がった、シャトル内の酸素は薄い、あえいでしまうほどである。
だが、どうせなら肉眼で見ておきたい…
スピーカーからはすでにノイズしか聞こえないようになっていた。
スイッチを切るゲンドウ。
プレーンは地球の軌道を外れて加速していた。
「…月の重力圏に捕まるか」
ゲンドウの意識が急激に遠ざかり始めていた。
わたしは、確認したかったのかもしれんな…
ゲンドウはもう一度だけ地球を見た。
「美しい…」
本当にそう思う。
あの薄汚れた世界が、わたし達をどれだけ優しく包み込んでくれているのかを…
ゲンドウはぽつりと最後に、「ありがとう」と呟いていた。
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