目前に円筒形のシリンダーがある。
 その中に眠っている赤子は誰だろう?
「夢も見ないのね…」
 見上げているのはミサトだ、まだ若い…、20歳前後だろうか?
 これはずっと以前のこと。
「これからどうする?」
「行くわ…」
 背後も見ずに答える、真後ろに居るのはリョウジだ。
「俺を捨ててか?」
「真実はゲンドウとともにあるもの、今は迷わず…」
「進む…か?、いいさ」
 あきらめ顔に、辛いものが混じっているリョウジ。
「ごめんね?、リョウジ…」
 ミサトの顔は口を裏切っている。
「これで俺達は敵同士…、だな」
 そっと背中から包み込む。
 しかしそれでも、ミサトの決意に満ちた表情は変えられない。
「どうかしらね?、あたしはただ、ユイ様の願いを追いかけたいだけ…」
 記憶の中に蘇るユイは、陽の光の中に溶け込んでいる。
 何を願うの?
 逆光にぼやけてしまっていて、その微笑みは思い出せない。
「本当の、願い?」
「いつも言っておいでだったわ」
 わたし、許しては貰えないでしょうね…
「あたしは、ユイ様の目指したものを信じている…」
 再び赤子を見て、はっとした。
 その目を見開き、赤い瞳でミサトを見つめていた。
「サード…」
「こいつは、驚いたな…」
 明らかにその目は、ミサトの瞳を追っている。
 起きるはずのない、自我も持たない「生き物」が、ミサトの悲しみを追いかけていた。
 それに対して、ふっと微笑むミサト。
「…いいわ、来なさい」
「お、おい…」
 制止も聞かず、シリンダーに手を当てる。
「いつかおいでなさい?、人は、幸せになる権利を持っているんだから」
 生きてさえいれば、幸せになれるわ…
 そして今現在、ミサトはアンビリカルブリッジからペンペンの顔を見上げている。
「あなたが来た時、誰かと思ったけど…」
 見ているのは、その遥か彼方にあるはずの、綾波レイの面影だ。
「今度はあたしが迎えに行ってあげるわ」
 ミサトはそう言って、どこへともなく歩き出して行った。

第拾参話 宇宙(そら)へ

「ちょっとシンジ!、あんたまだ…」
「ぐずぐずしているわけには、いかないんだよ!」
 アスカの言うことも聞かずに、シンジは発令所に向かって歩んでいた。
 気を失った後、ベッドに放り込まれる際にパジャマに着替えさせられている。
 薄い水色のパジャマだ、少し大きく、また汗に濡れて張り付いている。
 重いんだよ…
 突っ張るような着心地の悪さに堪えかねる。
 裾を引きずるように歩くその足元はおぼつかず、今にも座り込みそうになっていた。
 冷たい硬質の壁に手を突いて進む。
 心配そうに後を追うアスカとセカンド、二人ともジーンズにYシャツと身軽な格好だ。
「碇君…」
 そっと肩を貸すセカンド。
「ちょっとあんた…」
「泣いてるの…」
 え?
 アスカはキョトンと、セカンドを見る。
「あの子、泣いてる…、碇君には、その泣き声が聞こえているの…」
 悲しげな視線を向けるセカンド。
「耳を傾ければ、あなたにも聞こえるはずよ?」
 レイの物言いは良く分からない…
「ああもう!、わかったわよ」
 アスカは結局止める事が出来ずに、二人の後を着いていった。


 あの日のことは忘れられんな…
 ゲンドウは司令席で、ひとり物思いに沈み込んでしまっていた。


「これが…」
「そう、第二の使徒だ…」
 巨大なドームの地下深くに、赤い十字架に張り付けにされている巨人の姿があった。
 それは細い手足にごつい胴体、その胸元には大きな紅玉が見えている。
「封印されるのですか?」
「君の想いに迷いを持った、哀れな男の骸だよ…」
 ユイとの接触実験の犠牲者、彼は変わり果てた姿になっていた。
「わたしは…」
「すまん…、いや、違うな?、これはわたしの責だ…」
 ゲンドウはユイの言葉を遮った。
「あなた…」
「聞かれるぞ?、その呼び方はよせ」
 人前に居る時のゲンドウはやけに冷たい。
「そうですわね…」
 不満には思う、だが顔には見せない。
「わたしは、恨まれているかもしれませんね?」
「…彼はエヴァテクターを解除されても、元の姿に戻ろうとはしなかった…」
「……」
 その理由は、与える側であるユイには分からない。
「わからないかね?」
 続きを待つユイ。
「彼はエヴァを…、エヴァンゲリオンをその身に宿したのだよ」
「え?」
 巨人の胴体はやけに大きく、しかしその手足は奇妙に細長い。
「お前との繋がり…、いや交わりと言ってもいいな?、それを手放す事を恐れ、エヴァを取り込み、同化した…」
「そんなことが可能なのですか?」
「できないことはない」
 ゲンドウはポケットの中にあるものをまさぐる。
 小さな物が二つ入っている。
「エヴァから引きはがされ「こちら側」に戻るのを拒んだ、結果彼の肉体はエヴァの存在している次元とまたがり、変質してしまった…」
「それが…」
「これだ」
 再び見る、巨大な異形の怪物を。
 ポケットの中にあるのは、ユイに突き返されてしまったインターフェイスだ。
「エヴァテクターにも使用されている技術、それと同じ理論で説明できる」
「あなたの予測範囲内の出来事なのですね…」
 きつい事を言うユイ、しかしそれは責めているような口調ではない。
 どちらかと言えば、共犯者の重苦しい響きが多分に混ざっている。
「全ての罪を背負って、生きていくつもりですか?、あなたは…」
「それがわたしにできる最大の償いになるだろうからな…」
 ユイはたまらなくなって、ゲンドウの掌を両手で包んだ。
「ですが…、ですがエヴァは無限に生き続ける存在です…」
 その手が微妙に震えている。
「ですから…」
 うつむいてしまう、震えている小さな肩。
「人の魂のある限り、かね?」
「はい…」
 ゆっくりと近づき、ゲンドウの胸にもたれ掛かる。
「例え50億年経って、太陽すら失くしても、わたしはそのエヴァと共に…」
「生き続けるか?」
 ユイは小さく、しかしとてもしっかりと頷く。
「とても寂しいけれど…、それがわたしの償いですから」
 顔を上げる、その目には強い想いが宿っている。
 あなただけに、罪を背負わせません…
「ああ、わかっているよ、ユイ…」
 ゲンドウはユイに、されるがままに抱かれていた…


「父さん!」
「シンジか?」
 その回帰は、シンジによって邪魔された。
 ゆっくりと立ち上がり、階下を見やるゲンドウ。
 きつく睨んでいるシンジが居る、その体はレイに支えてもらっていた。
「父さん、レイを…、母さんを、何をやってたんだよ、父さん!」
 とうとうシンジは我慢できなくなっていた。
 席を立ち、威圧的にシンジを見下ろすゲンドウ。
「それを今知って、どうする?」
 赤い眼鏡の位置を正す。
「今知らなきゃ、いま教えてもらわなきゃ、綾波の心は…、想いを、わかってあげられないじゃないか!」
 そしてシンジは気がついていた。
 真実を知るんだ!、それがどんなに嫌な事でも、理解しなくちゃ、我慢しなくちゃ、綾波の心を解きほぐしてあげることは出来ないんだ。
「助けに行くんだ、綾波を!」
 父にも負けない迫力で叫び返す。
 ニヤリと、ゲンドウの口元に微妙な歪みが生まれた。
「知らなければ幸せでいられる事もある…」
「だけどこの悲しみは…」
 胸元を押さえる。
「抑えられないんだよ…、忘れちゃいけないんだ、そうだろう?」
 えぐるようにシャツを握り込む。
 それがレイを失った悲しみからか?、それともエヴァが伝えて来る想いなのかは分からない。
「そうか…」
 ゲンドウは一瞬姿を消した。
「父さん!」
 逃げたかと思う、だがそれは勘違いであった。
 エレベーターで降りて来たのだ。
「…着いてこい」
 塔の影から姿を現わす。
「どこへ?」
「来れば分かる…」
 ゲンドウは無言で歩き出す。
「あ…」
 レイは慌てた、シンジが勝手に歩き出そうとしたからだ。
 あわてて支え直そうとするセカンド。
 シンジは敵でも見るように、ゲンドウの背中を注視している。
 そんなだからだろうか?、反対側の肩をアスカに持ち上げられても、シンジにはゲンドウの背中から視線を外すことができなかった。


「コンタクトを切れ!、隔壁閉鎖!!」
「ダメです、全ての数値は物理現象の外にある事を示しています!」
 実験施設の中で、白衣の男達が慌てている。
「エンジェル区画を閉鎖、隔離しろ!」
 しかし彼らに出来る程度の事では抑え切れない。
「ATフィールドを感知!」
「槍を引きはがせ!」
 コントロールボードのキーを叩く、しかし何一つ良い結果は得られない。
「ダメです、表面の発光、止まりません!」
 恐怖に満ちた叫びが飛び交う。
 ゴオオオオ…
 物質を透過しようとするかの様に、壁の継ぎ目から白熱光が漏れてきていた。
「限界予測数値です!、こ、これは…
「どうした!」
「やつはアダムにダイブするつもりです!」
 誰もが絶望感にとりつかれた。
「動くぞ!」
「あの巨体で…」
「わずかでも良い、被害を最小限に…」
「羽を広げています!」
「なんだと!?」
 ゴオオオオオ…
 光の翼が、ゆっくりと下から上方へ向かって広がっていく。
「数値反転…、これでは固体生命の形が維持できません…」
 巻き込まれるな…
 主任であるはずの男は半ば諦めていた。
 頭の中に声が響く。
 辛いんだろ?、苦しいんだろ?
 心を解き放て…、もう傷つくことはないんだよ。
 それは心に直接響く。
 俺と共に側に居るんだ。
 あの方と共にまどろもう…
「ああ…」
 恍惚とした表情を浮かべ、男達は倒れ伏す。
 その向こうで巨大な何かが光り輝き歩いている。
 それはユイの心に触れるという、禁忌を犯した男の姿。
 彼は自ら戒めを打ち破り、人の心に触れていた。


「始まったか…」
 その頃ゲンドウは宮殿のユイの部屋でくつろいでいた。
 窓の外に黒いドームが見えている、今は一人きりだった。
 外が慌ただしくなって来た、ゲンドウは手の内にある物を辛く見やる。
 バン!
 扉が開かれた、ものものしく装備を固めている近衛兵達が飛び込んで来る。
「六分儀ゲンドウ、ユイ様に対する不敬の容疑により拘束する!」
 その中にはミサトやリョウジの姿も見えた。
「不敬か…」
 立ち上がり、後ろ手に組んで胸を張る。
「て、抵抗は!」
「何を脅えている?」
 ゲンドウは何もしていない、ただ立ち上がっただけだ。
「罪は償おう、だがそれは全てを見届けてからだ」
「なに!?」
 ゲンドウは手にしていた赤い球を差し出した。
「なんだ、それは!」
 そこにポケットから取り出した白いインターフェイスを押し付ける。
「さあ行こうアダムの分身、そしてユイの嘆きの悲しみよ…」
 カッ!
 紫色の閃光が目を焼いた。
「な、なんだ!、うぐ!」
 殴り飛ばされる兵達、そこには…
「なんだ、こいつは!」
 そこには、紫色のエヴァテクターが暴れていた。



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