嫌なの…
 寂しいのはもう嫌なの…
 そう泣いていた少女は、今は耳にこびりついていて離れてくれない言葉を気にしていた。
 人が優しくしてくれなくても、あなたは優しくできるはずだから…
「くぅ!」
 弛緩した体に力を込める。
 自身の体ではなく、使徒の体がわずかに動いた。
 動いて、もっと動いて!
 黒い球体の表面に張り付いている使徒とエヴァンゲリオン。
 瞬いているはずの星は、まるで流星のように凄い勢いで後方に流れていってしまっている。
「アスカなんとかできないの!?」
 その様子をモニターに捉え、ミサトはマイクに向かって呼び掛けていた。
「無茶言わないで!」
 アスカの悲鳴のような声が、ドグマから発令所に向かって返って来る。
「こっちはシンジに向かって飛ぶだけで精一杯なのよ?、そこまでできるわけないじゃない!」
 心の繋がりに距離は関係無い。
 そんなの嘘よ!
 アスカの言うことはある意味正しい。
 こんなにいるの!?
 コクピットシートで唸るアスカ。
 その表情は、シート後方から被せられたヘッドセットによって隠されてしまっている。
 しかしわずかに見える口元が苦しみで歪んでいた。
 まるで濁流じゃない…
 喜怒哀楽。
 生の感情が、シンジとの間に存在している生物の分だけ、ノイズのように吹き荒れている。
 それはシンジと結ばれている心をも不明瞭にしていく。
 バカ言わないで!
 アスカはその恐怖を振り払った。
 行くのよ、どんなことがあっても…
 強迫観念に似た想いに囚われている。
 シンジ…
 二人で起こしたエンジェリックインパクト。
 そしてそのたどり着いた世界が、その原因。
 あんじゃなきゃダメなのよ…
 嫌な記憶は、今も掘り起こされている。
 パパなんて嫌い…
 覆い被さるような影。
 嫌、パパやめて…
 お前はわたしの娘じゃないんだ…
 だからなに?
 だからこうしてもいいんだよ?
 父の手が、膨らみ始めたアスカの胸に触れて来る。
 ガシ!
 アスカは恐怖のあまり、父親を蹴り飛ばした。
 助けて、ママ!
 涙を浮かべて呼び叫ぶ。
 だめだよ、お前のママはもう居ないんだ…
 いやああああああ!
 幼いアスカは泣き叫んだ。
 嫌、ママはママだもん、他のママなんていらない!
 ママ助けて、あたしのママ!
 あなたはあたしだけのアスカよね?
 疲れた顔が見える。
 ママ?
 あの人の娘じゃないわよね?
 あたしはママから生まれたんでしょ?
 父親なんていらなかったのよ…
 じゃあどうしてパパなの?
 さあ?、どうしてかしらね…
 幼児だった頃、アスカは母の膝に噛り付いてそう尋ねていた。
 あたしだって、こんなパパいらない!
 泣き叫ぶ。
 あたしもあなたなんていらないのよ…
 母親の穏やかな微笑みが変貌した。
 ママ?
 そこにいるのは、母親面する二人目の女。
 その目はアスカをも敵として認めている。
 女として扱っている。
 いやぁ!
 子供でいたいアスカ。
 甘えたいアスカ。
 でもダメなの…
 アスカは心を封印した。
 大人にならなきゃダメなの…
 冷静な振り。
 大人の落ちついた振る舞い。
 落ちついた言葉づかい。
 でもできないのよ…
 悔し涙と溢れ出した想い。
 その先で見つけた少年。
 シンジ?
 碇シンジ。
 あんたでなきゃダメなの…
 他の誰でもダメだと感じる。
 振り回されること、喜ばされること、傷つけられること…
 それでもいいの…
 心がかき乱されてしまう。
 不安なの、落ちつかないのよ…
 それでも側に居てもらわないとざわめいてしまう。
 心が!
 バッと、霧のかかった世界が訪れた。
 くぅ、すぅとおサルのぬいぐるみを抱いて寝ているアスカ。
 ママァ…
 その口から漏れ出た言葉を彼は聞いた。
 キシ…
 揺れるベッド。
「ん…」
 瞼を開く。
「パパ?」
「ああ…」
「おかえりなさい」
「ただいま、アスカ…」
 彼の手がアスカの首元へ伸びた。
 ザワ…
 耳の後ろから愛撫するように動く。
 アスカはその這うような気持ち悪さに総毛だった。
「いや!」
 暴れ、突き飛ばそうとするアスカ。
「お前は、本当にママに似て来たね?」
 しかし組み伏せられてしまう。
「いや、嫌、イヤ!」
 アスカは力一杯暴れ、父親の股間を蹴り上げた。
「!?」
 悶絶している間に抜け出し、他に助けてくれそうな人を求めさ迷った。
 途中で腐敗し、蛆のわいている母親の姿があった。
 途中で、母親の真似事をする女がいた。
 でもたどり着いた先にいたのは、とても気弱そうな男の子だった。
 …どうしてかしらね?
 あの瞬間を見たからかも知れない。
 人のために泣けるの?
 理解できなかったこと。
 人のために傷ついて…
 泣けて来る。
 なんでよ?
 わかるような気がする。
 好き…、だから?
 傷ついてもらいたくない。
 カナリアのぐったりとした姿がシンジになる。
 横たわり、口元から血が流れ出している。
 青白い肌。
 それを泣きながら見つめているのはアスカだ。
 そんなの嫌!、絶対に嫌!
 そんな風にさせたくない!
 アスカはかぶりを振っていた。
 あたしが守る!
 守って見せる!
 不意について出た言葉が、アスカの疑問に答えてくれた。
 わからなかったシンジの思い。
 守る…
 自分が傷ついてでも。
 あたしが守る。
 倒れてでも。
 力がないのなら…
 身代わりになってでも。
 恐いから…
 見たくないから…
 人が傷つくのを見たくないから。
 でもそれ以上に好きだから…
 何でシンジなのかしらね?
 ノイズをかきわけ、シンジに向かって真っ直ぐに飛ぶ。
 家族に拒絶されたから殻を作った。
 それはあまりにも雑な作りをしていたから、簡単に外からの圧力に屈してしまった。
 中学一年。
 そして今度は、傷つかないような距離を保って歩んでいたはずだった。
 そこに現われた碇シンジ。
 だれ?
 良く分からない少年。
 あんた誰よ?
 分からないままに傷つけてしまった。
 だから何者なのよ?
 追いかけた。
 バカにしてんの?
 触れ合った。
 ほんとにバカね…
 求め始めた。
 バカなのはあたし?
 気付くのが遅かった。
 あいつには、もう…
 それでも良いと感じた。
「だから追いかけてるのよ!」
 アスカは歯を食いしばる。
 それら全てが、アスカにこの球体を動かせた理由だった。
「それはあたしがあたしだからよ」
 そう思う。
 それはアスカと言う人格が構成されて来た歴史。
 そしてここに居るのは、惣流・アスカ・ラングレー。
 他の誰でも無いあたし。
 シンジ以外の誰も受け入れられない。
 そんなのできるわけないじゃない…
 他人のためにつくせること。
 他人のために盾になれる。
 それを教えてくれた人。
 だから信用できる。
 信じられる。
 でもダメなのよ…
 他の奴等は信じられない。
 過去のことがあるから。
 信じられない。
 あたしが信じられるのは、あいつだけよ…
 ノイズが全て消え去った。
 無作為に人の想いを捉えていたアンテナ。
 うざったいのよ!
 アスカは殻を固くする。
 その殻を透過できるのはシンジだけだ。
 シンジの心と想い、そして存在感だけだ。
 レイにはそれができなかった。
 あの時はユイの感情のみだった。
 だがそれだけでも、レイは流されかけたのだ。
 でもあたしは違うわよ!
 ついには、シンジだけにチャンネルを合わせる。
 届けるわよ、あたしも、こいつらも、全部の想いを!
 確固たる想い。
 他を拒絶する事による壁の形勢。
 それも一つの自我の確立。
 ゲンドウは、そんなアスカの様子をモニターしながらこう考えた。
 だからエヴァを呼び出せたのだ…
 と。


「約束の時は来た」
 フォンと、黒いモノリスが闇の中に浮かび上がった。
「約束されしもの達、その翼はどこへ?」
 真っ暗な世界、だがその暗闇もモノリスの漆黒には負けている。
「道は長く、その道のりは険しかったが…」
「さよう、ユイ様の損失、だがそれを補うための補完計画は最終段階を迎えた…」
 フォンと、モノリスの内の一つが老人の姿に取って変わった。
「六分儀ゲンドウ、ユイ様のお子をこうもやすやすと受け入れた事の意味、わからぬ男ではあるまい」
 モノリス達の中央には、マヤの操るバンの姿が投射されている。
「ゲヒルン、我らの願いを叶えるために発足された組織」
「しかしかの機関は一個人の占有機関となりはて、消滅した」
「約束の時は来た、まずはチルドレンを正しき姿に…」
 彼らの中心には003・002・001と表示されたウィンドウが開かれていた。



[BACK][TOP][NEXT]