「なにをじっと見てるんですか?」
 ユイはエプロンで手を拭きながら、ゲンドウの側まで近寄った。
「幸せはすぐそこにある、だが犠牲の上に成り立った幸せを受け入れられるだろうか?」
 新聞をたたみ、ユイを見上げるゲンドウ。
「真実は心の中にありますわ?」
「ああ、そして自分の真実が自らのイメージとなり、心と形、そして自分と言う狭量な世界を作り上げていく」
 ユイも席に着く。
 自らをイメージできた人々は、エヴァンゲリオンと言う全てが溶け合う世界から、自分の形を取り戻していた。
「たとえ人の心に取り込まれても、自分を取り戻すのは自分自身です」
 トウジのことが思い浮かぶ。
 妹の形を無理に作り上げようとしたトウジのことが。
「人には生きていこうと思う心がある、生きていこうとさえ思えばそこは天国になるというのか?」
 シンジの叫びがあっても、帰って来ない人達はいた。
「幸せになるチャンスはどこにでもあります、わたし達が月と地球と太陽のある世界がそうであると定めたように…」
「幸せ、かね?」
「はい…」
 二人は同時に天井を見上げた。
 なんだよ!、知ってるんだぞ?、この間も映画の時間に間に合わないからって、エヴァテクター使ってただろう!?
 いいじゃない!、ミサトの車に乗せてもらうよりはマシなのよ!
 その頃ミサトは…
「やっばい、やばい、やばい!、着任初日から遅刻じゃ、かなりヤバいって感じよねぇ!?」
 復活した愛車を飛ばしていた。
 キキー!、どかんと、校門に突っ込んだと言う事件があったのは内緒として、アスカは今、家なき子と化してしまったミサトを迎え入れ、同居生活を送っていた。
 あんたこそなに逆切れしてんのよ!、二学期初日から遅刻するつもりなの!?
 まだ二人は罵り合っていて降りて来ない。
「シンジが、居てくれたから…」
「ああ、お前の言う通りになった」
 希望はあった。
 そしてシンジは答えてくれた。
 あの苦しみの無い、悲しい世界を解放してくれたのだから。
「シンジも、真っ直ぐに育ってくれました」
 机の上に手を組んで、その上に顎を乗せる。
「あなたのおかげです…」
 赤くなるゲンドウ。
 ユイはふふっと微笑んだ。
 ゲンドウは逃げるようにまた新聞を広げる。
「あんたは幸せではないのですか?」
「シンジがそう思えているのなら、な…」
 二人の心に思い浮かぶのは、レイと言う青い髪の少女のことだ。
「幸せを感じることはよいことだが…」
「…あの子も、わたしの子供でした」
 頷くゲンドウ。
「だが心配は無い」
「え?」
 ゲンドウは新聞をばさりとめくった。
「ああ…」
 何となく納得するユイ。
「そう言う事ですか」
 にっこりと微笑む。
 振り返ると、ちょうどシンジ達が降りて来るところだった。
「シンジ、せめて朝ご飯が食べられる時間には起きなさいね?」
「あ、うん、わかったよ、母さん…」
 赤くなるシンジ。
「じゃ、行ってらっしゃい」
「うん、行ってきます!」
 シンジは照れたままで、嬉しそうに玄関に向かっていった。
「子供っていいですね…」
「育てたかったか?」
「はい…」
「もう一人作るかね?」
「バカ…」
 ユイはゲンドウに新聞を下ろさせると、軽く触れ合うようなキスをした。


 シンジは結局、転校を取りやめて戻っていた。
「おっはよー!」
 元気に挨拶するアスカ。
 その後に着いて入るシンジ。
 教室は一気にざわめいた。
 夏休み前にはあれほど険悪なムードだった二人が…
 なぜ!?
 仲良く、一緒に登校して来たからだ。
「シンジ!」
 ケンスケが慌てて駆け寄ってくる。
「おはよー、アスカ、碇君!」
「おはようヒカリ!」
 二人が話し出すのを見ながらシンジは席に着いた。
「シンジ、トウジは…」
「うん…」
 シンジはうつむく。
 死んではいない、だがトウジは行方をくらましていた。
「そっか…」
「ごめん、僕は結局…、なにもできなかったんだ」
 いいさ。
 ケンスケはそう言う。
 だがシンジは振り返ってしまっていた。
 あの辛い夏の終わりを。


 パーン、パパーン!
 花火が派手に上がっている。
 パーン、パパーン!
 元々圧政の色合いが強かった星である、大半の人々がその姿を消してしまっても、傷つくよりは喜ぶ人間の方が多かった。
 パーン、パパーン
 違う、本当の理由は違うんだ。
 シンジは暗く沈んでいた。
 みんな心が壊れてた、どこか心が欠けてたんだ、だからわからないんだ、失った人の重みが、悲しみが…
 付き合いが浅いから。
 王宮、廊下を歩くシンジがいた。
 マヤさん、頑張ってくれたよね?
 再び自分を取り戻した魂達は、マヤの用意した肉体に宿っていった。
 すなわち、使徒の。
 だが外見に以前との違いは無い。
 使徒は魂のイメージする、自分自身の形に変化したのだ。
 そしてそれぞれが、今まで以上にお互いの存在をおもんばかっている。
 王宮の堀の中は、巨大な庭園になっていた。
 本塔からの渡り廊下、陽の光の振り落ちるその場所に、栗色の髪をした少女がたたずんでいた。
 綾波…
 シンジは心の中でその名を呼ぶ。
 レイそっくりの彼女は頭を下げた。
 背中の半ばまで伸びた髪。
 だが頬の辺りのシャギーがかった部分が、レイの印象を残していた。
 しかしそれでも、その仕草その服装、今ここに居るのはシンジの知っているレイではない。
 綾波じゃないんだ…
 いつか生まれるはずの、本当のレイ。
 三人が一つになった、人間のレイ。
 皇帝・レイ・エヴァンゲリオン。
 綾波じゃ…
 彼女はシンジの事を、何も覚えてはいなかった。
 綾波!
 だがシンジは表面上、穏やかに微笑んでいる。
「ありがとうございました、シンジ様」
 たおやかに微笑むレイ。
 だがシンジはそのまますり抜けるように通り過ぎた。
 振り返り、胸元に手を当てるレイ。
 ぽろっと、その頬を涙がつたう。
 泣いてる、泣いてるの?、わたし…
 レイは指先でそっと拭った。
 そしてその滴をじっと見つめる。
 何故泣くの?
 わからない。
 なぜ悲しいの?
 わからない。
 胸が痛いの…
 碇シンジ…
 その名は記憶の中には無い。
 でも、どうしてこんなに、苦しいの?
 シンジが小さくなって消えていく。
 嫌!
 泣き叫びそうになる。
 二度と会えないような気さえする。
 でも、わからないの!
 レイは追いかける事もできずに、ただその背中を見送っていた。


 パーン、パパーン!
 人々が歓声を上げている。
「はいはいはい、ちゃんと握手してあげるから並びなさいよ?」
 調子に乗っているアスカ。
 何十人ではない、何万人と言う人達が、新しい宮殿の側にある湖に押し掛けていた。
 その中を、シンジがうなだれて歩いている。
 皆見送りに来たのだ。
 ユイと、その家族を。
 人に囲まれているユイが居る。
「…目を疑ったがな」
「こうして、帰れました」
 微笑み、ゲンドウにもたれかかるユイ。
「…皆が見ている、やめなさい」
「いいじゃないですか、わたしはもう王ではないのですから…」
 その役目はレイに引き継がれていた。
 そんな華やかな場を暗く歩き行くシンジ。
 誰もシンジには気がつかなかった。
「良いのかい?」
 ペンペンへのタラップを登ろうとするシンジの前に、遮るような形で渚カヲルが姿を見せた。
「なにが?」
「みんなさ…」
 シンジは振り返る。
「君はエヴァンゲリオンの力を自在に振るえる、それは巫女であり王でもあるレイにさえできない事だからね?」
 カヲルは人の波を眺めた。
「みんなは君からの言葉を待っている…、君は彼らの期待に応えられる、それは君の望んだ世界、そのものじゃないのかい?」
 アスカみたいにしろって言うのか?
 シンジははしゃいでいるアスカを探した。
「…でも僕は何かをしたわけじゃない」
 シンジはうなだれた。
「何かができたわけじゃない」
「君が心を取り戻させた」
「違う、僕はただ会いたかったんだ、綾波に…」
 シンジの顔が、涙に歪む。
「でも会えなかった、僕は結局、何もできないで、何も、何も!」
 吐き捨てる。
 シンジはゆっくりと顔を上げた。
「これを、返しておくよ…」
 シンジはカヲルに手渡した。
「…レイのインターフェイスだね?」
 頷く。
「レイが届けてくれたんだ…、あの中で、イメージのままで意識をきざみ合っていた僕に、戻って来るよう届けてくれた…」
 シンジがエヴァとなって脱出できたのはそのおかげだった。
「いいのかい?、君のインターフェイスは…」
 消失している。
「いいよ、もうエヴァになる事も無い、それでいいんだ…」
 その顔は、元の何かを堪えている表情に戻っている。
 遠くの王宮を眺めやる。
 そこにはレイが居るはずだった。
 宰相となったリツコや、それにリョウジ、レイとカヲルの世話係になったマユミもいる。
 でも僕の会いたかった綾波はもう居ないんだ…
 どうして!
 シンジはその一言が言えなかった。
 それは一人の人となった、人になる事を選んだレイを否定する事に繋がるから。
「じゃあ…、僕は行くよ?」
「シンジ君…」
「なに?」
 カヲルはうっすらと笑った。
「全ては心の中に、想いは願いと共に、いまはそれでいい」
 不可解な言葉を残して、カヲルはタラップを降りていった。


 ケンスケはファインダーごしに覗き込んだ。
「いつか話してくれよな?」
「うん…」
 シンジは適当な相槌を打つ。
 話す、話すか…
 ヒカリはあの後のことは何も尋ねず、シンジと付き合っているのかとアスカをからかって楽しんでいた。



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