「ねえ、碇君とはどうしたの?」
 ヒカリはアスカの机に座って、アスカのつむじをつんとつついた。
「ど、どうって?」
 どもるアスカ。
「もう!、ちゃんと告白したのかって…」
 みんなの耳が大きくなった。
 そんなの初耳だぞ!?
 アスカがシンジに気があったなどと言うことは、想像すらしていなかったのだ。
「ば、ばか!、そんなことするわけないじゃない、大体ねぇ!」
「はいはいはい…、また同じことをくり返すつもりなの?」
 アスカはちらりとシンジを見た。
 苦笑しているシンジがいる。
 シンジもアスカの気持ちは分かっているようで…。
 でも、あいつの心の中には…
 彼女が住み着いたままになっている。
 そんなの、卑怯じゃない…
 アスカはちょっと悔しくなった。
 シンジの求めていた、心のかけらは消えてしまった。
 かけらは新しい女の子となって去っていった。
 そして空いた穴には、消えてしまった少女が今も住んでいる。
 勝ち逃げなんて…
 アスカは机に突っ伏した。


 ごめん、アスカ…
 シンジはアスカの想いに答えられなかった。
 僕は身勝手なのかな?
 ぼうっと窓の外を眺めてしまう。
 でも、忘れられないんだよ…
 レイの事を。
「みんな愚痴ってるみたいだぞ?」
 ケンスケの不意打ちに意識を戻す。
「アスカのことでしょ?」
 アスカと呼び捨てにするシンジを、何人かがきつく睨んだ。
「…なあ、本当に付き合ってないのか?」
 ケンスケはかなり声を抑えて尋ねた。
「…うん」
「そっか…」
 二人で青い空を眺めやる。
 ケンスケはあの夏の出来事を知っている。
 だからそれ以上の追及をしない。
「おい、碇!」
 シンジは教室入り口からの呼び出しに顔を上げた。
「呼んでるぞぉ!」
 外にいる連中には見覚えがあった。
 あいつらか…
 それはシンジのカナリアを殺した連中であった。


 校舎裏、シンジは鳥小屋の金網を見た。
「酷いや…」
 その言葉を聞いて、にやにやとする。
 網は破られ、小屋は叩き壊されていた。
 へこんだバットが転がっている。
「やったんですか?」
 シンジは三人を睨み付けた。
「なあ、惣流とはもうやったのか?」
 やったって…
 シンジはその下卑た短絡さに呆れ返った。
「紹介しろよ、お前よりは良いってさ」
 シンジの肩に、馴れ馴れしく腕を置く。
「嫌ですよ」
 シンジはその手を払いのけた。
「お、生意気だよなぁ?」
 …そうか、僕をいじめたかったんだ。
 シンジはため息をついた。
「アスカに何かしたら許しませんよ?」
「はぁん?、なんだって!」
 いきなり繰り出される拳。
 遅いや。
 シンジは簡単に手のひらで受け流した。
 こんなに簡単な事なのに…
 返答として、よろけてがら空きになったお腹に一発いれる。
 どうしてできなかったのかな?
 訓練がシンジを強くしていた、これはエヴァの力ではない、シンジの力だ。
 崩れ落ちる相手を、シンジは冷ややかに見下ろした。
 こいつ!?
 残りの二人は動かなかった、いや動けなかった。
 シンジが変わっていることにようやく気がついたのだ。
 シンジに道を譲る。
 シンジは黙って、教室には戻らずに、屋上へと昇っていった。


 風に吹かれているシンジがいる。
 アスカはその背後に立ち、かける言葉を探していた。
 細く繊細な指先が、前に出たり下がったりと、声をかけるかどうか迷っている。
「…これでよかったんだ」
 シンジは唐突に切り出した。
「わからないわよ、そんなこと…」
 アスカはここにいる事を許されたような気がして、ほっとシンジの隣に並んだ。
 うつむくように運動場を眺めるシンジと、柵にもたれ掛かって青空を見上げるアスカ。
「…僕は、変われなかった」
 うなだれる。
「ここには良いことが無かったんだ、だから逃げたんだ、でも逃げた先でも結局いいことは無かった」
 あたしのことは?
 取り合えずは、口にしない。
 口にするのは、別のことだ。
「…じゃあ、好きになるって事は?」
 シンジは言いよどむ。
「分かり合えるかもしれないと思った…」
「好きって、言えるかもって思ったんじゃないの?」
 わからない、と首を振る。
「だって、それは見せ掛けじゃない本当の想いでも…、変わってしまう気持ちだから」
「変わらない心だってあるわよ」
 シンジはうっくと涙を流した。
「シンジ?」
「ただもう一度会いたいと思ったんだ、もう一度」
 アスカはため息をつく。
「会って、どうしたかったの?」
「伝えたかった」
 好きだよって…
 君の想いを、存在を、全てを。
「好きだよって、認めてあげたかったんだ…」
 しかし、彼女はもういない。
 誰かに僕を認めてもらいたかったから…
 自分を好きになれない人間が、人に好かれる事は無い。
 自分が嫌われるタイプだと分かっているから、好きになってもらえるはずは無い。
「そう諦めていたから、諦めたく無かったから、誰かに認めてもらいたがっている綾波を認めてあげたかったんだ…」
 そうすれば、少しは僕も僕を好きになれるかもしれないと思ったから。
「シンジ…」
 アスカはシンジと同じように運動場を眺めるよう体勢を入れ替えた。
 シンジの腕に肩を触れさせ、シンジの肩には頬を乗せた。


「泣いているのかい?」
 正装をしたカヲルは、どこから見ても王子にしか見えない。
「わからないの…」
 レイはドレスのままで、ベッドに身を投げ出し、枕を涙で濡らしていた。
「わからない、わからないの…、でもあの人の」
 碇シンジ。
「あの人の顔が浮かぶの、笑顔なのに泣いているの、悲しみが伝わるの、苦しみを感じているの、何故?」
 カヲルにすがる。
 レイは何かを握っていた、白いインターフェイスだ。
「わたし、あの人を知ってる、碇シンジ」
 違うと否定する心がある。
「知識じゃないの、心が覚えているの、あの人の笑顔を」
 本当の微笑みを。
「わかたれていたわたし、一つに戻った瞬間のことだけは覚えてる、インターフェイスから溢れていた光、人の姿をした光、あれはわたしを知ってる、見てくれていた人の、そう、あの人の微笑みだった!」
 だけど彼女が見ているのは、とても苦しんでいるシンジの作り笑いである。
「この気持ちは、なに?」
 わたしは!
 慟哭が胸を締め付け、破裂させる。
「会いたいのかい?」
 レイは思わず頷いていた。
「なら、その気持ちは本物だね?」
「これが?」
 レイは涙目を向ける。
「今の君に繋ぎとめているのは、誰かを求める心じゃないのかい?」
「そうかもしれない…」
 カヲルは微笑む。
「君はエヴァリオンだね…」
「エヴァ、リオン?」
 小首を傾げる。
「重なる想いが形を作る、なら、解放してあげればいいさ…」
「解放?」
 レイは自分の体を抱きしめた。
「君の中にある願い、君の想い、心、思うがままに」
 解放してあげればいい…
 ゆっくりと目を閉じる。
 レイはその言葉を全身に染み渡らせていった。


 夜。
 アスカは僕のことが好きみたいだ…
 シンジはベッドの上で塞ぎ込んでいた。
 みたいじゃないな、その気持ちを知ってる、知っていて見て見ない振りをしている。
 シンジは苦悩する。
 でも綾波を忘れられるわけないよ…
 アスカと共に望んだ世界、そこには確かにレイも居たのだから。
 忘れられるわけ、ない…
 アスカもそれは同じだと感じている。
 だから二人とも、友達の域で泳いでいた。


 またあの時の夢だ…
 シンジはまどろみの中でくり返していた。
 ゴゴゴゴゴ!
 プラズマジェットの炎が吹く。
 それぞれ複座型に改良された二本のエントリープラグを、ペンペンは両のフリッパーに抱えている。
 組み合わせはユイとゲンドウ、アスカとシンジで、操縦は背中にインストールされているプラグからミサトが行っていた。
 人々が飛んでいくペンペンを見送ってくれている。
 王宮の中庭には、理由も分からぬままに涙を流しているレイが居た。
 その肩にそっと手を置くカヲル。
 二人はペンペンの引く雲を追っていた。
 シンジはぼんやりと、離れ行く帝星を眺めていた。
「シンジ…」
 アスカは席を立つと、後部座席のシンジの膝の上に座り込んだ。
 シンジの頬に髪をすりよせ、体を預ける。
「…ごめん、アスカ」
「バカ…」
 アスカはシンジの手を自分の膝の上に重ね合わせた。
「もういいわよ…」
 シンジの手をそっと包み込む。
「どうせあの女のことを考えてたんでしょ…、今だけは許してあげるわ」
「うん…」
 シンジはもう一度星を見つめた。
 そこにいるはずのレイを探して。
「会いたかったんだ…」
 そう呟いたのは、星が光の粒に変わる直前のことだった。
 シンジの目から、涙が溢れた。
 ゆっくりと瞼を開く。
 朝の爽やかな陽射しが差し込んで来ていた。
 揺れている白いカーテン。
 あの研究所での朝を思わせる光景。
 碇君…
 レイが微笑んでいた。
 朝食を乗せたトレイを持って。
 それはもちろん幻で…
 風に舞ったカーテンに散らされてしまう。
 シンジはふいに、それを最後の涙と決めた。
「さよなら…」
 ベッドの中で、シンジは天井に向かって呟いた。
 こうしてシンジの、長い夏の日は終わりを迎えた。




しかし夏はまたやって来る。




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