ここは…
 カヲルはもうろうとする意識の狭間で、自分の居所を探っていた。
 エヴァ…、君なのかい?
 真っ青な世界、黒い人影が揺れている。
 僕はまだ君の声を聞けないようだね…
 自嘲的な笑みを浮かべる。
「人の心か…」
 エヴァンゲリオンそのものである自分。
「人から生まれたレイと違い…、僕はエヴァそのものから生み出されたからね…」
 物質として合成された肉体に、エヴァンゲリオンの一部が宿っている。
 僕の感情は、他人のもの…
 エヴァを通じ、他人の心がカヲルの感情として吹き出していく。
 それは生きているもの、死んでいるもの、人であり、獣であり、姿は問わない。
 いつか…、僕は人になれるのかい?
 ガフの部屋の奥、混沌の海で人の魂は全てが一度一つになる。
 そこから生まれた泡は魂となり、命と言う波を立てるのだ。
 波は浮き沈みそのものだ…
 命を絶頂へ導き、そしてまた海へと還す。
 だがその深海そのものである僕は…
 命を持たない。
「でも知っているよ?」
 命の輝きそのものは。
「見せてもらったからね?」
 綾波レイと言う少女達に。
「エンジェリック・ホライズン…」
 そこは地の果てにある世界。
「遠い道のりの果てにいるのか…」
 君は。
 レイ・エヴァンゲリオン。
 この青い世界の先、黄金色に輝く未来に。
「君はいるのか…」
 カヲルはつい苦笑してしまった。
 カヲル君、カヲル君!
 声が聞こえた。
 君の声は遠いというのに…
 シンジの声ははっきりと聞こえる。
「まだ百万分の一秒しか経っていないけれど」
 行くとしよう、僕自身が生まれるために…
 遥かな頭上に、海面の光を受けた揺らぎが見える。
「あそこに届く日を夢見て…」
 カヲルは現実へと回帰した。


(僕にはどうする事もできないのかい?)
 カヲルのATフィールドをも貫く驚異の閃光。
(カヲル君、無事なの?)
 安堵する感じがエヴァを通じて送られて来る。
(僕はね?、でもマナちゃんはそうはいかないと思う)
 カヲルは選択肢を失っていた。
(そんな…、どうにか出来ないの?)
(人質を救出するというのがね…)
 ATフィールドで防げると思ったのが甘かったのだ。


 今から飛んで…、ダメだ、間に合わない!
「やっぱり僕が行っていれば…」
「甘いな」
「父さん!」
 慈悲のかけらも無い言葉に心底苛立つ。
「もっと言い方ってものが…」
「自分の運命は自分で切り開くものだ、回線が繋がった」
「え?」
 再びマナの顔が映し出された。
「霧島さん!」
 汗に前髪が張り付いている。
「たはは…、酷い顔でしょ?」
「そんなこと…」
 大丈夫なの?
 目で真剣に問いかける。
「熱いかな…、可愛くない顔、見られたくなかったかも」
 リツコが状況を教えてくれる。
「最悪ね…」
 炉心の融解が始まっていた。
「霧島さん、脱出できないの?」
 マナはゆっくりと首を振った。
「ごめんねシンジ君…」
「なにがさ?」
「ちょっとだけ…、悔しかったんだ…」
 ずっとシンジを見ていたのに…
「おかしいよね?、頼まれたの…、シンジ君を見ていてあげてって」
「そんなのもういいから!」
 汗の量が尋常ではない。
 苦しげな息にも、命の危うさを感じてしまう。
「ずっと見てたの…、ずっと…、でももう用済みって」
「そんな!?」
 慌てる。
「だってみんな凄いんだもん…」
 意識がもうろうとしてしまっている。
「シンちゃんと一緒に戦いたかったな…」
「霧島さん!」
 映像が一時中断される。
「父さん、リツコさん!」
 どうにもならないと分かっていても、顔を見続けていたいのは何故だろう?
「シンジ…」
 そっと慰めようとするアスカ。
「嫌なんだ」
 ポツリと漏らした。
「シンジ?」
「なんでだよ、これじゃあの時と同じじゃないかっ、レイを助けに行ったあの時と!」
 そのレイ・サードは無言で状況の推移を見守っている。
「なら…、行けばいいのに」
 叫ぶシンジの両頬を、小さな手のひらが挟み込んだ。
「え?」
 レイちゃん?
「行かないの?」
 レイはレーに抱かれて、不思議そうにシンジを見ている。
「行くって…」
「跳ぶの」
 何故分からないの?と言う表情をしている。
 シンジははっとしてレーを見た。
 飛ぶ?
 あそこへ!
 エヴァリオンと言う単語を思い出す。
「カヲル君!」
「君のやりたいことは分かるよ、でもいいのかい?」
「何がさ?」
「僕と一つになる事さ」
 シンジはなぜだか赤くなった。


(レイちゃん、ほんとに跳べるの!?)
(おばさんは黙ってて…)
(おばっ!?)
 がなり出す前に、素早く音声はカットされた。
(また無茶な事を考えたものだね?)
 笑いはするが、反対はしない。
(エヴァンゲリオンの体は、究極原子と分子で構成されていれば、例え水でも構わないわ)
 またそんな屁理屈を…
 ミサトのぼやきが聞こえそうだ。
(ちゃんと魂がATフィールドを生み出して拡散を防いでくれる)
(そしてここには僕が居る)
 リツコの考えを肯定し、エヴァは口元をにやける様に歪めさせた。
(おそらく僕の肉体はシンジ君に支配される)
(仕方の無い事ね?)
(シンジ君…、優しく頼むよ)
あんたなに言ってんのよ!
 アスカは本気で憤慨していた。


「やってみる!」
 でもどうすればいいのかわからない。
 この間も夢中だった。
 ファーストはそんなシンジの袖を、くいくいっと引っ張った。
「レイちゃん?」
「導く、そう言ってる」
 レーがシンジに通訳した。
「ありがとう、レイちゃん」
 こうしている間にも、カヲルは傷つき続けている。
 待てないんだ!
 シンジはその場にしゃがみこんだ。
 おでこに額をくっつける。
「あの人のことだけを、考えて…」
 目をつむっているファーストの代わりに、レーがシンジに囁いた。
 霧島さん…
 まだ見えない。
 霧島さん…
 輪郭が見えた。
 それは笑顔。
 初めて名前を知った日の笑顔であった。


 バレンタインデーというのは誰にも公平に訪れる。
 だがその受け取り方は様々だろう。
 シンジは肩身の狭い方だった。
 僕には関係無いもんなぁ…
 10円チョコにすらありつけない。
 ばらまく女の子もシンジだけは無視していた。
 それも無意識の内にだ、数にも入っていないのだろう。
 あたりまえ、か…
 シンジは居場所を求めて教室を出た。


 シンジは吹奏楽部に入っていた。
 かといって皆と練習することは無い、幽霊部員だ。
 何処かには所属しなければいけないので、そう言うことにしていただけだった。
 授業は無いらしく、始業までは時間がある。
 シンジは置きっぱなしにしていたチェロを持ち出した。
 調律は必要なかった、シンジの耳には十分な音に思われた。
 えっと…
 唯一覚えていた曲を弾く。
 シンジの学校はわりとちゃんとした防音設備を整えているので、音が漏れてしまう心配は無かった。
 ゆっくりと溜めて、余韻を残すように弾き終える。
 パチパチパチ…
 拍手が聞こえた。
 誰もいないと思っていたのに、女の子が真後ろの壁にもたれていた。
「あ、ごめん…」
「え?」
「ぼ、僕、あの…、ごめん」
 そう言ってシンジは片付を始める。
「ちょ、ちょっとねぇ!」
 慌てて引き止めたのはもちろんマナだ。
「あの、あたし何か悪いこと、した?」
「あ、違うよ、そうじゃなくて、その…」
「なぁに?」
「と、とにかくごめん!」
 逃げ出そうとするシンジの腕を引っつかむ。
「これ!」
「え?」
 シンジの手に預けられたのはチョコレートだ。
「なに?」
「なにって…、今日はバレンタインデーだから」
「だって…、僕なんかに」
「もう!、もちろん義理じゃないよ?」
「え!?」
「義理で手作りなんて上げないでしょ?」
 シンジは手元の包みと彼女を見比べた。
「絶対食べてね?」
 明るく笑って駆け出していく。
 シンジはほんのちょっとだけ嬉しくなった。
 僕にも、こんなことってあるんだな…
 それを勘違いだと知るのは、今日が終わる頃だった。



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