「家鳴り…、って知ってる?」
「家鳴り?」
うんと頷くアスカ。
「タンスとかベッドとかがね?、鳴るのよ、夜中に…」
パシ!
不意に目が覚めると、室内だけでなくマンションの外まで音を失っていた。
シィンと耳に痛いほどの静寂、そして先程の音。
な、なに?
恐怖に引きつり、動けない。
パシ…
また!
原因の分からない音に顔が引きつる。
パシ!
ひっ!
悲鳴を上げそうになって、慌てて両手で口を塞ぐ。
ピシ、パシ!
ママっ、ママァ!
ギュッと目をつむって母を呼ぶ。
そうして何度も、眠れない夜を過ごしていた。
「今ならわかるわよ?、家鳴りだって…」
建築資材など、特に木製のものが昼と夜の気温差などで収縮するのだ。
その時に発生する歪みなどで鳴る音が家鳴りである。
「ああ…、僕も先生の家で良く聞いたよ…」
うんと頷く。
「でも子供だったのよね…、そんなのわからなかったから…」
ママっ、ママァ!
うるさいわね!
「あたし…、いらない子供だから、お化けに連れてかれちゃうんだって思ってたわ」
「アスカ…」
まだ小刻みに震えている。
「お化けなんて居ないって分かってるのよ…、もし居たとしても説明できるって、でもだめ…、恐いのよ」
お化けは一人の時に出るものだから。
「恐いのよ…」
一人の寂しさを思い出すから。
「恐いの…、シンジ」
寂しさは一人では逃げ切れないから。
「恐いの、我慢できないの」
「アスカ…」
温もりを伝えようと抱きしめる。
「大丈夫だよ…、アスカにはみんなが居るじゃないか」
「分かってるわよ…」
「ううん、わかってないよ」
温もりが伝わった。
唇から。
やや呆然と目を丸くしたままで、アスカは離れていくシンジを見る。
「あ、し、んじ?」
「落ちついた?」
自失したまま反射的に頷く。
「大丈夫だよ…、一人が嫌なのは僕も同じだから」
「…うん」
目を丸くしたまま、もう一度頷く。
「それに、お化けだってそんなに恐いものじゃないんだし」
「え?」
シンジのおどけた調子にキョトンとする。
「カヲル君が言ってたじゃないか、死んでも魂は命…、力尽きるまで自分の姿を維持しようとするって」
「なによそれぇ?」
「お化けや幽霊もエヴァの一つの形って事だよ」
少し身体を離し、会話の体勢を作り上げる。
「エヴァって結局は実体のないものなんだ…」
考えをまとめる。
「前の戦いで分かった事があるんだ…、人は自分のイメージを持ってるって、だから自分を変える事も、強くする事もできるんだ…」
「だから?」
「カヲル君は魂がATフィールドを失わずにさ迷っているって言ってたけど、僕はエヴァの一つの形だと思うんだ」
どう違うのよ?
目で尋ねる。
「僕達は一つの命から生まれているのに、一人一人が生きているよね?、それはどうして?、ATフィールドがあるから?」
「そうなんじゃないの?」
「それって変だよ、おかしいよ…」
珍しく頭を使う。
「ATフィールドは何が生み出すの?、魂?、でも魂はATフィールドが無いと一つの命にはなれないんでしょ?」
「…そうよね、そう」
「じゃあ死んじゃった人って、どうやって自分を保ち続けてるの?」
一つの答えは、トウジの妹。
「強い想いが引き止めるって事?」
「僕達の意識が無意識の内にエヴァを生み出してしまうんだよ」
アスカもちょっと納得した。
「そう考えたら、恐くないでしょ?」
「そう…、ね、そう」
恐いと考える自分が恐い物を作り出している。
アスカはほっとした瞬間に気がついた。
顔が間近の上に…
し、シンジに抱かれちゃってる!?
ひゃーっといまさら赤くなる。
「シンジ…」
「アスカ?」
アスカは頬を上気させ、潤んだ瞳を閉じようとして…、できなかった。
「ななな、なに、あれ!?」
慌ててシンジの首を押し曲げる。
戸口にぼうっと浮かび上がる白い影。
「ででで、出たぁ!」
「違う!、あれ…」
しかし意外にもシンジは落ちついていた。
そうだ、やっぱりあれって…
見た事のある姿に目を細める。
そうだ、あれは…
真っ白な肌の少女だ。
耳と目はシャギーがかった髪の奥に隠れている。
「君は…」
レイに似た、だが明らかに別な人…
あの日…、シンジが苦しみから逃げるために忘却の彼方に放り出した女の子。
逃げる様にあの星に置き去りにしてきたはずの…
ドサ…
シンジは隣で倒れた音にハッとした。
「アスカ?、アスカ!」
揺さぶるが起き上がらない。
はっとして顔を上げるが、あの少女はもう消えていた。
アスカは夢の世界に放り出されていた。
(シンジぃ!)
それは夢、あの最後の戦いのワンシーン。
アスカはシンジの元へ跳ぼうとしていた。
さっきから聞こえる、悲鳴?、シンジが泣いてるのよ!
(お願い!、あたしを行かせてよぉ!)
しかし一つの声が間に割り込む。
(ダメ…、あなたの意識は彼には届かない…)
「なんでよ!」
アスカは泣きそうになって悲鳴を上げた。
(わかるはずよ?、ほら、こんなにも淀んでいるもの…、あなたと彼の世界は、お互いを見通せないほどに…)
プラズマジェットの炎が吹く。
それぞれ複座型に改良された二本のエントリープラグを、ペンペンは両のフリッパーに抱えている。
組み合わせはユイとゲンドウ、アスカとシンジで、操縦は背中にインストールされているプラグからミサトが行っていた。
「だってしょうがないじゃない!」
星を飛び立つ。
すぐ側に居るというのに…
「シンジ…」
我慢できなくなったアスカは、後部座席のシンジの膝の上に座り込んだ。
シンジの頬に髪をすりよせ、体を預ける。
「…ごめん、アスカ」
「バカ…」
アスカはシンジの手を自分の膝の上に重ね合わせた。
「もういいわよ…」
ダメ、ほんとは良くない!
シンジの手を包み込む。
「どうせあの女のことを考えてたんでしょ…、今だけは許してあげるわ」
だから見て、あたしを見て、ちゃんと見てよ、お願いだから…
悲鳴を上げる。
「あいつが帰って来ちゃったのよ!、あいつとでないとあの子は生まれないのよ?、ならあたしは、あたしは!」
どこかで妥協するしかない?
顔を覆って塞ぎ込む。
シンジは遠くなる星を眺めていた。
そこに居る少女を思っていた。
膝の上にあるアスカの温もりなど無視していた。
居なくなってしまった少女だけを見つめていた。
「あたしのことなんて!」
見てくれなかった?
アスカだけを見なかったから?
あの時は、いつかきっと自分だけを見てくれると思っていたから?
もう二度とレイに会うことは無いと安心していたから?
「だから諦めるのね?」
「だってしょうがないじゃない!」
どこかで都合よく、あるいは悪く、記憶の順が入れ違っている。
アスカはその混沌に気がつかない。
「あなたは、誤解しているわ…」
「え?」
だから少女の言葉はアスカの耳に鮮烈な痛みを与える。
「わたしは、まだ生まれてもいないもの…」
わたし?
わたしって誰のこと?
少女はにこりと微笑んだ。
「わたしはこれから生まれるもの…、碇君の、そしてたくさんの人の願いを受けて…」
「あんた、一体…」
彼女はアスカの前に膝をつくと、そっとその両手に触れ、持ち上げた。
「見て?」
レイ似の少女の瞳に、あの辛い戦いが映し出される。
狂ったシンジの目前で、三人のレイが共に手を取り合っている。
勇気を…、希望を分けてあげる。
だから、悲しい子供達を愛してあげて…
優しい声が伝わって来る。
光の粒子が喜びに舞う。
抱き合うファースト、セカンド、サードを取り巻く無数の影。
微笑みを浮かべた女性達。
おかあ…さん?
レイが漏らした。
碇ユイが腕を広げている。
ああ…
歓喜の表情。
三人はユイに包まれ、そして再び生まれ落ちた。
レイ・エヴァンゲリオンとして。
「わたしたちは、生まれて、生きて、愛し合うためにここにいる…」
「あんたは!」
ようやくその正体に思い至った。
だってあんたは!
シンジの言葉を思い出す。
誰かが繋ぎ止めている影。
「そう…、わたしはまだ…」
生まれていないのだと、だが憂いを見せることなく穏やかに微笑んだ。