だだだだだっと廊下を走る少年が居た。
 高級料亭の縁側である、どう考えてもそんな無作法な真似は出来ない雰囲気が漂っている。
 しかし彼の切迫した状況にあっては、そんなものは些細な情景でしかないのだろう。
(こっちも駄目だ!)
 少年はスケートの要領で滑るように立ち止まって引き返そうとした。
「どちらへ?」
 黒スーツに黒サングラスで顔を隠した男が待ち受けていた。
 わざとらしく左脇が膨らんでいたりする。
(消される!?)
 シンジは引きつった笑みを浮かべた。
「あ、あの、トイレに……」
「トイレは廊下の反対側ですが」
「しっつれいしましたぁ!」
 慌てて引き返す。
(そうまでして見合いをさせたいのかよ、母さん!)
 記憶が走馬灯のように蘇る。
 それは遠い日の嫌な想い出、母に捨て去られた駅のホームのあの光景。
『シンジ、逃げちゃダメよ、何よりも現実から』
『お母さん!』
『ごめんなさい、お母さんね、しなくちゃいけないことが出来たの、だから』
『僕も!』
『シンジ、逃げちゃダメよ……、逃げちゃ、じゃあね?』
『お母さん!』
(やっぱり僕は、いらない子供なんだ!)
 キラキラと涙を流しつつトイレに駆け込む。
 今時珍しく木の扉で、中も木造の和式だった、いわゆるぼっとんに見えるが、そこはそれ、流石に水洗になっていた。


FIANCE〜幸せの方程式〜
第二話、淋しさと沈黙


「ふぅ、すっきりした……」
 とりあえず手なんか拭いてみたりする。
 額に光る汗が勝負の凄さを物語っていた。
 落ち着いて庭を見ればなんと心が和む風景だろうか?
「もうすぐ夏だよねぇ」
 遠い目をして朗らかに笑う、のほほんとした声が現実からの逃避を雄弁に物語っていた。
「……綾波と初めて会ったのも、こんな陽射しの日だったよな」
 心の均衡を保つためだろうか?
 彼は記憶の中で、もっとも楽しかった日々を思い起こした。
 綾波、とは誰なのだろうか?
「綾波……、今頃何してるんだろうなぁ」
 ついつい縁側にしゃがんでしまうシンジであった。


 回想に入る……
 青い髪、赤い瞳、白い肌。
 そんな目立つ容貌と強ばった顔が鉄面皮という言葉を思い起こさせる。
 そんな少女が綾波レイと言う女の子であった。
 同じ十四歳。
 そんな彼女を紹介してくれたのはお婆ちゃんだった。
 お昼の縁側、祖母はお茶を、彼女は柿を食べていた。
 紹介はいきなりだった、戸惑っている間にただじろりと見られて萎縮したのを覚えている。
「近所に越して来たのよ?、でも一人住まいなんですって……、それでね?、お夕飯だけでも一緒にと思って」
(かわいい……)
 不思議とそんな事を考えていた。
 苦手意識と相反する好奇心。
 最初は容姿に対する物だったのかもしれない、あるいは。
「渋い……」
 口をすぼめたところが、おかしかっただけだったのかもしれなかったが。


「え?」
 綾波レイが転校して来て一ヶ月が過ぎようとしていた。
「お前、綾波と帰っとるけど、付きおうとんのか?」
 詰め寄るクラスメート。
「まさか……」
 シンジは物憂げに本を読んでいるレイを見た。
 窓際の涼しげな風に髪が揺らいでいた。
「綾波は婆ちゃんと仲が良いんだよ」
「ほぉかぁ、ま、羨ましいこっちゃで……」
「だから違うってば!、……だって綾波は僕を見ようともしないもの」
 もう一度見る、上目気味に本から上げられていた目を逃げるように逸らされてしまった。
(ほらね……)
 嘆息、でも気を悪くするほどのことでもなく。
(綾波って、母さんと同じなのかもな)
 祖母が好きなだけ。
 そう感じていた。
 そして運命の日が訪れた。


「おばあちゃん……」
「ダメよ?、お母さんを恨んじゃ……」
「でも……」
 布団の中から向けられる優しい瞳が痛かった。
 枯れた指を握って、ただ座っていることしか出来ない自分が辛かった。
「お母さんには、どうしてもやらなくちゃいけないことができたの、だから……」
「でも!」
 話している間にも弱まっていく声。
「ごめんね?、シンジを一人にして……」
「大丈夫だよ……、僕は」
「そう、よかったわ……」
 最後はかすれて聞こえなかった。
「おばあちゃん?、おばあちゃん!」
 そんな自分達を黙って見てくれていたのが、彼女。
 −ジリリリリ……−
 ベルが鳴っている。
 布団の中から手を伸ばし、バンッと叩くように目覚ましのスイッチを押す。
 −カチャ……−
 今度はコンポのタイマーが働いた、流れ出すのはクラシックの曲。
 タイトルを思い出すよりも早く、シンジは枕の下からリモコンを取り出して電源を切った。
(面倒臭い……)
 瞼を開くのも億劫だった。
(もう、ばあちゃんは居ないんだ……)
 起きてもしょうがない、朝ご飯は用意されていない。
 ちゃんと食べないからって心配してくれる人は居ない、このまま寝てても、誰も起こしには来てくれない。
 もう、居ないから。  安心させる必要なんて、ない。
 頑張る必要も、恰好付ける必要も……
(綾波)
 一度も視線を合わせたことなど無いはずなのに、何故だか真正面から覗きこもうとする瞳が見えた。
(綾波も、もう来ないんだろうな……)
 夕飯を作っていた祖母は死んでしまったのだから……
 来る必要など無いはずだった、一人暮らしの彼女だから祖母は気にかけ、彼女もまた頼っていた。
 その関係に絡まない自分。
 もうこの家に居るのは自分だけだから。
(面倒臭い、もう……)
 シンジはもう一度くり返した。
 時間は刻一刻と過ぎていく。
 このままでは遅刻してしまう。
(休もうか)
 そう思った時、ドアがコンコンと叩かれた。


「あの時はドキッとしたな……、おばあちゃんかと思ったよ」
「そう……」
「おばあちゃんが死んだのなんて夢だったんだって……、信じたかったのかもしれないな」
 だがドアを開いたのは、細い真っ白な指だった。


「碇君……」
「綾波さん……、どうして」
 彼は半身を起こして呆然とした。
「……パン、焼いておいたから」
「え?」
「じゃ、あたし先に行くから」
「ちょ、ちょっと待ってよ、どうして……」
「寝直して、遅れないでね」
 トタトタと廊下を走る音。
「どうして……」


「それからだよな……、綾波が夕食まで作ってくれるようになったのは」
「……誰かのために料理するのは、楽しいって聞いたから」
「うん……、そっくりだったな、おばあちゃんの味に……」
 シンジは誰と話しているのか?


「ありがとう……」
 夕飯、味噌汁の入った椀を受け取って礼を言うと、彼女はそっけなく返して来た。
「良い……、頼まれたことだから」
「え?」
「おばあさまに、あなたを頼むって」
(そういうこと、か)
 それからは味噌汁を口に含む度に、これはおばあちゃんのために作っているものなんだと思い知らされるようになって。
「おいしいよ……」
「……ありがと」
 小さく、か細い返事。
 少し赤くなっている、嬉しいのかもしれない。
(僕が喜べばおばあちゃんも喜んでくれる、だから嬉しい……、そんな論法なんだろうな)
 ずずっとすする、段々と心が平坦になっていく感じ。
(大丈夫、上手くやっていけるさ)
 だってこれは前と同じ状態だから。
 祖母を安心させようと、嫌いな物でも美味しいと笑っていた頃と同じだから。
 こうして、心を奥底に閉じ込めて行けば。
 何事もなく……


「僕は本気で、そう思ってた」


 ……それは部活で遅くなった日のことだった。
 半ば無理矢理入れられた吹奏楽部、管弦楽器を選んだのはささやかな反抗だったかもしれない。
(遅くなっちゃったな)
 夕暮れもとっくに過ぎて、日はどっぷりと落ちていた。
(綾波は……、もう帰って)
「え?」
 だが木造平屋の家屋には、垣根越しに明かりが灯っているのが見て取れた。
「綾波?、居るの?」
 玄関には鍵が掛けられていた、だから電気の消し忘れかと思って言葉はぞんざいだった。
 だけど。
 彼女は……
 そこに居た。
 泣いていた。
「綾波?」
 居間、ちゃぶ台には伏せられたお茶碗。
 脇の保温器。
「……綾波、なに泣いてるのさ?」
 彼女はいつもと同じ、いつもの顔のままで、表情を動かしもせずに……
 ただ、頬に涙を流していた。
「いま、温め直すから……」
 そう言って味噌汁の入った鍋を持って行こうとする。
 口調もやはり、いつもと変わらなかった。
 けれど。


「それでご飯を食べてる時に気がついたんだ……、気になって綾波のことを見ていたからかも知れない」
 誰かと食べるご飯は、美味しい物だと。
「僕の作り笑いと同じで、綾波はきっと無表情を選択してるんだって、だって、どんなに押し込めても……、止められない時ってあるものだから」


「はい、これ……」
 シンジが差し出したのは携帯電話だった。
「なに?」
 シンジとレイの、レイは自分用の電話に首を傾げる。
「……今度から遅くなりそうだったら電話するよ」
 いつもと違って、シンジは微笑みを浮かべていた。
 心から。
「なぜ?」
「そうしたいから」
 彼女にしては珍しく迷うようにして受け取った。
 頬の引きつりはなんなのだろうか?
「……話したい事があるんだと思う、でもそれが何なのかは、まだよくわからないから、わかった時には電話するよ」
「ええ……」
「だから今度から寂しい時は僕を呼んでよ、僕たちには誰もいないのかもしれない……、けど今ならまだ、本当の独りぼっちにはならないですむはずだから」
「うん……」
 レイは小さく頷いた。
「ありがと……」
 その携帯を胸に抱える仕草は、まるでシンジの言葉をしまい込むようで……
 その上顔には、初めて泣き笑いの喜びと言う、複雑な感情が現れていた。


「結局、綾波がかけて来てくれたことは無かったけど……」
「必要ないわ」
「そうだろうね……」
「だって、あなたが掛け過ぎるもの」
「うん……、だって不安だったんだ、放っておいて、寂しくなったからって他の人や、物を当てにされるのは嫌だったんだ、僕だけ一人にされるなんて嫌だったんだ」
「そう……、でも大丈夫」
「へ?」
「あなたと一つになるのは、わたしだもの」
「って綾波!?、どうしてここに!?」
 彼女はシンジの背後に立って、非常に剣呑な目付きで見下ろしていた。


(どうして……、どうしてなんだよ、母さん)
 シンジは恨めしそうに隣を見やった。
「ん、なに?、シンちゃん」
 ニコニコとしているだけのユイ。
 再び前を見るシンジだ。
 あれから数分。
 そこに座る少女は二人に増殖していた。
 赤と青。
 赤い髪と青い髪、青い瞳と赤い瞳。
 まるでわざと合わせたように、対照的な色。
 何故こうなっているのか?
 少年には何もわからない。
「どうしたの?、そんなに無口になって」
 シンジは迂闊にも溜め息を吐いた、がっくりと肩を落として。
 少女達のこめかみがぴくりと引きつる。
 さて……
「で、こちらがシンちゃんのもう一人のお嫁さん候補」
「綾波、レイです」
 ほんのりとピンク色をしている唇が何にも増して目を引き付ける。
(……綾波、リップなんかして)
 それはシンジも初めて見るレイなのだろう。
 そんなシンジの驚愕を無視して、ちらっと目を横向けるレイ。
 交錯する視線。
 牽制し合う瞳と瞳、切り結び合う視線。
 アスカの口元に上品な笑みが浮かんだ。
 だが目はどこまで笑っていない。
 レイの口元に冷笑が浮かんだ。
 張り詰めた空気では電子もその運動を阻害されてしまうのだろう。
 急激な冷え込みに襲われた。
(寒いよ、ペンペン……)
 謎の空想に浸るシンジだ。
 女の戦いは始まっていた。
 その中心に立たされた少年に関係無く。
 彼に出来る事はと言えばだ、『一触即発』の言葉を噛み締めて、せめてその引き金を引かないようにする事、ただそれだけの硬直であった。


続く



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。