縁側にてあぐらをかくシンジの背姿は、どこか禅を想像させる。
 そのほけっとした顔にはひとさじの苦悩と不安が混在していた。
(綾波と母さん……、似てて当たり前なんだよな)
 祖母の笑みが思い浮かんだ。
 皺だらけの顔が。
(同じように教わったんだろうし、でも……)
 虚ろな目をして、さらにぼけぼけっと内に篭る。
(ほんとにシたのかな?、僕)
 胸が痛い。
(好きって言ってもくれない人と)
 いや、と彼は考えた。
(もしかして、答えてくれたのかな?)
 ──好きって。
 シンジはずーんと項垂れた。
 もしそうだったなら。
(覚えてない僕って)
「最悪だ……」
 底無しに沈み込んでいく少年であった。


FIANCE〜幸せの方程式〜
第八話、シンジ、暗転


「好き……」
 ──ザザァン!
 二人の向こうで波飛沫が弾ける映像。
 それはドラマ。
(うっわぁ〜〜〜……)
 シンジはそんな深夜枠の恋愛ドラマに硬直し、立ち尽くしてしまっていた。
 ──こんなタイミングで見てなくても。
 非常に聞きづらくなってしまった。
「なに?」
 傍に来ないシンジに苛立つレイだ。
 ドラマよりはシンジの方が重要度が高いらしい。
「あ、あの……」
 つい癖で手をわきわきと動かしてしまう。
「お風呂?」
「あ、うん……」
「沸いているわ……」
「ごめん」
 そうとしか言えない。
 ──だめだよなぁ、僕ってぇ……
 パジャマ姿のレイ。
 髪が濡れているのを見れば、お風呂なんて聞かなくてもわかるようなものだ。
「はぁあああああ……」
 去って行くシンジのため息が気になったのか……。
 彼女はすっくと、立ち上がった。


「今頃母さん達、どうしてるんだろう?」
 ちょっと修羅場。
「ホントのところはどうなのかなぁ?」
 頭からお湯をかぶって、湯船に入る。
 不意にケンスケの言葉が思い出された。
 ──それどころか避けるような……、気が無くなったようなそぶりなんてされた日には……
(マズイ!)
 焦って立ち上がる。
「やっぱりそうだよな?、まるで避けてるみたいだもん、綾波だって不安で……」
(碇君……)
(何泣いてるのさ?)
(嫌いになったの?)
(バカだなぁ……、そんなことは無いさ)
(碇君!)
「綾波ぃいいいいいい!、なんて……、はあ、あるわけないか……」
 初めから、ありえそうな可能性を模索し直す。
(綾波……、いいよね?)
(好きにすれば)
(じゃあ、そうさせてもらうよ)
「って、かああああ!、僕は、僕はなんて最低なぁ!」
 身体をのけぞらせて苦悩する。
「はぁはぁはぁ、そうだよな?、どっちかっていうと無理矢理って方がありえるよな!?」
 ──綾波が逆らわないとわかってて。
 やはり「来て、碇君……」「綾波ぃ!」「いや、レイって呼んで☆」などと言うイメージは、どうにも違和感が大きいらしい。
「当たり前じゃないか……、綾波がそんなこと言うわけ……、言うわけ……」
 ──もし言ってたら?
 ガガーンッとシンジ、両手を見つめたままで青ざめた。
「もし言ってたら……、それなのに僕は綾波って呼んじゃってて」
 果たしてレイはどう思うだろう?
 ──レイって呼んで欲しいのに、『綾波』と他人のように呼び続けるのね?、碇君……
「うわああああ!、そんな、そんなつもりじゃないんだよぉ!」
 お風呂場の前に立つ影。
 レイは中からの奇声に、戸にかけた手を止めていた。
「?」
 まさしくそんな感じである。
「これからはレイって、そう呼ぶから!、いや、呼ばせて下さい!」
 ──碇君!?
 真っ赤になってギシッと固まる。
「ちゃんと責任は取るから、一緒に暮らして欲しいんだ!、そうだ、今日から一緒に寝よう!、もう他人じゃないんだし」
(他人……、家族?)
 ──一緒に暮らすことに決めたから?
 だがまだお互いがお互いを想い合っている以上の繋がりは無い。
(絆が、ない……)
 しかし。
「綾波が好きで、その……、綾波の作った味噌汁が飲みたい……ってもう飲んでるんだけど、そうじゃなくってこのままずっと暮らしたいとか結婚したいなんて言うのはまだ早いんだけど、でもいずれはって」
(そこまで考えてくれているの?)
 金縛りがきつくなる。
「とにかく、その、僕、綾波のことが……」
 ことが?
 なに?
 なんなの?
 答えて、碇くん……
 本能的に、次に来るのが自分の一番貰いたい言葉だと分かってしまう。
「綾波……」
(なに?)
「ぶくぶくぶくぶくぶく……」
(ぶくぶくぶくぶくぶく?)
 一瞬なんのことだかよく分からなかった。
「あ!」
 呆然としてしまったが、レイはあることに気がついた。
 それは自分がのぼせた時の状況によく似ていると。
「碇君!」
 のぼせてお湯に沈んでしまっていた。
「碇君、しっかり!」
 お湯の中から引き揚げる。
「……綾波、違う、レイ」
「なに?、碇君」
 バシャン!
 レイはバランスを崩して上半身を湯船の中に滑らせた。
「ふぐ!?」
 慌てて身体を起こす、その唇が塞がれた。
 バランスを崩したのではなく、シンジに引っ張り込まれたとようやく気がついた。
 それは急な攻撃だった。
 だがシンジにとっては夢の続き。
 ──碇君!?
 このまま唇を離せばうっとりとしているレイが居るはず。
 しかし現実は違っていた。
 そこには驚きに目を丸くしているレイがいた。
「……レイ?、あ!」
 正気に戻る。
「あ、綾波!?」
 震える指先が唇に当てられた。
 その行為が、与えてしまった衝撃の大きさを物語っていた。
「綾波、これは、その!」
「ごめんなさい……」
 ──!?
 愕然としてしまった。
「今、なんて……」
 ──ごめんなさい!?
「……こんな時、どんな顔をすればいいのかわからないの」
 嬉しくて。
 恥ずかしい。
 レイは赤くなっていると言うのに、シンジは青くなっていた。


(僕は……、僕はなんてことを)
 翌朝。
 結局眠ることはできなかった。
 血の気を失った顔には、物凄い隈が浮き出ている。
「ごめんなさい、か……」
 拒絶、否定、謝りの言葉。
 そこから受け取れた意味は……
「綾波に……、受け入れてもらえなかった」
 自責の念。
「あんなこと、しなきゃ良かったのかな?」
 後悔が募る。
「じゃあやっぱりあの朝、綾波が裸だったのも」
 自分が?
 はああああっと魂がエクトプラズムとなって口から抜け出していく。
「そうだよなぁ……、やっぱり僕って、ただの同居人でしかなかったんだよなぁ……」
 だがそれまでもぶち壊してしまった。
「最後のチャンスだったかもしれないのに」
 彼女にはもう母が居る、祖母の代わりの人物が居る。
「おばあちゃんと母さん……、でも僕じゃないんだ」
(どうしてダメなのかな?、僕じゃダメなのかな?)
 非常に簡単、
「好きだって言うから?、綾波のことよりも自分のことを考えるから?」
 ──僕を一人にしないでよ!
 心の中で誰かが叫ぶ。
 ──綾波が一人だから可哀想だなんて、そんなの嘘だ!
 ──僕は僕が寂しかったんだ。
 ──だから綾波を巻き込んだんだ!
 ──寂しい時は呼んでだなんて……
 ──ほんとは僕が呼んでもらいたかったんだ。
 ──寂しかったから……
 ──一人は嫌だったから。
 ──綾波はずっと一人だった。
 ──一人でも大丈夫なんだ!
 ──でも僕は無理みたいだ……
 その激しさに反して表情は平坦になっていく。
 ふと、窓の外を見る。
 もうとっくに白んで、彼女が起き出す時間になっていた。


 そのレイであるが。
「碇君……」
 こちらもまた、眠れない夜を過ごしていた。
 布団の中、右腕だけを出して折り曲げ、額に当てて苦悩していた。
 ──碇君の唇……
 キス。
「あれが口付けと言うものなのね」
 キスそのものにではなく、触れられたと言う感触と、離れた時のシンジの笑顔に照れていた。
 ぎゅっと抱きつくように枕をかかえる。
「一緒に……」
 眠りたいと思った、そう言ってもらえたから。
(でも、無理……)
 今はできない、恥ずかしくて。
 火照る体、染まる頬。
 どちらも色はピンク色。
(嫌……、そんなのは、嫌)
 この状態を見られるのは堪えられない。
 気恥ずかしい。
 ──でも、好き……
(碇君のことが、好き)
 キスがシンジを印象付けた。
 食べ物は、好き。
 お腹が膨らむから。
 ──でも、碇君は。
 もっと好きになっていた。
 ──どうして?
 答えてくれるから。
 ──言葉で?
 態度もだ。
 ──それが、キス……
 口付け。
 人の気配を襖の向こうに感じて起き上がる。
「……碇君?」
 キシッと、畳の軋む音が聞こえた。
「あ、その……」
「なに?」
 その一言が、襖を鉄壁の壁へと変えてしまった。


(やっぱり……、怒ってるんだ)
 シンジは言葉を切って唇を噛んだ。
 夕べあの後、すぐに引きこもってしまったレイの後ろ姿が思い出された。
(おやすみの挨拶……、いつもしてくれてたのに)
 してもらえなかった。
 たったそれだけのことが酷く大きく感じられて……
(なに?、か……)
 他人行儀に受け取ってしまう。
「夕べのことなんだけど、さ」
 返事が無い。
 だからかシンジは顔を背けた。
「ごめん、悪かったよ……」
 それは不用意に尽きる言葉だった。
(碇君?)
 襖の向こうでレイは驚いていた。
 嬉しかったのに、と。
 戸惑いがレイから言葉を奪っていった。
「……どうして?」
 一言が足りなくなっていく。
「僕、いきなり、あんなことを……」
 シンジはギュッと唇を噛んだ。
「ごめん……、でも許してなんて言わない!、綾波が好きだから、あんなことをしたんだ……」
 ──碇君!
 たった一枚の襖がもどかしい。
 これ程薄いのだから……、でも自分では開けられない、自分から踏み出す事があまりに恐い。
(でも……、飛び込みたい)
 抱きつきたい。
 抱かれたい?
 レイは布団から起き上がった。
「……」
 その間もシンジは緊張していた。
 相変わらずの無言が辛くなる。
(そりゃ……、呆れるよな?)
 シンジはふうっと、息を吐いた。
「でも、……僕はこんな僕が嫌いだ」
 ──なにを……、言うの?
 襖の前に立ち、レイはまた固まってしまった。
 ──わたしにキスをするような自分が嫌いなの?
 指先が震え出す。
「綾波の気持ちを考えないで、勝手な事をした僕が嫌いだ……」
(そんなことはないのに……)
 たとえ考えていなかったにしても、それは嬉しい事だから。
 嬉しく思える事だったから。
「嫌われて当然……、だから出てくよ」
「!?」
 レイは震える手で、ゆっくりと襖を開いた。
「……綾波」
 冷めた視線が絡み合う。
「なぜ?」
 他に言えない。
 言葉が胸で詰まっていた。
「ここは……、おばあちゃんの家だから、綾波の大好きなおばあちゃんの家だから、だから……、好きに使ってよ」
 シンジはレイから目を逸らした。
「僕が住んでたから、それが嫌だって感じるなら、放っておいてくれてもいい……」
 涙が溢れ出す、それを見られたくなくて、シンジはレイに背を向けた。
「……どうするの?」
「僕は……、母さんに頼んで、施設にでも入るよ」
「そ……」
 わかった、と言う意味合いの「そう」ではない。
 続くべき言葉があったはず。
「じゃ、さよなら!」
 しかしシンジは気がつかなかった。
 逃げてしまったから、目にできなかった。
 綾波レイ、彼女もまた、涙を流していたと言うのに。
 彼女を放って、すれ違いを選んでしまったシンジであった。


続く



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。