「ミサトさんも悪い人じゃないんだけどな……」
『いいから!、今だけの感情で突っ走っても後で後悔するだけよ?、逃げるなら逃げてもいいけど、落ち着いてから、もう一度だけ考えなさい』
 そう言ってくれたミサトの顔が思い浮かぶ。
「でも本当は父さんや母さんに逆らうわけにはいかないんだろうし」
 彼はまだ既に裏切られている事を知らない、それだけに……
 子供の駄々。
 それがわかっているだけに、付き合わせてはいけないと感じてしまうのかもしれない。
「どうすれば良いんだろう……」
 誰にも心配かけないためには……
 そんなことを考えていたから、シンジは気付かずに通り過ぎてしまった。
「シンジ君」
「え?」
 肩を叩かれて振り返る。
「やあ、シンジ君」
「カヲル君!?」
 そこには学生服と言う極普通の恰好をした彼が笑っていた。
「え?、どうして、ここに……」
「向こうに居られなくなってしまったからね」
「あ、そうなんだ……」
 何と言ったものだか非常に困ると。
「綾波レイ……」
 ビクッとシンジは震え上がった。
「途中までは一緒だったんだけど、ふられてしまったよ」
「そう……」
「案内してはくれないのかい?」
「え?、どこに……」
「碇ゲンドウ、碇ユイ……、ネルフの会長達の居る場所へさ」
 シンジは即座に背を向けた。
「悪いけど、他を当たってよ」
「逃げるのかい?」
 踏み出しかけた足を止める。
「……僕はもう、いらない人間だから」
「だから逃げるのかい?、訴えもしないで」
「言ったよ!、僕に構ってって!、でもいらないって言われたんだ、出て行けって、だからもう」
 声が震えているのが自分でも分かってか、シンジはますます項垂れた。
「ごめん、君にこんな事を言っても仕方が無いのに」
「未練があるんだね?」
 カヲルは独り言のように呟いた。
「綾波レイは君を欲している、それでも捨てるのかい?」
「なにを今更……」
 シンジは歩調を早めた。
「着いて来ないでよ」
「君には知る権利があると思ってね?」
 ぴたりと止まる。
「なにを?」
「真実をさ」
 陽射しがやけに暑かった。


FIANCE〜幸せの方程式〜
第十一話、真実と選択


 ゲンドウがお茶を飲んでいる。
 ユイが洗濯物を畳んでいる。
「はぁ……」
 ユイはこれ見よがしに溜め息を吐くと、手を止めて恨めしげに夫を見やった。
「不安か?」
「当たり前です」
「すべてはなるようになる、そう仕向けたのは君だろう」
「だから」
 唇を尖らせる。
「……覗きたいのに」
 ゲンドウは湯呑みに沈んだ茶の葉を見つめた。
「しかしそううまく運ぶ物かな」
「わたし達の子を信用しないの?」
「……」
「あなた?」
「……」
「何を隠してらっしゃるの?」
 ぎくりとゲンドウ。
 ばさりと新聞を広げて顔を隠す。
 ユイはワイヤーハンガーを手に取ると、サイドスローで投擲した。


 シンジが連れて来られたのは、箱根療養所と書かれた、山中にあるとある閉鎖された建物だった。
「……ここ?」
「全てはここから始まったのさ……」
 躊躇することなく入っていく。
 慌てて追いかけるシンジの顔には、不安が色濃く現れていた。
(いいのかなぁ……)
 キィッと、蝶番のはずれたドアが揺れていた。
 そこらかしこのペンキがはげて、木造の建物はいつ倒壊してもおかしくはない物を感じさせる。
 埃だらけの廊下、しかし頻繁に人が訪れているのだろう、何重にも重なって足跡が多く遺されていた。
 平靴だけでなくハイヒールの跡も埃をはっきりと踏み乱している。
 延々と続く廊下は酷く感覚を狂わせた。
 奥も奥にその扉があった、やけに真新しく物々しい。
(鋼鉄製?)
 さらには電子ロックまで付けられている。
 カヲルがドアの上を見た、それだけでロックが外れる。
「え?」
「網膜で認証するようになってる、下のはダミーだよ」
 事も無げに言ってのける。
「ネルフのマーク……」
 ドアの内側にはロゴマークが貼り付けられていた。
(寒い!?)
 冷気がドライアイスのように吹き出して来た。
「これは?」
 奥にカプセル型の医療器が並んでいた、全部で三つ。
 書かれている文字は00から03。
「その昔から、ここには何かの研究所があったのよ」
「リツコさん!?」
 ミサトの友人、シンジは彼女のことも知っていた。
「いつ日本に?」
「……そう、そう言う事になっているのね」
 ふっと寂しそうな笑みを浮かべる。
「リツコさん?」
「いいのよ、続き……、それを聞きに来たんでしょ?」
 リツコはポットからコーヒーを注いで渡した。
「……長くなるわ、早く飲まないと冷めるわよ?」
 ゆっくりと口をつける。
「さてと……」
 もう一度ポッドの前に立つ。
「この写真を見て?」
「誰ですか?」
 物腰の柔かな和服姿の女性だった。
 今の女性より足が少し短い分だけ、腰がしっかりと座っている。
「あなたのお婆さまよ?」
「え!?」
 もう一度写真をよく見る。
「お婆ちゃん!?」
「そしてもう一人」
「母さん……」
 病院のベッドで、青白くこけた頬を晒している。
 柔らかな陽射しが髪を白く染めていた。
 ──え?
 誰かに似ていると気がついて愕然とする。
(似てる、なんてもんじゃないよ……)
 そんなシンジを予想しながら、リツコはとうとうと先を続けた。
「キーワードは三つ、碇ユイ、そしてわたしの母、それに惣流キョウコ・ツェッペリン」
「惣流?」
「あの人と娘さんには会ったことあるのよ、あなたは」
 はっとする。
「ここって!?」
 ──研究所!?
 昔来た事のある、とリツコを見ると目で肯定された。
「話を最初に戻すわね?」
 マグカップを下に置く。
「ここにある物、あるいはあった物、居た人達、それがどのような経緯で集められた人種なのかは不明なまま、ただ結果だけが残されていたの」
「結果?」
「綾波レイ」
「え?」
「ごめんなさい、説明が足りなかったわね、……二十世紀末にヒトゲノムが解析され、同時に飛躍的に発展している研究があったわ、クローン技術よ」
「クローン……」
「そう、ここはね、世界条約で禁止されていた人のクローンを秘密裏に研究、開発する施設だったの」
「……父さん達が?」
「違うわ、ここはその組織が放棄した研究所でしかないの、踏み込んだ政府はここであってはならない現実を見た」
「現実?」
「そうよ、作られた人間、彼女をね」
 息を呑むシンジに苦笑する。
「驚くのも無理はないわ、ただこの研究に対しては各国も興味を示してしまったの、それは利権と覇権の争いに繋がる、苦慮した政府はゲヒルンにその扱いを任せたわ」
「ゲヒルン?」
「世界規模の国際研究機関のことよ、あなたのお母さん達が務めていた、ね?、あの人達に与えられた使命は、この研究の封印と既に宿された命に対する処遇だったわ」
「命って、綾波ですよね?」
「そうよ、ここに来たこと、思い出した?、あなた達はね、当初彼女の友達になってもらう予定で呼び寄せられていたのよ、でも幾つかの理由からそれは中止される事になったけど」
「どうして……」
「……こちらの都合よ、ただの、ね」
 なにやら悲しげに目を伏せる。
「ただね、封印作業中に幾つかの新技術が開発されたの、これの著作権料だけでも莫大な額に上ったわ、そしてそれは世界経済にとって看過出来ない物ながら公認された」
「どうして……」
「レイの事があったからよ」
「綾波の?」
「他にも孤児達のね、落ち葉を隠すなら森の中の言葉通り、これからも出て来るだろうレイの様な特殊な子供、あるいは身体障害児達、彼らに対するケアは国単位の保険料では到底追いつかなくなっていたの、押し付ける先が必要だったのよ、そうしてゲヒルンはネルフと名前を変える事になったわ」
「なったって……」
「技術の幾つかは彼らの失われた手足や、無くしてしまった未来を再び夢見させるために惜しげなく提供された、……ネルフ出身の大統領や政治家達がネルフに対して過剰なくらい感謝の念を忘れないのはだからなのよ」
 しばし重い沈黙が流れてしまう。
「それで……、綾波は?」
 聞きたくはない点をあえて訊ねる。
「どれほどの知識を与えても、社会と接触させない限りただの社会不適合者になってしまう、そこで段階を経てあなたのお婆様に預けられたの」
「婆ちゃんに……」
 母の言葉が思い出される。
(どうしてもやらなくちゃいけない事って、綾波の事だったのかな?)
「ただ、予想外だったのはお婆様がお亡くなりになられてしまったことだったわ、でもそれが良かったのか悪かったのか、彼女はあなたに自分を求めた」
「え?」
「親を失った悲しさに圧し潰されそうになった、けれど傍にはあなたが居た、無くした事への寂しさは温もりに触れる事で忘れていけるわ、その実感が彼女を急速に成長させたの」
「……」
「彼女にとってあなたはもう手放す事の出来ない存在なのよ、あなた無しでは成り立たなくなっているの、それ程に欲しているわ」
「……そんなの、勝手じゃないですか?」
「押し付けた事に対しては認めるわ、でもあなたが求められたのはあなただからよ、そうでしょう?」
 ──え?
 がくっと力が抜けてしまった。
(あ、れ?)
「彼女は自分をただの人間ではないと感じている、でもそれは自棄を起こさせる要因になるからね、気付かせるわけにはいかないのさ」
 跪いた状態で、軽く頭を振ってみる。
「どう、して……」
「不安なんだよ、彼女は今とてつもなく大きな不安に苛まれている、それを救うことができるのは君だけだからね」
 視界がぼやけ、音が何重にも響き始める。
「幸せは不安や悩みを霞ませる、目を曇らせる、そのためには君がどうしても必要なんだよ」
(だから?)
 意識が深く沈んでいく。
(父さん……、母さんも、なにを考えてるんだよ、みんな……)
 先程のコーヒーのせいだと気付くほど、シンジは鋭く聡くは無かった。


 祖母が縁側でお茶を飲んでいる。
 見慣れない女の子が柿を食べている。
 おばあちゃんは知ってたの?
 近所に越して来たのよ?、でも一人住まいなんですって……、それでね?、お夕飯だけでも一緒にと思って……
 綾波は全部知ってるの?
 目覚めの時間が訪れる。


「あや……、なみ?」
 優しげに見下ろす瞳。
 額に冷たい手のひらを感じた。
 ひんやりとしていて気持ちが良い。
「ここは?」
「新しい部屋……」
「新しい?」
 まだ体がだるくて力が入らない。
 シンジは首だけを横へ倒した。
「どこ?」
 見慣れないマンションの一室だった。
 レイは穏やかな笑みを湛えている。
 白い肌と青い髪は、いまは夕日のために染まって見えた。
 今なら綾波の不健康な感じにも納得できた。
「綾波は……、知っていたの?」
 シンジの問いかけに、レイは小さく首を傾げた。
「そう……」
 ──知らないんだな、なにも……
 シンジは首の位置を元に戻した。
「綾波……」
「……なに?」
「どうして……、ここにいるの?」
「……居たいから」
「僕はいらないんじゃなかったの?」
 レイはゆっくりとかぶりを振った。
「違うの?」
「ええ……」
「でも」
「ごめんなさい」
 顔を伏せる、が、シンジにはレイの表情がよく見える。
「綾波」
「恥ずかしくて」
「え?」
「言葉が、見つからなくて」
「……」
「碇君が、行ってしまって……」
 混乱する。
「だって綾波、あの時」
「嬉しかったの……」
 ポタポタと涙が落ちて来る。
「ほんとに?」
 うつむいたままレイは頷いた。
 ギュッと目を閉じ、口元を引き結んで。
 だが目の端から漏れた涙は、顎のラインをつたって次々とシンジに降り落ち続ける。
「ごめん……」
 シンジは力を抜いて目を閉じた。
 レイがびくりと震えるのが分かる。
「悪いのは僕だ」
 気配でレイが顔を上げたと分かる。
「綾波の事を分からなかった僕が悪いんだ」
「違う、碇君は悪くはないわ……」
 目を開く、不安そうなレイが居る。
「ねえ……」
「なに?」
 シンジは審判を仰ぐように訊ねた。
「綾波は……、どうして僕の側に居てくれるの?」
 口を開きかけ、どう言えばいいのか迷ったように見えた。
 実際、レイは何を言えばいいのか迷ってしまっていた、0.5秒の間に様々な言葉が思い浮かぶ。
 だがどれも違うような気がして紡げない。
 ──あ……
 さらに0.3秒。
 シンジがまた諦めの表情を作りかけているに気が付いた。
 ──だ、め……
 このままではまた居なくなる。
 ──嫌……
 不意にユイの言葉が思い浮かぶ。
 あらレイちゃん、どうしたの?
 逃げたのね?、あの子ったら、どうしてそう言う部分だけお父さんに似ちゃったのかしら?
 レイちゃんはどうしたいの?
『碇君に……、もう一度会いたい』
 恥ずかしかったのね、レイちゃんは……
 なら、はっきりとシンちゃんに伝えなきゃ、捕まえなさい?
 あなたの言葉で。
 シンジの瞼が閉じかけている。
 0.2秒が経った、もう限界だ。
「す……」
 レイは吐息のように言葉を漏らす。
「好き……、だから」
 ふぅ……
 大きな呼吸、シンジの胸が大きく膨らみ、しぼんでいく。
「ありがとう……、綾波」
「ん……」
「嘘でも、うれしいよ……」
 額に触れていた手が離れていった。
 しかしすぐ後頭部に添えられ、持ち上げられる。
 ──え?
 レイが上半身を屈めてきた。
 口付け。
 涙が唇の間に流れて来る。
 ──しょっぱいや……、唇の味って。
 そんな不器用な二人の子供を……
 夕日が赤く、とても優しく照らしていた。
 そしてそのマンション前の路上では。
「やるわね、レイちゃん……」
「シンジ、よくやったな」
 隠しカメラによって覗いている二人がいた、プロテクトをかけた信号を極超短波に変換し、車載カメラに結像させている。
「今のレイちゃんは、あなたの願いそのものなのよ?」
「シンジ、何故そこで押し倒さん?」
 デコーダーを通した画像は、広角レンズのために細部まではわからない。
 カメラの数を減らした結果だ、代わりに広い範囲を拾える様にセッティングしている。
「どうやら薬が効き過ぎたみたいですね?」
 後部座席では一人カヲルが悠然と構えていた。
「ふむ……、後でリツコ君には」
「何をするつもりですか?」
 ギクっとゲンドウは固まった。
「い、いや、違うぞユイ」
「何が違うんですか?」
「墓穴を掘りましたね?」
「カヲル君、何を言うか!」
「そう言えば結局向こうで何をなさっていたのか、話してもらっていませんわ?」
 ほーほっほっほっと車外にまで笑いが漏れる。
「ついでに、渚君のことについてもまだでしたわね?」
(これぐらいはサービスにしておいてあげるよ?、シンジ君……)
 画面の中では、まだ口付けをかわしている二人が居た。


 おまけ。
「あらアスカ、どうしたの?」
 ミサトがビールを煽っていると、急にアスカが飛び込んで来た。
「シンジがここに居るでしょ?、出して!」
「そんな態度じゃ、うちのシンちゃんにはあわせられないわ?」
「なんでよ!、……え?、うちのってどういう意味よ?」
「シンちゃんね?、あたしと付き合う事になったの」
「ええーーー!?」
「嘘よ」
「ミサト!」
「隣の部屋に居るわ」
「え?、隣?」
「レイちゃんと二人で住むんですって」
「えええええー!?」
 バタバタとアスカが跳び出していく。
 わぁかいってのは良いわねぇ?
 いそいそとコップを壁に当てる。
 罵声が響いて来るまでに、そう長い時間はかからなかった。


続く



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。