第三新東京市立第一中学校では、体育を二クラス合同で行っていた。
今日の授業内容は百メートル走、校庭隅にある専用トラックには、さっそく準備運動を終えた数人が、軽く流して調整を行っていた。
その隅っこにいるシンジを見て、アスカは吊り上がりそうになる眉を必死に固定させていた。
(また、ボケボケッとして!)
準備運動もせずに三角座りをし、のほほんと欠伸などをしている。
(恥かかせたら、コロスかんね!)
アスカの殺気を感じえたのか、おどおどとする様子が捉えられた。
FIANCE〜幸せの方程式〜
第十五話、「ざわめく悩み」
妙にビクビクと首を振って何かを探していたシンジだったが、やがて、「あれぇ?」と首を傾げた。
「気のせいかなぁ、絶対アスカだと思ったんだけど」
当たりである。
「集合ー!」
担当教師の声に腰を上げてお尻を叩く。
トラック前に八人五列で集合した。
「準備運動終わってるなぁ?、一番から時間がなくなるまでタイムを計る、大体二周で時間になるはずだ、それじゃあ一番は……、秋葉と碇」
「は……」
「はい!」
妙にでかい声にシンジはびくりと怯えてしまった。
秋葉イチロウ君は青少年を地で行く爽やかな好青年であった、どれくらい爽やかかと言えば陸上部短距離走選手だけにこのような種目には炎を背負って目に火をちらつかせるぐらいに模範的だった。
「碇君!、正々堂々戦おう!(惣流さんのために!)」
シンジはその勢いに気圧されてしまった。
「……よろしく」
(……ただの測定、だよね?)
今ひとつシンジには自分の立場がわかっていないらしい。
その分、余計なくらいに煽るのが彼女であった。
「シンジぃ!、頑張ってぇ!」
シンジ遠く、フェンスの向こうのバレーコートにアスカを見付けた、……その背後でゴウっと余計に炎を燃え上がらせる秋葉だ。
「アスカさんすっごく真剣……」
「愛しの碇君だもんね?」
「可愛ぃ〜」
そんな馬鹿な批評には耳を貸さずに、アスカは熱い眼差しをシンジへ送った。
ようい、ドン、駆け出す二人。
グラウチングでスタートを決めた秋葉にすぐさま軍配が上がった。
(あいつ!?)
アスカは目を剥いた、結果から言えば順当にシンジは秋葉の後ろからゴールラインを駆け抜けた、しかし。
(速過ぎよ!)
同時に、トップスピードに乗ってからは、引きはなされはしなかったのである。
「よう、どうだった碇は?」
ぜぇはぁと息を切らせて笑おうとする膝を押さえつけている秋葉に、何人かの男子が感想を求めて近寄った。
「じょう、だんじゃ、ねぇ!、化けもんかっ、あいつ!」
はぁ?、っと一同、首を捻った。
「何言ってんだよ?」
「そうそう」
「こっちは!、ベストのスタート切ったんだぞ!、それなのに引き離せなかったんだよ!、見ろ!、息一つ切らしてやがらねぇ」
実にその通りで、シンジはのほほんと記録係に自己タイムを申告している。
──二順目。
「碇くぅん、頑張ってぇ!」
黄色い声援にシンジは顔を向けて、照れて、俯いた。
ギシッ!
アスカの指にフェンスが悲鳴を上げて軋みを上げる。
「用意」
パン!
火薬の音にスタートを切る、しかしやはり専門職でないシンジは立ったままから普通に走り出してしまったために、トップスピードへのノリが悪かった。
(恥ずかしくないのかなぁ?、あんなの……)
実はそんなことまで考えている。
しゃがみ込んでのスタートは技術だ、しかし田舎育ちのシンジにはただのカッコ付けに思われる部分があったのだろう。
はっきりと言ってしまえば、冷やかされるのが嫌なので真似しなかったのだ。
しかしそのことが、シンジに有利に作用した。
ドクン、ドクン、ドクン……
秋葉は孤独の中に居た。
ドクン、ドクン、ドクン……
耳が遠くなる、酸素のひと欠けらまで燃焼させて彼は走った。
ドクン、ドクン、ドクン……
遠ざかる意識、なのにはっきりと、その音だけは聞こえるのだ。
──タッタッタッタッタ……
(来る!)
足音が近付いて来る、抜かれてなるものかと彼は足を振ろうとした。
しかし一本目で酷使し過ぎた筋肉は、乳酸が溜まって彼の思う通りには動かない。
(惣流さんっ、俺に力を!)
彼はシックスセンスに頼って目以外の感覚で己を心配し、両手を組み合わせ、祈ってくれているアスカの姿を確かに見た。
……ただの幻覚とも言うが。
(わぁあああ!)
そして幻覚は彼を助けてはくれなかった、ビキッと破滅の音が鳴る、もんどりうって倒れる秋葉を、シンジは慌ててジャンプし、躱した。
「わぁあ!?」
「秋葉!」
「大丈夫か!?」
「いかんっ、足がつってる!」
「保健医を連れて来い!、救急車も頼んでくれ!」
秋葉を中心に殺気立つ、その周囲で手をこまねいていた一同の心は、シンジへの畏怖で溢れていた。
何て奴だ、と。
端から見れば、余裕があるのに追い抜かず、追い詰め、自爆させたように見えたのだ。
約十五分ほど授業は中断されてしまったが、秋葉の退場によって事態は一応の落ち着きを取り戻した。
「よぉし、それじゃあこれでラストだ、もう一本くらいは行きたかったんだがな……、秋葉を抜かして順番を詰めてくれ、碇はもう一度だ」
え〜?、っと不満を口にしそうになってシンジは堪えた。
まだ彼を踏み付けるかと思った驚きが収まっていないのだ、どうせろくなタイムは出ないとわかっている。
「シンジぃ!」
その気怠さを見抜いたのか、叱るような声が掛けられた。
シンジはアスカへと視線を投じた……、つもりで、その向こう側の校舎、二階の窓に人影を見付けてしまった。
(綾波!?)
間違いなく、彼女だった、授業そっちのけで首を横向け、眺めてくれていた。
この二人、互いに驚異の視力としか言い様が無い目の良さを持っていた、二百メートル以上離れていると言うのに、顔形はおろか視線を絡み合わせることができるのだから。
シンジは引き締まった顔をして背を向けた、やる!、その決意に表情を引き締めていた。
「な、なによ、アイツ……」
その変わり様に声援を送ったアスカも動揺してしまった、やや頬が赤らんでしまったのは愛敬だろうか?
……彼女が自分の背後を振り返っていたならば、また別の意味で顔を真っ赤に染めていただろうが。
スタートラインに立つシンジ、トラック右側だというのに、誰もがそこが中央であると錯覚した、言うなれば王者の風格がそう感じさせたのだ。
「用意」
パンッと火薬が鳴った、シンジは隣が誰なのか気にもしなかった、持ちえている全ての筋力を注ぎ込み、視界がブラックアウトする寸前まで自分を追い詰め、ただ前に進むためだけに体を酷使した。
そして、ゴール。
どよめきが全てを支配した。
「じゅ、十秒五!」
シンジは振り返りガッツポーズを取った。
(勝ったよ、勝ったよ綾波!)
そうかと心の何処かでシンジはようやく理解していた。
秋葉が掛けてくれた言葉の意味を。
(そう、人生は勝ってこそなんだ!)
おめでとうと聞こえたレイの言葉に、ありがとうと微笑みを返す。
しかしおめでたいのはアスカであった。
「見て見て、碇君、笑ってるぅ」
「可愛い!、ねぇアスカさん」
「え、ええ……」
──なによあいつ!
表面上は不機嫌そうに、だが頬がどうにも赤く染まってしまう。
(あたしにそんな顔見せてどうしようっての?)
それは勘違いと言う物であった。
お昼休み。
「惣流さんおかしくなってない?」
「やっぱりさっきのあれじゃない?」
「ねぇ?」
ぽ〜〜〜っと頬杖をついているアスカがいた、誰が話しかけても生返事を返すだけで、覇気が無い。
なんとなく食べる気の起こらない弁当をつついて、時間ばかりを無駄にしていた。
(あいつもあんなとこ、あったんだ……)
アスカがぼうっとしてくり返し思い起こしていたのは、一時間目に見たシンジの無邪気な笑顔であった。
(はっ!、だ、だめだって!、あたしには加持さんが居るんだから!、加持さんが……)
捨てられた日のことを思い出す。
(……そうよね、捨てられたんだ、あたし)
お手製のミートボールをつまんでみる。
「ん、おいし……」
しかしそれを作ったのは、レイであった。
自宅。
カチャカチャとお皿を洗うレイが居る。
その背中をぼんやりとしてアスカは眺めていた。
シンジは楽しそうに、今日の体育のことを話していた。
もちろん相手はレイになのだが。
「……ねぇ」
突然アスカはポツリと漏らした。
「あたし、邪魔かな……」
キョトンとするシンジだ。
「熱でもあるの?」
カッとアスカは怒り出す。
「もういいわよ、バカ!」
「なんだよもぉ……」
レイは居心地悪そうにするシンジを、少し冷たい目で見つめていた。
コンコンコン……
アスカの部屋をノックしたのはレイだった。
すっと開く。
「なによ?」
「…………」
無言のレイ。
「用が無いなら……」
「心を開かなければ、碇君は応えてくれないわ」
キッとレイを睨み返す。
「あたしが閉ざしてるってぇの!?」
「そうよ」
「はん!、もうシンジとくっついちゃってるあんたなんかに慰められるなんて、このあたしも落ちぶれたもんだわ」
レイはまたも口を閉ざした。
「……なによ?」
じっと睨み付ける様な瞳に苛立ちを募らせる。
「何よ何よ何よ!、みんなからひいきされてるくせに!」
「……ひいきなんて、されてないわ」
「あんたがそう思ってるだけじゃない!」
「……あなたは、何を望むの?」
ピタッとアスカは止まってしまった。
「……の、望みって」
「お金?、それとも碇君?」
「お金に決まってるじゃない!」
「そ……」
レイは軽蔑の眼差しを向けた。
「好きでも無いくせに、あなたは好意を望むのね?」
「好意?」
「嫌いと口にされて、好意を向ける人が居るの?」
図星を刺されて口をつぐむ。
「あた、しは……」
視線が泳ぐ。
「碇君と一つになりたい……」
ぎょっとする。
「あんた!?」
「だから碇君は、応えてくれるの……」
レイは身を翻した。
「じゃ、さよなら……」
スーパタンと……
アスカは再び、孤独な部屋の中に閉ざされてしまった。
「あたしは……」
アスカは立ち尽くすことしかできないで、ただ、シンジの無邪気な笑顔に対して、自分のあさましさを反芻していた。
続く
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。