「……授業、終わっちゃったね?」
シンジは気恥ずかしさをそう護魔化した。
校舎裏にはトタンで作られた屋根の下に、使われていない椅子や机が置かれている物置があった。
二人はその奥に、隠れるようにして座っていた。
「ごめん……」
「……あんたが謝る事じゃないでしょう?」
怒りながらも、頬が赤い。
「でも……」
シンジも照れてはいるが、目は真剣だ。
「……ま、いいや、ねえ?」
立ち上がる。
「今日は、なに食べたい?」
「え?」
差し伸べられた手に手を重ねる。
「アスカの好きなもの、作ってあげるよ」
二人の間の雰囲気は確実に柔らかくなっている。
だがそんな二人の会話に聞き耳を立てている、無粋な男が一人居た。
FIANCE〜幸せの方程式〜
第十八話、「酷な試験」
「いやはや、ぎりぎりと言う感じでしたが、まだシナリオは続行なさいますか?」
加持である。
学校裏手の壁際に停まっている、黒いRV車の中だった、窓ももちろんスモークガラスで中は見えない。
ラジオから流れているのは、アスカのスカートの折り返しに縫い込まれている、盗聴器からの会話であった。
「これ以上は余計なおせっかいだと思いますがね?」
だが携帯電話の先に居る相手は、まだまだ不満が大きいらしい。
「もう少しだけ時計を進めますか?」
はぁっと溜め息。
「ここからは賭けになりますよ?、それじゃあ」
加持は携帯を切るなり、ハンドルに倒れかかるように俯いた。
「失敗しても俺の責任、嫌われるのも俺の役目、下っ端は辛いよなぁ……」
その余計なお世話をするために、加持は車のドアを開けた。
「その手はなに?」
レイはシンジの右手を睨みつけた。
十数秒前には無かった状態。
まずアスカの手が足と連動する動きをやめ……
数秒間固定された後に、隣の少年の指先をつかんだ。
シンジは驚き、頬を赤くした。
アスカの顔を見ないままに固まり、のどを『ゴクリ』と大きく鳴らす。
そして軽く指を曲げて、手を繋いだ。
直後、レイが目ざとくそれを咎めたわけである。
「か、カモフラージュよ!、……いちおう婚約者なんだから」
「そ……」
レイも負けじと身を寄せた。
「綾波!?」
レイは対抗して腕を組みに出てた。
「ちょ、ちょっと!」
シンジは慌てた、まだ校門も出ていない。
右を見て殺気立つ尖った目に恐れおののき……
左を見て無言で拳を固める上級生達に恐怖する。
マズい……
いつものアスカなら妨害してくれるのだが……
今日のアスカはちと違う。
逆に意地になって対抗しようとするのだから、……かと言って。
(ちょっと普通じゃないもんな、アスカ)
弱っていると思う、だから好きと漏らしたのも分かっていた。
勘違いしちゃうよなぁ、絶対……
シンジもレイとの事が無ければ、そのまま鵜呑みにしていただろう。
自分も経験していた、弱っている時に向けられた好意には、抗いがたいものがあると。
簡単に縋り付いてしまうものだと。
(アスカ……、もう一度好きだって言ってくれるかなぁ?)
恋愛の好きでなくとも……
お金目当だなどと面と向かって口にされるよりは、よっぽどいい。
でも、とりあえずは今、だ。
のぼせちゃってるよぉ……
レイの声もアスカの耳には届いていないようで……
にへらっとした感じでシンジの手の動きに合わせている。
「うっ……」
レイの真っ白な頬もまた、即行赤く染まっている。
もしこんな状態で腕を振り払おうものならば……
(泣いちゃう、かも)
もう、綾波までアスカの真似して……、え?
シンジはふと、妙な事に気がついた。
「あのさ、綾波……」
それを訊ねようとしたのだが、レイは校門の所に居る男を、酷く鋭く睨んでいた。
「加持、さん……」
アスカの呟きが耳に入った。
「よぉ」
「どうして……」
顔面蒼白になっている。
それを見てシンジは庇おうと前に出た、が。
「え?」
その服の袖をアスカがつかんでいた。
逆に引っ張り戻されて戸惑う。
「少し、いいかな?」
にやけているし、アスカの反応も尋常ではない。
嫌な人だ。
それがシンジの感じた第一印象であった。
「そう恐がらなくていいよ、碇シンジ君」
「僕のことを?」
それ程恐い人には見えないけど……
でもアスカとの間には何かあるのかもしれないと、だから必要以上に身構えた。
「三十分だけ、ここで待っていてくれないか?」
「で、でも……」
ちらりとアスカを見る。
「三十分で返すよ」
「シンジ……」
アスカは弱々しい顔を向けた。
「アスカ……」
手を伸ばしかける。
「じゃ、行こうか?」
「あ……」
シンジの手は空振った。
二度と帰って来ない様な悪寒に襲われる。
シンジ……
その手を目の端にとめたのか?、アスカは悲しそうな顔をした。
それでもシンジは、アスカを引き止める事ができなかった。
何と言って引き止めればいいのか?
言葉が上手く、浮かばなかった。
急に現われた男がアスカを連れさらっていった。
それはすぐに噂となって駆け巡る。
校門にたたずむシンジに、好奇の視線が突き刺さる。
「……綾波は、帰ってて」
シンジはようやくそれだけを絞り出した。
「何処へ……、行くんですか?」
学校沿いに角を曲がると、見慣れた加持の車があった。
「恐いのか?」
「……捨てたんじゃなかったんですか?」
加持は苦笑で答えを護魔化した。
「取って食いやしないよ」
「……はい」
アスカはこのまま返してもらえないんじゃないかと脅えていた。
「シートベルトはいらない」
加持はそれだけを言うと車を出し、左へ左へと三度角を曲がった所で停車した。
「……着いたぞ?」
「え?」
顔を上げる。
「ええ!?」
真正面に校門がある。
自分達の立ち去った方向を眺めているシンジの背中が見えた。
「加持さん?」
訝しげに隣を見ると、加持は一つシートを倒して楽にしようとしていた。
「今日、ここへ来たのはな……、最後の確認がしたかったからさ」
「確認?」
「ああ……、どうだ?、シンジ君は好きになれたか?」
ギュッと唇を噛み、アスカは俯いて顔を隠した。
「優しかっただろ?、シンジ君は」
そうかもしれない、でもそれは……
「加持さんに、捨てられたから……」
その痛みがあったから、甘えたわけで……
「金も権力もないシンジ君は嫌いか?」
アスカはプルプルと首を振る、うなだれたままで。
「アスカに頭の良さや体やお金を求めるシンジ君は好きか?」
質問の意図を計りかねて答えられない。
加持はそれを見抜いた上で薄く笑った。
「俺はシンジ君とアスカなら、損得勘定抜きで付き合えるんじゃないかと思っていたんだ」
「……損?」
「ああ」
真剣な眼差しをアスカへと向ける。
「俺は金が目当てだとアスカに言ったな?」
コクリと頷く。
「俺にだって付き合った女はいる、そいつは俺に逃げ場所とか、まあそんなのを求めていた」
「……逃げ場?」
「俺も女に飢えてたし、ギブ&テイクって言えば聞こえはいいが、最低だろう?」
自嘲気味に加持は笑った。
「面倒な想いをしてまで求めやしないで……」
適当な所で妥協して。
「そのくせ、少しでも希望からずれると癇癪を起こしてケンカになって……」
もともとが適当で付き合い出したのに、それは大袈裟に別れ話を持ち出して。
「理想をアスカ達に重ねている、そう言ったのは本当の気持ちだ」
「加持さん……」
アスカの中から脅えが消えた。
自分の憧れていた姿をもう一度見せてくれたから。
「……アスカは俺に何かして欲しいから、好きでも無い男に取り入ろうとしていた、そうだろう?」
肯定する。
「でも俺はそんな俺達が嫌いだった」
何も出来ないくせに優しい振りをする自分と、望み通りにしてくれない男に不満を募らせる女。
「だからアスカには何かをしてくれる人を探してやりたかったんだ」
顎先でシンジを差す。
「シンジ君はどうだ?」
うなだれて、門柱の前にしゃがみ込んでいる、一人で。
後ろ指を差されても逃げ出さないで。
「バカなんだから……」
何を考えているのか?、手に取るように分かってしまう。
「きっと後悔してるぞ?」
アスカを引き止めるべきだったと。
「ほんと……」
嬉しそうに目を細める。
「シンジ君は、アスカに何を期待してる?」
アスカの動きが固まった。
「あ……」
今の所はまだ、何も。
「えっと……」
「でも期待には応えてくれるんじゃないのか?」
かなり不器用なやり方でも。
机の置き場で、シンジがなにかを口ごもった。
『……ま、いいや、ねえ?』
「あの時……」
なにを言いたかったのか、思い至った。
僕がもっと、もっとうまく……、ちゃんと。
「でも……」
またも曇った。
「あたし、居ない方がいいかもしれないのに」
あの家には。
「他に行く宛、ないんだろう?」
アスカは悲しげに頷いた。
「……シンジのママに、甘えて」
「そうか……、ならシンジ君はどうするんだ?」
「シンジには、あの女が居るもの」
「綾波レイ、か……、彼女は彼女だ」
「え?」
「アスカじゃ……、ないんだろ?」
ウインクを一つ。
「傍に居られるなら理由なんてなんでもいいんだ」
「あたしは……」
「何もしてあげられないか?、傍に居たいんだろう?」
有無を言わせず、加持は低い声でアスカを睨む。
「さっき、俺が誘った時、アスカはどうしたかったんだ?」
「え?」
予想外の出題に戸惑った。
「俺に着いて来るのが恐くて、シンジ君の傍に居たかったんじゃないのか?、助けてもらいたかったんじゃないのか?」
「そんなこと……」
うそよ、その通りよ……
建前と本音が交錯する。
「俺が恐かったんだろう?、誰もアスカを見てくれなかったのに、ようやく相手をしてくれた俺にあっさりと捨てられて、今度はなにを言われるのか、されるのか恐かったんだろう?」
「やめて!」
「だめだ!」
耳を塞ごうとしたアスカの手を加持は掴んだ。
「なぜシンジ君の傍に居たかった?、シンジ君が呼び止めたら着いて来たのか?」
体が震え出す。
「やめ、て……」
「その気持ちを隠すな!、その気持ちは……、理由になる」
はっとする。
「加持……、さん」
「ああ」
加持の顔に、懐かしい笑みが戻って来ていた。
「安心できるかもしれない、それを確かめたい、それで良いんじゃないのか?」
「でも……」
「理由はそれで良い、それはアスカだけの秘密でいい」
「でも、シンジには……」
「アスカになら出来る、アスカにしかできない事があるだろう?」
「え?」
冗談っぽい笑いにキョトンとする。
「例えば……、シンジ君は勉強が出来るのか?」
「あ!」
「スポーツは?、家事は?、アスカに出来る事で、してあげられる、教えてあげられる事があるはずだ」
「うん……」
「そしてシンジ君のために上達して」
「加持さん!」
「冗談じゃないさ、それが良い女を作るって事に繋がるんだ」
「良い、女?」
「そうだ」
苦笑いしている。
「俺じゃあアスカに、金を持って来られる女に仕向けるのが精一杯だった」
「そんな……」
「でもシンジ君はどうだ?、アスカに”そんなこと”をやらせようとしている、凄いじゃないか」
加持はシートを戻した。
「シンジ君は良い男の子だけど、男じゃない」
「うん」
「良い男にするのは、アスカだ」
「あたし!?」
「そうだ……、シンジ君はアスカを引き止められなかった、それはアスカとの繋がりがまだ弱いからさ」
「繋がり?」
「絆だよ」
タバコを取り出し、火を点ける。
「アスカが自分で行くって言っているのに引き止めてどうする?、シンジ君がアスカの気持ちなんて関係無いくらい、「行かないでくれ」って思っていれば、引き止めていたさ」
紫煙をくゆらせる。
「……アスカも、その方が嬉しかっただろう?」
「ええ」
そう思う、素直な気持ちが突いて出る。
「ならそう言う関係を築けばいい、それが男を育てるってことになる」
車道側の窓を開ける。
「良い女ってのは、それぐらいできないとな?」
久しぶりのタバコの煙をアスカは嗅いだ。
「加持さん……」
「アスカには教育する権利も、義務も、口実も揃ってる、今に満足してるレイちゃんにはそれは出来ない事なんだ、ならそれはアスカが傍に居たいと思う理由の、いじっぱりな言い訳にできるんじゃないのか?」
「うん!」
最初の頃と違って元気に頷く。
頬に赤みが戻って来ていた。
「っと、ちょっと長引いたかな?」
「え?」
「四十……、もうすぐ五十分になる」
「ええ!?」
慌ててシンジを見る。
「ホント、バカなんだから……」
シンジはうずくまっていた、泣いているのかもしれない。
膝の間に顔を隠してしまっていた。
「行くか?」
「はい!」
慌ててドアを開けようとする。
「アスカ」
「え?」
アスカは半分だけ足を下ろした所で止まった。
「希望は……、人の数だけ存在する、妥協はするなよ?」
加持はにやけた笑みと共に、最後のアドバイスをアスカへ送った。
「シぃンジ☆」
シンジはやけに明るい声に顔を上げた。
「アス、カ……」
「なに泣いてんのよ?」
シンジの両手を持って、引き起こす。
「だってアスカが……」
「帰って来ないと思ったの?」
シンジは袖で涙を拭いながら頷いた。
「ほんと、お人好しなんだから……」
「え?」
「だってそうでしょ?」
くるりと背を向く。
「……あたしのことなんて好きじゃないくせに、泣いちゃって」
「そんな……」
「シンジはあたしが泣きそうだったから……、見捨てたみたいで嫌だったんでしょ?」
「違うよ、そうじゃないよ!」
「じゃあどうしてよ?」
重い沈黙。
「ねぇ?」
少しして急かす。
「好きでも無いくせに……」
「嫌いじゃ……」
「好きじゃないんでしょ?」
「違うよ」
「じゃあ好きなの?」
「ただ」
シンジはくり返すだけのやり取りから抜け出したくなって焦った。
「ただ、あんなアスカは、嫌だって思ったんだ」
「……どうして?」
顔を伏せて答える。
「だって……、せっかく笑ってくれたのに」
「じゃあ!」
アスカは少しだけ怒って振り返る。
「なんで引き止めなかったのよ!」
「え?」
目を丸くする。
「あたしを離したくないなら、手をつかんででも行かせなきゃよかったじゃない!」
「でも……」
「なに!?」
「だってアスカが……」
「あたしのことなんてどうでもいいの!」
半ば叫び気味に……
「シンジはどうしたいのかって言ってるのよ!」
自棄になって……、アスカはシンジの唇を奪った。
不意に視界がアスカの目尻から耳と、夕日に光る金色の髪で埋めつくされた。
シンジは混乱した。
混乱したまま、放り出された。
アスカは離れると、頬をやや夕日と同じ色に染めて質問を続けた。
「今度は……、思った通りにしてくれる?」
「え?」
「引き止めてくれるの!?」
「あ、うん!」
「手を握って?」
「と、止めるよ!」
「あたしに関係無く?」
「もう!、アスカが泣くとこなんてっ、見たくないから!」
「それって……」
嬉しそうに唇に指を当てる。
「あたしが、好きだから?」
シンジは突きつけられた事実に硬直した、実に見事な証明だった。
もはや返事すら出来ぬ状況に追いやられていた。
(ほんと、バカなんだから……)
あうあうと動揺しているシンジの手を取る。
「行こっ!」
「あ、うん……」
シンジは自失したままで引きずられた。
でも……、でも僕、綾波が……
その心の中は酷くごちゃごちゃにかき乱されていた。
この後、ご機嫌で帰って来たアスカを勘繰ったレイの視線に曝されて、シンジが神経性の下痢に陥り、トイレに篭ったのは余談である。
続く
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。