「それじゃあ、後は頼むな」
”あの男”が姉を見下ろすようにして言った言葉に、彼女はキュッと唇を噛んだ。
男の目には何か後ろめたいものが浮かんでいる、幼心にも読み取れてしまうほど、それは露骨な色をしていた。
ヒカリは小さな妹の手を握りしめ、男と姉を睨むように見つめていた。
ヒカリは父親を憎んでいた。
FIANCE〜幸せの方程式〜
第二十二話、「今宵聖なる教会で(その四)」
「作るのは良いんだけどさぁ……」
シンジは夜の街を徘徊していた。
追い出されてしまったからだ。
自宅はレイが、アスカは何故だか留守だったミサトの部屋を、これ幸いとばかりに占領していた。
『あたしがいないからって、いちゃいちゃするんじゃないわよ!』
『しないってば……』
『どうだか』
『う……、しないよ、多分』
『多分ってなによー!』
そんなわけで、二人きりにするのは危険だと判断したアスカの嫉妬をもろに食らってしまったのである。
「張り合うのは勝手だけどさぁ」
そう言いつつもニヤけているのだから、そう悪い気はしていないのだろう。
「あれ?」
そろそろ中学生はどの店からも追い出されてしまう時間帯である。
シンジは24時間営業の本屋に行く途中で、コンビニの前にたむろっている見慣れた人影を見付けた。
「トウジ!、ケンスケ!」
大きな声で呼ぶ。
「あれ?」
シンジはすぐに、他にも人が居る事に気が付いた。
「シンジぃ!」
「シンジやないか、どないしたんや?」
トウジは駆け寄って来たシンジと腕をぶつけて挨拶した。
「そっちこそ、だめだよ、こんな時間まで女の子連れ回してさ」
「あほう、半分同棲しとった奴に言われとうないわい」
けけけと簡単に笑い流す。
「えっと……、洞木さん、だっけ?」
シンジは見覚えのある女の子にたじろいだ。
何故だか露骨に睨まれたからだ。
「あ〜、シンジぃ」
察したケンスケが割り込んだ。
「これから送ってくとこなんだけど、暇か?」
「……別に用事はないけどね」
「よっしゃ、ほな行こかぁ」
三人揃って歩き出す。
と、トウジが背後に振り返った。
「ほれ、ねぇちゃんが教えてくれんと、道わからへんのやけどなぁ」
ヒカリはすたすたと歩き出した。
無表情に、三人を一気に追い抜いて行く。
その態度にシンジはぽりぽりと頭を掻いて一人ごちた。
「僕、何かしたのかなぁ?」
「気にするだけ無駄やて」
「そうそう、シンジが恨まれるのはいつものことだろ?」
「そうだね」
シンジはけろっとして答えた。
「それより、こないな時間に何処行こうとしとったんや?」
「あ、うん……、実は追い出されちゃって」
「……お前こっちでも綾波と住んどんのか?」
「ううん、違うよ」
「綾波もこっちに来てるんだよな?」
「うん、綾波と、もう一人女の子が居るんだ」
「「い、いやな感じぃ!」」
「うらやましいやっちゃのぉ!」
「そうだぞ!、何でお前だけ!!」
「僕じゃないよ、母さんだよぉ」
「「はぁ!?」」
「母さんが……、見合いしろって話を持って来て、そのまま一緒に住む事になってるんだ」
「んじゃ、ネルフがらみか?」
「そう……、なるのかな、よくわかんないや」
シンジはちょっとだけ本音の部分を垣間見せた。
護魔化すような笑みの中に、疑惑めいたものが染みのように滲んでいた。
「でも今は結構楽しくやってるよ?、綾波はともかく、アスカはそっちが目当てだってのは最初から分かってたし」
「次期ネルフ総帥の話か?」
「父さんも母さんもそんなの言ったことないんだけどね?、っと」
シンジ達は突然立ち止まったヒカリに慌てた。
「どうし……」
訊ねかけて、言葉を飲み込む。
「今……、なんて」
ヒカリはぎこちなく振り返った。
「今、なんて、言ったの?」
「え?」
「ネルフって……」
「総帥の話し?」
「『園長』の名前が碇ちゅうんを知らんのかいな」
「うそ……」
トウジのさらっとした一言に、ヒカリはがっくりと膝を突いた。
ヒカリの家は父子家庭であった。
母が居ない事を理由に、父は子育てを放棄した。
娘達を施設に預け、去っていく父親の背中をヒカリは恨めしげに見送った。
その父の手先である姉も、ヒカリは何処かで憎んでいた。
だから風邪を引いた妹の面倒は見させなかった、だから病院に預ける事を選んでもいた。
『お姉ちゃんには、頼ったりしない』
それは借りを作るようで面白くないから。
ヒカリはそんな風に考えていた、妙に自立した所を見せるのはその裏返しだった。
そんなヒカリの施設での生活は悲惨を極めた。
自分達にはまがりなりにも親が居る。
それは僻まれるには十分な理由であったのだ。
姉が一応の歳になった時、三人は施設を出て暮らし始めた。
ヒカリは姉が保護者になるのを快くは思わなかったが、無用の軋轢に堪えるのはバカバカしいと考えての選択だった。
なのに施設を出ても世界は何も変わらなかった。
高校生の女の子を保護者とする一家に、世間は奇異な目を向けた。
親を見かけない三人に、風当たりはとても強かった。
そして冷たかった。
養護施設出身と言う事も相まって、憐れむようにも見下されることとなった。
──好きになって貰えない。
誰からも、それが今のヒカリのトラウマとなっていた。
だからとても幸せそうなシンジが鬱陶しかったのだ、また浮かれる周囲も疎ましかった。
あたしには優しくしてくれないくせに。
ヒカリはとても僻んでいた。
園長とは愛称であった。
碇ゲンドウ、碇ユイは、子供達からその様な呼び名で慕われていた。
当然、ヒカリもその名前は知っていた。
ネルフは何も家庭事情に問題のある子供を保護しているだけではない。
世界的な人材教育機関でもあるのだ。
当然出身者の中には、尊敬に価する人物も多数居る。
苛めを良しとする子供達は嫌いでも、ヒカリはそんな人達を育て上げた園長を嫌ってはいなかった。
彼らは等しく、愛し、育ててくれたからだ。
「あなたが!?」
だからヒカリの驚きは、怒りを通り越して恐怖にすらすり変わってしまった、一瞬で。
腰砕けになって倒れようとする。
「ちょ、大丈夫かいな!」
とっさに手を伸ばしてトウジは支えた。
「え、ええ……」
恐る恐る、ヒカリはシンジを見上げた。
気を失う寸前の表情であった。
それも当然だろう、この少年は世界を掌握する事すら出来る人物の御曹司であるのだから。
本人にそのつもりが無かったとしても。
「ごめんなさい、ごめ……」
シンジ、ケンスケ、トウジの三人は顔を見合わせた。
目でお互いに嘆息する、ヒカリの考えた事がわかったからだ。
「なに謝ってるのさ?」
「だって、だって……」
「別にそんなことで怒りやしないって」
「でも……」
「シンジはシンジや、園長とは関係あらへん」
ヒカリはその優しさに、逆に奇妙な不安を覚えた。
三人の顔が、表面だけのもののように見え始めてしまった。
嘲りを浮かべているように、ヒカリの潤んだ視界には映り込んだ。
「う、うう……」
いきなり俯き泣き始めた。
「ちょ、何で泣くんや!」
トウジは慌ててヒカリを抱きとめたままで揺すった。
「あ〜、こりゃだめだ」
ケンスケは夜空を仰いだ。
「やっぱさぁ、誰それの子供って、親が立派なほど威光とか後光を背負ってるように見えるんだよな」
「そんなぁ……」
「シンジにそないなもんあらへんやないか」
トウジは呆れた声を出した。
「オヤジさんは死んどるし……、こないだ奇跡の帰還とかしたんやったか?、その間も、おかんには仕事や言うて、お館さんとこに預けられとったやないか……」
「そうそう、お館……、シンジの婆ちゃんが死んだ時にも、おばさん、帰って来なかったもんな」
「ほんま、綾波がおらへんかったら、シンジ、死んどったんや無いか?」
シンジは苦笑したが、大袈裟なとは笑わなかった。
実際、レイが日常をくり返してくれなかったら、自分でもどうなっていたから分からないふしがあったからだ。
「綾波って……、綾波さん?」
ヒカリは怪訝そうな声を漏らした。
「お、知っとるんか?」
「同じ学校だよ、クラスは別だけどね」
「ま、一緒に暮らしとるんやったら、そら有名やろ」
「違うよ、それは秘密にしてるから」
「卑怯者ぉ」
「賢くなったって言ってよね?」
「ズルく……、の間違いじゃないのかぁ?」
「あれだけからかわれたらね……、また苛められるのはヤだし」
「え?」
またも不思議そうな声が漏らされた。
「苛める?」
「おう、そうや」
「信じられないだろうけどさ、シンジってほら、だから園長の御曹司だろ?」
「違和感あるんだよね、それってさ」
「事実だろ?、そうそう、昼のチョコ、結構本命混ざってたぜ?」
「そう?」
シンジは困ったような顔をした。
「またどうせからかってるだけでしょ」
「今度は内緒にしとるんやろ?」
「本気の本気じゃないのかぁ?」
「どっちにしても困るよ、そんなの……」
「僻まれるからか?」
「まあね……」
「重傷、未だ治らずかいな?」
トウジは自分を見上げる、問いかける目に気が付いて笑った。
「偉いさんの息子は息子で、苦労があるっちゅうこっちゃ」
「嫌われるんだよな……、ネルフの子供達には『園長の本当の子供』だからって理由で、『外』の人間には”あのネルフ”の跡継ぎのだからって、いい気になりやがってってさ」
「アホな話やで……、シンジがほんまに幸せやったら、なんで『ごめん』なんつう言葉を口癖にするんや、なぁ?」
「いや、同意を求められてもさ」
曖昧に笑って護魔化すシンジだ。
「最悪なのは、ネルフの子供達の親玉って意見だよな」
「そや、ひねくれもんが悪さしよったら『親がおらへんから』、シンジはその代表みたいに、ほんま、大人っちゅうんはどうしようもないで!」
「トウジだって最初は殴りつけてただろう?」
「そういや、そうだったね?」
二人の言葉にトウジは「うぐっ!」っと奇妙な呻きを発した。
「あ、あれはやなぁ!」
「ワシはお前を殴らないかんのや!、ってさ?、理由も言わないで思いっきり」
そう言って、ケンスケはトウジの頬を軽く小突いた。
「もうええやないかぁ……」
バツが悪そうに小さくなる。
「痛かったんだけどねぇ」
シンジはクスクスと笑った。
「トウジもさ、小さい頃にお母さんを亡くしてるんだよ」
シンジの言葉はヒカリに向けられたものだった。
ヒカリはすぐ傍にある顔を見つめた。
そこには自分のような卑屈なものは無く、からっとした元気だけが存在している。
「おじいさんとお父さんはいるんだけどね、トウジと……、トウジの妹のハルカちゃんは、養護施設に預けられてさ……、それで結構苛められたんだって」
ヒカリは自分と似たような境遇に共感を覚えた。
今度はケンスケが口にした。
「養護施設でも預けられただけなら、親がたまに来れるように普通のマンションが貰えるだろう?」
「うん……」
ヒカリは頷いた、ヒカリ達三人姉妹も同じように部屋を一つ貰ったからだ。
そこで『先生』達の世話になって育って来ていた。
「それでさ、ハルカちゃん、特別扱いされてるって僻まれてさ……」
「なに勝手に話とんねん!」
ケンスケはトウジの怒声に距離を開けたが、その必要はなかった。
トウジは今だ、ヒカリを支えるので手一杯だったからだ。
「それでトウジ……、シンジに突っかかったんだよな」
後はシンジが引き継いだ。
「僕は僕でさ……、養護施設の子からは嫌われるし、それ以外の人達からは、あのネルフのって、そればっかりでさ……」
苦笑気味に肩をすくめる。
「シンジってちょっと人間不信入ってたよな?」
「それは……、今でも変わらないよ」
「そやなぁ……、チョコもあっさり手放しおるし」
「それはもういいじゃないかぁ」
シンジは寂しそうに微笑んだ。
「碇君……」
ヒカリも思わずハッとする笑みだった。
「好きなんだ、好きだと思う……、でも理由が良く分からないしね?、気持ちを受け取ると……、余計に厄介な事になるんだ、どうしてお前が、とか、総帥の息子はいいよな、とか、好きって言ってもらえても、その好きって僕が父さん達の子供だからで、僕のことはどうでも言いのかなって思えて来て……」
ヒカリは何かを言ってあげようと思って、そんな自分に驚いた。
自分が持っていた先入観が、シンジの言葉に被さったからだ。
「あーっ、こんなとこに居たわねぇ!」
だが口から出ようとした言葉は、もっと大きな声に潰されてしまった。
女の子の声だった。
ビクリと反応して顔を向ける。
赤い髪が街灯の下で派手に光っていた。
「ばかシンジぃ!」
「アスカ?」
「おっ、あれか?」
「かっわいー!」
ケンスケがサッとカメラを構える。
だがアスカはそんなケンスケも抱き合っている二人も無視して、シンジの腕に組み付いた。
「さ、行くわよ!」
「え?」
そのままぐいぐいと引っ張り出す。
「い、行くって、どこへさ?」
「そんなの決まってるじゃない!」
頬を染めつつ、問答無用で引きずり出す。
「ちょっと、何処に!?」
「い・い・と・こ・ろ・☆」
シンジは嫌な予感に襲われて青ざめた。
「ちょっとぉ!、助けて、誰か助けてよ!」
「往生際が悪いわね、バカシンジだけに!」
シンジの喚きが、泣き言に聞こえたのは気のせいだろうか?
「なんやあれは?」
トウジはぽかんとした。
「さあ?」
ケンスケも首を傾げた。
何とも言えずに顔を見合わせる二人である。
「それはともかく」
「おう、洞木さん、やったか?」
「え?」
トウジは頬をポリポリと掻いた。
「まだ一人で立てへんのか?」
「え?、きゃ!」
慌てて飛び離れる。
ヒカリはかーっと、赤くなった。
つられるようにトウジの顔も染めあがる。
「ちえ……」
そんな二人を、ケンスケはすねながらも面白そうにフレームに納めた。
その音声には、未だ遠くから響くシンジの悲鳴が、心霊ビデオのように納められていた。
続く
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。