朝。
 あれから幾日かが経ち、表面的には穏やかな日常を取り戻せていた。
(そう、なにもない日々だ……)
 待ち望んでいた時間、心安らぐ、なにもない。
 だが世界は否応なくシンジを巻き込む、そしてシンジもそれを感じていた。
 枕許に転がっている新聞。
 その一面には、綾波家炎上の記事が踊っていた。



 voluntarily.3 Burned to ashes. 


「いやぁ、参ったよ」
「お疲れ」
 今日の加持はいつものマスターではなく、もう一つの職業用の出で立ちをしていた。
 灰色のスーツは綾波家に出入りを許された、許可証を持つ人間だけに支給されているものである。
「で、どうだったのよ、あっちは?」
 喫茶店は臨時休業である、なぜなら。
「うえ、なんだこりゃ?」
「悪かったわねぇ」
 ぷぅっとむくれるミサト。
 ようするにミサトの入れたコーヒーは一般向けではないと言うことなのだ。
「炎上って言っても執務室の一部が燃えただけだからな?、実質的な被害は無しだ」
「そう……、爆弾テロ?、なわけないか」
「ああ、綾波家のガードはホワイトハウスよりも上だからな」
 懐から「NERV」と書かれた赤いメモ帳を取り出す。
「邸宅で炎上が起こったとほぼ同時刻に、箱根峠で謎の発光現象が確認されている、山頂だそうだ」
「ちょっと待って……、あそこからじゃ綾波家まで何キロあると思ってるのよ?」
「そうだな……、だから関連付けて考える人間は居ない」
 メモ帳と言っても電子手帳だ、手に持った時に加持の指紋を読み取り、起動キーにしている。
 加持は電子ペンで自分の書き込んだ文章をスクロールさせた。
「しかし火災ではなく炎上、それも爆発だ、箱根峠方面から閃光のようなものが走るのを見たって情報も手に入れたよ」
「……で、誰から聞き出したのかしら?」
 ピクピクとミサトのこめかみがひきつり出す。
 それに対して加持は危機感を募らせた。
「ん、まあ……、気にするな」
「あんたねぇ!」
「まあまあ、これも仕事だって」
「どうせメイドの子でしょうが!、まったく……、それで?」
「ゲンドウ氏は保安部と諜報部だけでなく、綾波レイにも出動を命じたようだ」
「なんですって!?、じゃあ……」
「ああ……」
 沈痛な面持ちで頷く。
「世界初の、本格的なエヴァの登用が始まった」
「あちゃ〜……」
 静寂に近い沈黙に包まれる。
 加持リョウジ、平時は喫茶店のマスターをしているが、れっきとしたルポライターである、それも「綾波家専属」の。
 彼の仕事は主に、綾波家に関連した事件を当たり障りのないよう脚色して外部へと流す事にあった。
「……で、シンジ君は?」
「だめね」
 はぁっと溜め息。
「不安定になってるみたい、まああんなことの後じゃ無理無いけど」
 不安定か?
 加持はそれに対して奇妙な違和感を感じていた。
 人としては悪い方向……、自己に対してすら無関心と言う形で非常に安定していたシンジが、果たしてあの程度のことで塞ぎ込むなどと言うことがあり得るのだろうか?
(まさか……、な)
 四年ほど前までのシンジの姿が思い浮かぶ。
 碇シンジは精神障害に陥り、入院を余儀なくされていた。
 にもかかわらず、その身体はまるで健康な小児のように発育し、全く動かしていなかった筋肉も検査の結果、正常過ぎる数値が測定された。
 加持はミサトよりも早くシンジに接触し、その様を観察していた。
 夜になるとシンジ肉体は、まるで運動しているかの様にビクビクと痙攣していた。
 そしてある日、全く唐突に回復したにも関わらず、シンジはあれから五年近い時が経っていると知っても驚くことは無かった。
(同じなのか?)
 不安定と言う意味では、シンジはだからこそ心を閉ざしていたのだろう、なら。
 今度もある日突然に、何事も無かったかの様に振る舞い出すのかもしれない。
 それが当然と……、帰る家が無くなっている事にも、心で泣きながら表情を消してしまっていた時のように。
(いや、今は俺達だっているんだ)
 そんな事は無いと……
 加持は気のせいだと思い込むことにした。


(ここ、どこ?)
 綾波レイは戸惑いながらも歩いていた。
 真っ白な廊下、殺菌効果を持つ照明灯までもが白く、左右にある扉は延々と奥まで続いていた。
 果ては見えない。
(ここ、知ってる、病院……)
 そしてレイの最も嫌いで大切な場所でもある。
 一歩踏み出す、迷いもなく一番奥の部屋へと向かう。
 少しずつ鼓動が早くなっていく。
 手が汗ばみ、景色は歪むように動きだし、レイの足元はおぼつかなくなる。
 しかしレイは、そんな自身の体調の異常さには気がつかない。
 ただ引き寄せられるように歩いていた。
 どれほどの時間を歩いたのだろう?、やがて最も奥にある、その部屋の前へと辿り着いた。
 ネームプレートを見上げて眺める。
『碇シンジ』
 あまり上手くない字でそう書いてあった。
 手を伸ばして始めて気がつく。
(汗?)
 弛緩し、震えていた。
(恐いのね……)
 そう、レイはこの中の様子を知っていた。
 ノックも無しにノブを回し、ドアを開ける。
 無機質で粘液を思い起こさせるようなどろりとした空気が吹き出して来た。
 あまりにも重く、レイは室内へ入り込むために大きな力を必要とした。
『大きな力』を。
 水の中を歩くような抵抗を感じながらも入室する。
 個室の患者はベッドの上で膝を抱いていた。
 何も見ていない。
 何も聞いていない。
 碇シンジは屍と同然だった。


「レイ?、どうした……、レイ」
 やや焦るような声に意識が浮上する。
「見付けたのか?」
 瞼を開く、見慣れた、黄金色を通した揺らめきの向こうに見える人影。
 レイはゆっくりと首を振った。
「そうか」
 やや失望交じりの返事だった。
「食事にしよう」
 彼、ゲンドウの言葉に、レイはゆっくりと上を向く。
 裸体が真直ぐに伸ばされる、レイは暗い部屋の中で、黄色い液体の詰まったシリンダーの中に沈められていた。


「ふ、ん……」
 秀麗な顔を嫌悪に歪め、渚カヲルは双眼鏡を顔から離した。
 カヲルの住むマンションは綾波家の側にある。
 その高層マンションの最上階の一フロアー全てが、カヲルのための私室であった。
 狙撃に適した位置にあるだけでも怪しい建物なのだが、もちろんカヲルはこのマンションの本当の目的を調べ上げていた。
(監視塔と言うことだね……、ご老人方も臆病な)
 渚家は綾波家により近い血筋にある、とされている。
 だが実際には繋がりなど何も無いのだ。
(渚家か……)
 カヲルは双眼鏡を置き、代わりにワイングラスを手に取った。
(それも僕一人だというのだから……)
 家系図としては立派に何代も続いているのだが、実際にはカヲルは孤児であったし、父も母も祖父すらも存在していない。
 例えそれが義理のものであってもだ。
 あくまで、架空の存在である。
 ウイルス進化説に基づきセカンドインパクトと名付けられた大事件があった。
 西暦二千年、南極大陸開発プロジェクトが頓挫した。
 原因は謎の感染症によるものとされたのだが、太古より復活、蔓延したウイルスは瞬く間に南半球を席巻し、実に世界人口のおよそ半分の命を奪い取った。
 それこそ人のみにあらず、全ての命を公平に、である。
(僕の両親、ね……)
 カヲルには覚えが無かった、ある日「老人」と呼ばれる一団に引き取られ、多額の口座とマンションを与えられたのだ。
 それが渚家の全てである。
「……シンジ君がこのことを知ったらなんと言うか」
 自らの呟きに自嘲する。
「恐いのか、僕をしても……」
 自らを脅かす全てのものを排除して来たにも関わらず、碇シンジ、たった一人の少年との絆が失われる事を恐れている。
「友達と言ってくれたからね、シンジ君は……」
 つい口元に笑みが浮かんでしまっていた。
 ベランダに出て、柵にもたれかかる。
 瞬間、カヲルは昨夜見た光景を思い出した。
 閃光が瞬きながら走り、綾波家邸宅を直撃、炎上させる様を。
(綾波家、老人方、あの怪物……、全ては繋がっていると言うのかい?)
 その答えはまだ遠かった。


 綾波レイはまたも転校していた、と言うのも前の学校に通う意義を失ったからである。
 学校内では綾波家長女の不興を買ったのだと突き上げが起こったが、これに対してもやはり碇シンジの名前が上がっていた。
 爆破事件を起こした難物として。
 危険人物を排除したからと言ってイメージが拭いされるものではない。
 綾波レイの転校は彼を原因とする事で納得された、むろん、事実はその逆であったのだが。
「家のローンが三十年……、車が一年、息子はまだ大学……」
 教育委員会内部では転校元、先での軋轢が生じていた。
 しかしシンジは既に退学処分にした存在であるし、それ以外の生贄は他に見つからなかったのだ。
 結果、責任は自然と校長である彼一人へと集約し、辞職へと追い込む顛末になって落ちついていた。
「この歳で、職探しか……」
 その元校長は公園でブランコに座り、安い菓子パンをかじっていた。
 うなだれる、手からパンがぼとりと落ちる。
「それもこれも、みんな!」
 怒気だけは凄まじい、が、空しく空回りをしているだけに思われた。


 夕方から店を開けると頼まれて、シンジは買い出しのために街へ出ていた。
(嫌な雰囲気だよな……)
 綾波家が狙われたとあって、かなりぴりぴりして来ていた。
(そんなに恐いなら、どこかの山の中にでも家を建てればいいじゃないか)
 なにも街中に邸宅を構えることは無いのだ。
 商店街では路上の至る所で噂が囁かれ、街中を警官が巡回し、検問もしっかりと行われていた。
 時折シンジが通っていた学校の制服が目に入る。
(なんだろう?)
 シンジを見つけると、脅えるように囁き合って逃げていくのだ。
(やっぱり、あれだよな……)
 溜め息を吐くしかない状況だった。
 爆弾犯、証拠が無いために起訴こそされなかったが、人の口に戸は立てられないものである。
(そう言えば警察の人達来なかったけど……、やっぱりそうなのかな?)
 ぼうっとしながら、重い荷物を手に歩き出す。
(綾波か……)
 綾波レイ。
 あの少女。
(綾波がなんとかしてくれたのかもしれない)
 漠然とそんな事を考えて、驚き、首を振る。
(バカ!、そんなわけないじゃないか……)
 狂ったように何かを求める、キスをして来たレイの姿が忘れられない。
(あんなのに、騙されて……)
 最中よりも、離れていく瞬間の熱い鼻息と潤んだ瞳が忘れられない。
 そんないやらしい欲望に嫌気がさす。
 ドォオオオオン……
 響くような音がした。
「え?」
 振り仰ぐ。
 商店街の屋根の向こう、ずっと先にある高層ビルが、その真ん中から黒煙を上げていた。
「爆発、火事?」
 周囲も賑わしくなる、そんな中、シンジに呼び掛ける声があった。


「碇、くん?」
「……誰?」
 振り返ったそこに居たのは、シンジと同じように買い物袋を下げた女の子だった。
 もちろんシンジは覚えていた。
「あ、あの、覚えてない、かな?、同じクラスだった……」
(洞木ヒカリ、委員長、だったよな?)
 そして最もシンジの嫌悪している人物だった。
「知らない」
「待って!」
 慌ててお下げ髪の少女は手首を掴む。
「あの……、碇君に、謝りたかったの!」
「……なにをさ?」
 話している内に、シンジの顔は硬化していく。
 クラスの人間が「碇の奴が」と騒ぎ始める度に、本人は正義感のつもりなのだろうが、からかう連中の最も前に立っていたのは彼女では無かっただろうか?
『盗んだんでしょ!、謝りなさいよっ』
 何度そう決め付けられたか分からない。
(謝る?、なにを?)
 シンジにとって、学校のことなど既に過去の記憶でしかないのだ。
(もうほっといてよ!)
 それもできれば、二度と掘り起こしたくない類の想い出である。
「綾波さんに言われたの」
「綾波に?」
(またか!)
 シンジは憎悪を募らせる。
「……ほんとに、碇君がお金盗んだ所を見たのかって、タバコ吸ってたのかって」
 それはレイが転校すると知って、シンジのせいかと、あいつの事は気にするなと『親切心』から口にしたクラスメート……、レイはそう認識していなかったろうが、に、言い返した言葉であった。
 だから当然、シンジは知らない。
(どうして蒸し返すのさ!?)
 シンジには用意に想像が付いた、今頃その事に対して、『碇が』とまた腹立たしく気を荒げているだろう。
 悪いのは、シンジなのだ、どこまでも。
「あたしもてっきりそうだと思ってたけど……、でも誰に聞いても、みんなそう言ってるって言うだけで、誰も見たことないって」
「だから?」
「え?」
 間抜けな空気が流れる。
 それで謝ってもらって一体なんになるのだろう?
 シンジはもう学校には戻れない、こうしていても、同じ町内でも酷い目で見られているのだ。
 ふぅと溜め息。
(もう、放っておいてよ)
「さよなら」
 シンジは踵を返した。
「ごめ、ごめんなさい、碇君、あの!」
「どうかしましたか?」
「痛っ!」
 問答無用でシンジは手首を捻り上げられた。
 二人の前に立ちはだかったのは警官だった。


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。