カードが勢いよく地面に落ちる、綾波レイは即座にそれを踏みにじった。
「命令なら、そうするわ……」
そのまま歩き出す。
折れ曲がったカード、呆然とするネルフのスタッフ。
超然と、何事も無かったかの様に背を向けるシンジ。
そっけないといえば、あまりにもそっけない態度であった。
(こうなることを予測していたのか?)
誰もにそう思わせてしまうほどに、期待も失望も、シンジからはなにも読み取れはしなかった。
「碇シンジに、綾波レイ……」
元校長……、名前を高橋と言うが、彼は一連の騒ぎを隠れるようにして覗いてしまっていた。
「ふぅん、あれがパパの?」
「ああ、あいつらのおかげで、わしは……」
ギリッと歯が音を立てた。
「それよりぃ、パパぁ……」
「あ、ああ……」
木に押し付けるように抱きしめる、高橋に甘えているのは一中の制服の少女だ、つまりは、自校の生徒だった。
元、と言うことになるのだが。
「ねぇん……、お小遣い減って来てなぁい?」
「勘弁してくれよ……、就職先も探さにゃならんのだ」
「貯金があるでしょ?、貯金が」
癖毛なのか、セミロング気味の髪の裾が広がるように跳ね返っている。
彼女を見て誰もこのようなことをしているとは想像したり出来ないだろう。
そう思わせてしまえるほどに、実に少女の外見は平凡であった。
「やぁ」
翌朝、私立青陵学園中等部、正面玄関、下駄箱。
少年は少女を呼び止めた。
「誰?」
「カヲル……、渚カヲル、クラスメートの名前ぐらい覚えてもいいんじゃないのかい?」
色素の薄い肌に赤い瞳。
似たような容姿でありながら、二人は凄まじく違う風を纏っていた。
「綾波レイ、綾波財閥の後継者」
「なに?」
「なぜシンジ君にこだわるんだい?」
レイの目が一段と細まる。
「あなたには……」
「関係無い、……そうかな?」
「どういう……」
「つもりかって?」
レイのストレートでありながらもやや間の遅い喋りに、カヲルは自ら先へと繋げる。
「それは君と言う存在が、シンジ君の心を掻き乱すからだよ」
剣呑、を通り越してレイの怒気が膨れ上がり場を支配する。
「彼の平穏は心の閉塞の中にこそ存在する……」
しかしカヲルを引かせるには鬼気が足りない。
「事実、君が現われたために彼は学校すらも追い出されてしまった」
レイは小さく、本当にわずかに唇を噛んだ。
それが本当のことであったから、レイにはカヲルを言い負かせる事が出来なかった。
「シンジ君が居てくれて助かったよ」
「あんたねぇ、自分の店なんだから」
「おいおい……、それなら葛城が料理を覚えてくれりゃあ」
夫婦の掛け合い漫才をシンジはクスクスと笑いながら眺めていた。
その様子に昨夜の重苦しいものは伺えない。
「それで?、本業の方はどうなってるのよ?」
「ああ」
しかし態度には表われている、加持がメモを開くとシンジはすっと離れて店内のテーブルを拭き回り出した。
不自然な程丁寧に、時間を掛けて。
「昨夜はグループ綾波の重役達の車が襲われたよ」
「車が!?」
「それも高層ビルの屋上からだ」
「そんな精密射撃を……」
「ああ、これを可能にする兵器は綾波財閥にも……、いや、あるにはあるんだが」
顎の不精髭を撫でる。
「あるけど、なによ?」
「ん、ああ……、ビルの屋上に運んで使うとなると、これが……」
ふぅっと二人して天井を仰ぐ。
電源ユニットだけでも車を破壊できるほどの出力ともなると、その大きさは推して知れるのだ。
「この街は特殊だからな……、そりゃあ綾波関係の会社でほとんどを占めてるわけだが……」
誇張でもなく、コンビニエンスストアから喫茶店、果ては不動産屋、ガス、水道、電気などの公共事業に至るまで、どこかしらに綾波の手が入っていた。
何処を狙っても綾波への犯行として捉えることができるのだ。
新世紀の永田町とも呼ばれている、正式な遷都を待ちながら、その土地に居住の許された政治家はごく一部を除いて他には存在していない。
それだけに「ご機嫌伺い」に訪れ、マンションの一つでもとせがむ者は多かった。
……そうしてユイの不興を買う無能者がどうなるのかは考えるまでも無い事である。
綾波財閥とはそれ程の力を持つ存在なのだ。
「ますます確率が上がっちゃったわね?」
そのままの状態で、目を横へ、シンジへと向けた。
「彼のことは?」
「今だ伏せられてはいるが……、上は承知だよ、もちろん」
「召喚……、なんてことにはならないでしょうね?」
「わからん」
加持は上向いたまま、手探りでマッチを探した。
『第三』のエヴァンゲリオンでありながら、その登録は『01』とされていること。
加持はそこまでつきとめていた。
(わたしが……、苦しめている?、碇君を)
結局、今日一日悩む羽目に陥ってしまっていた。
下校時刻、大半の生徒達と同じように迎えの車を待ち、その中へと滑り込む。
いつもなら退屈なだけの帰り道が、今日は一層何も感じられずに味気なかった。
(キス……、口付け、求めたのは、なぜ?)
去り際にこぼされたカヲルの言葉が思い出される。
『君はシンジ君に何を求めているんだい?』
確信を突いているように思えてならない。
(わたしは……、碇君のことが、好き?)
昨夜の胸の高鳴りを思い返しても、今は冷静さが上回ってしまう。
(違う……、これは違う、好きと言う感情では、ない?)
では謝罪の気持ちなのだろうか?
過去の、あるいは現在の立場に対する。
身震いする、もどかしくも、狂おしいほどに渇望しているものがある。
(そう、でもそれは碇君だけが癒してくれるはずのもの、なぜ?)
なぜに自分はそれを確信しているのか?
なぜに触れ合いを求めているのか?
わからない、なにも、それがレイを苛立たせていく。
感情よりも優先されている本能の存在、それがレイを不安にしていく。
脅える、感情や想いを形作っている根本のもの。
それを描いているのが『錯覚』だと気がつき、自分がいかに脆い台の上に築かれたやぐらに立っているのかと膝が震えた。
恐くなったのだ、やぐらの上から、下を、世界を見渡す事が。
そしてぶつけられたもう一つの言葉。
『シンジ君の苦しみは、全て君から与えられたんじゃないのかい?』
その通りだった、おそらくシンジの……、自分に程近いあの力もまた、そうなのであろうから。
「なに?」
足元に寝そべっていた巨犬が、突然唸り声を上げて首をもたげた。
「どうしたの?、リリス……」
急に起き上がり、身を捻ってレイを襲うように噛みついた。
黒いベンツ、そのボンネットが突如焼けるように融解し、穴が空いた。
直後の爆発、炎上。
制動性の怪しくなったベンツは炎を噴きながらガードレールにヒットした。
だが直前に後部座席のドアが内部から吹き飛んでいた。
オレンジ色の怪人、エヴァンゲリオンがレイを抱いて跳び下りたのだ。
「避けて」
二射、三射と跳ねるエヴァの後を追い、アスファルトが円を描いて蒸発していく。
ダン!
交通量の多い道路での事故だけに、リリスに驚きハンドル操作の誤った車が玉突き衝突を起こして道を埋めた。
その一台の屋根の上に降り立つリリス。
レイは襲撃者の居たとおぼしき、家屋を挟んだ向こう側にあるビルを見上げた。
「クリスタル?」
青い輝きを放つ何かが、五階建の低いビルの屋上に浮かんで、わずかながらに上下している。
大きさは人と同じ程度だろうか?
それは宙に浮き上がって飛び去った。
(碇君!?)
そしてレイはその方向に、一つのうれしくない確信めいたものを感じてしまった。
クリスタルの飛び去った方向と、シンジの住む喫茶店のある場所とは一致していた。
ピク……
シンジの元に住み着いた謎の生物、その耳がピクリと動き、次いで何かを探すように起き上がった。
「……なに?、トイレなの?」
冗談としては冴えないものだった、なにしろシンジはこの不可思議な生き物と暮らし始めてから数週間、一度として排泄どころか物を食べた所すら見ていないのだから。
ゆっくりと窓の外を向き、全身の毛を逆立てる。
「……まさか」
シンジも総毛立つのを感じた、悪寒が走り、知らず腕をさすり上げる。
鳥肌が立っていた。
「わかった、行こう……」
部屋を出ようとするシンジの肩に、獣は素早く飛び乗った。
シンジにはもう、その疎通が極当たり前のものになってしまっていた。
夜のとばりが下りるにはまだ早く、世界は夕日に燃え上がる。
シンジは階段を駆け下りると、そのまま店から飛び出した。
「居た!」
五百メートルほど先の、家屋の上に漂っている。
正八面体の青いキューブ、人の目につくのが当たり前だというのに、騒ぎ立てる者は誰も居ない。
「どうしたんだシンジ君?」
「加持さん、あれ!」
シンジは迷わずそれの存在を指差した、が……
「なんだ?、なにか居るのか?」
遠くを見るばかりで反応がおかしい。
「……見えないんですか?」
焦点もあっていない、あれ程はっきり見えていると言うのにだ。
これにはシンジの方が驚いた、と同時に合点がいった。
(そうか、あの時も)
ついこの間『人』を殺した。
あの時もかなりの騒ぎであったというのに、誰一人として様子を覗きに来る者は居なかった。
(そう言う事なの!?)
あの化け物達は己の存在を完全に隠すことができる、その考えに思い至った時、首筋を何かがチリリと焼いた。
あるいは焼かれたように、急に痛んだ。
「危ない!」
咄嗟に加持を押し倒すように転がった。
「なんだ!?」
加持が驚いたのはシンジの行動にではなく、目の前で蒸発した喫茶店の看板にだった。
公園、林の中、池のほとりの汚れたベンチに高橋は腰かけていた。
「……今日もダメか」
さすがに焦りが募り始めていた。
「あの子にも詫びなければならんな……」
それだけではおそらくすまないだろうことは分かっていた。
彼女の家庭の事情に突け込み、金を餌に肉体関係、いや、奉仕を強要して来たのだから。
「過去の栄華か……」
それも許されるような気がしていた、それ程までに自分には敵がいなかったのだから。
「あいつさえ!」
手に持っていた缶を握り潰す。
碇シンジ。
校内のガン。
彼に責任の全てを押し付けてさえ、その怒りはとどまる所を知ろうとしていない。
「だから苦しめるのですか?」
「誰かね!?」
高橋は焦るように立ち上がった。
「脅かしてしまいましたね……」
木陰からすっと少年が現われる。
「君は」
銀髪が夕日に赤く光り輝く。
「渚カヲル……、と申します」
驚愕が顔に張り付く、渚、高橋もその姓を知らぬほど無知ではない。
綾波、碇、渚、この姓を知らなくては第三新東京市で要職につくことは不可能なのだから。
「わたしに、なにか……」
彼の問いかけに対し、カヲルはつらつらと会社名を上げだした。
「それは……」
覚えがあって当然だろう、それは彼が「就職活動」のために訪問した会社名なのだから。
「この内の八割、そう、あなたを門前払いにした会社ばかりが火事にあいました」
また数が増えている。
「わ、わたしのせいだというのかね!?」
「違うのですか?」
高橋の顔に焦りが生まれる。
「すでにネルフ……、綾波家のガードマンと警察はあなたをマークしていますよ」
「そんな、バカなことが……」
「僕は真実が知りたい、あなたが、”そう”ではないのですか?」
十数秒の間を待つ。
カヲルの赤い瞳は、高橋を探るように見つめ続ける。
しかし解答は得られなかった。
「……そうですか」
失望気味に背を向ける。
「では」
歩き出す、と、高橋が顔を上げた。
その顔は邪悪な笑みに歪んでいる。
高橋はゆっくりと、それから獰猛な獣のように襲いかかった。
(どうすればいいんだよ!)
だが誰かを恨むような気持ちは起こらなかった。
シンジの中で恨むということは責任の転嫁と同じであった。
それは他人を認めるということ。
何故誰も助けてくれないのかと、頼ると言うことなのだ。
(誰も助けてくれないんだ!)
他人は自分を傷つけるためだけの存在である。
だからシンジは助けを求めず、また、他人もシンジを見なかった。
シンジが駆け抜けた場所を、一瞬後に蒸気が立つ。
それは収束された光線が放たれているためなのだが、何故だかなぶるようにシンジを追い立てるだけで狙いは甘い。
シンジは昨夜レイと逢い引きした公園に逃げ込んだ。
都合よく近く、そして外からも人気の無い事が見て取れたからだ。
「あっちだ!」
少しでも狙いを付けにくくするために、林の中へと急ぎ飛び込む。
ハッとする人影があった。
その男は少年の首を締めていた。
男には見覚えがあった。
(校長……、先生?)
そしてもう一人にも、シンジはその特徴のある容姿に目を見開いた。
(カヲル君!)
シンジを見て驚いたのだろう、高橋の手が一瞬緩んだ。
うつぶせにされていたカヲルだったが、その隙を逃さずに肘を高橋のあばらへと叩き込む。
威力は無かったが高橋を怯ませるには十分だった。
カヲルの笑みが消える、いや、口元は笑ったままで、赤い瞳に異様な殺気が宿り輝いた。
体を上向きに入れ替えて、押さえつけられたまま顔面を押し返す。
指の一本が高橋の目に入った。
「うわああああああ!」
慌てて離れる高橋、眼球が潰れたわけでは無かったが、瞼と眼球の隙間に指が入ったのだ。
潰れたと錯覚するのも当然だろう。
「カヲル君!」
「碇君!」
「え!?」
ドンっと突き飛ばされて、湿気った気持ちの悪い地面に転がる。
一緒に転がった二人の正面にはオレンジ色の怪人が立っていた。
リリスはその体で、真っ白な閃光を受け止めていた。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。