白い閃光。
 白と黒に分かれる世界。
 シンジの目に止まるリリスの背中。
 覆い被さる綾波レイの間近な体温。
 呼吸と、鼓動。
 這いつくばうように転がる高橋とカヲル。
 熱波の暴風。
 吹き飛ばされる少年達。
 そしてシンジは知覚した。
 池の中央に浮く、あの青い色のクリスタルを。
 その中で楽しげに膝を抱えている一中の制服を着た女の子を。


 彼女はシンジのことを知っていた、それはもちろんシンジの悪名がそれほどに有名であったからだ。
 逆にシンジは彼女を知らない、だがそのこと自体は責められるものではない、むしろ知らなくて当たり前なのだから。
 平々凡々を絵に描いたような家に育った彼女であったが、不幸はこの街に訪れてから始まった。
 綾波グループに支配されているこの街において、職業イメージはそのまま個人の格差に繋がっていた。
 彼女の父親は平凡であったがゆえに、清掃業などを営んでいた。
 同じ綾波グループであっても、田舎で働いていた彼にとって、お膝元での仕事は苦渋に満ちているものになった。
 人のいい彼は手を抜くことなく、丁寧な仕事を心掛けた。
 しかし能力一辺倒な会社は彼を無能と判断した。
 サービスイコール余計な手間であり、地方とは違って、手を抜いた所で依頼が無くなるわけではないのだ。
 仕事は適当で良かったのだ。
 それでも彼にはそれが出来なかった。
 生来の気性か、あるいは大抜擢を喜んで送り出してくれた田舎の皆に対する義理なのか……
 とにかく、結果として彼は心労に倒れることになってしまった。
 無理をしてこちらでマンションを購入したばかりであり、田舎への出戻りはためらわれた。
 ……彼女は、平凡な子供であった。
 倒れた父の代わりに働き出す母。
 そんな状態で小遣いをせがめるほど親知らずではなかったが、しかしだからと言って我慢が利くほど大人と言うわけでも無かったのだ。
 お弁当が作れないからと手に渡される五百円玉。
 しかしまともな弁当が五百円で買えるわけがない、自然と足りない分は小遣いへと食い込んでいく。
 無駄遣いをやめた所でどうにもならない、不満は鬱積する、遊びたい盛りの中学生なのだから。
 そんな折りに、彼女は閉門間近に美術準備室で悩んでいた。
 絵の具のセット……、さすがにそこまで切羽詰まっているわけではないにしても、そのお金があれば欲しかったCD、あるいは本が買えたのだ。
 友達に借りてごまかすか?、しかし「貧乏」と噂が立てば……
(嫌っ!)
 身震いする、明日は我が身、そう、碇シンジのように……
(絶対に嫌!)
 皆の標的に、的にされるかもしれないのだ。
 自分も加わっていただけに、その苛烈さには脅えていた。
「どうしたのかね?」
 高橋は施錠して回る傍ら、そんな彼女を見付けて驚いた。
 最初は親切心で相談に乗り、学費の個人的な『援助』と言う名目で購買部より品物を買い与えた。
 その程度のことであった、始まりは。
 やがてそれはエスカレートしていく、歳を越えて慕ってくれる少女に、恋心に近い欲情を覚えるまでにさほど時間はかからなかった。
「いつも悪いです……」
 そうやってはにかむ少女に、ついに高橋は劣情をぶつけた。
「あ、やっ!!」
 その時の抗いは、彼にとっては「誘い」に見えた。
 対面上は嫌がって見せて、本心では望んで迎え入れるような……
 やがて事が終わり、着崩れた制服で胸元を隠しながら少女は身を起こした。
 そして何事も無かったかの様に乱れを正す。
「君……」
 彼女は空ろな瞳でそれを見た。
 奇麗な皮財布から、高額の紙幣を握らされる。
「先生……」
「ん?」
 少女は自分でも予測もしていなかった行動に出ていた。
 高橋の口を塞いでいたのだ、踏みにじられたばかりの唇で。
「……気持ち、よかったです」
「あ、ああ……」
 それは本当のことだった、確かに彼女は絶頂を迎え、鼓動を荒くもしたのだから。
「また、明日……」
「また、明日な」
 もう一度、今度は高橋の求めに応じてキスをする。
 高橋は慣れた感じで瞳を閉じていたが、彼女の瞼は開いたままであった。
 黒かった瞳が赤い色に染まっていた、だが、高橋がそれに気がつくことはとうとう無かった。


 少女は憎かった。
 自分を貶め、辱め、汚し続けた男ではあっても……
 それで死んでしまうわけではないのだ、むしろ誰よりもお金に恵まれた分、彼女はそれなりに幸福を手にする事が出来ていた。
 でなければ、嫌だと言いながらも快感のうねりに身を任せてしまった自分の事が許せなくて……
 壊れてしまいそうになっていた。
 そしてそれにも慣れたのだ。
 校長であっても男だし、そう悪い人間ではないと知っていたから、甘える事への抵抗感もかなり薄らいでしまっていた。
(なのに!)
 少女はシンジを、レイを憎んだ。
(どうして!)
 割り切ることは出来なくなった、それは彼が「校長」ではなくなってしまったからだ。
 まだ金があれば良かった、だがこの街は幾度も口にしたように、「綾波グループ」によって仕切られている。
 余剰な人材、無駄な労働力は必要としていないのだ。
 そして彼女が必要とする『援助』を『施せる』ほどの職業は、当然そう言った「中途採用」を募集する会社には存在していなかった。
 地位と同時に彼は金を失った。
 体の汚れは、受けた施し以上に彼女の体を蝕んでいた。
 なによりも、心を。
 形の変わった陰部を、黒く変色した部位を見る度に、彼女は涙を堪えていた。
(死んじゃえ!)
 少女の火炎は強さを増す。
 クリスタルの中で右腕を伸ばし、突き出す。
 誰がそう変えた責任を取ってくれるのだろう?
(もう誰も、誰も!)
 好きとは告白できない、されたとしても自分は汚れていると悲しくなるだけ。
 テレビでファンだったアイドルの歌を聞いていて絶望した。
 自分がファンだと叫んだとして、この人達はそれでも喜んでくれるのだろうか?
 下らない想像、だが彼女にとっては重大だった。
 あの時、買うか悩んだCDが、彼らのものだったからかも知れなかった。
 無くしてしまったものの大きさに気が付いた、悪いのは自分かもしれない、しかし彼女は必死になった。
 操を奪った男、彼を追い込んだ少年と少女。
 それでも縋るしか出来ない自分。
 憤りが溢れて力になった。
 肘の部分から螺旋を描いてエネルギーが収束していく、それは手のひらで圧縮されて光線になった。
「きゃあああああああああああああ!」
 まるでリリスの痛みを感じているかの様に、悲鳴を上げてレイはのたうつ。
 シンジは体を強ばらせたレイに、生理的な恐怖を感じた。
 死。
 人の死。
 それはカヲルの時ですら覚えなかった感情だった。
 少女は許せなかった。
 彼に汚される理由を与えない会社を。
 汚す理由を奪ったシンジを。
 だから殺そうと思い詰めた。
 だが。
 シンジはそんな事は知らない。
 あるのはそこに生まれた驚異だけだ。
(死ぬのか?、綾波が、僕じゃなく……)
 カヲルの言葉を引用するならば、シンジの心は閉塞を求めていた。
 それはすなわち死である、恐怖を排除するカヲルとは違い、シンジは絶対的、究極的な逃亡を求めていた。
 何も感じず、何も怖れる必要の無い、無の世界を。
 だからシンジは脅えた。
(死ぬのなら、僕の方なのに)
 だからシンジは恐かった。
(僕には、もう、なにもないのに!)
 獣が声にならない遠吠えを放った。
 シンジの悲鳴、そのままに。


 小さな獣が崩壊を起こすようにピンク色の臓物をぶちまけた。
 それはシンジを覆って紫色の外皮を作り出す。
 レイを押しのけて跳びあがる、閃光はシンジを追いかけて角度を変えた。
 光に薙ぎ払われた樹木が、枝葉に炎の装飾を纏わせる。
 リリスががっくりと膝を突く。
 閃光は明滅しながら宙で途切れた。
 しかしすぐに次の斉射がシンジを襲う。
 少女に驚愕の表情が浮かんだ、シンジが重力に反して軌道を変えたのだ。
 そちらを追って視線だけを動かす、シンジは左の手の甲から鞭のようなものを伸ばし、手短な木の枝に巻き付けていたのだ。
 それを引く事で軌道を変えて避けていた。
 腕よりも、身長よりも長い鞭がどうやって生まれたのかは分からなかったが、それは生き物そのままに枝を離して瞬時にシンジの腕へと引っ込み消えた。
 着水するシンジ、池は浅いが足は取られる。
 泥に躓きながらも、シンジは顔を上げて少女を睨んだ。
 鬼の顔、目が輝く。
「ひっ」
 短い悲鳴を残して少女は衝撃に揺さぶられた。
 爆発、衝撃。
「きゃあああああああああ!」
 シンジの怪閃光による攻撃だった。
 爆圧にバランスを失ったクリスタルは、炎を纏ったままで池へと落ちた。
 まるで水を吸い上げるように跳躍する紫色の鬼、彼は前回転をしながら飛びかかった。
「いやああああああああああ!」
 間近に迫る恐怖に少女は引きつる。
 鬼の手刀は一撃でクリスタルを切り裂いた、割れ目に両腕を差し入れて、鬼は一瞬で敵を引き裂く。
 金と血を混ぜたような飛沫が散った、狂ったように手刀を突き出すエヴァンゲリオン、シンジ。
 右手と左手が、交互に突くように繰り出される。
 クリスタルの内側に別の飛沫が混ざり出した。
 赤く、どす黒い色で塗り変えられ、彩られていく、既に悲鳴は聞こえない。
 外側からは鏡面のために均一に塗られたように見える、だがそうでないのは返り血を浴びた鬼を見ればわかることだった。
 ぐちゃ、びちゃ、ぬちゃと、肉をすり潰すような音が、生理的な嫌悪感を呼び起こさせる。
 妙に白い歯、鬼の口元は喜びに歪んでいた。
 目には瞳も輝きもなく、ただ狂気の色に染まっている。
 白い眼球に瞳孔の開いた緑色の粒が存在していた。
 夜とは言えまだ暖かいというのに、獣の口から吐き出される息はその熱のままに白く、生臭い。
 ビチャビチャと肉の飛び散る音が響く、化け物は唐突に殺戮をやめると、クリスタルを両側へ引き裂きながら遠吠えを上げた。
『フォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!』
 空に向かって、声の限りに雄叫びを上げる。
 夜霧をも吹き払うような声だった。
 クリスタルの中から元は人であったろう『もの』がこぼれ出した。
 池の波にさらされても、それが人であったなどと信じられなかった。
 破れた制服が浮かばなければ分からなかっただろう、肉と臓物と骨が等分に砕かれ混ざり合っていた。
 水面にぷかりと眼球が浮かび上がる。
 洗浄された白い球体、くるりと回転し、生きているように赤い瞳が横を向く。
 その中にシンジの姿が映り込んだ。
 返り血に黒く染まり、夜のとばりに溶け込んでいた。
 月明かりさえ吸い込むようなその姿の中には、真の悪魔性だけが見て取れていた。


 翌日。
 公園は出入り禁止となっていた。
 黄色い立ち入り禁止のテープが張られ、警察ではなくネルフの職員が現場で何かしらの処理を行っていた。
 シンジはそれを横目に見ながら通り過ぎた。
 歩哨……、なのだろう、警備ではなく、そのネルフの職員はシンジを知らないらしく、目で追い払うように睨むだけだった。
「いいのかい?」
 隣でカヲルが囁いた。
 しかし返事をしない。
 シンジもまた苦しんでいた。
(また、殺したんだ、僕は……)
 この世界においては自分こそが異端であるはずなのに、死にかけたのは他人であった。
 その恐怖から逃げ出そうとしてしまった、決して、死にたくない、等と言う俗な感情からではなかった。
 それがシンジには辛かった。
(死ぬのなら、僕の方だったのに……)
 暴走した恐怖を抑え付ける術が無かった。
 あるいは暴走していると言う事すらも、自分で認識できていなかった。
 止めようと思わなかったのかもしれない。
「ああ、そうそう……」
 カヲルは思い出したように口にした。
「高橋校長先生だけどね?、……死んだよ」
「そう……」
 カヲルは空を、シンジを俯き地面を見やる。
「あの子の閃光を間近に浴びてね?、全身の火傷で、夕べ、救急病院で亡くなった」
 どこで誰に、と言うのはこの場合問題にはならなかった。
(僕のせいで……)
 シンジはそう思い込んでいた。
「ねぇ、カヲル君……」
「なんだい?」
 立ち止まり、視線を前へと持ち上げる。
「……エヴァンゲリオンって、知ってる?」
 シンジは問題の根本に思いを馳せていた。
 見つめる右手は、血で濡れているようにぬるぬるしていた。


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。