「……では、シンジ君はあくまでイレギュラーであると?」
 ユイは頷く。
「ええ、そう……、おそらくはレイの」
 壁が外での騒ぎにびりびりと震動しているのだが、二人はその事に関しては全く心配していなかった。
「綾波、レイ?」
 カヲルは良く飲み込めずに当惑した。
「シンジが心を煩って入院したその時に……、レイは一度だけお見舞いに行っているの」
「ではその時に?」
「口付けを……」
 その程度で感染するのかと訝った。
 ユイも、そうねと小さく頷く。
「全ては偶然なのよ……、シンジが心を閉ざしてしまったことが、その悲しみのままに唇を噛み切ってしまっていたこと、そしてレイがわたしの形質を残した者であり、またシンジもわたしの血を引く……、DNAを持っている者であったことも」
 レイが、壊れたシンジを見て唇を噛みしめ、血を滲ました事ですらも。
「偶然なのよ……、でもここまでの偶然が揃ったとすれば」
「それは……、必然でしかない」
 カヲルの瞳に、いつもの生気が宿り始める。
「しかし、残酷な答えですね……」
 カヲルはナイフをしまい、いつものようにポケットに手を入れた。
「望まぬものこそが真に渇望している存在であり、惹かれ合う感情が作り物だとは」
 レイとシンジのように。
「……それでは自我への疑いを、心の崩壊をもたらしてしまう」
 どれが本当の自分の心なのか分からなくなって……
「シンジには耐えられないでしょうね……、レイにも」
「さあ、そうれはどうでしょうか?」
 カヲルは何かを示唆するように、不敵な笑みを口元に浮かべた。
 ユイの目はどこか浮き世から離れてしまい、空ろにそれを眺めただけだった。


「……碇君」
 シンジはその声に顔を上げる。
 崩れかけた階段を昇って来たのはレイだった。
「碇君……」
 吸い寄せられるようにレイは歩み寄る。
 伏したJAやその破片、瓦礫などに足を取られながらも、危ういバランスを保って達した。
 シンジの、エヴァの昆虫のように堅くて柔らかな胸に抱きついていく。
 頬を撫でるように指を這わせて、レイはそのまま鬼の横顔を擦り回し始めた。
 そして両手で包んで、引き寄せる。
 ぺちゃぺちゃと淫猥な音が響き始めた。
 エヴァの顎を、口元を、歯を……
 その奥にある大きな舌を舐め回し、吸い上げる。
 レイの口よりも大きな舌を、口の空気が無くなるまで吸い続けた。
 ビクリと反射的な反応が返る事に喜びを覚え、レイは首に腕を回してしがみついた。
 レイはなにも身に纏ってはいなかった、あの金色の液体から這い出し、そのままここへとやって来たのだ。
 シンジを感じて、裸のままで。
 体全体が紅潮し、胸先は尖り、股間からは液体が染み出し、つたわり落ちていた。
 空ろな瞳を見て分かるように、レイは己の行動を自覚してなどいなかった。
 本能に任せた行動であった、だが相反してシンジは刺激に対する反応以外の行動は見せなかった。
 強力な自我で己を縛り付けているかの様に、だが真実は違う。
 シンジもまた、エヴァによって施された精神改造の余波を受けていたのだ。


 レイとのすれ違いから精神病をわずらったシンジであったが、それはナオコによるレイの死への恐怖と同調して回復を見せた。
 しかしそれはきっかけにすぎない。
 最初の口付けにより感染したリリスウイルスは、長きに渡る潜伏期間中にシンジにかかっているなにかしらの負荷の把握に勤めていた。
 特に神経系の、心から来る莫大な圧力を逃がすために、どうにか「弁」のようなものを設けるように勤めていた。
 非常用のブレーカーである。
 精神的には自閉症であるが、それを肉体に置換えた場合、大部分の問題は脳の有り様に集中する。
 まずはループする信号、思考を整理するために、ニューロンネットワークを簡素化した。
 これにより、感情が直情化する。
 脳下垂体の一部を切り離す事によって、感情の起伏を制限した。
 これは直線的な高ぶり、落ち込みに対するブレーキとなる。
 また記憶保存物質についても捨てると言う方法で対処し、過去へのこだわりを薄れさせる。
 こうしてシンジはまず、心の平穏、穏やかさを手に入れていった。
 シンジは四歳から九歳までの間を病院の一室で過ごしていた、栄養も点滴だけで摂取して。
 にもかかわらず、シンジは同年代の子供の平均身長と体重、そして筋力を持ちえていた。
 まったく運動していなかったにも関わらず、である。
 寝たきりの子供が正常な発育をしていたこと自体、実に異常な話であった。
 シンジの性格は環境によって培われたものではなく、半ば意図的に構成された必然であったのだ。
 だが問題はまだ残されていた、既に心は回復を見せていたのだが、それだけでは足りなかったのだ。
 活動を促すためには活力が必要になる、だが『宿体』はその全てを失ってしまっていた。
 しかしやがて、その状態から脱するための好期が訪れた。
 レイの悲鳴である、それを起爆剤として、誘発を促したのだ。
 シンジこそがレイによって眠らされ、レイによって揺り起こされたのである。
 決してシンジの導きによって、レイがエヴァを産み落としたのではなかったのだ。
 だからこそ、今、シンジはレイへと視線を落とす。
 狂ったように悶える少女を前に、この女は、なにをしているのかと見下げ果てる。
 恍惚としたレイが一応の満足を見て、「はぁ……」と吐息を漏らした時、シンジは放り出すようにレイを振り回して背を向けた。
 背後でレイが壁にぶつかり、床に倒れる音がした。


「あなた方がそれをやむを得ないこととした様に、僕もシンジ君も流されるままに受け入れる、違いますか?」
 己で選択するよりも、諦めて流される事を望むような人種であるから。
「……そうね、その通りだわ」
 二人の会話は続いていた、一方で静かになったと確認しながら。
「僕達は自分のために戦おうとは思わない……、それは作られた感情かもしれないけれど、そう、そうだね?、自分勝手な僕ですら、真に戦ったのはこれが……、シンジ君と共にここへ来た今が初めてなんですから……」
 不良を束ねたのもシンジの事があったからである。
 そう大したことではなかったのだ、言葉通り、カヲルにとっては。
「僕達の心も、欠けているのか……」
 真に自分のために、と言うことは何も出来ない。
 恐いから、と周りを排除し従わせ、操りはしても。
 それでも重大事には「まあいい」と諦めることができるだろう。
「そのための補完……」
「これがリリスの望んだ結果よ」
 だが、とカヲルは考える。
「その見解は少し早いと思いますよ」
 興味を引かれる。
「なぜ?」
「シンジ君は変わろうとしているから」
「ああ……」
 そこに希望を見いだしたように、ユイの表情は明るくなった。
 カヲルのために命をかけて戦ったシンジ、だが今度は自らのためにここへと乗り込む事を選んだのだから。
 そして同質であるはずのレイを、ユイを、遂に拒絶しようとし始めているから。
 碇シンジと言う、心の慟哭に従って。
「そしてリリスも……、それに答えようとしている、ウイルスは決して支配しているわけじゃない、全ては人の心のままに……、その流れの中で、ウイルスも模索しているのでしょう」
 生き残るための道を。
 共に歩んでいくべき筋を。
 聞きたかった事を聞き出したカヲルは、そこで一応の満足を得て笑みを浮かべた。
「今日の所は、帰ります」
 初めての『戦い』に、カヲルも少々疲れていた。
 思考が上手くまとまらなくなって来ていた、手に入れた情報が多過ぎた事も起因している。
 カヲルは部屋を覗いたシンジに頷いた。
 シンジは再び顔を引っ込める。
「今度は、表の門からいらっしゃい?」
「……碇氏に追い返されるのが落ちですよ」
 だからこそ裏から来たのだ。
 レイとの密会を承諾した時も、同じ類の邪魔が入っていた。
 もちろん、そうなるであろうことをシンジは予想し、そしてその予見は当たっていた。
(何故にそこまで拒絶をするのか……)
 シンジをひたすら綾波家から排除する、自分達とは関りを持たせないように遠ざける。
 そう考えれば、ゲンドウの行動は実に分かりやすくなっていく。
(恐れているのか?)
 カヲルにはよく分からなかった。


 シンジとカヲルが去った後の屋敷を歩き、ゲンドウは渋い顔をして眉をしかめた。
 廊下の端にレイが裸のままで転がっていた、その顔は至福にまどろみ、少女でありながら女の性を股の間から漂わせている。
 立ち止まっていると部屋から出て来たユイと視線が合った。
 しかし彼女は夫よりもレイに目線を移した、すれ違うように側に寄り、肩掛けを被せて体を隠してやった。
 元夫婦であった者達の間に会話は無い。
 ユイは『軽々と』レイを抱き上げ、そのままレイの寝室へと運び去って行く。
「碇……」
 遅れて現れる冬月、だがゲンドウは振り返らない。
「……セカンドチルドレンを召喚する」
「セカンドをか!?、しかし碇、それは……」
 ゲンドウは背中に威圧感を張り付かせていた。
 決して顔を覗くなと。
「サードの存在をこれ以上ごまかすことはできん、監視者が必要だ、いざと言う時の処理を含めた」
「しかし……、ドイツ支部が黙っていないぞ?」
「かまわん」
 考えを固めた時の癖なのだろうか?
 サングラスの位置をやや正す。
「『三体目』のエヴァンゲリオン、予定にない事柄も起きる、焦らせるにはいい薬だ」
 それでも冬月は気の乗らない顔を見せていた。


 カヲルのマンションは前述した通り綾波家より程近い。
 そのベランダにカヲルを抱いたまま跳ね飛び、降りたシンジは、外見からはその中の惨状を感じさせない邸宅を遠くに眺めた。
 庭の一部が煙を上げて、高垣の外に消防の赤いランプが集まっている。
「ありがとう、シンジ君、抑えてくれて」
 カヲルは自分の足で立つと、シンジの顔を覗き込んだ。
「シンジ君?」
 シンジは返事の代わりに変身を解いた。
 とろけるように外皮がずれ、それは逆回しにシンジの肩の上へと吸い上げられていく。
 後には一匹の獣となった。
「母さんは……、僕を守るために、僕を捨てたの?」
 シンジはようやく……、呻くように言葉を漏らした。
「そう言っていたね?」
 関わらせたくなかったと。
 カヲルには他に言い様が無い。
「でも、僕は!」
 涙を流す。
「シンジ君……」
 そっとその頭を抱き寄せる。
「うっ、あ……」
 シンジはカヲルの胸にしがみついた。
「一緒に、居て欲しかったんだ、母さんに!」
「……そうだね」
 泣きじゃくるシンジの感情を受け止めながら、カヲルは顔をしかめていた。
(せめてあの人には、シンジの側に居てもらいたかったのだけど……)
 碇ゲンドウはその妻の願いを払いのけて、息子を捨てたのだ。
 己の思いのままに、妻と引き離される事を怖れて。
(あの人はわたしを……、そしてシンジを恨んで、いいえ?、憎んでさえ居るわ)
 幼い頃より相手をして来たレイも、またシンジを求めるように反抗し出した。
 苦々しいのだろう、それは端で見ていても分かるほどだった。
 もちろん、ユイや冬月で無ければ気付きもしない程度に、だが。
(全てを元へと戻し、レイの心すらも手に入れようとしているあの人にとって、シンジはとても邪魔な存在なのよ……)
 カヲルは知っていた。
 二度目の再会、公園で泣いていたシンジの話を聞いた時より、シンジはユイではなくゲンドウを頼っていた。
(そのために、あの人は何をするか分からないわ……)
「わかってないのは、誰しもが同じか……」
 その独り言はシンジの泣き声に交えて消える。
(あの人はシンジ君が、絆を求めていると言った、しかし……)
 シンジは逆に、母と、レイを拒絶するような素振りを見せている。
 ゲンドウには激しく反目しているのだが、それは逆に関心の高さを示してしまっていた。
 シンジが求めているのは、母ではないのだ。
(綾波レイ、碇ユイ……、望んでいるのは、あの人達の方かもしれないね)
 カヲルは無意識の内に、あやすようにシンジの髪を撫で付けていた。
 獣も同じく慰めるように、シンジの頬を舐めていた。


[BACK][TOP][NEXT]


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。