正直、アスカは深山を見る目に義理の母親と言うフィルターを掛けていた。
 その為どのような態度であっても、それを良いように捉えることは出来なかった。
「逃げるんだ!」
 だが、だからと言ってこの程度のことで殺人を犯すほど愚かではない。
 更に言えば、常に論理的で、理知的な行動を心掛けてもいた。
 表面上は違っていても、そこには確かな計算が存在していたのだ。
 青葉はそれを知っていた、だから行動は素早かった。
「その男を逃がして!」
「ああ!」
 困惑顔の深山の腕を引き青葉は駆け出していた。
 沼の湖面が盛り上がった、中に巨大な生物が存在していたのだ。
 水を割るというよりも吹き飛ばす勢いで何かが顔を出した。
「覚えがあるわよ?、あんた……、クラブマンね!」
 湖底の泥の中に潜っていたのだろう、吹き飛んだ泥がアスカの紅の髪を酷く汚した。
 頬や手足にも汚泥はかかる、後で皮膚がかぶれるだろう、あるいは病気になるかもしれない。
 だが、アスカは引き金を引き続けた。
 姿を現したのは、一言で言えば蟹であった。
 体長は三メートル。
 ところで、何故アスカに見覚えがあったのか?
 それはアスカが研究の全てに目を通していたからだ。
 十四歳の若さでエヴァの能力開発と飛び級による大学の卒業を行った頭脳である。
 ドイツ支部長は、それらを遊ばせてはおかなかったのだ。
(これだから、金勘定しか出来ない人間は!)
 その時に問題が無ければ利得を優先するのが管理職の人間である。
 危機感と言うものが欠如しているのだ、将来起こるかどうかも分からない、いわゆる事故を防止するという概念が存在していない。
 だから平然と、こういった管理、監視ミスを犯すのである。
 怠惰に慣れた感覚が危機への恐怖を薄れさせるから。
(あの男ももう終わりね?)
 総司令がこれを無視するはずは無いだろう、支部長はもみ消しにかかるだろうが、それは無理と言うものであった。
 だって、ね?
 青葉がここに居る、それになにより。
(あたしがここに居るからよ!)
 蟹の甲羅はそれ程硬度を持っていなかったようで、一発ごとに穴が開いた。
「次!」
 スイッチを押してマガジンを捨て落とす。
 その間に腰に差していたマガジンを取り出していた。
 流れるように交換し、スライドを引いて続きを撃ちこむ。
「このっ、このっ、このぉ!」
 弾痕が縦に並ぶ、開いた穴を繋ぐようにひびが入って、兜は横へと割れずれた。
「やったの!?」
 蟹味噌がこぼれ落ちる、しかし化け物の動きは止まらない。
「こんちくしょー!」
 アスカはぎょろりと動いた眼球に向かって引き金を引いた。
 視界が閉ざされ、巨大蟹はめくら滅法に巨大なハサミを振り回した。
「アスカちゃん!」
 振り下ろされたハサミが、かすめる様に真横に落ちた。
 それでもアスカは怯まない。
 蟹が動かなくなっても引き金を引き続ける。
 弾が尽きればマガジンを交換してさらに撃った。
「もういい!」
 青葉が止めに入る、ジリジリと無意識の内にだろう、前に出始めたアスカの両手を、握り締めた銃ごと大きな手のひらで包んで押さえた。
 荒いアスカの息が、虫の根の途切れた森に大きく響く。
 はぁっと息を吐いて、アスカはようやく銃口を下ろした。
「あいつは?」
「向こうで待たせてある」
「そう……」
 言って、腕で額の汗を拭い、乾いた唇をペロリとなめる。
 顔をしかめたのは流れ落ちて来た泥を舐めとってしまったからだ。
 口の中に生理的嫌悪感をもよおす、ざわついた味が広がっていく。
「行きましょう」
「ああ……」
 敵は倒した、敵は取ったはずであった、しかしアスカの表情は苦渋に歪んでいる。
(面白くないわね?)
 酷くすっきりしなかった。
 青葉が不審気に無遠慮な視線を投げかけても、アスカはそれに答えずに考えていた。


 ドイツ支部はアスカの身代わりとして適当な人間を警察へ出頭させた。
 表向きは生物汚染の可能性を隠匿しようとした罪になっていたが、その人間が支部長であった事を考えれば誰の指示であったのかは明白であった。
「動かないでね?、先輩……」
 そして再び、日本、第三新東京市、私立青陵学園校舎屋上に時間は戻る。
 深山とアスカは相対していた。
「僕を……、追って来たのか」
「あんたはついでよ、……それにやり残しって、気分が悪いじゃない?」
 風に煽られた髪を、うっとうしげに押さえ付ける。
 事件との関りを詮索されないよう、深山には早々にネルフ側から帰国を願っていた。
「……いつ、気がついたんだ?」
「あんたバカァ?」
 胸の前で曲げた左腕に肘をつき、アスカは口元に拳を当ててコロコロと笑った。
「地元の、それも子供しか知らないような沼地なんて普通知ってる?、夜中に道を外れて入り込める場所じゃないのよね、なのに何人も、それも女性ばかり遺体は見つかった……、逢い引きにしては場所も街から遠いし、不自然じゃない?」
 女性が一人で立ち寄るような場所ではないし、それに人通りのない研究所への一本道だ。
 目立たないはずも無い、なのに目撃者は現われなかった。
「ならそれって、誰かが森の中を通って捨てに行ってたとしか考えられないのよね?」
 深山が警察の封鎖をくぐり抜けたように。
 そう、くぐり抜けたのだ、でなければアスカが警官を追い払うよりも早く、彼が入り込めたはずは無い。
「……あんた、あの森に随分と詳しかったみたいね?」
 深山が一人で入り込める場所ではないのだ。
 他にも手に入れている情報はあった、女性達の身元である。
 その全てに共通しているのは彼が庭師として訪れた日本人女性の邸宅に近い場所に住んでいること。
 髪が長く、ふっくらとしていて、母性を感じさせる女性だった事だった。
「でもどうして?、なんであんな場所に捨てたのよ?」
 一人で行くような場所ではないのなら、誰かが連れていったか、あるいは運んだと言うことになる。
 どちらにしろ、あの蟹の化け物が食い殺したということはあり得なかった。
 何より口のサイズが違う、腹だけを食い破るなど不可能だ。
 クククッとくぐもった笑いに口元が歪んだ。
「ネルフには後ろめたい所があるだろう?、だからさ」
 口調が変わる。
「ああしておけば焦って、勝手に片付けてくれると思ったんだよ」
「……そしてわたしは、まんまとはまったってわけね?、あんたの策に」
「そんなに大層なものでも無いさ、見つかっても良かったんだ」
「なんですって!?」
 俯く、顔を上げる。
 深山の顔からおうとつが消えていた、まるで仮面を被ったような顔になっている。
『ネルフってね?、酷いんだよ……』
 ズボンの股間が膨れ上がり、喉元までにかけて盛り上がる。
 ジッパーが弾け、シャツのボタンが下から飛び散る、鎖骨を軸に、股から大きく体が開いた。
「口ぃ!?」
『使徒、だからね……』
 その口が喋る、その間にも体はゴキゴキと後ろへ折れ曲がり、別の形を作り出す。
『こんな体にしておいてさ……』
 シャツが、ズボンが破れ、はらはらと髪の毛が抜けていく。
『何もくれないんだ……』
 別の生物へと変形していく。
『お腹がすくんだよ』
 ガパァっと大口が開く。
『だから僕に食べられてよ!』
「ひっ!」
 慌ててしゃがむ、その真上を魚に似た形態をした深山が飛び過ぎた。
「きゃあ!」
 竜巻のような回転する風に巻き込まれ、上下の感覚を奪われ転がる。
「なんて奴なの!」
 膝を突いて顔をしかめる、擦り剥いた膝をさらに擦ってしまい、砂利が中にまでめり込んでいた。


「許さないわよ!」
 深山は空で急激な方向転換を行っていた、加速が突き過ぎて飛び出し過ぎたのだろう。
 かなり遠くに小さくなっている。
 アスカはその姿を瞳に映し込んだ。
 青い瞳の中で瞳孔が締まる。
 ざわりと髪が蠢いた、風を無視して髪が広がる、広げたのは八本の細い足だった。
 首筋にいた何かが巨大化する、髪を割ってぼこんと背中に垂れ下がったのは、巨大な蜘蛛の腹だった。
「シンクロ……、しなさい!」
 蜘蛛に対して命じる。
 巨大蜘蛛は一瞬だけ抗いを見せた。
 そのまま襲いかかるように足でアスカの体を抱き込もうとする。
 反転した使徒が急接近する。
 その後部から後方へかけての空気が揺らいで見えるのは、風を動かしているためだろう。
 体の周囲の空気を回転させて暴風膜を作り、対流で生み出したエネルギーを後方へと噴き出している。
「ゆるさないわよ!」
 爆発的な推力をもって突っ込んで来る深山にアスカは吠えた。
 びくんと硬直、次いで蜘蛛は支配下に入った。
 尻から白い糸を強く吹き出す、風に抗い、糸は意思を持つようにアスカに絡んで、その身を覆い込んだ。
 アスカを包んで赤黒く固まっていく。
 使徒の尾が伸びたように見えたのは、使徒が風の尾を引いたからだ。
 ガパッとノーズが上下に割れた、再び口が開かれる。
 その分抵抗が増えて速度が落ちた、微妙な時間がアスカのために作られた。
 バリバリと音をさせて、アスカだったものが動き出す。
 かさぶたが剥がれ落ちるように繭がひび割れた。
 その下に覗けるのは血の赤を思わせる体皮だった。
 ゴン!
 真っ向からぶつかり合う、白く巨大な怪魚を思わせる使徒、その口の上下を手で掴んで押し止める者。
 カァアアアアアアアア!
 仮面を思わせる甲羅状の兜、アスカの四つの目が光り輝いた。
 足が屋上のタイルを掘り返す。
 体からは赤褐色の体皮が剥がれ落ちる。
 アスカは膝をまげて更に耐えた。
 ガァン!
 しかしフェンスに激突、数秒拮抗しただけで、結局は押し切られてしまうのだった。


 海外留学と言えば聞こえはいいが、深山のそれは実は失恋旅行であったのだ。
(姉さん……)
 血の繋がらない両親、しかし姉だけは、例え親戚と遠くても血縁の関係にあったのだ。
 セカンドインパクトによって両親を無くした二人には、その養い親にとの申し出を頼る以外に方法は無かった。
(姉さん、いま行くよ?)
 そしてあの日がやって来た。
 優しく、母親だったような人。
 黒髪の長い人だった。
 彼女の高校の卒業式。
 深山は学校をサボってまで、彼女のために急いで帰った。
(これで僕と姉さんだけで暮らせる、あんな親に頼る必要なんて無いんだ!)
 そして家に帰りついた深山の見たものは……
(うっ、くっ、ん、ん、んぁ……)
 姉の淫らな姿。
 自ら足を絡め、尻に毛の生えた男に腰を振っている女の姿。
(んあっ!)
 彼女は精液を自分の中で受け止めていた。
 父である男と平然と交渉を持っていた、嬉しそうに。
 ドクン!
 彼の中で、鼓動が強く跳ね上がった。
 姉に問いただせば父のことが好きなのだと言う。
 親戚とは言え、血縁関係のはっきりしている二人を引き離すのは可哀想だからと、無理をして引き取ってくれたその男に。
 自分を捨てて育ててくれたその人のことが。
 愛だの恋だのとは言わない、ただ、男として魅力を感じ、その人も自分の若さに魅力を感じてくれたらしい。
 だからこうなった、と告白されてしまったのだ。
 姉の表の姿だけを見て来た彼にとってはショックだったが、考えれば彼女にはこれまでにもボーイフレンドは居たのだし、そういう関係もあっただろう。
 彼の中で何かが冷めた。
 姉が「女」なのだと思い込む事で、もうどうでもいいとしようとした、しかし。
 なんで!
 彼はドイツに来ても同じ思いを抱かされた。
 高枝を切り落としながら見た光景。
 覗いた窓の向こうで繰り広げられる痴態。
 誘うような行動。
 だから許せなかった。
 姉のような女が。
(いま行くよ……)
 ドイツから戻った彼は、姉や養父を食い殺していた。
 アスカにどうでもいいと言ったのは、いずれ知られるだろうと思ったからだ。
 幾ら巧妙に隠しても、姿が見えなくなれば誰かが気付く。
 その時、自分がどうするか?、自分がどうなるのかは分からない、だが……
(いま……)
 そして今、彼の意識はアスカへと向けられていた。
 おそらくは尽きる事のないこの痛みを、唯一冷ましてくれるであろう存在に。


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。