公園、シンジがレイと再開し、使徒も殺したあの公園だ。
「どうしたの?」
「……なんでもないわ」
アスカはカズアキの手を引くようにして公園を横断した。
脅えるように。
右手にあるはずの池に見てはいけないものの気配を感じて、寒気を覚える。
(錯覚よ……)
確かにそこには何も無いし、何もいない。
だがここでシンジは使徒の内の一人を殺している。
それもとても残虐な方法で、だ。
その幻がアスカを恐がらせていた。
「お姉ちゃん……」
カズアキの不安げな声にはっとする。
(ダメね、あたし……)
自分の不安が伝染したのかと思って、護魔化すために笑顔を貼り付ける。
「なぁに?」
「お父さんね?、アヤナミって会社で働いてるんだ」
(え……)
つい反射的に、アヤナミという音の羅列に身構えてしまった。
「でね?、お父さんが言ってたんだ、アスカって人が居て、その人は一杯勉強して、まだ子供なのにとっても偉い人なんだって」
(この子……)
無邪気さに呆れ返ると同時に、話しの筋を先読みしてアスカは緊張の糸を緩めた。
言うことを聞かせるための材料として自分の名前は引き合いに出されてしまったのだろう。
それを察してアスカはカズアキの頭を撫でた。
「それで?」
熱のこもった視線を受け止める。
「あのね?、明日も……、遊びに行って、いい?」
(そう来たか)
くくっと口元を隠して笑う。
「いいわよ?」
「ほんと?」
「ええ」
「ほんとにほんと?」
「塾までの間ならね?」
「よかったぁ」
にちゃあっと相好を崩して笑う。
「あのね!、僕、お姉ちゃんのこと、好きだよ?」
「ええ」
「ほんとだからね?」
「わかってるわよ」
好かれて嫌になるはずもなく。
アスカの目尻は下がってしまっていた。
「子供ってかわい〜のよねぇ?」
「はいはい……」
「手ぇ繋いでるだけでもう、にっこにこしちゃってさ?」
「……嫌味?」
「そう思うんだったら!」
登校中である。
「あんたもちったぁ、嬉しそうにしなさいよ!」
今日は時間的に余裕があるため、二人は腕を組んで歩いていた。
もっとも組んでいるのはアスカで、シンジは『取られている』と言った方が正しいのだが。
「あんたもねぇ?、彼女が余所の奴と仲良くしてるのよ?、男として何か言う事があるでしょうが」
「だからさぁ……」
シンジはうなだれる。
「だからいつ、どこで、僕とアスカが付き合う事になったんだよ?」
むっとする、が、アスカは顔とは逆に組み付いている腕に力を込めた。
「そんなに……」
「碇君?」
アスカの言葉は途切れてしまった。
「……洞木さん」
「その制服……」
ヒカリだった、シンジと同じく登校途中なのだろう、制服である。
「あ、うん……、今は青陵に通ってるんだ」
「へぇ……」
よかった、と、ほっとした表情を浮かべる。
気にしていたのだ、先日も中途半端な所で別れる事になってしまっていたから。
しかしタイミングが悪かった。
(なんなのよ?、この女!)
剣呑な雰囲気を感じ取ったのだろう、ヒカリは慌てるように「じゃ、じゃあ……」とおざなりな挨拶を残して去っていく。
「ほ、洞木さん……」
「はいはい、またねぇ〜」
ニコニコと手を振るアスカだが目が笑っていない。
ついでに宙を泳いだシンジの腕も取っている。
「あの……」
シンジはギリギリと締め上げる手に脅えた。
「誰?、あの女……」
(恐い……)
シンジは初めて、笑顔も恐いものだと知ってしまった。
綾波レイは黄昏ていた。
(碇君……)
だがその事には誰も気が付いていなかった。
その容姿から目立たないはずはないのだが、誰もが気にかける事をやめていた。
どれだけ動かそうとしても反応が得られないからだ。
面白くなければ人は離れていく、その典型的な例だった。
そのこと自体に感慨は抱かない、むしろ静かで居られるのは嬉しい事だ。
だが彼に関してのみ、彼女は穏やかではいられなかった。
(何故、受け入れていくの?、あの人を……)
それは動揺だった。
アスカとシンジの言い争い。
登校から既に始まっている不仲は、逆に仲の良さを確認しているような物だ。
(何故?)
わからない、なにも。
ゲンドウには釘を刺されたが、それで気にしないで居られるくらいなら、あの時、シンジとの再会を果たした時に、話しかけなどしなかっただろう。
ただジュースを買い、栓を開けているだけだった。
なのに彼の挙動に引き込まれてしまっていたのだ。
そして唇が缶の縁に触れた瞬間、レイはその接触に生唾を飲み下してしまっていた。
興味が湧いたのだ。
その時は勘違いをしていた、彼の飲んでいるものが気にかかったのだと。
喉の乾きを感じて、それが欲しくなってしまった。
だから彼を真似て販売機のボタンを押してみた。
彼の口にしたものが知りたかった。
だが違ったのだ。
(わたしが……、欲しかったものは)
碇シンジ。
(乾きではない……、あの感じ、この感じ)
それは飢えだ。
再びシンジに注意を戻す。
(ダメ、離れられない……)
無視も出来ない。
目が自然と追いかけてしまう。
探してしまう。
(何故いけないの?)
レイは自分の感情を分析しようとした。
(この心、体が偽りのものだから)
それは絶望的な想いだった。
感情ではない、欲求なのだ。
本能と置換えてもいい、それも自分に寄生している何者かのだ。
レイは沸き立つ心が自身のものだという確証が得られない不安に陥っていた。
「碇君……」
ぽつりと声を漏らしてしまう。
アスカはいるのに、シンジの姿が見えないのだ。
眺める事で時間の経過を忘れていた。
しかし今はそれすらもできない。
「彼なら屋上に居ると思うよ?」
不意に頭から声が降って落ちて来た。
「そう……」
レイは彼の導きに従うことにした。
それが誰の声なのかは考えなかった。
「ああいうのを『やけぼっくいに火が点いた』って言うのね?」
これがカヲルかシンジであれば、『違うと思うよ?』と同じニュアンスの言葉を全く違った口調で聞けた所だろうが、相手がカズアキであればそうはいかなかった。
「え?、まつぼっくりが何?」
「いいのよ、気にしなくても!」
「ふぅん……」
怪訝そうにアスカを見上げるのだが、すぐに飽きて向かい直す。
アスカは約束通りカズアキと放課後のデートに繰り出していた……、と言ってもカズアキの塾の時間まで、ぶらぶらとアーケード街を歩き回るだけなのだが。
「まったくもう、あのバカも素直になりゃ良いのに……」
「嫌いなの?」
「そうよ!」
(なにやってるんだろ、あたし……)
子供に愚痴っても仕方が無いのだが、つい漏らしてしまうのだ。
(シンジは……、まだ認めてくれてない)
なにがいけないのだろうかと悩んでいた。
自分が?、違う、あいつが?、それも違う。
何がいけないのではなく、それ以前になにかがあるのだ。
エヴァ?、違う、碇ゲンドウ?、それもまた違っている。
だがアスカはまだその答えが見付けられずにいた。
「あんたはあんな風にねじくれるんじゃないわよ?」
「うん!」
ニコニコと無邪気に返事をするその姿に、つい顔がほころんでしまうアスカであった。
「綾波……、どうしたの?」
屋上の風邪がスカートを横向きに引っ張る。
(よかった)
レイはこれからのことよりも、まずシンジが極普通に接してくれた事を喜んだ。
緊張していたのだ、また無視されてしまうのではないかと。
だがシンジは『用があるのだろう』と自分を見ただけで察してくれた。
レイにはそれが嬉しかった。
「なんだよ綾波……、もうすぐお迎えが来るんじゃないの?」
シンジはシンジで、そんな物言わないレイを怪訝そうに見た。
屋上は立ち入り禁止で、普段は鍵がかかっているし、人が来ることはない。
話すにはこれ以上、絶好の場所は無いだろう。
だが顔を伏せ、レイは心を決めきれずに視線を漂わせた。
と、その目は先日の使徒との戦いの後で、応急修理された天井の一部を見付けてしまった。
「碇君……」
「なに、さ……」
レイの語尾の震えに、シンジは緊張を感じ取って身構えた。
「何故……」
スカートの裾を握りしめながら、押し殺すように声をしぼり出す。
「何故、あの人、に、は……、やさ、しいの?」
「綾波?」
苦しげに問いかけるレイに、シンジは胸のざわめきを感じた。
何かを含んでいるだろうアスカに比べれば……
「そんなんじゃ……」
感情を素直にあらわにするレイに、何を疑う事があるだろうか?
そこがアスカとは違うのだ、計算ではないのだから、レイの場合は。
「アスカは……、父さんの命令で、僕に優しくしてくれてるんだ……」
(信じるつもりは無いけど……)
レイから見て取れるものを否定する必要は無い、それがシンジの洞察から得た結論だった。
「アスカが好きな人は他に居るんだよ、僕なんて……」
「碇君」
レイは単純に、良かった、と、シンジの胸にしがみついた。
掛けられた体重に、倒れないようにレイを支える。
その行為を『抱き返された』とレイは喜び、うっとりと目を閉じた、だが……
「ごめん!」
シンジに突き放されて愕然とした。
「なぜ……」
分からないのだろう、不安に喜びの表情のままで引きつっている。
「わたし……、が、エヴァ、だから?」
他には思い付かない、理由など見当たらない。
「わたし、が……」
「違う!」
シンジは叫んだ。
「そんな事は関係無いんだ!」
「……なら」
「綾波は……、父さんの味方だ」
ビクリと、レイは伸ばしかけた手を止めた。
「みんなそうだ……、僕を好きな振りをするんだ、そしていつか裏切るんだ、僕を捨てるんだ、みんな僕のことなんて、想ってくれてないくせに、考えてくれてないくせに!」
「碇君?」
シンジははっとして、自分の口を手で塞いだ。
しまったと顔に浮かべて。
「ごめん……」
それからシンジはうなだれた。
「お願いだから、僕にはもう、構わないで……」
ズキンと胸が傷んだ、レイはギュッと胸元を掴んだ。
『構うな』
ゲンドウの言葉が耳鳴りの様に響き始める。
「い、や……」
レイは最初の頃の想いを思い出した。
シンジに償いがしたかったというのに……
彼はいつかまた孤独を味あわされるのだからと、一人でいる事を選ぼうとしている。
「やっとアスカが居る事にも慣れたんだ……、ううん、諦められたんだ、どうせ僕は居候なんだからって、思い出したんだっ、あそこは僕の部屋じゃない!、ただ貸してもらってるだけなんだ!、加持さんも、ミサトさんも!、頼まれたから僕を預かってくれてるんだ、僕の居場所なんて何処にも無いんだ、どこにも!」
ポタポタと……
床の上に雫が跳ねた。
目から溢れたものが頬をつたって。
「……こんな毎日がうまく続いていくはず無いんだよ、楽しい事だけが続いていくはずがないんだ、もう一度、絶対に、僕は……、僕は!」
「碇君!」
それ以上喋るなと抱きしめる。
それは間違いなく、『綾波レイ』の感情の発露だ。
エヴァも、リリスも、アダムも無い。
「父さんも母さんも僕を捨てたんだ、僕なんていらないんだよ、答えが分かっちゃったんだ」
エヴァンゲリオン。
「だから加持さんに預けたんだよね?、別に死んでしまっても良かったんだと思う、どうでも良かったんだ、エヴァのことさえ無ければ、僕が……、どうなったって、今だって、エヴァだけで、僕のことなんて……」
「そんなこと、ない」
「じゃあアスカはどうなのさ?、……昔、僕に酷い事をしたからって謝ってくれたんだ、でも僕がエヴァじゃなくても謝りに来てくれたのかな?、嘘でも好きって言ってくれたのかな?」
「きっと……」
「好きだなんて……、言ってくれないのに?」
自虐的なものが形作られていた。
「アスカってさ、変な所で正直なんだよね?、本音なんて隠しようがないのに……」
「そ……」
レイはシンジの頭に手を回して髪を撫でた。
あやすように。
「でも僕はそれでもいいって思う……、なるべく今の居心地の良さが続けばいいって、思ってる」
ごめん、とまた謝って、シンジは体を離してもらった。
「ねぇ……、この間、人を殺したんだ、また」
レイは眉をしかめた。
前回の使徒はアスカの手によって倒された、と報告ではなっている。
他に説明のしようが無かったからだ、だがだとすればシンジがあの場所に居た事になる。
アスカにすら気付かせずに。
それはATフィールドでの拒絶を意味する。
使徒同士、エヴァ同士はその感覚ゆえに存在を関知し合う、しかしシンジは壁を作ってしまったのだ。
使徒が、エヴァが人に知覚されぬようATフィールドを展開するように。
シンジは同じエヴァにさえもそれを用いたのだ。
レイはシンジの表情に息を飲んだ。
凄惨で……、余りにも自身を軽蔑し切っている目をしていた。
「上辺だけの付き合いなんて……、いつか剥がれるもんだよね?」
シンジの中にある真理。
レイはそれを突き崩す方法を、どうしても見つける事が出来なかった。
[BACK][TOP][NEXT]
新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。