シンジの言う通り、昔一度すれ違うように関り合っただけで好きだのなんだと持ち出すのはおかしいかもしれない。
 だが小さな頃に刺さったトゲがずっと抜けずにいたのも事実なのだ。
(笑ってくれたもの)
 あれほど酷く、傷つけた自分を。
『久しぶりだね?、アスカ』
 屈託のない微笑みに、ようやく悔恨から解放されたかの様な安堵を覚えた。
 それもまた事実なのだ。
(あんたは……、許してくれたんじゃないの?)
 あの頃のことを持ち出しはしない。
 忘れているだけかもしれない、アスカほど重大事として捉えていないかもしれない。
(違う、あいつは……)
 おぼろげにでも、あの頃のことは覚えているようであるし、それに。
(あの時……)
 母を失った自分の周りを、なぜ彼は付きまとうようにちょろついていたのか?
 再会した時、酷く険のある言葉を吐いたのに、どうして優しく声を返してくれたのか?
(あたしは)
 ただこの女が母を殺したのだと思い込み、揚げ句その息子である者を酷く傷つけて逃げてしまった。
 碇ユイは確かに母を死へと誘ったかもしれない。
 その研究が、論文が無ければと思う、例えそれで滅亡の危機からが免れえなくなったとしてもだ。
 自分一人が残されるような事にはならなかったのだから、と、恨めしくもなってしまう。
 しかしその事が息子に関係あるだろうか?
 彼が何かをしたわけではない。
 彼は単に善意を持って接してくれただけだと言うのに。
(……それこそ、いまさらよね?)
 今だから、落ちついたからこそそう思えるのだろう。
「なによ?」
 アスカは顔を上げて睨み付けた。
 隣のシンジは、もう居ない。
 正面に立っているのは……、レイだった。


「シンジ!」
 アスカは焦ってシンジの体を抱き起こした。
「!?」
 手にべったりと付いた血を見て顔を青くする。
 保健室、救急車、病院、幾つもの対応が混沌と思い出され、余計に行動を遅らせる。
「シンジ、しっかりし……」
(笑ってる?)
 自分の肩から流れ出した血を、手のひらに塗り広げているシンジを見た。
「やっぱりだ……」
 その手は、さきほどアスカの胸を掴んだ手だった。
「やっぱり、……拒絶された」
「な!?」
 えへらと……
 壊れたような笑みを浮かべているシンジに、アスカは彼の意図を知った。
「これがアスカの……、本当の」
「違うわよ!」
 どんな人間でも、反射的に身を守ろうとする事ぐらいあるだろう。
 だがそれが最低な結果を生む事がある。
 最悪な解釈を成り立たせる事があるのだ。
「違う、あたしは、ほんとに!」
 それが今だった。
「うっ……」
「シン……」
 言葉を飲む。
 シャツを染め上げた血が、傷口に向かって蠢いたのだ。
「ひっ!?」
 そのおぞましさに思わず下がる。
 ジュルジュルと吸い上げて……、傷痕の肉までが蓋を閉じようと動きを見せた。
「あ、あん、た……」
 その光景に青ざめる。
 理解を越えた現象だった。
 既に惨事の痕跡はなにもない、唯一、シャツの肩に穴が空いているだけである。
 シンジはそんな風に後ずさるアスカに冷笑を浮かべた。
「……僕はもう、人間ですらないのかもしれない」
 声は遠い響きを持って、アスカの芯を震わせた。


 そして今。
「何故?」
「何故?、どうしてですって?、そんなの!」
「何故碇君を傷つけるの?」
「そうじゃない、そうじゃないけど!」
「でもあなたは碇君を傷つけた、それが結果よ」
 とっくに授業は始まっている。
 しかし二人は会話を続ける。
「あんなの、だって、あれは!」
 おぞましく蠢いていた傷口を思い出す。
 まるで生き物の様に閉じていく口を。
「あれは……」
「そ」
 レイは見捨てるように吐き捨てた。
「なら、あなたはそうしていて」
 背を向ける。
「わたしは……、碇君と共に生きる、そう決めたもの」
「決めた?、それだってエヴァが惹き合ってるだけでしょうが!」
「それでも、わたしには碇君だけだもの」
「なんでよ!」
 泣き叫ぶ。
「なんでシンジなの!?」
「……リリス、同じ遺伝子から生まれた者、わたし達は同じ、これからも増えることは無いわ」
「どういう、意味よ?」
 血の気が引き、体が震える。
「どういう……」
「これから増えるのは、貴方と同じ作りをした者達、偶発の産物であるわたし達とは違う、計算されたプロダクト達」
 不意に……
 加持の言葉と、シンジの言いたかった事を悟ってしまった。
『学校の友達、会社の同僚、……他にもあるが、結局は『同じフィールド』を共有している人間だってことだよ、その内輪で関係を築いて絆を繋げていくのさ、誰でもな?』
『喜んだり、信じちゃいけないんだ、いつか捨てられるんだ……、今までそうだったもの、これからも』
 幼馴染、友達、クラスメート。
 その狭い枠組みの中で付き合いが始まる。
 だがその範囲は時と共に広がって……
 新しい繋がりを見付け出す。
 一方はそれを旅立ちとするのだろう。
 しかし残された者は……
『用が無くなったら捨てられるんだ』
(あたしは!)
 やってしまったのだ。
 シンジの考えていた通りのことを。
 シンジの思い描いていた通りに。
 その量産品達を導く事になるのは自分だろう。
 そして使徒になり切れぬ人類を導いて、使徒との掛け橋となって歩んで行くのだ。
 沢山の、エヴァ達と。
 そのグループの中で、……エヴァ同士惹かれ合って、そして、そして……
(そんなのは嫌っ!)
 かぶりを振る。
(それこそ獣じゃない!)
 テリトリーを作り、その中でのみ交配をくり返す。
 雌は有力な雄を求め、見限られた雄は……
 朽ち果てる。
「待って!」
 レイを呼び止める。
「なに?」
 振り返らずに返事をするレイ。
「……あたしも」
「…………」
「あたしも、行くわ」
 再び歩み出す、わずかに足の裏で埃と砂利が音を立てる。
「ならそうすれば?」
 自分ではないその音が混じった事に……
 何故だか彼女の顔に、安堵するものが浮かんでいた。


 表向きは何の変哲も無い市民病院である。
 もちろんこの街にある以上は綾波家の息がかかっているのだが。
「お久しぶりね?、シンジ君……」
「……赤木先生」
 シンジを出迎えたのは、金色に髪を染めた女性であった。
 左の目元にある泣きぼくろが、妙に存在感を主張している。
 彼女、赤木リツコは、シンジが入院生活を送っていた時代に、主治医である赤木ナオコ、彼女の母に付いて彼を看護していた女性であった。


「遂に覚醒したそうね?」
 特別診察室にて、シンジはその言葉に俯いた。
「……やっぱり、知ってたんですね?」
「ええ、おめでとうと言わせてもらうわ?」
「なにがですか?」
「そうね」
 皮肉るような声に嘲りで返す。
「人類の長の誕生に、かしら?」
「長?、こんなものが……」
 肩の上を上を撫でる仕草をする。
 目に捉えられないが、そこに獣がいるのだろう。
「そうよ?、だってあなたは人間ですもの」
「人間って……、僕の何処が」
「体が人じゃない?、知ってる?、セカンドインパクト以前から、何かしら世界的危機に陥った後には、必ず驚異的とも言える能力を備えた人が増えるのよ」
「それだって……」
「聞きなさい?」
 院内にあるまじき行為を……、タバコに火を点けてくゆらせる。
「足のない人、体の繋がった双子、人の形になり切れなかった赤子、奇形というには余りにも異常な人達、でも彼らは記憶力に長け、超人とも言える力を見せつけた、そんな例は多数存在するわ?」
「だから?」
「でも彼らは人として認められている、なぜかしら?」
 それは当たり前過ぎる質問である。
「だって、……人だから」
「そう、そうね??、人から生まれた者は人だわ、でもね?、彼らは怪物と蔑まれるか、人として妬まれるかのどちらかなのよ」
「妬む?、どうして……」
「だって自分達は劣っている、そんなことが認められると思う?、だから障害を理由に『可哀想な人』として見てあげるのよ、自分達の尊厳を守り、彼らより優位に立つためにね?」
「そんなの……、酷いじゃないんですか!、そんなの」
 憤るシンジを冷ややかに見下す。
「じゃああなたは……、わたしに、大人しく言いなりになれと言うの?」
「え……」
 シンジはリツコの声音に寒気を覚えた。
 それ程までに低い声であった。
「あなたは人間の姿をしている……、その上知能指数は二百近く、記憶力も人間の限界を越えている、もちろん身体能力なんて計るまでもない」
「だから……、だから僕は可哀想なんですか?」
「……貴方が胸を張らず、卑屈になっているから蔑んであげてるのよ」
「え……」
 突如柔らんだ。
 切り換えるように浮かべられた微笑みにシンジは戸惑う。
「貴方がここに入院している間……、何年その体を拭いてあげたと思っているの?」
「それは……」
「少しは情が湧くと言うものよ……」
 ふわりと……
 抱きしめる。
「リツコさん?」
 タバコの匂いと香水の匂いが入り混じっている。
 さらには女性の肌の香りが、窒息させるような胸からシンジの鼻孔を刺激した。
「悩んで、苦しんで、辛さに泣いて……、我慢して、あなたの軋みは人だけが持つものよ、そうでしょう?」
「……そうなんでしょうか?」
「ええ、獣は悩んだりしないわ?」
「だけどそれだって、甘えたいだけの気持ちで」
「いいじゃない、甘えても」
「リツコさん……」
 潤んだ目で見上げるシンジに、リツコは額に口付けた。
「甘えこそ、人が人を求めている証拠でしょう?、それに」
「それに?」
「あなたのそれは病気ではないわ」
 病気?、と小首を傾げる。
「人が元々持っていた、でもまだ定義づけられてはいない希望、そのものよ」
 体を離す。
「それに意味を与えるのは貴方、その位置を定めるのも貴方、何もかもは貴方が決めて行くことなのよ」
「そんな……、僕には無理ですよ」
「でも貴方だけが持つ力でしょう?」
「綾波や、アスカはどうなんですか?、僕だけじゃ……」
(重傷ね……)
 リツコは一つ溜め息を吐いた。


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。