「ミサト、シンジは!」
 アスカは切羽詰まった勢いでコンフォートのドアを押し開けた。
 瞬間きょとんとしてまったミサトであったが、コーヒーを運んでいた途中だったのを思い出す。
「どうしたのよ?」
「いいから!、シンジは?、帰ってるの!?」
 鼻息荒く、そんなアスカに溜め息を吐く。
「シンちゃんなら帰って来ないわよ?」
 ミサトは適当に流した。
「来ない……、って、それどういうことよ!」
「シンちゃんの主治医だった人から連絡が入ったわ?、今日は検査入院で泊まってもらうからって」
「検査?」
 眉を顰める。
 自分達は特別な『人種』だ、通常の病院で診察など受けられるはずが無い。
 血液だけでなく、尿検査すらも避けなければならない立場にあるのだから。
「主治医?」
「……赤木博士」
 アスカの影に隠れて見えなかったが、レイも一緒に着いて来ていた。
「赤木……、って、赤木リツコ!?」
 アスカもその名前は知っていた。
 知能指数が計算能力の高さを数値化した物であり、いわゆる天才と呼ばれるクリエイティブな発想を行えるかどうかの基準ではない、とされたのは二十世紀末のことである。
 天才は右脳の使い方に長け、秀才は左脳の開発に心血を注いでいる。
 しかし赤木リツコは真の意味での天才であり、その両方の能力を『理論的』に開発し、己のものとした人物であった。
 もちろん、その名は遠くドイツの大学に居たアスカの耳にも届いていた。
「あの人が、シンジの!?」
 驚きをもってレイを見る、と、レイは肯定するために頷いた。
 アスカの顔は翳に彩られた、『原因不明の入院』をしていたシンジ、碇家の長男ならば、当然そう言う人物も付いているだろう、しかしそれだけの人物であろうはずが無い。
(ネルフの……)
 自分達が生まれた頃には、既に全ての事が始まっていたのだ。
 ならばその人物も、深い関りがあるに違いないと推測される。
(ゲヒルン……)
 ネルフの前身、『アダム』研究機関。
 恐らくはそこから選出された人物であろう、と、アスカはそこまで考えてかぶりを振った。
「シンジは、病院に居るのね?」
 迷うような頷きがひとつ、ミサトからかすかに返された。



 voluntarily.11 Feel so you. 


 シンジは病室を出てすぐ窓際に寄り、そこから外の様子を眺めていた。
 つい先程気が付いたばかりである、日付は数字が一つ増えていた。
 窓枠に手を置き、消毒灯の光とは違う、穏やかな自然光に目を細める。
「……碇君?」
 シンジは知っている声に横を向いた。
「……洞木さん?」
 淡い陽光に溶けるような少女が佇んでいた。
「ん……、どうしたの?」
 ヒカリは花を詰めた花瓶を抱いていた、水を換えて来たのか、あるいは花を挿して来たのだろう。
「あ、うん……、ちょっとね」
 怪訝そうなヒカリにはにかみを返す。
「病気?、怪我でもしたの?」
「そう言うんじゃ……、ないんだ」
 シンジ自身、説明する言葉を持たなかった。
(なんだったんだろう?)
 嫌な夢でも見ていたのだろうかと訝しみ、右の手のひらをじっと見つめる。
 目が覚めた時、視界に飛び込んで来たのは無機質な天井だった。
 病室だとすぐに分かったのでうろたえはしなかったが、変わりに戸惑う感じが残っていた。
(この感じ、まただったのかな……)
 なにかがすっきりしていた、それは悩みが解決した時の爽快感にも似て、また逆に護魔化した時のようなねばつく後味の悪さを残していた。
「碇君?」
 シンジはヒカリの声に我に返った。
「あ、洞木さんは、どうして?」
「うん……」
 一瞬、言いづらそうに口ごもる。
「鈴原のね……、入院先なの、ここ」
「え……」
「足の手術が近いの、それでお見舞い」
 花瓶を心持ち持ち上げて心持ち笑む。
「それじゃ……、後で碇君のところにも寄るから」
「いいよ、……悪いし」
「そう?」
「うん……」
 居心地の悪い間が生まれる。
「シンジ君?」
「あ……」
 シンジはリツコの呼び声に振り返った。
「じゃあね……、碇君」
「うん……、ごめん」
 なにが『ごめん』なのかはわからなかったが、シンジは口癖のようにこぼしてしまっていた。


 シンジの部屋。
 シンジに言わせれば、元、と言うことになってしまうこの部屋に、今は二人の少女が佇んでいた。
 一人は置物のように正座して。
 一人はベッドに身を投げ出して。
「まったく……」
 ちらと覗いたミサトは、学校をサボってまで帰りを待っている二人に呆れはしたが、責めはしなかった。
(匂い……、しなくなっちゃったわね?)
 その内、ベッド側の少女、アスカがぐるりとうつぶせに返った。
 シンジの布団に顔を埋め、鼻先を軽く磨り付ける。
 アスカはこの布団の感触がそれなりに気に入っていた。
 ホテルのシーツの様な硬質さ、角、と言ってもいいかもしれない、ピリピリとしたものが取れて、実に丸くなっていたからだ。
 染み一つない新品の肌に馴染まない硬さよりも、人が使い込んだ後の柔らかさがアスカの心を惹きつけていた。
 それは温もりと言ってもいいのかもしれない。
 冷えた布団にはない魅力だった。
 子が親の布団に安堵感を見いだすように、アスカはこのベッドにドイツでは感じられなかった和やかな心地好さを見いだしていた。
(別にあんたの居場所を取りたかったわけじゃないのよ……)
 心境はホームシックに近かった。
 しかしドイツに戻った所で、マリアはもう居ないのだ。
 親しい友人すら居ない土地に帰って孤独を抱えるよりも、少しでも自由を満喫していたかった。
(友達でも良かったのに……)
 アスカには対等な友達を作った経験が無かった。
 その中にあって、一番親しい相手が加持リョウジであったのだ。


 社交界へのデビューと言えば聞こえはいいが、実際には見世物にされるのと変わらない。
 アスカは既に広く知られていた、色々な意味で、だからつい抜け出して黄昏てしまっていた。
「ふぅ……」
 気疲れからつい溜め息が漏れ出てしまう。
 ラングレー本邱で催された舞踏会。
 しかしアスカは会場を出て、一人広い庭を歩いていた。
「女の子の一人歩きは感心しないな?」
 パーティーには不釣り合いな、だらしないシャツの着こなしと無精髭。
「主役がもう退散かい?、それにお供を連れていないと、君を狙っている者は多いんだぞ?」
「例えばあんたとか?」
「おいおい……」
 癇に触る軽い感じ。
「加持リョウジ、ネルフからの出向でね、君の調査を依頼されたんだ」
「調査?」
「『来たるべき時』の為の身辺整理のためさ、その時になって君の過去が問いだたされたら問題だろう?」
「ああ……」
 言いながらも納得は出来なかった。
「不服かい?」
「出来れば、あたしの知らない所でやってもらいものね?」
「それはすまない」
 肩をすくめる。
「でも君に聞くのが一番だからね、それに」
「それに?」
 加持は男臭い笑みを浮かべた。
「隠し事は良くないからね」
 アスカはプッと吹き出した。
「面白い人ね?、加持さんって」
「そうか?、それに知らない間に色々と詮索されるのは面白くないだろう?」
「ええ」
 アスカはそこではたと何かに気が付いたのか、急に笑うのをやめて真顔に戻った。
「ねえ?、加持さん」
「なんだ?」
「……碇シンジって、知ってる?」
 アスカの過去を調べているのなら、当然、むかし泣かせてしまった『あの男の子』のことがその中に入っていないはずが無い。
 アスカはそう考えたのだが。
「ああ……」
 加持からの返答は、違う意味で重い響きを持っていた。
 この時にはもう、加持はシンジを引き取っていたから。


 アスカはシンジのこともあって、加持と懇意になる方向を選んでいった。
 一方でゲンドウを憎み、あるいは信じ、複雑に揺れ動きながらもだ。
 マリアですらも主従の関係が残されていた、だから加持こそが最も対等に付き合えた相手だったと言えるのではなかろうか?
 この家に引っ越して来た夜、シンジが聞いた寝言はそこに根付いていたに過ぎない。
(シンジが気にするようなことは無いのよ……)
 加持にシンジの話を告げられ、アスカは激しく慟哭していた。
 たった一言の寝言がそこまでの壁を生み出していたのかと思うと、今度は払拭するためにどれほどの苦労が必要となるのか?
 また同時に、これまでの行いを振り返り、逆効果、シンジに強い拒否感を抱かせていただろうと思い付く。
(あたしを知ろうとしない、手も握って来ない、当たり前だったのね……)
 自分の全てが嘘だと思われていたのだから、その結果が……
(……ん)
 シンジに掴まれた胸を、自ら圧し潰すようにして軽くこねる。
(シンジの匂い、か……)
 まるで変態ね?、と今の自分を自嘲する。
 だがこうでもしなければ喪失感を埋められないのだ。
 シンジの匂いと、シンジに受けた強い刺激で埋め合わせようと試みる。
 それでもやはりシンジ本人の存在感に勝る物は得られなかった。


「ごめんなさいね?、あんなことになって」
 リツコに促され、シンジはベッドに自ら戻った。
 やんわりとした強制に逆らえなかっただけでもある。
 上半身を起こした状態で、ゆっくりと部屋を見渡すシンジに、リツコは苦笑いを浮かべて言葉をかけた。
「一応違う部屋なんだけど、何処も似たようなものだから」
 シンジが入院生活時代を思い出していると見抜いたのだ。
「あの頃も……、こうでしたね?」
「え?」
 シンジはそんなリツコの気遣いに感謝していた。
 心の底では。
「僕……、ずっとこうしてて、リツコさんが見ててくれて」
 遠い目をして語り出す。
「なに?、急に……」
「なんとなく、懐かしくて」
 シンジの透き通った笑みに頬を赤らめる。
「嫌ね、急に……」
「ずっと不思議だったんです、……どうしてリツコさんが居てくれると落ち着けたのか」
「わかったの?」
 はい、とシンジは頷いた。
「……父さんの匂いが、してたから」
 それはリツコを硬直させるには、十分過ぎる答えであった。


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。