ネルフ本部、いや、ジオフロント最下層よりも更に深い所にその施設は存在していた。
赤黒い巨大な十字架へと通路はエレベータードアの入り口から一直線に伸びている。
黒一色の壁面、淡い発光は通路の左右を流れる金色の液体が光源となっていた。
「……碇君」
彼女は十字架を見上げていた。
正確にはそこに吊るされている紫色の鬼を。
碇シンジであったモノ。
その瞳には輝きが無い。
喉、両手首、腰、両足首をベルトによって固定されている。
ここはシンジのための幽閉場所。
『最初』からそのために建築されていた領域であった。
「もう一週間か……」
「ネルフのアダムレポート公開から?」
「シンジが学校に来なくなってからだよ」
自称碇シンジの友人であるところの相田ケンスケはそうこぼしていた。
……世界は大恐慌に陥った。
十五年と言う期間は、悪夢を薄れさせるには余りにも時間が短か過ぎた。
これに巻き込まれなかったのは少年少女ぐらいのものであろう、その真の恐怖を記憶していないのだから当然であった。
アダムレポート。
アダムウイルスとその形態変異体に関するレポートである。
十五年前の真実の一旦を記載したレポートだ、が、その内容には驚くべき物まで含まれていた。
現在活動が確認されている、『使徒』と呼ばれる『人間』についての殺人記録である。
巧みに『人体』に擬態することで紛れ込む人をやめた者達の犯罪は、どれも極最近の新聞で確認できるものだった。
「平和だねぇ……」
ケンスケはポツリと呟いてみた。
街にはネルフの巡回監視員が目立つようになったが、第三新東京市はそれで済んでいた。
だがケンスケは知っている。
世界では魔女狩りが始まっているということを。
人の形態から獣へと変異する使徒と言う名の新人類。
その残虐な犯行については特にドイツの連続殺人が詳しく紹介されていた。
巻き起こった社会現象は人々を残虐な行為に走らせて行く。
使徒は並みの生物ではない、通常の武器では傷も付けられないと言う。
なら、拷問にかけ、生き延びれば使徒だというのだ。
逆に死んだとしても、アダムウイルスの感染者であるのなら、未然に虐殺を防いだと胸を張って公言できる。
狂っているとしか言いようのない論理が展開された。
これにネオナチが台頭したのは偶然であろうか?、バチカンが見逃した事についてはどうなのだろうか?
その答えを知っている者達は、同時に世界の反応をせせら笑っていた。
管理すべき人類は、盲目で愚昧なほど先導しやすいのだから。
わずか数名で管理するには多過ぎるのだ。
『その時』までに淘汰は進めねばならない。
過去、某国は他国への空爆の際に、国民感情を押さえるために同じキリスト圏であると言う情報を伏せた事があった。
情報社会とはその様なもので、垂れ流されるニュースは放っておいても耳に入る。
しかし、必要以上のことは自ら調べなければ気付くことは無い。
そしてその社会に生きる人間は、興味と好奇心で生きるが故に、ただショッキングな事件に釘付けになってしまうのだ。
表層だけを追いかけて、その裏にある真意を汲み取ることは決してしない。
そして気が付いた時には抜き差しならない所まで追い込まれるように巻き込まれ、何が起こっているのか?、確かめる術すら無くしてただ状況に流されていく。
それこそが、世界に君臨しようとしている何者か達の思惑なのかもしれない。
後は先導するだけなのだから。
そしてその通りに世間は、世界は踊り、そのための駒が海を渡って日本と言う国を目指している。
モスグリーンの輸送機の中では、九人の少年少女達がある者は緊張の面持ちで、また別のものはアダルトブックのモデルを相乗りしている少女と見比べて、それぞれの時を持て余していた。
「第三新東京市の封地と戦略自衛隊、及びUN軍による完全隔離、これもシナリオの内ですか?」
「ああ」
場所は第三新東京市、市庁舎最上階にある市長執務室である。
豪奢な机は、以前の市長が趣味で揃えさせた物だった。
「しかしサードの物理的融合、委員会が三人を捨て置くとは思えませんが?」
その机は現在、彼の椅子になってしまっている。
長髪に無精髭、加持だ。
ゲンドウは窓際に立ち、外界を見下ろしていた。
「どうなさるおつもりで?」
「……そのために君を呼んだ」
「彼らを逃がすと?」
「そうではない」
加持はゲンドウの物言いに目を細めた。
「ま、これを取りに行けと命じられた時から、大体の予想はしていましたが……」
加持は足元に転がしているケースを爪先で蹴った。
「例のレポートのおかげで、教会もピリピリしてましてね?、苦労しましたよ」
それはライフルケースに似た黒い箱であったが、長さが少々異様であった。
二メートル半はあるのだ。
「……残す使徒の数は少ない、だが今の二人にシンジを連れ戻す力はあるまい?」
ゲンドウの物言いはどこか投げてしまっている物を感じさせる。
「もはやシンジは後戻りできぬ場所に発ってしまった、我々にはもう、受け入れるだけの定めしか残されてはおらんのだよ」
「そのための、これですか?」
「ああ……」
ロックされていたケースが独りでに開いた。
その中に納められていたのは、螺旋状に捻じれた赤黒い二股の槍であった。
『ただいま……』
少女が落ち込んだ様子で帰宅してから一週間が経つ。
憔悴し切った、虚ろな目をした少女に、コンフォートのお客は『何があったのか?』と詮索しようとしたが、それを目で制したのはミサトであった。
「アスカぁ、起きてるぅ?」
ミサトはこんこんと柔らかめのノックをした。
「そうやって落ち込んでるのもいいけど……」
バン!
扉に震動が走った。
「わかってるわよ!」
ミサトは溜め息を吐いた、アスカが寝ていないのを知っていたからだ。
(うなされて……、何も話してくれないで)
ミサトはある程度加持から聞かされて知ってはいた、だが詳細については不明のままなのだ。
それに、『他人』であるはずの自分に訳知り顔をされても面白くなかろうと……、アスカが話してくれるのを待ってもいた。
だがもう、それも限界に近付いていた。
「分かってないじゃない」
ミサトは嘆いた。
「後になって分かるのよ……、いま逃げると、あなた一生後悔するわよ?」
返事はない。
「……立ち向かわなかった自分に、一生悔いることになるのよ」
ミサトの言葉は重々しかった。
……父の心を垣間見た事で、アスカは軽い人間不信に落ち込んでいた。
人間には裏表がある、だがそれでも裏の面を抑えるのが人の理性や道徳心と言うものだろう。
だがああも、それを悪意の名の元に善意の仮面で被いつくせる人間が居るのだと……
マリアのことが思い浮かぶ、青葉にゲンドウ、シンジの事も。
特にマリアのことが苦しかった、死んだ人間の真意は、どう足掻いても知る術は無いのだから。
……いや。
彼女はその方法を知っていた。
そしてそのための力も与えられている。
だからアスカは、自分の殻に閉じこもっていた。
向かい合うだけの勇気を、希望を。
アスカは完全に見失っていた。
「ファースト、セカンドに対する物理的融合を行うとはな……」
いつもの擬似会議室だが、ゲンドウ、ラングレーと相次ぐ退陣に、いま腰掛けているのは冬月となっていた。
「サードが……、いや、あれがついに繁殖段階に入ったと言う事かね?」
「使徒殲滅はいまだ数を満たしておりませんが」
「何事にもイレギュラーは存在する」
「因子開封以前の事故」
「あるいは、時を待たずして最強であるとの認識に至ったか……」
予定通りではないのだろう。
老人達の声には渋味が強い。
「人は人の姿を捨ててまで、神を目指そうとは思わんよ」
「人は神の知さえ手にすればよい」
「碇ユイ」
「彼女も既に限界であろう」
ピクリと冬月に反応が現れた。
だが老人達はそれを無視して確認を進める。
「マギの様子はどうかね?」
「現在は赤木ナオコ、惣流キョウコに、擬似人格ブレインを組み合わせて試験運用しておるよ」
「後は……」
「綾波サチ」
「演出は君に任せよう」
急に、皆の視線が冬月へと向けられた。
「彼女の移植手術については多大な困難が予想される」
「そのもっとも最たる敵は……」
「碇ゲンドウ」
ゴクリと、冬月は無意識の内に生唾を飲み下した。
「碇君、彼は良き理解者であり、良きパートナーであった」
「彼が居なければ我々の計画は、ここへ辿り着くことなく挫折していたであろう」
「だが後は彼抜きでも進展する、時計の針は動き続けているのだからな?」
「もはや流れは止められん」
「冬月君、任務の遂行を願うぞ……」
「裏切るなよ?」
ブン……、とフォログラフィが消失していく。
カーテンが自動で開き、室内に明るい陽射しが射し込んで来る。
ぎゅっと拳には力が込められていた。
赤く血が溜まって膨れ上がるほどに。
それに反して冬月の顔色は……
血の気を失い、真っ白になってしまっていた。
夢は現実の続き……
現実は夢の終わり。
そう言い表したのが誰かは知らない。
だが現実の苦しみが夢にまで現われ、そして夢以上に辛いものが現実世界で待ち受けているとしたらどうなのだろうか?
彼が居るのはそう言う世界であった。
『あああああああああああああ、ぁああああああああああああ!』
全てが繋がるということは、全てがそこに在ると言う事だ。
苦しみも、悲しみも……
無数の意識がシンジを襲う。
極普通の家庭に生まれた人間がいたとしよう。
優しい両親と友達に恵まれて、幸せに人生に幕を下ろせたとして。
全人口の内、何割がそのような幸福を得られたと言うのであろうか?
大半は不満の中に埋没していく。
生まれた時から何も無く、奪い合いの中で餓死していく子供が居る。
捨てるほどの食べ物を持ちながら、搾取を続ける飽食家がいる。
衝動的な欲求を満たすために、人を殺し、女を犯す少年達が。
吐き気がするほどの無邪気さの中に潜む数々の悪意。
涙の中で激しい慟哭を訴え壊れる心。
知識とは記録であり、記録とは沈澱した記憶であり、記憶とは喜怒哀楽に分類できる。
だが喜怒哀楽もまた、陰と陽、正と邪、善意と悪意に分けられるのだ。
四つの感情全てに、悪意は形を変えて潜んでいた。
だが逆に善意は『現在』においてとても希薄なものになっていた。
そしてシンジはそのような波の狭間で、弄ばれるようにもまれてしまっていた。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。