その存在は言うなれば肉の竜であった。
 ぶよぶよと煮立つ様に泡立っては破裂し、腐った肉汁が表面を覆って膨らんでいく。
 炎にあぶられて臭い匂いを周囲に放つ。
 車から逃げ遅れた少女が、恐怖にがちがちと歯を打ち鳴らし、大きく目を見開いて瞳孔を小さくしてしまっていた。
 ガン!
 竜から逃げようと後ずさり、車のドアに背を持たれた瞬間、そのまま後ろに倒れてしまった。
 ドアが四角く切り取られて倒れていく。
 日本刀を構えたエヴァが、剣を持たない手で少女の体を受け止めた。
 ドン!
 竜の拳が車体を潰す、エヴァは羽を広げて空へと逃げた。
「あ……」
 女の子は眼下に見下ろす怪物と、その少し離れた場所で泣き叫んでいる母親の姿に気が付いた。
「ママ!」
 少女が暴れ出したのに気が付いて、エヴァはその場所へと降下する。
「晶子!」
 振って沸いた化け物に皆は逃げるように波を引いた。
 だがやはり母親だけは我を省みずに駆け寄ってくる。
 エヴァは少女を母親に渡して、足を引いた。
「あっ!」
 女の子が惜しげに叫んだ。
 エヴァは空へと去ってしまったからだ。
「あれは……」
 その正体は、今のところ誰も知りえないものであった。


「ちょろいちょろい!」
 ささやかと言えばささやかな祝勝会が催された。
 カヲルの部屋、持ち込まれたスナック菓子。
 広さの都合でそうなっただけの話ではある、結果的に冷蔵庫のカマンベールチーズとワインクーラーの貯蔵品が消えてしまっていたとしてもだ。
「で、隊長は?」
 誰かが言ったが、その言葉も酒の勢いに消えて行く。
 本来ならば主催者となるべき部屋の主は、オームとレインと共に欠けていた。


 コォン、コォンと、何かの息遣いが空間全体に響いていた。
 それは生命を繋ぎとめるための機械の音だ。
 ガシュンと言うエレベーターの到着音に、レイはわずかに振り返った。
 扉が開く、一歩だけ踏み出した人物に、レイは自分と同じ色の瞳を見付けた。
「やあ……」
 カヲルの挨拶を無視するように、レイは再びシンジを見上げる。
 それを許可だと受け止めて、カヲルはレイの隣へと進み出た。
 二人の背後にはさらに付き従う者達が居た。
 レインは肩越しに振り返ったレイの……、無機質な目と、まるでほのかな光を放っているかのような雰囲気に飲まれていた。
 オームの緊張も感じる、彼が見ているのはエヴァンゲリオン、シンジであるが……
 二人が感じているのは同種の……、畏敬にも似た念であった。
「シンジ君は……」
「まだ、眠っているわ……」
 二人の会話に緊張を強いられた。
 だがレイとカヲルは、レインとオームを気にもせずに会話を進めた、穏やかに。
「今日……、おもちゃを与えられたよ」
 カヲルは何気ない事のように切り出した。
「エヴァンゲリオン……、正式登用型だそうだよ、何も疑っていない、いい子供達さ」
 レイではない、カヲルはシンジへと語りかけていた。
「でも、あなたの眠りを妨げるほどのものではないわ……」
 二人は意識的にそうしているように、同じようにシンジを見ていた。
「アダムウイルスが生み出した肉の塊を焼却するために、ご苦労な事さ……、今日の狩りの獲物はATフィールドも持たない存在だったよ、あれは保健所の管轄だね?」
 レインとオームは何も言い返さなかった。
 最強の力、ATフィールド。
 それを展開できるのは、オームとレインの二人だけであったからだ。
「それから……」
 カヲルはポケットから、三つに折った紙を取り出した。
「使徒から、手紙が来たんだ」
 流石にレインとオームの顔に動揺が浮かんだ。
 隊長である渚カヲルと、何故繋がりがあるのか分からなかったからだ。
 それに使徒とは、自我意識を持たない狂人とされている。
 それが手紙を書くなどと言うことは無いはずであった。
 もちろん、彼らの常識ではだ。
「橘……、アキヒトと読むのかな?」
 カヲルはわざわざ広げて読み上げた。
 使徒にも名前があるのだと言う単純な事が、新人である二人を打ちのめす。
「使徒も残すところあと三体……、自作自演の怪物退治ご苦労様とあるね?、全部知られてしまっているようだよ」
 カヲルは肩をすくめておどけて見せた。
「僕も遊びに付き合うつもりは無いからね?、せっかくのお誘いだから、アスカちゃんの様子でも見に行くことにするよ」
 カヲルは右足を引いて、くるりと背を向けた。
「じゃあ、行こうか?」
 二人に声を掛け、歩き出す。
 やや慌てるようにレインが続いた。
 オームはさらに遅れて、無愛想に後を追う。
 レイだけは、それでもじっとシンジを見つめていた。
 アスカの名前が出た時に見えた、顎先のピクリと言う反応を確かめるために。
 見逃さないよう、見続けていた。


 深夜だというのに、コンフォートの看板を見上げている少女が居た。
 いや、逆であった。
 名残惜しげに、その文字を記憶の中に止めようとしているのが見て取れる。
 傍らには大きな旅行バッグが置かれていた。
 少女の大き過ぎる存在感は、その中に収まるほどにちっぽけなものであった。
 鞄一つで痕跡の全てを持ち出せるのだから……
(使徒に負けて、シンジを助ける事も出来なくて……、未練たらしいったらありゃしない)
 そう言ってアスカは歩き出した。
 勢いよく踏み出す足。
 しかし幾らも進まぬ内に失速し始める。
(シンジ……)
 母の死、エヴァになったこと、シンジとの再会、通わぬ心……
 余りにも多くのことが頭の中を過り過ぎて、アスカはその一言に集約した。
「ダメね、あたし……」
 なにげなく空を見上げる……、心を反映するような曇り空に、月も見えない。
(え?)
 なのに何か……、金色のものが羽ばたくのが見えた。
「翼?」
 それは公園の方へと舞い降りていく。
 アスカは荷物を放り出して駆け出した。
 心を占めるざわめきに、自分でも何を感じているのか分からないままに駆け出していた。


 駆け込んだ公園は夜だけあって静まり返っていた。
(悲鳴?)
 一瞬、惨殺される少女と獣の雄叫びが聞こえた気がした。
 アスカはぶるりと背筋を震わた、だがすぐにかぶりを振って幻聴であると否定した。
(んなわけないでしょうが!)
 シンジが彼女を殺したのは、自分が来日する遥か以前の事なのだから。
 後ずさりを始めていた足を動かして、アスカは公園の奥へと踏み込んだ。


 その少年は、赤い自動販売機の上に腰掛けていた。
 何を見上げているのだろうか?、星も見えない空に視線をじっと送っている。
 呼吸さえも無いように見えた、まるで彫像のように動かない。
 その彫刻のような光景の中で、唯一背に負うものだけがたゆたっていた。
 それは翼であった。
 荘厳で、少年よりも大きな翼が、ゆったりと開いては、光の粒子を散らして泳いでいた。
 光の……、黄金の翼である。
(天使?)
 そしてその持ち主は、眼鏡を掛けた、どこにでもいるような利発そうな少年であった。
「そう、天使……、使徒と呼んでいるものね?」
 アスカはハッとして後ずさった。
 少年が自ら使徒と名乗ったからではない。
 少年が、自分の思考を読んだからだ。
 少年……、橘はクスリと笑うと、軽い調子で跳び下りた。
 ふわりと……、勢いを消すために翼が一つ羽ばたいた。
 わずかな浮遊感を見せて、橘はアスカの前に舞い降りる。
「使徒……、まだ来るの?」
(でも……)
 アスカはいつもとは違う感覚に戸惑っていた。
 それほど危機感を感じなかったからだ、それはそこに、狂気や敵意を感じなかったからかも知れない。
 橘は溜め息を吐いてみせた。
「僕にも……、好きな人が居たって言うのに」
 その一言に、アスカは打ちのめされたような顔をした。
 考えればそうなのだ。
 使徒とて覚醒するまではそれまでの人生を築いていたのだから。
 人を好きになる事とてあっただろう。
(それでもあたしを求めて来るの?)
 それが性なのだとすれば、なんと不自然な事なのだろうか?
 しかし橘はアスカの哀れみを言葉で弾いた。
「そう同情しないでもらえますか?」
(また読まれた!?)
 アスカは警戒心を強くした。
 意識的に心に被る殻を厚くする。
「……ああ、すみません、そう心を閉ざされるとあなたの姿が見えなくなるんです」
 橘はそう言って眼鏡を下げた。
「あんた……」
 アスカは気が付いた、彼の目が何も映していない事に。
 白く濁ってしまっているのだ。
「……視力が無いわけじゃないんですよ?、ただ『力』の都合上、目でものを見る事が出来なくて」
 そう言った次の瞬間、アスカの周囲の景色は歪むように色彩を滲ませた。
 景色が歪んで溶け合っていく、しかしやがて、それらは別の光景に落ち着いていった。
「なによこれ……」
 アスカの髪を爽やかな風がなびかせる。
 傍らに大きな木があった。
 遠くには峰に雪を積らせた山脈が。
 視界一杯の草原、その先にあるのは渓谷であろうか?
 青空と混ざり合う太陽の陽射しが、冷たい風と相まって心地好い。
「これって……」
 アスカは脅えて後ずさろうとした。
 幻覚としてもあり得なかった。
 アスカは草を踏む感触を、手を突いた木の皮のざらつきを感じたのだ。
 それに草原は丘の上にあるようで、足元は斜めに傾いている、もし、自分が元の場所に居るのなら、今の自分の足首の角度では、間違いなく倒れてしまっているはずなのだ。
 だがやはり、それは確かに幻であった。
「……僕達の力は、進化に沿ったものですからね?」
 アスカは背後から聞こえた声にビクリと震えた。
「これはコミュニケーションに則した能力ですよ、人の意識が底で繋がっていると言うのは、もう分かっていますよね?」
 アスカはすぐ側に人の気配を感じて、息を飲んだ。
「……だったら?」
「僕はその部分が突出した使徒なんですよ……、意識を傾ける事で、その混濁の中から必要とする情報だけを引き出すことができるんです」
「……あたしのことなら、何でも知ってるってわけね?」
「ええ」
 嫌らしい笑いではない。
 どちらかと言えば爽やかさを感じられる言い切りだった。
「でもそれは……、人から見たあなたなんです」
「え?」
 意外な声だった、寂しさが込められていたからだろうか?
「人の目で見たあなたを僕は知っているだけで……、あなた自身の心はとても強い力で守られているから」
(エヴァのこと?)
 アスカはようやく、彼から逃げる様に飛び離れた。
 振り返り、キッと橘を睨み付ける。
「じゃあこれはなに!?」
 両手を広げて問いただす。
「……情報ですよ」
「情報?」
 怪訝そうなアスカに、彼は景色を変えて見せた。
 ザザァンと……
 波打つ夜の浜辺に立たされてしまう。
 アスカは打ち寄せる波の冷たさを感じて足を上げた。
「なによこれ!?」
「言ったでしょう?」
 彼は無邪気に笑った。
「僕は自分の欲しい情報を拾い上げることができるんだ……、これはその応用ですよ」
(他の情報を排斥したっての!?)
 青ざめる、もしそれが本当であれば……
「わかりますよね?」
 彼は微笑んだ。
「僕は、僕だけの世界に、あなたを飼うことができるんだ」
 アスカは青ざめた。
(知覚神経の全てが彼に支配されてるっての!?)
「事象というのは、人が認識して始めて成り立つ物なんですよ……、ここは元の公園だけど、あなたが感じている限りは本物ですよ」
 詳しく説明するのなら、これは彼が言うよりも遥かに高度なものだった。
 物質は原子と電子、陽子と素粒子と言った具合に、なにかしらに基づいて完成されている。
 物に触れるとはそれらがぶつかり合う事だ、ぶつかるということは存在していると言う事だ、存在とはそれを成り立たせる認識があって始めて認められる事象のことだ。
 では、認識そのものが制限されたとすればどうなのだろうか?
 故意に認識させるための情報を寄り集め、選ぶ事が出来たとしたらどうだろうか?
 アスカの周囲には現実に入り交じった虚構が渦を巻いていた。
 霞みがかるように、橘の目の前でアスカの姿が薄れていく。
 現実からずれた虚構の世界に、アスカが落ち始めた証拠であった。
 その世界で彼は物質から遊離した虚無の存在として、アスカとつがいになる。
 それに対して、アスカはギュッと目を閉じて、自分の殻に篭ろうとした。
 エヴァンゲリオンとATフィールド。
 心を閉ざす事が、身を守るための唯一の手段であると思えたからの、実にとっさの判断であった。


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。