初めて意識を持ったのはプランクトンで良いのだろうか?
 そんなあやふやなものにまで、遡れば触れる事が可能であった。
 だがそこに至るまでの道のりは、無作為で順番も何もかもが目茶苦茶であった。
 混濁した、境目のない世界で、全ては一つに溶け合おうとしていた。
(アスカ?)
『そこ』には少年もたゆたっていた。
 四肢はそれを構成していた物質達……、シンジの食して来た生き物達に還元を始めていた。
 知識とはすなわち記憶の集合体であった。
 意識とは心の無邪気である。
 善意と悪意の本流の中では、その双方に利己主義が見て取れた。
 一言で言い表せば、人の心は薄汚かった。
 汚濁の中でシンジはゆっくりと消え去ろうとしていた。
 自分と他人との境目を失ったためである。
 しかしアスカの声が聞こえてしまった、何故か?
 アスカが自分の内側へと落ち込んだからだ。
 身を守るために。
 そして自分の中とはすなわち……
(アスカ)
 シンジは上と思われる方向を見上げた。
 光が波間で揺れている。
 波は深層意識への境界線だ、その向こうには……
(アスカ!)
 シンジは落ちて来る人影を、抱き留めるために浮かび上がった。


「逃げても無駄だよ」
 少年は微笑んだ。
「君が逃げても僕が君と言う人を作りだせるからね?」
 例えそれが擬似的な人格であったとしてもだ。
「僕と君は永遠になる……」
 そのための因子、アスカと言う少女を構成していた全ての情報は手に入れているから。
 だがアスカの核になる魂はここにしかない、ならば……
 それを込めた人形を作ればよい。
 それはアスカの魂を持ち、アスカそっくりの反応をするはずだから。
 ただし、創造主に対する服従の二文字を体に刻んで。
 彼はそのような所業を成すだけの力を、『その程度』と言い切れるだけ知識を、その身の内に見いだしていた。


 金色の翼を抱擁するように閉ざされていく。
 呆然と立ちすくんでいるセカンドチルドレンを抱きしめるように。
 それは正に、天使に愛された少女という、幻想的な光景そのものであった。
 夢や童話の世界でもあった。
 だがそれだけに彼女は動揺をしてしまっていた。
「使徒、あの少年が!?」
 驚きの声は小さく漏らされた。
 レインだった、カヲル達は覗くような形で潜んでいたのだ。
「驚いたのかい?」
 カヲルは笑った。
「君達がどういうものを使徒として考えていたのか、ま、予想はついていたけどね?」
 レインは使徒と、自分を含めた仲間との姿の相違に身を震わせた。
 寒気が走ったのだ、彼に比べて自分達の姿は何なのだろうかと。
 紛い物の肉の翼を持つ奇妙な生き物。
 そんな表現こそが相応しい。
 クリスチャンではない彼女でも、彼のような存在にこそ人は救われるべきではないのかと言う想いを抱かされてしまっていた。
「だがあれは使徒だ」
 重々しく言葉が吐き出された。
 否定したのはオームだった。
「使徒は倒さねばならない……、姿に惑わされて、本質を見失うのは愚かな事だ」
 オームの体が発光を始めた。
 光は白く集束していく、その後に現われるのはエヴァンゲリオンである。
『俺たちの仕事は、使徒を倒す事にある』
 オームは地を蹴り、駆け出した。


 長く話していたようでも、思考波の形でやり取りは行われていた。
 よって時間はさほど進行していなかった。
『ぉおおおおお!』
 橘は当然のごとく、彼らの存在も『意識の知覚』から見抜いていた。
 だから跳びかかって来るエヴァンゲリオンにも、余裕を持って対処して見せた。
 繰り出されてくる拳に金色の光を弾かせる。
『使徒は倒す』
 跳びかかったのはオームだ。
 端的に告げ、連撃を繰り出す。
 少年は繰り出される拳や足を翼で優雅に払いのけながら後ずさった。
 スケートでもするように足を滑らせて。
「惣流さん!」
 その隙にレインはアスカへと駆け寄った。
 ふっと糸が切れたように倒れる彼女を抱きとめる。
「惣流さん?、惣流さん、しっかり!」
 ぶつぶつと何かを唱えているのに気が付き、耳を寄せる。
「なに?」
 余りにも小さくて分からない、だが時折混ざり込む、『シンジ』と言う名前だけは確認できた。
 胸が締め付けられる想いを味わう。
「惣流さん……」
 恋人に縋るものだと勝手な解釈をする、と同時に使徒に対する怒りを持った。
 彼は決して、少女を愛そうとしていたのではないのだと……
 逆に踏みにじり、我が物としようとしていたのだと思い知った。


 確かにアスカは彼の名前を呼んでいた。
 だがそれは、決してうなされてのことでは無かった。
「ここは……」
「ここはエヴァの中だよ」
 知った声にハッとする。
「シンジ!?」
 アスカは誰の胸に抱きしめられているのかに気が付いて目を涙で潤ませた。
「シンジ!」
 首に縋り付いて嗚咽を漏らす。
「シンジっ、シンジぃ!」
 アスカの豊かな胸はシンジとの間で圧し潰された。
 不可思議な世界であった。
 確かに波の上に居るのに、まるで足場があるように立てるのだから。
 空には月と太陽が、足の下には地球が見えた。
「シンジ……、ここは」
 降ろされてもアスカは絡めた腕を離さず、シンジの裸体に身を寄せていた。
 離された瞬間、沈み込んでしまいそうで恐かったのだ。
 シンジは腰を抱きよせるようにしてアスカに答えた。
「……意識と無意識の狭間に在る世界だよ、そのさらに下に潜んでいる総意体があの地球、僕であって全てであって、みんなであってアスカを形作っているものさ」
 アスカの背筋がぶるりと震えた。
「あたし……、死んだの?」
「まだ生きてるよ」
 シンジは確信を込めて頷いた。
「……僕や綾波、父さん、母さん、ミサトさん、加持さん、みんなが感じて、想像しているアスカと言う人、そしてアスカ自身がこうだと思っているアスカと言う人格、それらが織り成す固定形態を維持するために必要な力が」
「AT、フィールド……」
「そう……」
 シンジはより強くアスカを抱きしめた。
「し、シンジ!?」
 腹部に当たる男性の象徴に赤くなる。
「自分の形を思い出せれば、アスカは自分に帰れるよ……、ここはもっと淡いだけの世界だから」
「シンジは?」
 不安げな声に、シンジは一つ頷いた。
「ここには……、僕の望むものは何も無いから」
「シンジ!」
 アスカは反射的にシンジの唇を塞いでいた。
 それは日本人のものとは違うキスである。
 相手の唇を覆う大きな貪り。
 その生々しい感触が、痺れが、歓喜が全身に広がって……
 アスカは自分の形を認識して行った。
 アスカの睫毛は……、震えていた。


『これが、使徒か……』
 オームは攻撃が利かない事を悟ると一旦引いた、が、それがいけなかった。
「オーム!」
 レインの悲鳴、横凪に払われた翼が、オームの左腕を斬り上げた。
『ぐっ……』
 膝を突くオーム。
 押さえる左腕から、おびただしいまでの紫色の血が滴り落ちる。
 どさりと遠くで腕が落ちた。
「どうして……」
 レインには信じられなかった。
 ATフィールドの強さを純粋に力の基準とするのならば、彼は仲間内では最強なのだ。
 ところがその力を持ってしても中和すら叶わず、逆にやすやすと破られてしまっているのだから。
 だが困惑しているのは、敵である橘も同じであった。
「エヴァンゲリオン?」
 小首を傾げてその名を呟く。
 その視線は冷笑を浮かべている渚カヲルへと投げかけられた。
「……こんなものがエヴァンゲリオンなんですか?」
 それは侮蔑では無く純粋な戸惑いであった。
「こんなものを作り出すために……、みんなは犠牲にされたと言うのですか?」
 進化している分だけ彼の力は強くなっている。
 それを差し引いたとしても弱過ぎるのだ。
 ふっと……
 カヲルの鼻から漏れる息が聞こえた。
「……仕方の無い事なのさ」
 カヲルは告げた。
「エヴァは人の手には余り過ぎる存在だからね、人の力で操り切れないものに、誰が安らぎを見ると言うんだい?」
 それを作り出した人間は、制御し支配する事を目的に彼らを生み出そうとして来たのだから。
「だからって……、こんなのに使徒がどうこうできるはずも無いのに」
 それは厳然たる事実であった。
 だが……
「使徒は君を入れても後は三体だけだからねぇ……、それならアスカちゃんとレイでなんとでもなると思ったんじゃないのかい?、むしろ問題なのは不完全な覚醒をする人間達だよ、肉体に走る痛みから正気を失う狂気の化け物、その駆除のためにこそ彼らは力を与えられた」
「どいてくれますか?」
 橘はそう言うと、羽の一払いでうずくまったオームを弾き転がした。
「ぐう!」
 ザザッと砂埃を上げ、余りの風圧に体を浮かされ、自動販売機へと叩きつけられる。
 再び落ちる事すら叶わず、オームは販売機の中にめり込んだ。
 ブシューと炭酸飲料が缶から吹きこぼれて、甘ったるい匂いを振りまいた。
「うっ、あ……」
 スーッと。
 浮いたまま寄って来る天使に、レインは飲まれて逃げられなかった。
 恐怖に全身が硬直して。
「さあ……、おいで?、アダムより作られし女……、アスカ」
 彼はアスカの手を取った。
(あ、ああ!)
 レインの腕からアスカの体重が奪われていく。
 右手を取られて、気を失ったままのアスカが引き起こされていく。
「ダメ!」
 レインは叫んで彼女の体に抱きついた。
「なっ!?」
 しかし橘はそれ以外のことについて驚きを見せた。
 自分の世界に閉じこもったと思っていたアスカの手が、腕を掴み返して来たからだ。
 そしてアスカの、小さくて愛らしい唇に浮かぶ邪悪な笑み……
『捉まえた』
 それはアスカとシンジの……
 二人の声が、等分に混ざり合ったものだった。


「うわぁああああああああ!」
 その声に何を感じたのか?、彼は恐怖の叫びを上げてアスカの腕を斬り飛ばした。
 いや、斬り飛ばそうとした。
 後ろに飛びすさりながら右の羽を振り上げて。
 確かにアスカの腕は半ばで外れた。
 だが繋がっていた、傷口と。
 ズルズルとピンク色の肉の筋が伸び出していく、いや、ピンク色の臓物が、アスカの中から引き出されていく。
 アスカの手は彼を掴んだまま離さなかった。
 ズジュブルルルル!
 アスカの頬が痩けていく。
 目が裏返って白目を剥いた。
 半開きになった口から、死人のような声が「あああ」と漏れた。
「エヴァン、ゲリオン!?」
 橘は叫んだ。
「碇シンジ!」
 アスカの内腑が引きずり出されている、そんな錯覚を思わせる光景であった。
 アスカの体が痩せていく、だが腕の先と付け根の間にある粘肉は、失われた体重分の何倍の肉量を持っていた。
 ぼこりと……
 一際大きい肉の塊がこぼれ出た、重さに堪えかねてアスカの体は前のめりに倒れ伏した。
 ズルズルと、それでもアスカを引きずりながら、アスカの中から紫色の『それ』は這い出した。
 生まれたばかりのぷるんとした肉質が、空気に触れて固まっていく。
 伸びていた筋肉を収縮して形をさらに整えていく。
 変質していく。
 痣の色に定着していく。
「あああああ!」
 橘は逆の翼で『それ』に対して斬り付けた。
 ぎらりと目を光らせて、それは地を『蹴って』飛びのいた。
 ぷつんとアスカとの繋がりが切れた、しかし肉体の『再構成』は完了している。
 一瞬で空中十メートル程度の高さに滞宙する。
 それはエヴァンゲリオンであった。
 紫色の鬼であった。
 橘を掴んでいた腕は、いつの間に左腕から伸びる光の鞭に変質していた。
 エヴァはそれを巻き取るようにして、橘への距離を一気に詰めた。
「殺されるもんか!」
 橘は両手を突き出した、ATフィールドが彼を包む。
 ガン!
 それにぶつかり、エヴァは反動で顎を見せた。
 しかしのけぞりながらも目は光った。
 橘のフィールドをさらに覆うように、霧状のものが発生する。
「うっ、あ!」
 橘は頭を押さえてうずくまった、自ら張った金色の繭の中で。
 ATフィールドが不格好にへこんでいく、霧に押されて。
「なに、を……」
(あたまがっ、パンクする!)
 霧には何かが映っていた。
 霧は色を持っていた。
 中には形まで存在していた。
「なに、あれ……」
 レインはそんな橘の周囲に現われたものに青ざめた。
「おばけ……」
 青白い人の姿が……
 獣の姿が……
 何処かの景色が……
 橘の周囲に浮かんでは消える。
 橘を圧し潰すように、世界中で認識されている事象、その情報が、彼の周りに集中していた。
(圧し潰される!)
 彼の精神は汚染の危機に晒されていた。
 人は容易に他人の言葉に流される。
 人の言葉に左右される。
 自分の認識を見失う。
 エヴァはそれを攻撃に利用したのだ。
 故意にぶつけられる自分ではない意志と意識の本流に、橘は自分がどんな人間だったのか?、保つために必死になった。
 彼は空中へと舞い上がった、逃げるためにだ。
 バサリとひと羽ばたきで遥か天に遠くなる。
 だが事象に距離は関係が無かった、人の存在は根底で繋がっているのだから。
 彼には逃げ場は存在しない。
 エヴァはその場にとどまったままで橘への攻撃を続行した、意識の繋がる事象の世界を経由して。
「あああああ!」
 まるで狩人の矢に射られたように……
 彼はよろりとふらついた。
「ぁあああああああああああ!」
 翼が千切れる、だが散った光はきっかり彼を中心とした球体の中で乱舞した。
 曇り夜空に月が生まれる。
 光すらも彼を取り巻くものに押されて、彼を圧し潰す力となった。
 翼が折れた、もげた、彼の手が、足が、圧縮されるようにぐしゃぐしゃと潰れていく。
 繭は星のように小さくなってキラリと弾けた。
−死にたくない!−
 悲鳴の中に混ざった言葉は、誰の耳にも届かなかった。
 ただキラキラと……
 弾けた光が彼の名残を漂わせていた。


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。