エレベーターから降りたアスカは、一瞬正面に見えたレイの背中に気圧されてしまった。
 白くぼうっと浮かび上がるように見えたのは、それだけ周囲の黒が異様であるため、それだけだろうか?
 ゴクリと生唾を飲み下し、アスカは一歩を踏み出した。
「……シンジは」
 隣に並び、問いかける。
 その口調は、語尾が妙な切れ方をしてしまった。
 生きてるの?
 そう続けかけて、思い直したのだ。
「まだ眠っているの?」
「いいえ」
 レイは素直に答えた。
「薄く目を、開いてる……」
「え!?」
 アスカは驚いてエヴァを見上げた。
 だがその目に輝きが在るようには思えない。
「……別に、変わった所なんて」
「何か、あったでしょう?」
 レイの断定口調にアスカは息を飲んだ。
「ど……、して」
「わかるわ」
 レイは横目にアスカを見つめた。
「碇君の、ことだもの……」
 そしてまた目を元へと戻した。
 磔にされた思い人の骸へと。
 明日か端だ呆然と、そんなレイの横顔を見つめさせられることとなってしまった。


「ちくしょう!」
 短く金髪を刈り込んだ白い肌の少年が壁を殴りつけた。
「ちょっとは落ち着けよ」
「うるさい!」
 ギッと、何故だかその視線がレインへと向けられる。
「……どうなってんだよ」
「知らないわよ」
「嘘付くんじゃねェよ!」
「どうしてあたしが!」
 二人の憤りがつかみ合いに発展する直前に、低く押し殺した声が間に割り込んだ。
「やめないか」
 オームだ。
 綾波家に数多くある居室の一つに彼らは押し込められていた。
 もちろん理由は保護の名目である。
「よくそう落ち着いてられるよな……」
 呆れたような目で彼はオームを見下ろした。
 オームは黙して、どっしりとソファーに腰を落ち着けていた。
 時折思い出したようにギブスを指でなぞっているのが、何事かを思案しているのだと感じさせる。
「大体、おかしいじゃねぇか」
 口数も多く、上擦った金切り声を彼は吐いていた。
 それだけ不安で落ちつかないのだ。
「俺達が守るんだろう?、それがこうして守られてよ!」
 皮肉った目をオームに向ける。
「大方、油断してたとかなんとか、そんなんなんだろう?、なぁ!」
 詰問の半分以上は希望でしかないかった。
 肯定してもらえれば、まだ自分達は生き残れる、そんな希望を抱けるからだ。
 油断の結果の有り様なら、気を引き締めればいいだけである。
 だがオームはそんな彼らの希望を打ち砕いた。
「理解……、できない」
 それが返答だった。
「なんだよ、それ」
「本当に、分からない……」
 淡々とオームはくり返した。
「光の鞭、加粒子砲、ATフィールド、それはわかる、だが……」
 問題は使徒を死に追いやった直接の力である。
「あれは、なんだ?」
 見た事も無い風景、見た事も無い人達が垣間見えた。
 そこには歴史が、生活があった。
 生きている人間の生の記録そのものであった。
 なまじATフィールドを扱えるだけに、オームは必要以上に影響を受けていた。
 さすっていた動きを止めて、手のひらをじっと見る。
 小刻みに震えていた。
 オームはゆっくりとかぶりを振った。
「修行が……、足りない」
 そうしてオームは、惣流アスカの顔を思い浮かべていた。


 人払いをしたカヲルは、ようやく冬月に向かってにっこりと人懐っこい笑みを見せた。
 緊張を緩和するかの様な笑みであったが、甘かった。
「何事も時期が押し迫れば不都合が浮き彫りになる……、それを吸収するだけの余裕が無くなるからでしょうかね?」
「何が言いたいのかね、君は」
 薄気味悪く、冬月は差し向かいで腰掛けた。
「シンジ君のことですよ」
 冬月は鼻を鳴らした。
「予定範囲内だよ、彼の変貌は」
「それはどうでしょうか?」
 足を組み、さらにその膝の上で手のひらを組む。
「僭越ながら、あなたも愚昧で無知な人間でしかなかったと言う事ですか」
「それはそうだろう」
 冬月は自嘲気味に笑ってみせた。
「わたしとて計画の全てを理解しているわけではない、多少の事実に触れられる特権を与えられた、ただの人間にすぎないのだからね」
「事実とは人の認識に基づいて構築された筋道、ですか?」
「そうだ、必ずしも真実である必要は無い、間違いであっても良い、それが納得の出来る、整合性の取れた話であるならば人は満足するものだよ」
「……そもそも、それが間違いの元であったというのに」
「なに?」
 怪訝そうな冬月に向かって、カヲルは目を細めて冷ややかに笑った。


 朝になってもミサトは項垂れていた。
 余りにも沢山の事を聞いてしまったがために、理解し、飲み込むまでに時間を必要としてしまったのだ。
 ゆっくりとミサトは疲れ切った顔を上げた。
 だがその目は異様なまでに鋭さを増していた。
「後二つ……、聞きたい事が残っているわ」
「なに?」
 リツコは山となってこぼれた吸い殻の上に、また新たなタバコを圧し潰した。
 今更隠し立てするつもりは無い、そんな態度をさらけ出していた。
「……わたしが保護されている理由は、なに?」
 それは勘にしか過ぎなかった、だがそれだけに絶対的な自信もあった。
 毎日通って来る常連客、買い物先にまで見た顔がいつもちらつく。
 その中でも特大級に怪しいのが情人であった。
「……それはね」
 リツコにも疲れが見えていた、彼女は煙でべたついた前髪を掻き上げた。
「あなたが全くの健康体だからよ」
「あたしは病気なんかしてないわ」
「そうじゃないのよ……」
 リツコはやや哀れみを含んでかぶりを振った。
「あなたは隔離カプセルに保護されていた……、アダムには感染していないのよ」
「それがど……、まさか!?」
 ミサトは愕然として目を見張った。
 一方、リツコは新たなタバコに火を点けた。
「……アダムによって変貌した人類と、変わらずに生きる人々、その掛け橋となるエヴァンゲリオン」
 ガタンと音がしたのは、ミサトが卒倒しかけて机に縋ったからだ。
「あたしが保護していたわけじゃなかったのね……」
「ええ、シンジ君は、あなたのための守護獣だったのよ」
 ミサトは息を荒げた、だがそれを苦情にはしなかった。
「シンジ君がアダムを飲み込む事であたしへの感染は無くなるってわけ?」
「そうね……」
「じゃあ加持君はどうなの?」
 ミサトはやや抵抗がありながらも語った。
「はっきり言って……、加持は節操がある方じゃないわ、関係を持った女なんて、幾らだっているのに……」
「その加持君からあなたに二次感染した?、残念だけど、その可能性はあり得ないわ」
「どうして言い切れるわけ?」
「あなたに浮気だとおどけて外泊している時は……、必ずうちに、勘違いしないでね?、うちの病院に検査入院していたもの」
「どういう事よ!?」
「彼もまた感染を逃れた希有な人物だったって事、ただしあなたと違って、彼は人為的に保護された存在だったのよ……」
「そんな……、そんなことって」
「もちろん、彼はそれを良しとしなかったわ、だからあなたを庇い、シンジ君を守ろうと躍起になった」
「今は……、どこに」
「それはあなたの方が詳しいはずでしょ?」
 ふうと吹き出された紫煙をミサトは恨めしげに見つめた。
「もうひとつ……、あるわね」
「なに?」
「補完計画って、なに?」
 今度こそ、リツコの顔に嫌悪が浮かんだ。


「補完計画……」
 カヲルは狂人がするようなくぐもった笑いを漏らした。
 もちろん冬月や、その背後に居る人物へ向けた嘲笑であった。
「それを成し得るためにあなたがたは己の知を最大限に求めた、例えば深層意識へのアクセスを、その為に碇ユイら、三人の女性を生贄にして、マギシステムの完成を望んだ……」
「あれは彼女が提唱したのだぞ?」
「彼女に巣食った悪意が、ですよ」
 カヲルは冬月の罪をえぐりにかかった。
「リリスに汚染され、剥き出しになった彼女の精神は、常に周囲の人間の思考に犯される事となってしまった……」
 カヲルはシンジと共にユイの元を訪問した時の事を思い出していた。
 打てば響くような会話、異常なまでの意志疎通の成立、何故齟齬が生まれ出なかったのか。
「彼女はね……、あなたや、あの人や、自分を取り巻く悪意の渦に飲み込まれて、その中心でもがいていたんですよ、ずっとね?」
 彼女にはシンジと違って、己を確立し続けるだけの力は無かった。
「違う、あれは彼女が考え出した事だ」
「あなた達が望んだ事ですよ、狂って当たり前だった……、いずれは海に沈んで浮き上がる事も叶わず溺れてしまう事が確定していたのだから……」
 カヲルは実に楽しげに低く笑った。
「本当に……、馬鹿ですよね?、確かにそこは意識の深層であるかもしれない、人々の根底であるかもしれない、でもそこにある意識はいま生きている人々の感情のうねりと記録でしかないというのに」
「いま……、生きている?」
 冬月は喉の乾きを感じて、無意識の内に飲み物を求めて探る手つきをした。
 そんなものは用意していなかったと言うのにだ、よほど動揺しているらしい。
「そうですよ」
 彼は肩をすくめた。
「確かにそれは巨大な知恵と知識の宝庫かもしれない、そこを探って他人の記憶から人物像を切り出せば、非常に良く似た人間も作り出せる……、歴史を紐解くことだってできる、だがそれは他人の記憶を漁った、そう、事実にすぎない、真実ではない」
 わたしが聞きたいのはそんな事ではない、冬月はそんな目をカヲルへ向けた。
 カヲルはそれを受けて、身を乗り出すようにして声を潜めた。
「わかりますか?、どうも誰かさん達は『そこ』に辿り着ければ全ての知識を得、全能になれると思ったらしい……、愚かな事ですよ、過去の記憶や記録はその人の死と共に失われてしまっている、魂の座、人の魂の帰るべき場所、魂が安らぎを得て眠る場所と、あなた達が躍起になって求めて来た『繋がり』とはなんの関連も無いと言うのに……」
 深層意識に自在に潜る事が出来れば、他人の知識を自分のものにすることは出来る。
 それは確かに人を賢者と呼ばれるまでに昇華する事だろう。
 だが、だ。
 その賢者とて『誰も紐解いていない知』に関しては無知である。
 博識であることと、全知であることは違うのだ。
 ましてや全知であるからと言って、全能には成りえない。
「で、では……、我々のやって来たことは無駄だというのかね!?」
「それだけじゃないですよ、シンジ君は、そもそもそんな次元すらも越えてしまっている」
「彼は目覚めたというのかね!?」
 カヲルはかぶりを振った。
「浅い眠りに移行した、と言った所ですよ、覚醒は間近ですが」
「覚醒してもいないのに?」
「音叉と同じですよ」
 カヲルは説明をした。
「……大きな悲鳴が上がった、それに共鳴してシンジ君を構成するものが一時的に反響した」
「悲鳴?」
「セカンドチルドレンのことですよ」
 冬月は何かを喉に詰まらせた。
「そこ、まで……、彼女は繋がっているというのかね!?」
「別に驚く事じゃありませんよ……、綾波レイでも、僕でも良い……、シンジ君に近しい者なら、誰でも彼を召喚できますからね」
「どういうことだね!」
 半狂乱になって冬月は喚いた。
「半覚醒状態……、それは逆を言えばとても不安定な状態だと言う事なんですよ、だからシンジ君を知っている極近しい人間が彼を望めば、そのイメージは固化して容易に形状を成してしまう、先にも説明しましたよね?、僕の中にあるシンジ君のイメージが、あなたの、彼女の、他人のイメージが、限りなくシンジ君に近い獣を生み出した」
「では、彼らを襲ったエヴァは?」
「アスカちゃんがそれを望んだからですよ」
 にぃっと吊り上がった口の端は、全てのものを嘲笑していた。


「あたしが、どうして!?」
 そして地下の施設では、アスカもまたカヲルの話しと同じ内容のことを聞かされていた。
 驚きと恐れからアスカは一歩後ずさった。
「……あなたは保護を望んだ、あなたの一番大切な人に」
 レイはそんなアスカに端的な説明をした。
「だ、だったら……」
 どうだって言うのよ、と、口先を尖らせる。
「悪い事なの?、それが!」
「悪くは無いわ」
 レイは言った。
「ただ……、あなたの恐怖は、あなたに根付いているものが、あまりにも強かった、それだけよ」
 表層的な恐怖、それはあの使徒であったが、彼の力はアスカの深層にまで触れていた。
 そこには多くの不安が渦巻いていた、例えば、先日指摘された繁殖のための牝馬としての可能性、または他のエヴァンゲリオンが現われる事での、碇シンジとの絶縁などだ。
「その恐怖心が、碇君を生み出したのよ」
 振り払うために、排斥するために。
「そんな!」
「今……、彼はとても不安定な領域でまどろんでいるわ」
 レイは何の感情も込めずに彼女に語った。
「だから……、わたしは、何も望まない、何も描かないで、こうしているの……」
 そう言うレイの目には感情が欠けていた。
「彼が……、わたしの望む彼ではなく、碇君が、自分で自分を見付けてくれるまで、わたしは、ここで待っているの」
 ふんっとアスカは鼻を鳴らした。
 だが目をシンジへと向けただけで、この場から立ち去る気配は持たなかった。
 自分で考える時間が必要であったから。
 改めて見つめ直す必要性を、彼女の言葉に感じたからの行動であった。


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。