「シン……、ジ?」
 アスカは膝の上にレイの体を抱き挙げたままで呆然と見つめた。
 今度こそ待ち望んだ人間であるのに、アスカは顔に困惑を浮かべてしまった。
 何かが、違うのだ。
 何とは言えないが、違うのだ、シンジが。
 ゆっくり、恐れるように手を伸ばす。
 だが触れるより前に、ぴりりと電気を感じて、アスカは手を引き戻してしまった。
(ATフィールド?)
 反応は似ていた、しかし彼が張ったわけではない、レイでも無い、では誰が張ったのか?
(あたし?)
 首の後ろで、蜘蛛が爪を立てるように足を緊張させているのが分かった。
 やや呆然としてシンジを見ていると、その姿がぼやけ始めた。
「あ、待って!」
 アスカは掴まえようとした、今度はすんなりと手は届いた。
 しかし、霧散するようにその姿は消えてしまった。
「シンジ…………」
 呆然とするアスカの意識を引き戻したのは、背後に立った少年の気配であった。
「行こう…………、ここは、寒いからね」
「カヲル…………」
 二人の前に進み出て、カヲルはレイの体を抱き受けた。
 軽々と持ち上げて、背を向ける。
 後に残された碇シンジの『二つ』の骸とリリスの遺体。
 腹を貫かれた者、割られた者、割った者。
 三つが三つとも、そのカヲルとアスカを、くすんだ眼球に写し込んでいた。



 voluntarily.16 An only Friend. 


 状況は逼迫していた。
 地下に確保されたサードチルドレン。
 セカンドチルドレンの入室を確認した直後に、綾波家敷地内に在るネルフ本部発令所は、ATフィールドを関知したと言う警報に躍らされてしまっていた。
 だが場所が場所なだけに、彼らは手をだしあぐねていた。
 日向、青葉はなんとか状況の確認だけでもできないものかとハッキングまで試みたが、ドグマと呼ばれる特殊施設には、監視カメラはもちろんのこと、あらゆるセンサーが配置されていなかった。
「残すは、後一体か……」
 執務室で、冬月は項垂れていた。
 その奥の窓に、一人の男が立っていた。
 カヲルと入れ違いに訪問して来たゲンドウであった。
「お前は……、知っていたのか」
 冬月は唸るように吐いた。
「全て……、知っていたのか!」
「ああ」
「何故だ!」
 ゲンドウはいつもの調子で答えた。
「全ては流れのままに、それだけですよ」
 まるでその一言に合わせるかの様に警報はおさまった。
 だがけたたましい呼び出しが、冬月を否応無く性急な現実へと急き立てるのだった。


 心電図の音が室内を満たす。
 ベッドに寝かされているのはレイだ、綾波家の診療室である。
 隣に座っているアスカは、ギュッと拳を膝の上に揃えて、レイの顔を見つめていた。
 レイの顔は、青を通り越した白になっていた、まるで蝋人形のような印象を受けるのは、表情を形作る筋肉の全てから、力が抜けているためだろう。
 能面と言う表現が正に似合う。
 そのまま硬直が始まってしまうのではないかと言う、恐怖心すら感じさせる。
 レイは死んでいた。
 体は生きていても、心は死んでいる。
 認めたくなくてもアスカには分かってしまうのだ。
 全ての人類の存在を、今のアスカは手に取るように確認できるのだから。
「それで、話って何よ」
 アスカはレイを見つめたまま、背後に居るはずの彼に問いかけた。
 意識していなければ見失ってしまう。
 アスカはそんなカヲルに恐怖感すら抱いていた。
 まさに彼は置物であった。
 そこに『在る』のに、一度その存在感を見失ってしまえば、彼がどんな姿を、形をしていたか思い出せなくなってしまう。
 そして見失ったが最後、『探し物』の形状を思い出せなければ、『探しようが無い』のだ。
 そんな状況に追い込まれてしまう、アスカはカヲルに対して、その様に脅えていた。
「長い話になるよ」
 カヲルは答えてから、アスカの背後に丸椅子を移動させ、腰掛けた。
 背中は壁に預ける。
 それはシンジと、カヲルが、如何にして友情を築いたのか。
 そんなたわいのない物語であった。


 その日、カヲルは下らない模試を受け、友人面をする顔見知り数人と歩いていた。
「え?、あの問題の答えって…………」
「渚君がそういうのなら間違いねぇ」
「てっきり、僕は」
 そんな言葉を聞きながら、カヲルは次の言葉を呑み下していた。
『そうやって、僕の欠点を探っているのかい?』
 世の中に完璧な人間など存在しない、カヲルは彼らの言葉が、もし間違っていた時は君も僕達と変わらない、と、蔑むために打たれている布石なのだと知っていた。
『なぜ僕はここに居るんだろう?』
 それはカヲルが物心付いた時から…………、いや、生まれながらにして持っていた疑問であった。
(人の価値観ほどつまらないものは無いと言うのに)
 ふと、その脳裏に彼の…………、先日、知り合ったばかりの少年のことが思い浮かんだ。
 個人の思い込みや蔑み、さらには先入観が生み出した典型のような少年だった。
(僕には分からない…………、何故彼が責められなければならないのか)
 シンジの話を聞いて、客観的に、彼が悪いとは思えなかった。
 そこで個人的にも調べて見た、確かに状況的に彼に罪を負わせる事は可能だろう。
 だが、彼は、怪我をした女の子を必死になって救おうとしたのでは無かっただろうか?
 その間他の子達が何をしたかと言えば、逃げたのだ。
 罪深きはどちらか?、なのに子供達は苛める側に回っている。
(当然か、シンジ君を責める事で彼の罪は確定する、それは逃げた自らの負い目を正当化する手段だからね)
 既にカヲルは、その時の面々のリストを手に入れていた。
 ほんの気まぐれであった。
 その力を行使する最初の標的は…………
 鈴原トウジの足を奪い、それを金に飽かせてもみ消そうとした男であった。
 その男はつまらない男であった、二世議員、それもまず学歴からしておかしな男であった。
 高校受験、このどうしようもない男を青陵に入れるために、父親は入試問題を手に入れた。
 当時の学長を抱き込んだのである。
 だがそれでも入試に失敗し、結局は裏口から入学を果たしていた。
 もちろん、大学でも彼は同じことを親に甘えている。
 素行は表立って問題は無かったが、裏では問題になら無い程度に麻薬に手を染めていた。
 女生徒を人気の無い場所に連れ込んでは麻薬で前後不覚にし…………、と言うのであれば、まだ可愛い方だった。
 ほとんどがテレクラで呼び出し、あるいは街角で捕まえ、睡眠薬入りのジュースを飲ませては、舎弟を手名付けるための餌にしていた。
 日本の九十年代は貞操観念の希薄な少女達が多く、未成年を拉致する事など容易であったのだ。
 警察に捕まる事も度々であったが、起訴されることは無かった。
 この男の調査が終了した時、カヲルは一言呟いた。
『最低だね』
 今は拘置所の中である、ただし、彼には裁判を受ける権利も弁護士を呼ぶ資格も与えられない。
 また刑務所へ送られることもない。
 少なくともカヲルが死ぬまで、彼に関して取り立たされることは永遠に無いのであった。
「この問題…………」
 喫茶コンフォート、シンジが新聞を読んでいる横で、カヲルはわざとらしく参考書を開いていた。
「やっぱり、間違えたようだね」
「え?」
 カヲルは肩をすくめた。
「今日の模試で同じ問題があったのさ」
「どれ?」
 見ても分からないのに、シンジは見せてもらった。
「解き方もわかんないや」
 苦笑いを浮かべるシンジに、カヲルはこれこれこうなるのさと公式を解いて見せた。
「ふうん」
「こっちのは、わかるかい?」
「…………こう、かな?」
 あっさりとシンジは公式を解いて見せた。
「…………さすがだね」
 カヲルは目を丸くして驚いた。
「え?」
「これ、高校二年生辺りでようやく習う方程式だよ」
「そうなんだ」
 シンジは事も無げに言った。
「そんなテストを受けてるなんて、カヲル君、凄いね」
『凄いのはシンジ君じゃないのかい?』
 カヲルは口にはしなかった、さり気なくシンジに問題を解かせている、その中にはシンジの知能指数や発想を試すものも含んでいた。
 結果は…………
(I.Q.だけでも、測定不能か…………)
 天才と言う意味ではまさしくそうだった、何しろ、一度教えた公式を間違えることはないのだ。
 そして基礎を教えれば応用はいかようにも組み立てて見せる、また参考書などでは特定の公式で解く問題が一ヶ所に集中しているためわかりやすい。
 カヲルはそれを避けるために、シンジにわざわざ自分で用意した手製の問題を解かせていた。
 カヲルの個人授業によって与えられた知識は、確実に蓄積していく。
 その頭の良さが、またシンジの不幸の根源でもあった。


「どういうことよ?」
 アスカはレイを見つめたままで訊ねた。
「簡単な事さ、シンジ君の頭は良過ぎたんだよ、何しろ一度見聞きしたことは絶対に忘れないからね、そして彼は他人を予測する事にも長けていた」
「予測?」
「僕じゃないと叫べばお前が悪いと言う、そんな風に、皆の態度は決まりきっていたから、シンジ君は何も喋らなくなったのさ、喋るだけ無駄だろう?、どうせ相手の言葉は分かり切っているんだし、それに対してどう答えて見せても、その答えすら決まり切っているんだよ?、何のために意志の疎通が必要なんだい?」
 それは死に至る病そのものだ。
 心が生きたまま腐ってしまっているのだから。
 生きた、躍動する気持ちに触れるからこそ、新たな感慨を抱く事も出来る、だが、シンジは一人、荒野ですら無い、腐れた沼地を歩いて来たのだ。
 生き死人として、虚ろな瞳で、腐臭の漂う空気を吸い込みながら。
「君にも覚えがあるんじゃないのかい?」
 カヲルの物言いに、アスカはキュッと唇を噛んだ。
 あると言えばあり過ぎた。
 アスカとて、型通りの社交辞令をくり返す、人形に囲まれて暮らして来たのだ。
 まさに腐る寸前であったと言っても過言ではない。
 表向きの言葉から、裏の感情に至るまで、容易く想像をつけられた。
 予測に基づく、予想通りの展開と毎日。
 そんなものにどれだけの価値があるのだろうか?
『きっと、君はこう答えるから…………』
 シンジの幻影が、寂しげにアスカに語った。
「シンジ…………」
「わかるだろう?、優しくして欲しい、泣かせて欲しい、抱きしめて欲しい…………、だけどみんなはこう答えるんだよ、嫌よ、気持ち悪い、あっちに行って、シンジ君には全てお見通しなのさ」
「あたしはそんなこと言わないわ!」
「わかってるよ、…………そしてシンジ君はそこに希望を見ていたんだ」
「え!?」
 アスカはようやくカヲルを振り返った。
「希望?」
「そう、希望なのさ」
 言うことは優しいが顔は渋い。
「君も、レイも、僕もね?、シンジ君にとっては希望だったんだよ」
「だった?」
 思わぬ過去形に、アスカは呻いた。
「記録は見せて貰ったよ、シンジ君には…………、君はお父さんの手先に見えただろうね」
 アスカは震えた。
 蒼白になり、口からは何かを呟いたが、声にはならなかった。
「もう、シンジ君が君を見つめることは無いだろうね、君がいくら好きと叫んでも、シンジ君には君の本当の顔が…………、嘲り笑う顔が見えるはずだから」
 例えそれがすれ違いから生まれた間違いであったとしても。
「シンジ君には、それが真実さ、君は、みんなと同じになってしまったんだよ」
「あ、たし、は…………」
 そんなことはない、と思いたかった。
 シンジには抱きしめて、送り返してもらったのだから。
(だけど、あいつは?)
 一人残る事を選んだ。
 何故か?
「君はみんなのアレンジにすぎない、そしてその言葉すら演技に感じられる、だからわかる、とシンジ君は思うのさ、懐疑的な言葉を吐けば君は信じてと言う、泣き喚けば側に居るからと慰めてくれる、全てシンジ君には分かるのさ」
「そ、れが…………」
 アスカは自らに生まれた感情を、鬱屈した憤りに変えてぶつけた。
「それが、なんであんたにわかるのよ!」
「わかるさ」
 カヲルは事も無げに言った。
「僕も、エヴァンゲリオンなんだから」
 カヲルはすっと目を細めた。
 その赤い瞳には、黄金の海で向かい合う、一組の男女が映されていた。


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。