「碇君…………」
レイは両腕を広げた。
「やっと逢えた」
だがシンジはレイに気が付いていなかった。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう…………」
壊れたように同じ言葉をくり返していた。
顔を手で覆い、その爪で傷を付けて。
目は剥き出しになっていた、赤く血走り、瞳は小さく萎んでいた。
「よくも母さんを、母さんを殺したな、母さんを!、こんな目に会わせて、一人でいつまで生きてるつもりだよ、父さん!」
顔を上げる、シンジはレイなど見ていない。
レイはその視線を追って振り返った。
「ひっ!」
そしてあまりの狂気に、小さく悲鳴を上げて後ずさった。
鉗子によって開かれた頭。
生えていたはずの栗色の髪はもはやない。
頭蓋骨は奇麗に切り取られていた、そこから覗く部位に本来収まっているはずの脳味噌は、ない。
「お母さん…………」
レイは震える手で口を覆った、見開かれた目からは、涙がとめどなく溢れて流れた。
嗚咽さえその所業にうち震えて、漏らす事が出来なかった。
脳を取り払う時に、ついでに取り外してしまったのだろう。
瞼は見開かれたままだ、なのにその奥は眼屈になっていて、頭の中の空洞に繋がっていた。
コンとレイは何かを蹴ってしまい、見下ろした。
「うっ!」
吐きそうになった。
それは目玉だった。
碇ユイの目玉だった。
まだ視神経は残されていて、完全な球体ではない、それが円を描くように転がって自分を写し込んでいた。
「嫌ぁ!」
レイはしゃがみ込んだ、しかし恐怖は去ったりしない。
「シンジ…………、レイ」
その死体は、生前そのままに語り始めた。
唇が震えるように動く、だが、声は生前よりもしっかりしていた。
「母さん…………、正気を取り戻したの?」
「いいえ…………、だってわたしは」
−−死んだもの。
その一言が、レイの心を打ち砕いた。
パタン…………
後ろ手に戸を閉じて、カヲルは顔を上げた。
「待っていたのかい?」
にこやかに訊ねると、壁にもたれていた二人は姿勢を正した。
オームとレインであった。
「あ、あの、隊長を待ってたわけじゃなくて」
うろたえるレインに反して、オームは実に泰然として訊ねた。
「惣流アスカは?」
カヲルはかぶりを振った。
「もうしばらくは」
「そうか」
「彼女に用かい?」
実は収容されたと聞いた時、真っ先に駆け付けてきたのは彼だった。
「…………わからない」
オームは目を閉じ、素直に答えた。
「いや、訊ねたかったのだ」
「なにを?」
「彼女達に……、彼女、あれが、『あれ』が恐くは無いのかと」
カヲルは苦笑した。
「愚問だね、シンジ君……、違うね?、エヴァとは何か、君が訊ねたいのはそのことじゃないのかい?」
またレインにも目を向ける。
「君も聞きたいんだろう?」
「誰でもあのような顕現を見れば……、恐くもなります」
脅えるレインに、カヲルは嬉しそうに答えた。
「そうだろうか?」
「え…………」
「エヴァの本質とは『そういうもの』だからねぇ、君達は『資格』を持ちながら、それを『見る』ことはしなかった、それだけだよ」
「それだけ?」
「そうさ」
肩をすくめる。
「そうじゃないのかい?、ある日突然、未知の力に目覚める人達が、何故いまの人類よりも高尚で、高位だと言う事になるんだい?、それを手にする人は犯罪者かもしれないのに」
それは当たり前の論理だった。
「誰が見ても明らかな罪人が、その力を持った途端に聖人に変わるとでも言うのかい?、あるいはそんな人達を諌めるために君達が居る?、でも力の差はわかったろう?、歴然さ」
「でも!、惣流さんは倒した実績があります!」
レインは叫んだ、シンジとの差は絶望的でも、彼女との開きはそれ程でも無いはずだから。
「問題は資質なのさ」
「資質?」
「そうだよ」
カヲルは二人を促して歩き出した。
「僕はお世辞にも人間が出来ているとは言えない、それは君達も同じだ、一人居たね?、下衆と言う言葉の似合う人が」
「そんな言い方……」
「それは謝るよ、でもね?、本当にエリートで固めるのなら、思想は必要ないんだよ、そう、貴族のように、義務と誇りに固められた人物を素体に用意すべきなのさ、なのにどうして、君達はただの子供なんだい?」
レインは思わずオームに顔を向けた。
オームは何処か修行僧のように、自分を律している部分がある。
レインはそれに期待したのだ、自分はただの『村娘』であったから。
アメリカの片田舎で、農場で羊を追いかけていたような……
「エヴァへの遺伝子改良には、細胞の分裂限界に余裕のある成長期が最も適していると聞いた」
ややあって、オームは優等生染みた答えを返したが、もちろんそれをカヲルが喜ぶはずが無かった。
「じゃあ、これは知っているのかい?」
カヲルは皮肉り、嘲った。
「そのために、君達は『買い上げ』られたと言うことを?」
オームは眉間に皺を寄せ、レインはくっと顔を逸らした。
広い広い農場だった。
それだけに人手不足は深刻だった。
人を雇う金は無し、広大な土地が災いして、荒れ果てた場所は見捨てる他無い状況に追いやられてしまっていた。
それでも、レインが遊び回るには十分な農地があった。
レインは黒と茶のコリーと一緒に、羊の後を歩いていた。
青空と緑の空気が、レインの心を満たしていた。
幸せだった。
だがそれを壊したのは父親だった。
金に困った揚げ句の銀行強盗。
人の白い目に対する反発。
「あたしは何もしてない!」
だがその娘だというだけで……
逃げ出したかった、とにかく逃げ出したかった。
そんなレインの元に、黒いスーツの男が来た。
多額の借金の返済と出資を条件にした申し出だった。
レインはそれに乗った、泣き言を言うだけの母親になど、付き合っていたくなかったからだ。
なにより、そんな風に、目に物をかけて自分を見る人達を正し、自分のような人を守りたかったから。
なのに。
「あんなものが……」
自分に与えられた力だったとは。
カヲルは嘆息して、人気の無い部屋に場所を移した。
「あんなものと言うけどねぇ」
綾波家にはいくつもある、応接室の一つである。
「なんです?」
ついつい口調がきつくなってしまっていた。
しかしカヲルは気にしなかった。
「人は言葉で言い諭されると、それが正論であるほど激昂する生き物さ、結局言い聞かせるには暴力こそが一番なんだよ?」
「そんな!」
「君が悪いと言えば怒って手を振り上げる、そんな人達を押さえるためには、もっと大きな力で脅せばいい」
「そのための我々だというのか?」
肯定する。
「君達の力も、存在意義も、所詮は人の思惑の上に作られたものさ、そんなものに大それた意味なんてないよ」
「あたしは!」
「君の苦しみは人間のものだ」
「だから!」
「そしてその苦しみを救えるのも人間であり、人間の心であり、人間の力なんだよ」
「エヴァではないと?」
「違う、エヴァは!」
「そう言う事か」
オームはレインと違って唸りを上げた。
「我々はエヴァンゲリオンと言う強固な肉体を手に入れたが、それだけだ」
「そうだよ?、人を守りたいと言う心も、救われたいと言う嘆きも、人のものさ、そして人を理解できない人間が、どうして人を救えるんだい?」
「では、碇シンジ、あれは?」
「『全き者』」
二人は理解できなかったのか、首を捻った。
「完全なる、もの?」
カヲルの目には、哀れみがあった。
「全てである者、さ、人の心は常に二種類の心で責めぎあっている、自分が可愛いと言う自己愛と、人を守りたいと願う自己犠牲の精神さ、だけどシンジ君は知ってしまったんだよ、この世界が、いかに自分に対して優しく無い世界なのかを」
「それだけで…………、あんなに強くなれるんですか?」
「あれだけと言うけれど、君はどれ程のことかわからないのかい?」
「え…………」
君にも覚えがあるはずだ、とカヲルは言った。
「自分は何もしなくても、あるいは何をしても、悪意をもって受け止められてしまう、決して善意や好意の目では見てもらえない…………、そんな寂しさの中で、誰にも抱いてもらえない孤独の中で、希望を見付けたとしたら?」
「希望?」
「君は、それをエヴァに見たんだろう?」
レインは息を飲んだ。
「じゃあ…………、碇シンジの希望も?」
「違うよ」
カヲルは言った。
「エヴァなんて、彼にとっては何の価値も無いものさ」
「え…………」
「絶大な力も、圧倒的な支配力も、彼にとっては無価値なものさ、本当に彼が欲しかったのは愛情だからねぇ」
「愛情…………」
「それも膝枕をして欲しい、その程度のたわいのないものさ、そしてそれすら、誰も彼には与えなかった」
カヲルは拳を握り込んだ。
シンジのために。
「隊長…………」
「シンジ君はそれでもわずかな希望を見付けたのさ、僕達…………、僕と、アスカちゃんと、レイと言う三人をね?、例え騙されているとしても、それでも甘い一時が手に入れられたんだ、手放せるはずが無いだろう?」
「ではあれは」
口の中はからからに乾いていた。
「究極的な自己防衛だというのか、自分が可愛いから、その幸せを脅かすものを許さないと言う」
カヲルは肯定した。
「そうさ、使徒?、エヴァ?、何もかも意味は無いよ、シンジ君自身もどうしてそこまで残酷になれるのか分からないみたいだった、だけど、答えは簡単な所にあったのさ」
カヲルの声は、似合わない熱を帯び始めていた。
アスカはそっとレイの額に手を置いた。
ゆっくりと左右に髪を払い、撫で付ける。
「あんたは……、シンジの所に行ったのかしらね?」
アスカは何度も力を使って、世界にレイの気配が在るかどうか探っていた。
だが人の意識の底にまで潜って見ても、レイの姿は見当たらなかった。
「あんた……、何処行っちゃったのよ?」
思わず漏れ出ようとした嗚咽のために、アスカの口は奇妙に歪んだ。
「昔話をしようか」
カヲルはアスカの時のように、静かに、語り始めた。
「僕とシンジ君は、ある麻薬の売人と話をしていたんだ」
「麻薬?」
「そう、僕が取り仕切っていた、販売ルートのね?」
青ざめるレイン。
オームも流石に剣呑なものを浮かべた。
「薬は嫌いかい?」
「嫌いとか、そういうことじゃなくて……」
「倫理観、いけないという、でもね?、何故、いけないんだい?」
カヲルは訊ねた。
「見苦しいから?」
「違います!」
「逃避がいけない?、でも人に当たるよりもいいんじゃないのかい?、鬱憤を吐き散らせないのは、迷惑を掛けようなんて考えられないほど優しいからだよ、迷惑を掛けると言うことは、嫌な思いをさせてしまうと言う事さ、だから自分の中に溜めこんで、心を壊していくしかない、そんな人達にシンジ君は寛大だった」
「寛大?」
「そうだよ?、人は誰も助けてくれない事を、誰よりも良く知っていたからね?」
レインは反論できなくなった。
「逃げる事はなぜいけないんだい?、誰も助けてくれないから、自分で戦わなければならない?、でも誰もかれもが立ち向かえるほど強いのかい?、そもそも、その強さがあるのなら、なぜ逃げたいだなんて思うような世界に追いやられてしまうんだい?」
「でも!」
「苛められないために、苛める側に回る子供が居る」
カヲルは反論を許さなかった。
「皆が苛めているから、自分もやる、それは人が盗みを働いているから、自分も盗んでいいと言うのと同じ理屈さ」
「違います!」
「娘はこういう、エイズになりました、セックスをして、親は怒る、破廉恥な、娘はみんなやってることだという、問題なのは、娘に罪悪感が無い事さ」
「そんなの……」
「当たり前?、古い考え方なのかい?、貞操観念、でもね、みんながやっているから、どうしてやっていいんだい?、それならどんなに罪を犯しても、自分だけでないなら許される事になる、罪は罪さ、どんなに小さくて、些細なものでもね?、そして彼は知っていた、快楽のために薬に溺れる事は罪でも、逃避のためには必要なものであると言う事を、だから僕は手伝った、その考えを現実のものにするために」
「現実?」
「犯罪者の手には渡さず、死と薬の選択肢を選ぶまでに追い詰められている人達にのみ、薬を渡すことにしたのさ、正しく広がるようにね」
「あなたはどうだったんですか?」
カヲルは肩をすくめた。
「僕は痛がりだったからねぇ、僕を傷つけようとするものが恐くて、いつも先に『消して』いたよ」
「消してって……」
カヲルの笑みにゾッとする。
唐突に、カヲルがどういう人間であるのか思い出したのだ。
「僕の知り合いの中には色んな人達が居たよ、尊大なもの、力を誇示する人、媚びへつらう人、倣う人、でも、みんな傷つけられる人達と同様に、脅えていたよ、なのにわからないんだ、その人達は、自らの持つ恐怖、それと同じものをみんなが持っていると言うのに、考えもつかないで、平気で傷つけるんだよ、みんな脅えているとは考えもしない、痛がりは自分だけだと、だから自分だけは何をしても許されると言う、許せると思うかい?」
レインには何も言えなかった。
「でも、その中にあって、シンジ君だけが異質だった」
ふっと、カヲルに和やかなものが訪れた。
「何もかもを断絶していた、諦めていたんじゃない、初めから求めてはいなかったんだよ……、激しく憧れていながら、それを手にしようとしなかった、僕はそんなシンジ君に興味を引かれた、彼が求めるものとは何か?、僕は彼の希望を満たしてみたくなったのさ」
「希望?」
「彼の不満が消えるようにね?、薬の売買の整理もその一つに過ぎなかった……」
カヲルは息を吐いた。
「そのシンジ君が、妙にこだわったのが綾波レイと言う少女だった」
「ファーストチルドレン、ですか?」
「そうさ、彼女はシンジ君が、人らしい心を捨てるきっかけになった人物だった……、罪悪感を抱えて接する彼女に、シンジ君は妙に態度を硬化させていたよ、おかしいだろう?、どうして彼女にも、他と同じように接する事が出来なかったのか」
「理由が?」
「彼女は碇ゲンドウと碇ユイと、父、母と繋がる唯一の絆だったからさ、彼女に見切りを付ける事の出来ない魅力があった、と同時に彼女を肯定も出来なかった、なにしろ両親を奪った張本人だからだよ」
「奪った?」
「碇ユイは綾波サチと名を変えて綾波レイの母となり、碇ゲンドウは碇シンジを捨てて妻の後を追ったのさ」
「え!?」
「だが素直にもなれなかった、父に、母に再び甘えて、そして拒絶されたなら?、今度こそ立ち直れなくなってしまう、おかしなものだね?、人間味を失うきっかけになった人達が、シンジ君に再び息を吹き込んだのさ」
「あなたは……、それを黙って見ていたのですか?」
「言ったろう?、彼は何も望みはしない、何もかも自分で考え、決断していた、狂っていたのかもしれない、それを強く感じたのは、使徒を、人間を惨殺する事にためらいを見せなくなった頃からだよ」
「え……」
「エヴァのせい、遺伝子のせい、ウイルスのせい……、色々考えたよ、シンジ君が変わってしまった理由をね?、でも答えは以外と簡単なところにあった、さっきも話したろう?、彼はどうしようもないほど人間なのさ」
カヲルは溜め息を吐いた。
「綾波レイを失いたくないと言う想い、綾波レイを大切にしたいと言う願い、彼女に甘え、取り入り、父と母に抱きしめられたいと言う、再び持ってはならない甘美な夢を、唯一実現させられるかもしれないキーパーソンだった、だけどそれは諸刃の剣だよ、もしだめだったら?、その諦めが彼女を遠ざけようとした、失う事の恐怖と、手放せないほどの執着心が、シンジ君の行動原理の全てだった」
「では、彼女はどうなる」
オームが訊ねたのは、もう一人のことだった。
「アスカちゃんかい?、もっと簡単だよ、嫉妬さ」
「嫉妬?」
「好意をよせてくれていると言う、信じられない事態に動揺しながらも、シンジ君はそれを率直に行動に移した、奪われないためにね?、それだけのことさ」
「それだけ?」
レインはゾッとした。
アスカの体から現われたエヴァンゲリオン。
それの理由が。
「それだけ!?」
「そうさ、だからシンジ君は君達を狙っている」
「え!?」
「だって君達はエヴァンゲリオンだ、アスカちゃんに『種付け』をできる存在だ、シンジ君が見逃すはずは無いだろう?」
「そんなっ、あたし女ですよ!?」
「関係無い、それを可能にするのがエヴァンゲリオンだよ、雌雄、いや、人としての交配とは根本的に違うのさ、生殖行為なんてものじゃない」
「どう……、違うんですか?」
「エヴァンゲリオンは事象に過ぎない、暖かい風と冷たい風から竜巻が生まれるように、君達は『その』触媒に過ぎないのさ」
「わたし達が?」
「そうさ、君達も、シンジ君も、アスカちゃん、レイ、それに使徒も、全てがその倣いに沿う存在であって、絶対ではない」
「では全き者とはなんだ?」
「エヴァンゲリオンの完全体だよ」
「なに?」
「彼は鏡さ、人の心を写し出す水面だよ、揺らぎのない存在、そこに波紋を投げかけるのは相対する人さ、嘆きを、悲しみを、苦しみを、恐怖を、彼は受け止める、受け止めて、同じようにもがき苦しむ」
「え……」
「全き者は白き人と呼び変えてもいい、彼は純粋無垢な存在だよ、だからこそ染みは酷く目立つだろうね……」
「それでは、碇シンジは……」
「彼は眠っているよ」
「眠って?」
「シンジ君と言う魂は未だに眠っている、僕達の手が届かないほど深い場所で、だけど僕にだけは彼の目を覚まさせることが出来るんだ」
「何故?」
「それは僕が使徒だからだよ」
一瞬、無音の空気が、その場に生まれた。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。