──いいかシンジ、よぉく聞けよぉ?
とても切実な表情をしている先生の言葉を、シンジは非常に情けない気持ちで聞いていた。
「俺たちに足りないものはなんだ?」
「知りませんよ」
「武器だ、武器! 武器なんだよ」
あーはいはいそうですかっと、シンジは適当に聞き流すことにした。
「いいかシンジ? 俺たちのご先祖様はなぁ……そりゃあ偉い人たちだったんだ」
「そうですか」
「たとえばだなぁ、ご先祖様ってのは、土から鉄を作り、鉄から武器を作り出すことを発明したんだ」
だからどうしたんだという話である。
「俺たちも、いつ、どんな時でも、武器を作り出せるようにならないと」
「ならないと?」
ぽたんと二人の頭に、ハトの糞が落ちてきた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ハトにまで馬鹿にされることになるってことなんだよ!」
ちくしょう! と叫んで、焼き鳥にし損なったハトに向かって石を投げる保護者のことを、シンジはなま暖かい目でもって見守ったのであった。
──しかし!
(でもやっぱり先生って正しかったんだ)
シンジは公園のブランコに揺られていた。
「強いってことは、どんなものからでも武器を作り出して、武装できるってことなんだよなぁ……」
素手よりも武装している人間の方が怖いのは当たり前のことである。
はぁっとため息。シンジはガクガクブルブルと身震いをして思い返した。
ぶんと唸る破壊力。その威力はシンジの後頭部が覚えていた。若干禿げ上がっている。ずきずきもする。
武器──持ち主はアスカ、主材料は新聞紙。
要は張りセンである。
元はただの新聞紙であった。それがアスカに織り込まれ、彼女の膂力を得ることによって、立派な凶器と化していた。
間一髪、避けなければ、かすめた際に摩擦で毛髪を持って行かれるだけではすまなかったかもしれない。
「どうしよう……」
シンジもそれが、嫉妬故の行為であるとはわかっていた。
「先生が言ってたっけ……ほとぼりが冷めるまでっていうのは、結構個人差が激しいもんだって」
……怒りはそう長くは持続しない、疲れるからだ。
しかしながら恨みつらみは残るから、彼女らはいつまでも待ち受ける。
胸の底に秘め、凍結させて、封印し、いつでも解凍できる状態にして保存しているのだ。
『いいかシンジ? よぉっく聞いとけ』
そのときは、いつもより真剣味を増していた。
「男が一度逃げ出したなら、決して中途半端に戻るんじゃないぞ」
「なんですかそれは」
やけに後ろ向きだなぁと思ったが理由はあった。
「逃げ出すしかなくなった人間ってのは、本当は逃げ出したくなかったりするもんなんだよ」
「そりゃそうでしょうけど……」
「だからホームシックにかかって、ついつい簡単に戻ってしまうんだなぁ、これが」
それが甘い考えなのである。
「それでなにがあったんですか……」
お前、話の腰を折るようになったなぁと目を丸くする講師に、シンジはいい加減それが彼の体験に基づいた談話であると気がついていた。
「だから、なにがあったんですかって」
「……吊された」
「はい?」
こう、荒縄でぐるぐるっとくくって、っと、体を動かす。
「十六階建てのマンションの屋上から吊されたからなぁ……風で飛ばされたときにはさすがに死ぬかと思ったんだが」
なんで生きてるんですかとももう言わない。
「つまりだ……逃げられた側って言うのは、そうやって、ついふらふらっと戻ってきてしまうのを待ち受けているもんなんだよ。執念深くっていうんじゃなくて、冬眠させることができるんだな」
「…………」
「まんまと逃げられたとなると腹も立つだろう? で、怒ってる間はだな、ああいうこともされたっけ、こういうこともだなと、些細なことまで思い返して、どんどん恨めしい、腹立たしいって気持ちを作ってくんだ。でもな? ある時ふっと、思い出すんだそうだ……楽しかった記憶ってのもな」
微妙に表情が軟らかくなった。
「あんなこともあったっけ、こんなこともって感じでな。懐かくなって……すると今度は寂しくなってくるんだと。そんな風にできたのはあいつだけだったのにってな」
「……なんとなく、わかります」
「だろう? でな、その瞬間が、ほとぼりが冷めた瞬間なんだよ」
彼はずずいと巨体を乗り出した。
「今はどうして居るんだろうか……いつまで逃げてるつもりなんだろう? 本当は自分が待ってるだけで、あいつは帰ってくるつもりなんてなくて、この土地も、あたしも、捨てていったんじゃないかってな……段々と不安になってくるんだそうだ」
「…………」
「思い出がたくさんあればあるほどその気は強まる。寂しくて、物足りなくて……だから、早く帰って来てよと泣けちまうんだと」
「そうなんですか……」
シンジはちょっとだけ、誰のことを語っているのだろうかと気になっていた。
「……だから、その前に帰っちまうと、怒りの段階だからえらい目に遭わされるんだな」
話は戻る。
「でもな、だからって、長く逃げすぎてもいけない」
彼は遠い目をして口にした。
「ほんとに忘れられちまったりするんだよなぁ……これが」
……一体この人の人生になにがあったんだろうかと思わせられた瞬間であった。
「ま、殺すとか、どっか行けとか、二度と顔を見せるななんて言うから、その通りにしてやったのに、帰ったら帰ったで、ああ帰ってきたんだ、なんてな?」
ガキこさえて抱いてたりするんだからと、がっくりと落ち込んだ。
シンジは回想を終えて思った。
「嫌いってわけじゃないし……居なくなってる間に、他に好きな奴ができた、なんて言われるの、嫌だしなぁ……」
この前に泣かれたこともひっかかっていた。
「嫌われたってわけじゃないんだよね……」
シンジはアスカについてを分析した。
好きだからこそ許せないこともあるのだと……それくらいのことはわかるのだ。
「第一また逃げるってのも芸がないしなぁ……捕まったばっかりだもんなぁ」
同じパターンを短期間に使うことは御法度なのだと、二流芸人よりも厳しい、そしてまったく無意味な規制に命をかけている……なによりも繰り返しはより大きな怒りを買うことがある。
『だんだん酷くなっていくんだよなぁ……お仕置きが。それでも懲りないでいると』
「もういい、疲れた……か」
そう言われるのは勘弁して欲しいしなぁと……シンジは『反面教師』の体験談から学んでいたのであった。
そして少年は身を持ち崩す
「平和ねぇ〜〜〜」
ずるずると縁側で茶をすする老人のように老け込んでいるのはミサトであった。
「どうしたの? 一体……」
ミサトの事務室は屋内であり、当然のごとく窓などはないのだが、彼女は壁一面に日本庭園の風景写真を数十枚の紙に分割プリントして貼り合わせていた。
呆れた調子でリツコは言った。
「どうせ貼るならもっと大きな庭の写真にしなさいよ」
「小市民にはこれくらいのがちょうどいいのよ」
中の下くらいのサラリーマンが無理して買った一戸建ての日当たりの悪い裏庭くらいの広さであった。
「またこんなくだらないことに経費を使って」
「ちゃあんと外のコンビニで印刷してきたってば……酒代削ってねぇ」
がっくりとうなだれるリツコである。
「……そういうことにはお金を惜しまないのね」
「どういう意味よぉ」
「服よりはお酒でしょう?」
うっとうめいたミサトのシャツは、襟元や袖口が汚れている。
「クリーニング、行けないのよねぇ……出したら出したで取りに行けないし」
「誰かに頼めばいいでしょう? 配達とか」
「最近ちょっと頼みづらくってさぁ」
「ああ……日向君、あなたのこと好きだったのよ? 知ってた?」
そうだったのかと舌打ちを漏らす。
「失敗したぁ……」
「というか、どういう経緯であなたなんかを好きになったのかってところが非常に気になるんだけど」
「そりゃあ……」
「この間、おなか出して寝てたんだって? 仮眠室で」
「ぐっ」
「男子職員がみんな見てみないふりしてたらしいけど……」
じっと彼女の下腹部を見る。
「たるんでるんじゃない?」
「くはぁ!」
「みんなげっそりした顔でため息吐いてたらしいわよ? 見たくなかったって感じで」
「ぐっ……」
「あなたもネルフに入った頃には結構人気あったのにねぇ?」
それはあんたもでしょうがとネチネチと返す。
「なによぉ、そんな話のために来たの?」
「そうよ」
「…………」
あのねぇとミサト。リツコは冗談よと切り返した。
「アスカとレイが、シンジ君をさがせってうるさくてね……仕事にならないのよ」
今はマヤが相手をしているらしい。
「二人はミサトの担当でしょう?」
ミサトは机の上で頭を抱えた。
「シンジ君は?」
「また逃げたわ」
「またぁ?」
「もっとも今度は、所在を教えてくれてるから問題ないけど」
携帯電話の信号は常にオンにしていろと、口を酸っぱくして教え込んだのである。
ミサトは尋ねた。
「で、今度はどうして逃げたの?」
「大岡裁きの逆」
「取り合いってこと?」
「二人も悪いのよ。アスカはアスカで、レイのところには行かないで……なんて似合わない縛り方をしようとして……」
「アスカがねぇ……泣き入れたの?」
「入れたふりをしたそうよ。ただあんまり演技に熱が入りすぎたのね。シンジ君、怖くなって逃げたみたい」
「あちゃあ〜〜〜」
「で、そこに、不自然なくらいに都合良くレイが登場」
「さらってっちゃったわけね」
「さらわれてったのよ。自分からね」
「その後は?」
「どっぷりとね……レイの部屋で」
「あほね、あの子は」
「それで怒り狂ったアスカがね……」
「二大怪獣決戦ね……」
「いえ……三人よ」
「はぁ?」
「霧島さんがね……」
リツコはこめかみに指を当てた。
「見かねて、口を出して、引っ込んでろって言われて、ぷちんと来ちゃったらしくてね」
「…………」
「なんでも司令が、特別特権で武器弾薬の無制限使用許可を与えていたそうなのよ……ほら、レイのマンションって、ほとんどが無人だけどそれを逆に利用して、対人邀撃用の小火器や爆薬の類がいろいろと保管されてたりしたでしょう? それを、存分にね」
ミサトは炎上するレイのマンションを想像して青ざめた。
「……ちょっとぉ、それ、しゃれになんないじゃない」
「あら? レイもアスカも、ピンピンしてるわよ?」
首を落とす。
「……化け物ね」
っていうかさとミサト。
「考えたら、腕ずくじゃシンジ君が一番なんじゃないの?」
「性格を抜かせばそうでしょうね」
「性格?」
ええとリツコはうなずいた。ちょっとだけミサトが飲んでいたコーヒーを見たが、自分の分は頼まなかった。
手を出す具は犯さない。
「女の子に手を挙げられる子じゃないでしょう?」
「ああ……」
「ただ……それが仇になる子でもあるんだけど……」
……しばし無言になる。
ミサトはわざとらしくカップを持ち上げ、コーヒーを口に含んだ。
そして……。
「で」
カップを置く音がことりと鳴る。
「あたしになにをさせたいわけ」
リツコは肩をすくめて見せた。
「あなたの権限で、なんとかならない?」
「あの二人を? 無理よ……」
「いえ、それはもうあきらめてるから」
時計を見る。
そろそろマヤが限界だろうと考える。
「犠牲者の数を減らしたいのよ」
「仕方ないわねぇ……」
備え付けの電話を取り、保安部と作戦課に話をつけようとする。
「……襲来警報を出してもらうくらいのことしかできないからね」
「ありがたいわ」
「でも所員を避難させるってことは、その分、業務が滞るから、それはそれで問題になるんじゃないの?」
「どのみち二人に殴り込まれたら仕事にならなくなるんだから……だったら、けが人を出して、後にまで響くよりは断然、ね?」
ミサトはちょっとだけ受話器を離して念を押した。
「……エンカウントした人には、手を合わせるしかないからね」
つまり、香典は出せないと言うお話である。
「労災……司令におろせないか直訴しておいて」
せめてと彼女は上申した。
「う〜〜〜」
右親指の爪をかみ、左の脇の下に張りセンを挟んでうろうろと右へ左へ行ったり来たりするアスカを見ていて、レイは思った。
(発情期の熊ね)
にたりと口元がゆがんでしまう。もちろん、アスカに気取られるような不用意さはない。
「問題はあの女よ、あの女ぁ!」
「誰?」
「霧島よ、マナ!」
本部内自動販売機コーナーから三方の通路に声が響く。
「シンジの教育係、行状改方なんつって、更生させてやるとか何とかうまいこと言って、どっかに連れ込んだに決まってるわ!」
「どこに?」
「そりゃあ……」
なにを想像したのだろうか?
不安げな顔から、徐々に顔色がどす黒い赤へと変わっていく。そして怒りは頂点に達した。
「あっのっ女ぁ!」
(どんな想像をしたの?)
それはきっと、アスカが理想とするようなデートコースであるはずなのだ。自分が過ごすはずであった甘いひとときを、あの女が先取りして過ごしている。
だからこそ腹立たしいのだろうが……。
(この人、ちょっと普通と違うから)
きっとおもしろおかしい妄想を走らせたに決まっているのだ。その点は確かめてみたかったのだが、いかんせん命の危険が伴ってしまう。
(それに今は、碇君の確保が最優先だから)
ただしこちらはアスカと違って、二人の姿が見えない=一緒にいるはずだ、などという単純な結論は出していない。
「もし一緒なら、彼女はネルフの職員扱いだもの。定時報告が入っているはずよ」
「それよ!」
急いで発令所にとアスカは駆け出す。しかしレイは、ゆっくりとその足を他方へと向けて消えたのであった。
−フェイズ2−
かっこーんと音がした。
連日の戦闘によって第三新東京市からは人の姿が遠のいている。なによりも決定的になったのは先日の戦略自衛隊機強奪脱走事件であった。
報道ではロボットが戦闘機に差し替えられていたし、パイロットも子供から大人に変更されていたものの、事件そのものは報道されたのである。
政府、国連、報道との間でどのような折衝があったのかは不明であるが、真実を隠匿しようとする側と、それをさせじとする側とのぎりぎりの妥協案がこれであったことが窺えた。
ししおどしの音がよく聞こえるのも、その影響である。
郊外に近い一軒家。ただしまだ住宅街の範疇である。なのに半径五百メートル県内に住まう人の数はゼロに近い。
戦略自衛隊機の破壊によって壊された家屋やビルも、静かなたたずまいの中に存在している。
再建も取り壊しの予定もないままだった。
シンジはそんな静寂の中で、一人静かに、縁側のここちよさを楽しんでいた。
今は和服に袖を通して、夏の暑さと、日陰の涼しさを堪能している。和服が小さいために、まるで浴衣のようだった。
「シンジ君」
シンジはするするという衣擦れの音に背後を見た。
「山岸さん」
マユミである。
アサガオの染め物の着物を身にまとっていた。衣擦れはその音である。
「これを」
マユミがお盆に乗せて運んできたのは、三日月型に切ったスイカであった。
「お塩は?」
「あ、うん、ありがとう」
マユミが隣に座るのを待つ。
楚々とした足運びでゆったりと動き、そして腰を落とそうとする様は、流れる黒髪をついとなでつける手の仕草と、どきっとするようなうなじの白さとにより、より甘美な強調を受けていて、シンジは思わず顔を赤らめてしまった。
「はい?」
「ううん! なんでもないよ!」
なんですかという問いかけの視線、マユミのきょとんとした様子に、シンジはあわててスイカを取ってごまかした。
両手で持って、しゃくりと食む。
こんなことしてていいのかなぁと思ったのだが、これにもやむにやまれぬ事情があったのだった。
──話は一日前にさかのぼる。
学校……教室では、アスカとレイの対立に日々体調不良を訴える生徒が続出していた。
もはや学級閉鎖が発令されようとする寸前である。
表だってのけんかはしていないものの、二人の放っている気配が尋常ではないのだ。
シンジは一人、二人が牽制し合っているのを良いことに教室を抜け出していた。
そして校長室から出てきたマユミを見つけたのである。
「山岸さん」
シンジ君……と、彼女はどこかおびえた様子でシンジを見た。
「どうしたの?」
「いえ……あの」
彼女はしゅんとうつむいた。……そして。
「山岸さんって!」
逃げだそうとしたマユミの腕をつかまえられたのは、シンジがこのような態度を取る女性に免疫があったからである。
事情のある女性の陰に敏感で……聡くなると言うのは不幸である。
「山岸さん?」
マユミはしばしふるえていたが……反転、シンジにしがみつき、お別れしたくありませんと泣き出した。
──転校。
なんとか泣きやませ、シンジはマユミを屋上へと伴い移動していた。
「お父さんが……お父さんって言っても、義理のお父さんですけど」
まだハンカチで目元を押さえている。
「お父さんが……ここは危ないからって」
自分も国連の極東本部へ異動になるからと進められたのだそうだった。
「お父さんと一緒に、ここじゃないどこかに」
でも嫌なんですとマユミ。
「せっかく……せっかくシンジ君とまたあえたのに!」
「山岸さん……」
「また……またお別れなんて」
出会いがあるなら別れもあるさ! なんて師とした人なら簡単に笑ってすませるようなことでも、シンジにはまだ荷が重かった。
(こんな時、僕はどうすればいいんだろう……)
汗ばむ右手を握り込む。
こんな時、シンジはいつも、空を見上げて師の顔を思い浮かべていた。
そしていつもつまらないことを思い出す。
『かっこわるい男にはなるなよ、シンジ』
先生! っと、今はすがった。
「男にはな……どうしたって勝てないものがいくつかある。そのうちの一つが女の涙だ」「それはなんとなくわかります」
「もし泣かれたら……取るべき態度は二つだ。切り捨てるか、甘く応じるか」
「切り捨てるっていうのは難しいですよね……」
「ああ。周りからも、酷い奴だって見られるからな」
それでもと、彼はとてつもなく遠い目をして語ったのだった。
「突き放さなかったら……本当は好きな女がいるのに、その女も俺のことが好きなのに、泣かれたからって、好きな奴のことをあきらめたり、別れたりするのかって話になるだろ?」
つらくても、と、彼は言った。
「だからお前が、めぐみちゃんとかなちゃんのどっちを取るかは、微妙だな」
なななと焦る弟子にニカリと笑う。
「何で知ってるんですかぁ!」
「甘いな。お前のことで、俺にわからないことはないからさ」
絶対どっかでのぞいてたんだと、少年は警戒心というアンテナを、新たに一本たてたのである。
──そのアンテナに、ピコリと反応。
「あ」
じぃ〜〜〜っとマユミが見つめていた。
「シンジ君?」
非常に不審げな眼に負けてそっぽを向く。
「あ、ごめん。ちょっとどうしたらいいのかなって考えちゃって」
マユミは再び顔を下向けた。
「ごめんなさい……」
「山岸さん……」
「いいんです」
シンジの胸元に、彼女はそっと手を当てた。
「どうして……どうしてわたしたち、子供なんでしょうね」
それはシンジも思うのである。
何とかしてあげたくても、できるとは言えない。いや、むしろシンジは世の中というものにスレていたから、言えなかった。
「子供だから……好きな人のいる町にも住めなくて、好きな人と一緒にいることも制限されて……」
(好きな人、かぁ)
いくら鈍いシンジでも、それが自分のことだろうとはわかるのだが。
(僕、アスカの方が好きだしなぁ)
自己認識はできている。
(ここで下手に助けようとすると、とたんに泥沼にはまってくのが人生だってわかってるし……どうしよう)
「父さんに……話してみるよ」
これがシンジの、ぎりぎりの妥協点だったのである。
しかし、シンジは知らなかった。
マユミがこの地を去るという話は大嘘であったし、その話の筋をでっち上げた人物は、マユミとはまた別にいたのである。
──そのさら前日。
洞木ヒカリは、最近、みんな学校に来ないなぁと頬杖をついて暇をもてあましていた。 ぐっもーんにんっと声。アスカであった。
ヒカリは顔を上げて、シンジを間に挟んで横目ににらみ合う二人を目撃し、ため息をこぼした。真ん中のシンジが両手で鞄を抱いて縮こまっていたからである。
──ベシッ!
不吉な音に、ヒカリはまたかと嘆息した。背後からおどろおどろしい気配が立つ。
うつむき、ふるえているのはマユミであった。握りしめられたペンシルがへし折れて爆ぜている。
ふとヒカリは、また彼女とは別の視線がシンジたちを観察していたことに気がついた。それは先日転校してきた、霧島マナという女の子が投げかけている視線であった。
──放課後。
空き教室に、三人の影がそろっていた。
教壇をうろうろと往復しているのはマユミである。
「あああああ! シンジ君が、わたしのシンジ君がぁ!」
黒板には碇シンジ奪還委員会と書いてあった。
「あれ……わしら入っとんのやろなぁ……」
「たぶんなぁ」
やる気のない会員たち。
もはやあきらめムードである。
そこにやる気満々でドアをバンッと開いた者が居た。
「誰!?」
「霧島マナ! お呼びでなくても参上でぇッス!」
彼女は妙なポーズを取っていた。
「一体なんの用なんですか!」
あわててさささと黒板の字を消す。
マナは彼女たちのことなどお見通しだとばかりにふっと笑ってノートを突き出した。
「これ、なんだと思う?」
「は?」
「この一週間! あたしが直接張り付いてまとめたシンちゃんの素行調査書よ!」
マユミは教卓の上に身を乗り出した。
「ください!」
そしてあきれかえる者が二名。
「おいおい」
「そういや霧島って」
「元スパイだっけな」
「ふっ」
彼女は前髪をぱさりと払って言ってのけた。
「陰のある女には秘密があるものなのよ」
「バレとったら秘密ちゃうやろ」
カッコをつけたポーズのままで、ひくひくとこめかみをふるわせるマナである。
「で、わざわざなんの用なんですか……」
疲れて見えた。しかしマナは気にしなかった。
「ふ……実はね、あたしはあなたと違って、こういうことには慣れてないの。だから協力して」
「協力? こういうことってなんですか?」
「シンちゃんのことよ」
当然じゃないと歩み寄る。
「シンちゃん……シンジ君、酷いと思わない?」
二股をかけるような子じゃなかったのにと彼女は口にする。
「あたしの知ってるシンちゃんは、友達のために好きな女の子を譲ろうとして、我慢して陰で泣いてるような男の子だったわ!」
なぜかそのことを知っていた。
「今のシンジ君はおかしいのよ。どう考えたって変なの。どうしてあんな風になっちゃったんだか……」
「霧島さん?」
「あ、ええと」
取り繕う。
「つまりね、シンジ君について調べた結果、ちゃんとした恋愛っていうものを経験していなかったからだって結論が出たのよ」
ちなみに出した人物……真のボスは、シンジが彼女を地黒の少年に譲ったことを暴露っている。
「だから、協力して」
マナは真剣に、切々と訴えた。
「……何をさせようって言うんですか?」
不審げなマユミに、マナはそう警戒しないでとほほえみかけた。
「シンちゃんと、つきあってみない?」
「え?」
でもと探るような目を向ける。
「ああ。あたしは別に、シンちゃんとつきあいたいっていう訳じゃないから」
待ってる奴もいるしねと安心させる。
「そうだったんですか!?」
「うん……まあね」
そっぽを向いて後頭部を掻いたのは、「つまみ食いされちゃうくらいはいいかなぁ」なんてことを思っていたりしたからだ。
しかし浮かれたマユミは、不覚にもそのことに気づかなかった。
「霧島さん!」
彼女の手を取ってうるうると見つめる。
「霧島さんって、いい人だったんですね!」
「そんなぁ、マナって呼んでよ」
「はい! わたしのことも、マユミって呼んでください」
「マユミさん……」
「マナさん……」
せりふだけを聞いていると、麗しき姉妹愛の発生のようにも聞き取れるのだが。
((コエェ〜〜〜))
二人が浮かべている表情の邪悪さに、若干名の観衆は退いたのであった。
──まずはあたしたちの理想、あたしたちのシンちゃんに戻ってもらうことが重要なんじゃない?
マナの計画はそういうものであった。
「あたしには豊富な情報がある。でもそれの活かし方がわからない」
「そこでわたしということですか?」
そうよとマナは肯定した。
「飲み込みが早くて助かるわ」
にやりとし、お互いにふふふと不気味に笑い始める。
「あたしが情報を担当するから」
「ではわたしは実行犯ということで」
握手する。
これに対する二人の反応はどうだったかと言えば……。
「おいおい……」
呆れた調子で。
「結局両方ストーカーなんやないかい」
それが一番的を射ている指摘であった。
──そして時間は今に戻るのである。
(くそっ、父さんも母さんも、だったら自分でどうにかしてやれ、男だろう、なんてさ) ちらりと隣を見やると、シンジの置いたスイカの皮に触れた指を、顔を赤らめながら、ねぶってふき取る彼女が居た。
その唇と、舌の動きのなまめかしさに、赤くなってしまう。
(な、なに動揺してんだよ、僕はぁ!)
動揺ついでに、興奮している部分もあった。
(落ちつけっての!)
気が動転しているのか、自分でガンッと殴りつけてしまって、シンジは股間を押さえて悶絶した。
「し、シンジ君!?」
「な、なんでもないよ……」
股ぐらを押さえて身をかがめ、真っ青になってふるえているのだから、何が大丈夫なのかという状態である。
(まずい、まずいよ)
シンジは思った。
(愛人契約ってなんなんだよぉ! ……あ、先生はいいから)
一瞬晴天に浮かびかけた思い出の人は、ちっと舌打ちを残して残念そうに消えていった。
(これが男の取る選択なの?)
女一人くらい囲って守って見せろという言いぐさに、ついついケンカを買ってしまったのである。
──そう。
陰のある女性に対し、敏感に、聡くなるというのは不幸である。
なぜならこうして、それを餌にする女の性には、まるで弱いからである──。
続く
新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。