綾波レイの家は歩いて十五分から二十分と言う距離の場所にあった。
 街の再開発地区の寂れたワンルームマンションだ。
(弁当、作ってくれる人が居ないって言ってたっけ……)
 それは逆を突けば、一人暮らしかもしれないと想像させる。
 綾波と書かれた表札、無骨なドアノブ、意識すればそれは毎日レイが握っているノブなのだ。
 意識せずには居られない。
 手は握ろうとしたまま硬直し、固まり、血管を浮き上がらせ、緊張感を否が応にも倍加させた。
(ええい!、今更迷ってどうするんだよ!)
 シンジは意を決してインターホンを押した。
 −ピン、ポーン−
 しばらく待ってみる。
 −カチャ……−
 ほどなく、開いた。
「あ、や、やぁ……」
 と手を挙げたまま、ごくりと喉を鳴らしてしまう。
「上がって……」
 そっけない言葉、そのまま離されたドアが、自然と目の前で閉じていく。
「あ」
 がちゃんと、勝手に閉じるドア。
(レイ、来て欲しくなかったのかな……)
 妙に胸が痛くなった、それでももう遅い、今更だ。
 シンジは自分でドアを開いた。
(なんだこれ?)
 シンジは……、目の錯覚か、あるいは間違えて迷いこんだのかと疑ってしまった。
 室内は……、内装と言えるものが何もなされていなかった。
 ワンルーム、だが大きい方だろう。
 いや、荷物が無いから広く見えるのかもしれない、パイプベッドが一つと、整理ダンスに、冷蔵庫……、それがここにある全てであった。
「座ってて、お茶、入れるから……」
「うん……」
 レイがベッドを指したので、遠慮がちに端へと座る。
 持って来た鞄は、べたべたする床の上に置くことにした。
「はい……」
「あ、ありがと……」
 シンジはコップを受け取った。
 置く場所に困っている内に、隣に腰を下ろされてしまう。
(え!?)
 思った以上に近い場所に、間隣に。
 髪の香りが分かるほどに、その体温が触れてなくても感じられるほどに、近い場所に。
「あの、お弁当、そう、お弁当持って来たから」
 シンジは慌ててコップを床の上に置き、鞄から弁当箱を二つ取り出した。
「これ……」
「ありがとう……」
「お箸、これ」
 彼女は意識をその布で包まれた弁当箱に向けていた。
 サアッと、青い髪を風が撫でる。
「奇麗だ……」
「なに?」
 どびっくりするシンジ。
「あ、いや、ほら、ここから見える景色って、奇麗だなと思って……」
「そう……」
 レイは再び弁当箱へと視線を落とした。
「これ……」 「う、うん……、食べてみてよ、口に合うかどうか、わからないけど……」
「うん……」
 そして、二人だけの食事会が始まった。
 まず、蓋を開いて戸惑ったのは……
「これ……」
 野菜炒め、漬け物、海苔、卵、やはり……
「ハンバーグ……、わたし、お肉は」
 自信なげに、だがシンジはそれを薦めた。
「あの……、それ、お肉じゃないんだ」
「え?」
「豆腐で作ったんだ、だから、食べてみてよ」
「お豆腐……」
「うん、それなら、大丈夫かと思って」
 レイはゆっくりと箸を入れた。
 軽く切り取り、かけらのようなそれを口へと運ぶ。
「……どう?」
 緊張の一瞬。
「おいしい」
 レイの瞳は、驚きに丸くなっていた。
「そう!、よかった、そうだ、良かったら僕のも食べなよ」
「でも……」
 遠慮する、今までと違う態度、だがシンジは調子に乗っていて気がつかなかった。
「いいんだ、ホントはちょっと失敗して、それを食べて来ちゃったから、お腹膨れてるんだ」
「……そう」
「だからほら、食べてよ、レイに食べてもらえると……」
「なに?」
「食べてもらえたら……、うれしい、から」
 シンジはおどおどしながらも、彼女に答えた。


 そして月曜日。
「ぎりぎりセーフ!」
 教室に駆け込む二人。
 いつもの風景。
 いつもの光景。
「まったくもう、ぼさぼさっとしてるから……」
「何だよもう、アスカがちゃんと起きないからだろう!?」
 そしていつもの罵り合いだ、だが教室の雰囲気だけが違っていた。
「ちょっとアスカ!」
 駆け寄って来るヒカリに驚いてしまう。
「なに?、どうしたの」
「その……、しちゃったって、本当なの!?」
「はあ?、したって、何が」
 教室中の人間が、事の真相を確かめようと聞き耳を立てている。
「その、青木君と……」
「ああ、あのバカ?」
「バカって……」
 ちょっと驚く。
「最低よあんなやつ、何を勘違いしたんだか急に襲いかかって来ちゃってさ」
「え?」
「それでぶっ倒してやったんだけど、それがどうかしたの?」
 ヒカリはちょっと迷った。
「なによ、はっきりしないわねぇ?」
 首筋にちりちりとしたものを感じてしまう。
 それが居心地の悪さを与えていた。


「居たわねぇ!」
 ホームルームが始まる寸前にも関らず、アスカは青木のクラスに乗り込んだ。
「なんだよ、休み時間まで待ち切れなかったのか?」
 余裕しゃくしゃくで迎える青木だ。
「何バカ言ってんのよ!、あんたとしたですって?、どういうつもりよ!」
「どうって……」
 頭を掻く。
「ホントのことだろ?」
「あんたが襲いかかって来ただけじゃないの!」
 その剣幕にも動じない余裕の態度が、アスカを秘め事をバラされ、焦っているかのように見せていた。


「それじゃあ、何もしていないと言うんだね?、君は……」
 白髪、初老の校長の前でも、アスカの憤慨は続いていた。
「こいつが勝手に言ってるだけです!」
 だが青木はすみませんと謝るばかりだ。
 中学生にしては、度が過ぎていましたと……
「もういい、君は目立ち過ぎるからな、以後友人関係には注意したまえ……」
「っ!」
「感謝してくれよ?、俺の親父って偉いからさ」
 アスカは悔しげに歯噛みした。
 それだけですめば良かったかもしれない。
 だがそうはならなかった。


「アスカ……」
「いいのよ、ヒカリ……」
 クラスメートが囁いている。
『やっぱり……』
『そうじゃないかって』
『碇君、可哀想……』
 そんな声が聞こえて来るのだ……
 囁きが。
 知った声が、仲が良いと思っていた友達が……
(嫌!)
 アスカは誰のことも見れなくなってしまっていた。
 もちろん、シンジもだ。
 シンジもそう思ったかと思うと……
 考えたくもない。
(もう、いやぁ……)
 落ち込んでいく。
『きっと隠れてさ』
『おじさん相手にとか?』
『お小遣いちょうだぁい、とか……』
『それって、碇君のお父さんとだったりして!』
『やだ、最低!』
(シンジには関係無いじゃない!)
 だが叫べない。
『案外碇君とも……』
 −ガタン!−
 アスカは立ち上がっていた。
 限界だった。
「アスカ!?」
 ヒカリの声など耳に入らない。
(聞きたくないのに!)
 だが耳に入って来てしまう……、余計な言葉ばかりが耳につく。
 誰もが息を呑んでいた。
『泣いてる!?』
 アスカが俯いている。
 長い髪が流れて、顔を隠している。
 だけどポタポタと、机に滴が跳ねていた。
 −カタン……−
 誰もが動かなくなった中で、たった一人だけ動いた少年が居た。
「碇君……」
 ヒカリの呟きに、アスカの肩がピクンと跳ねる。
 シンジはアスカの机まで寄ると、にっこりと優しい笑みで声を掛けた。
「行こ?」
 そして手を取る。
 アスカの指先を、軽く引くように。
 アスカは一言も話さず、顔も上げずに、シンジに引かれるままに、着いていった。







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