(そう言えば……、あたしが泣くのって、いっつもあいつがらみよね?)
 アスカは落ち着きを取り戻すと共に、過去を振り返り微笑するだけの余裕も取り返していた。
 苦笑が浮かぶ。
(一人に慣れなくちゃいけないの……、か)
 それは小学校、六年生の時の事だった。
 もうすぐ卒業と言う頃だった。
「君のご両親に頼まれているからな」
 そう言ってゲンドウは、出来立ての制服を着たアスカを、何枚も写真に納めていた。
 もちろんそれは封書にでも入れて、父と母に送られることになる。
「こっちの方がいいですか?」
「ああ、君は左向きの方が見栄えするよ」
「やっぱり!」
 はしゃぐアスカ、その頃シンジはヘッドフォンを耳に差し込み、CDウォークマンの音量を最大にして、その声を聞かないように努めていた。
(なぁにが……)
 アスカが来てからと言うもの、会話も、外出も、全てがアスカが基準だった。
(なにがさ……)
 シンジに選択権は無い。
『シンジ』
『なに?、父さん……』
『今日は焼肉を食べに行くぞ』
『え?、どうしてさ……』
『ああ、アスカ君がそれなら行くと言ったからな』
 ギリと歯を噛み締める。
 それもまた、いつしか気付かれないように、手を握り込むものに変えてしまった癖だった。
(アスカが、アスカが、アスカがって!)
 この時、シンジはいじけていた。
(僕のことなんて、どうでも良いんだ……)
 その十五分後。
「ほらほらシンジぃ!」
 シンジはノックも無しに入って来た同居人に、少し気怠げな感じで起き上がった。
「なに?」
「見て見て?、新しい制服、どう?、似合うと思わない?」
 くるりと回って、スカートの裾を広げて見せる。
「うん、似合うね……」
 作り笑いと共に答える。
「もう!、もうちょっと他に言葉ないの?」
 何を期待したのか、アスカはシンジの耳からヘッドフォンを強引に引きぬいた。
「もう、なにするんだよ……」
「いいから!、ほら!、どう?、これ」
 頬を桜色に染めて披露する。
 そんなアスカに、はぁと溜め息。
「奇麗だと思うよ?」
 そのままばふっと布団に倒れ込み、ふて寝しようとシーツを被る。
「ちょっと、何逃げてんのよ!」
「逃げてないって……」
「だったら出て来なさいよ!、そう言う事するなって言ってるんでしょうが!」
 シンジは辛げに言い返した。
「寝かせてよ……、僕が悪かったから」
「何が悪いってのよ!」
 アスカは苛立ちからか、謝罪を遮ってまで怒鳴り付けた。
「あんた反射的に謝ってるだけじゃない!、穏便に済まそうと思っちゃってさ、そんなにあたしが恐いわけ!?」
「恐くなんか……、あるもんか……」
「嘘よ!」
「恐くなんか無いよ」
「嘘よ!、じゃあなんで……」
 アスカはその続きの言葉を飲み込んだ。
 ゲンドウの気配を感じたからだ。
「何を騒いでいる?」
「おじ様!」
 振り返る、やはりゲンドウが立っていた。
 両者を見比べる家主の視線に首をすくめる、だがお咎めは落ちなかった。
「シンジ、またお前か?」
 一方的な決め付けに救われてしまったのだ。
「いえ、あの、違うんです、おじ様……」
 気まずさと罪悪感から素直に告げる、しかし聞いては貰えなかった。
「人の迷惑も考えろ、お前は……」
「わかってるよぉ……」
(あ……)
 そんな二人の関係、構図に、アスカは嫌な物を見て取ってしまった。
(一年?、二年?、違う、ずっと前から……)
 アスカはようやく、シンジの心が見えた気がした。
『どうせ僕が悪いよ……』
『どうせ僕なんか……』
 いつも口にされなかった言葉が、ようやく聞こえて来た気がした。
(そう言えばあたし……、こいつが誉められてるとこ、見たこと無い)
 シンジだって、制服貰っているはずなのに、ゲンドウはそれを着てみろとさえ言わない。
 部屋の隅に放り出されている箱。
 それはアスカと同じ仕立て屋で買ったはずの制服だ。
「気をつける、もう騒がないよ」
「なら良い……」
 二人の会話に、アスカはたまらず自分の部屋へと逃げ込んだ。
 二人の軋み合う関係が、誰のせいかに気が付いてしまったからだった。


「あの時も……、本当は分かってたんだ、アスカを泣かせちゃったんだってこと……」
 シンジは懺悔を続けていた。


「でも、同情なんかじゃない……」
 シンジにかまっていたのは、そうではない、ないはずだった。
 砂遊びの時、シンジはスコップを貸してくれた。
 テストの点数が良かった時、シンジは凄いねって誉めてくれた。
 ケンカしてても、お帰りなさいって言ってくれた。
 制服も、仕立てのサイズが間違っていたのを、ちゃんと直してもらいに行ってくれた。
(あたしの存在があいつを傷つける?)
 でも今は離れたくなくなっている。
(どうして?、だから謝らせてくれないあいつが嫌いなの?、だから逃げ出したの?)
 わからない。
「見つけた!」
 アスカはぐいっと、肩を強く捉まれた。
「シンジ」
 アスカは様々な感情を押さえ込んで、取り敢えず逃げるのだけは思いとどまった。
 唸るように口にする。
「なにしに、来たの?」
 返答次第では……
 そんな脅しを混ぜ込んで。
 だがシンジは、それでもこう返して来た。
「……わからない」
「わからないぃ!?」
 真顔で頷くシンジにぶち切れる。
「あんたバカァ!?」
「……そうかもしれない、でも追いかけなくちゃって、そう思ったから」
 アスカは半眼になって問い詰めた。
「あんたもしかして、見てるのが辛いからって追いかけてるだけなんじゃないの?」
「え?」
「泣かれてると恐くなって、だから……」
 目を閉じるシンジだ。
「そうかも知れない」
「絶対そうよ!」
 アスカは断定した。
「どうせあの女にも似たとこがあんじゃないの?」
 はっとする。
 あのなにもない部屋の風景に。
「図星ね?」
 シンジは、迷うようにだが、頷いた。
「……最低」
「……そうだね」
 シンジはアスカの肩から手を離した。
「寂しいのが嫌なだけなんでしょ?」
 頷く。
「優しくしてくれるなら誰でもいいんでしょ?」
 また頷く。
「なんでよ!」
 パンッと、アスカは強くはたいた。
「なんで違うって言わないのよ!」
 鼻息が荒くなる。
「だって……」
 その通りだから。
(こんな事を話しに、僕は追いかけて来たのかな?)
 シンジは項垂れた、何よりも言い返せない自分が情けなさ過ぎた。
「……そうかもしれない」
 距離を置くように下がってしまう。
「寂しかったんだ、嬉しかったんだ、でも……」
 綾波の笑顔。
「綾波には、父さんが居るんだよね?」
「……シンジ?」
「アスカにも、父さんは優しいんだ」
「シンジ!」
「僕は、いらない人間なんだ!」
 シンジはぎゅっと手のひらを握り込んだ。
「ちょっと!」
「綾波は父さんと居る時が一番幸せなんだ!」
 吐き捨てる。
「アスカの言う通りだよ!、僕は結局……、母さんの代わりが欲しいだけなんだ」
 誉めてくれる人が。
 微笑んでくれる人が。
「でもアスカも、綾波も!、父さんが、僕が父さんの子供だからって相手をしてくれてるだけなのに、甘えられるわけないよ!」
 慟哭を吐き出す。
 アスカは足を踏み出しかけた。
 だがまだ少し迷っている。
 その迷いは持つべきでは無かった。
「もう、いいや……、もう疲れた」
 はっとして顔を上げる。
「ごめん……、しつこかったね?」
 声のトーンが落ちていた、ほんの少しの逡巡の間にシンジが出した、それが結論。
「さよなら」
「シンジ!」
 アスカはたまらず抱きついていた。
「アスカ?」
 驚いているシンジが居る。
 抱きつかれて戸惑っている。
 アスカは勢いのままにシンジをビルの壁に押し付けると、逃がさないように唇を奪った。
 無言の時、無音の空間、ざわめきも何もかもが聞こえなくなる。
 ややあって、アスカはようやく唇を離した、だがそれでも完全には解放しなかった。
 間を置かずにシンジの襟元に顔を押し付け、震え出す。
「……アスカ?」
「あの女は……、どうするつもりよ?」
 漏れて来たのは、甘くない言葉。
 胸をえぐられるような辛さ、だがシンジは我慢して答えた。
「もう……、いいんだ」
 お互い、堪えている物のために小刻みに震えてしまっていた。
「もう良いんだ、アスカの言う通りだ、笑ってもらいたくて、喜んで欲しくて……、誉めてもらいたくて、優しい振りをしてただけなんだから……、アスカのことだって」
 アスカは……、訊ねた。
「ねぇ」
「なに?」
「あたしは、あいつの代わりになれないの?」
「だってアスカは……、同じじゃないか」
 綾波レイと、根本的に。
 アスカはギリと唇を噛んだ、否定できない自分が悔しかった。
 こうして抱きついていると言うのにだ、温もりを伝える事さえ出来ないでいる。
「……いいわ」
 自棄になるアスカ。
「それでもいい」
 顔を上げる、その顔だけで視界が一杯になるほど、アスカはシンジのを近く見た。
「嫌っても良い、嘘でも良い、作り笑いでも良いから約束して」
「何を……」
「一人に……、しないって」
 シンジは一瞬強ばった。
「嫌なの……、一人は嫌なの……、嫌なのよ、もう」
 全身の力を抜いてしながれかかる。
「独りになるのだけは、絶対に嫌」
 逆らえない、逆らえるはずが無い。
 自分もまた、そうなのだから。
 拒絶など、出来るはずが、ない。
「うん……」
 だからシンジは、抱き返した、アスカを、自分を。
「わかったよ……」
 引き上げるようにして、アスカの髪に顔を埋める。
 豊かな髪と、アスカの匂い。
『嘘でも、構ってもらえるのなら』
 強く願う。
 込み上げる空しさを埋めるために。
「シンジ……」
「なに?」
 アスカはシンジの瞳をじっと見つめた。
 時折通りがかる人達が、そのおかしな雰囲気を笑っていくが、気にならない。
 お互い寄り添うようで、しかし遠い。
 心が別の場所にあると感じられる、またそれは外れてはいない。
 自分が心を閉ざしているからだ。
 シンジも受け入れていないからだ。
 隠している事が沢山あるからだ。
 なら伝えなければいけない、明かさなくてはならない、心を、想いを。
 だからアスカは切り出した。
「あたしのパパとママの事……、聞きたくない?」
 シンジは何を突然と驚いた。







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