「碇君……、タオル、ない?」
 シンジは拭いていた皿を落としかけて慌てふためいた。
 バスルームから濡れたままで出て来たレイだった、何も隠していない、中学生には強過ぎる刺激だっただろう。
 急ぎそっぽを向いたがもう手遅れだ、網膜に焼きついた肢体は、真夏の太陽を直視した時のように焼きついて、目を閉じていても簡単に消えてはくれなかった。
「あんたバカァ!?、羞恥心ってもんが無いの!、ほらこっち来なさい!」
 役に立たないシンジの代わりに、アスカが怒って引っ張っていく。
 シンジは十分に足音が遠ざかるのを待ってから、溜め息と共に大きく胸を撫で下ろした。
「……はぁ、驚いたな、まったく」
 それにしてもと考える。
「綾波って、なんだかおかしい所があるよな」
 そもそも、自分のもの、他人のものと言う考えが欠如しているように思えるのだ。
「アスカなんて人のタオルを使ったってだけで怒るのに」
 どたどたと戻って来る足音に我に返る。
「まったくもう!、何考えてんのよあいつ」
 ぷんすかと怒り、そのままジロリと睨み付ける。
「あんたもよ!、鼻の下伸ばしちゃってさ!」
「そんな……」
「それともあんた、ああいうなぁんにも無い方が好みなわけ?」
「なんにもって、なんだよ……」
 わかっているので、つい赤くなってしまう。
「はん!、あたしのだって何度も覗いちゃってるくせにさ」
「覗いたわけじゃないだろう!?」
「なぁに照れてんのよ、あ〜あ、あたしのこの美貌が罪なのよねぇ?」
「勝手に言ってればいいよ……」
「なによぉ、その言い方はぁ」
 ムッとはしたが、ケンカはしない。
 それは先日のことがあったからだ、せっかく、いびつながらも元通りの関係に構築し直したばかりだと言うのに。
 バランスを崩す事など出来はしない。
 お互い、今の小康状態が演技の上に成り立っていると分かっている。
 分かっているだけに、どこか微妙に、以前ほどぶつかり合えないままでいた。


砂上の虚構


 あれから数日が過ぎていた。
 綾波レイは正式に碇レイとなったものの、それを知る者は数少なく、最小限のままに抑えられている。
 それは一握りとも言えない人数であった。
 学校側も余計な混乱を招きたくないとの考えを良く理解してくれ、綾波レイのままでの通学を認めていた。
「行ってきます」
「ああ……」
 レイが碇家に来てからと言うもの、父は常に見送ってくれるようになった。
(それを嬉しがっている僕が居る)
 シンジは誰にも気付かれないよう、密かな自己嫌悪に浸っていた。
 余りにも情けなくて仕方が無いのだ。
 そしてそんなシンジを見ていられないアスカである。
「ほら、遅刻しちゃうわよ!」
「うん、行こ?、レイ」
 レイは黙って、差し伸べられた手に指を掛ける。
 恥じらいも何も無く、さも当然のように、だ。
 そんな態度が気に食わないのか、アスカはちょっとだけ眉を顰めたが……
「はいはい、初々しい事で」
 結局ちゃかしただけで、怒らなかった。
 求めればシンジは応えてくれる。
 その約束は交わしたのだから。
 それ以上の贅沢は求めなかった。


 穏やかに時は流れていた。
 例え小康状態であったとしてもだ。
 だがゆるやかな流れは溝を掘りはしても埋めてはくれない。
 放課後の屋上で、シンジは一人黄昏ていた。
 どうしてだろうか?、以前のようにレイに付きまとう事が出来ないでいた。
(平気な振りをするって、決めたのに)
 だが覚悟を決めたからと言っても心情は追いついて来なかった、特に毎日、毎時間、毎分のように、仲の良い家族を『見せつけられて』いるのでは。
「……結局、僕って」
「シンジ君」
 はっとすると、レイが居た。
 一瞬の動揺を素早く笑みによって押し隠す。
 レイはその変化をつぶさに見ていた。
 じっと、赤い眼差しで。
「どうしたの?」
 シンジは焦れて問いかけた、その真っ直ぐな目に負けてしまいそうだったから。
 レイは……、顔を伏せると、謝った。
「ごめんなさい……」
 不意の謝罪に動揺する。
「……なに、謝ってるんだよ?」
「あなたが……、笑ってくれなく、なったから」
 悲しげな声だった。
「いつも辛そうにしている、笑っている顔の奥で泣いている……、わたしが悪いのは、分かっているから」
 シンジはかぶりを振って否定した。
「違うよ」
「でも」
「悪いのは僕だ、レイは悪くないよ」
 強い調子で言い聞かせる。
「レイは……、綾波は言ったよね?、好きって、どういう事か分からないって」
 コクンと頷き。
「そう……、レイは僕が好きってわけじゃ、なかったんだから」
 何か伝えようとするレイ、だが唇は紡ぐべき言葉を見付けられなかったようだった。
「シンジ君……」
「勝手に期待したのは僕なんだ、それで勝手に落ち込んでるだけなんだよ……、僕は綾波に教えたかった、でも父さんが綾波に教えちゃったみたいだから」
 残った物は、空しさだった。
「ねぇ?、いつから……、父さんと?」
 やはり無言。
 答えてくれない、だからと言って責める言葉は、もう告げない。
 相手を苦しめるだけだと知ったから。
「……ごめんね?、余計な事を聞いちゃって」
「シンジ君……」
「レイだって、きっと悩んだんだよね?、悩んでたんだよね?」
 それはどこか縋るような口調であった。
 答えを見つけてしまったからかも知れない。
(結局、僕って)
 ぶり返す。
(結局、僕って、人に疎まれるだけの存在なのかな……)
 そう結論付けるしかないだろう。
 だから一縷の望みが、救いが欲しかったのかもしれない。
 レイからの言葉が欲しかったのかもしれない、例え嘘でも。
(でも)
 いまの彼女の沈黙を、他にどう読み取れと言うのだろうか?
(悩んでもいなかったのかな?)
 好きでも何でも無い相手に、何を感じろと言うのだろうか?
 罪悪感を感じる必要すら無いはずだ。
 だから困っているのかもしれない、彼女は。
(そうだよね)
 答え辛いはずだと、シンジはレイを眺めやった。
 ぼうっとして。
(アスカは、寂しいって言った)
 それはおそらく、レイもだろう。
(せっかく手に入れた家だから)
 お父さんだから。
 口に出そうになった考えを、無意味に責めたてる物だと気付いてしまい込む。
 それはいつかのことだった。
 アスカのお誕生日会に、たくさんの友達が訪れた。
 楽しかった。
 いいなと思った。
 それはアスカも同じだったから、シンジの誕生日会もしましょうよ、と言い出した。
(嬉しかったんだ、ほんとに……)
 半年も離れた誕生日の日、アスカは忘れずに居てくれた、でも。
『碇のなんて行ってどうするんだよ?』
 その一言で十分だった。
 家に帰るとケーキがあった。
 父親が買って来てくれていたものだった。
 もちろんアスカがねだってくれたから、買ってもらえた代物だった。
 誰も望んでくれない。
 誰も喜んでくれない。
 誰も認めてくれない自分の存在が悔しかった。
「僕は……、やっぱり、いらない子供なんだな」
 苦笑気味の諦め顔でかぶりを振る。
「愚痴……、だよね、こんなの」
「シンジ君?」
「僕は結局、何も出来なくて、役に立たなくて、だから誰にも必要だなんて思ってもらえない」
「それは違うわ」
「どこが?」
「だって、あなただけだもの……」
 初めてだろう。
 レイが彼に微笑みを見せたのは。
 でも。
「好きだと言ってくれたのは」
 一瞬で苦しみは倍増された。
 心臓を鷲づかみにされたかと思うほど喘いでしまいそうになってしまった。
 その微笑みを与えたのは誰なのか?、教えたのが誰なのか?
 伝えたのが誰なのか?
 考えただけで、嫉妬と絶望に苛まれてしまう。
 余りにも卑しい感情だった、そしてそれを教えた男は、いつでも彼女を見守っているのだ。
 これで、どうして……
「僕なんているんだよ……」
 もう。
「僕なんて必要ないじゃないか!」
 キュッと小さくなる瞳孔、それだけで彼女の胸の痛みは推し量れるだろうに、叫んでしまう。
「父さんもだ!、必要なのは綾波とアスカで僕じゃないんだ!、僕なんて居なくても……、居なくても、誰も困らないじゃないか、誰も、誰も、誰も!」
 吐き捨てる。
「必要なのは父さんだろ!?、アスカだってそうだ!、本当に必要なのは父さんで、だから僕に気をつかってるだけなんだ!、僕が居たからってどうなんだよ!?、僕じゃなくても良いんだろう?、僕でなくても構わないんだ……、僕でなくても」
 シンジはごしごしと目をこすった。
「僕は綾波のことが好きだった、好きだと思ってた、でも……」
 もう分からない。
「僕にはもう、どうしていいんだか分からないよ……」
 その証拠に、アスカやレイに対する思索が、何度も同じところに回帰していた。
 一端は違う抜け道へ進んだはずの想いが、気が付けばまた『必要とされている』から『嫌われ者の邪魔者』へと立ち戻ってしまっている。
 少なくともアスカには、直接口にしてもらっているのに。
 やはりどうしても信じられないのだろうか?、今更、必要とされているなどとは。
「え?」
 すっと視界を塞がれて、シンジは酷く戸惑った。
 レイにキスされたのだと気が付くまでには、ちょっとした時間を要してしまった。
「あの人は……、身寄りのないわたしを引き取ってくれた、あの人のそれは、それだけの好意だから……」
(好意!)
 身を切られる想い、キスの余韻から感じられた希望はくじかれた。
 僕には優しくしてくれた事なんかないくせに、と。
 常に踵は、絶望の崖の際にある。
 時折気を紛らわせてくれる人が現われたとしても、手を引いて気の休まる場所へは、決して連れて行ってくれやしない。
 救っては……、くれないのだ。
 目の前の少女は、さあと手を差し伸べてくれている。
 その手をシンジはじっと見つめた。
 繋いで何処へ連れていこうと言うのだろうか?、シンジはそれが残酷な世界であるのだと、決して信じて、疑わなかった。
 今まさに絶壁から、突き落とされたばかりであったから。







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